認知症コミュニケーション:2016_#01
認知症コミュニケーション2016:第1回目:問題にもとづく 学習:PBL, Problem Based Learning
【定義】問題にもとづく学習(PBL)
・学習者じしんが中心となり、反省的反復の作業をともないながら、実践される少人数グループの教育手法ことを、「問題にもとづく学習」とよぶ。 PBLとは, Problem Based Learningのアクロニム(頭文字による略記法)である。医学・歯学・看護学・環境科学・法律実践・工学などのように実践の場での問題解決などが職業 的スキルとして重要視される教育課程でしばしば採用される。
・ややこしいことに、具体的な学習課題を立てて少人数グループでプロジェクトを完遂させる「プロジェクトにもとづく学習」もまたPBL、すなわ ち Project-Based Learning と呼ばれて、しばしば混乱することがある。「プロジェクトにもとづく学習」は、これまで実習や演習と呼ばれてきた学習課題のより発展形態だと考えればよ く、ほとんどあらゆる学問分野の教育課程で採用することが可能である。[→プロジェクトにもとづく学習(PRJ-BL)]
・問題(problem)が与えられてもプロジェクト(problem)が与えられても、少人数グループ学習では具体的な課題について洞察、観 察、対話、交渉、反省、学習の再構築という過程が見られる点で、奇しくも2つのPBLは共通点が多く、また、その教育理論の検討においても協働できる可能 性が高いところが興味深い。
・問題にもとづく学習は、一種のブランドあるいは確立された手法として理解されることが多いので、英語によるアクロニム(頭文字による略記法) により、PBL(ぴー・びー・える)と簡略ないしは、ジャーゴン(内輪で流通する語彙)でよばれることがある。
・PBLという教育手法をよきものとして唱道する人たちは、PBLに対比的な教育手法のことを「系統的学習」と呼び、批判的ニュアンスをこめて 解説することがある。後者、すなわち系統的学習とは、これまでの教育の現場で長年採用されてきた手法のことである。
・PBLによる教育の牙城であるマックマスター大学ではPBLを次のように定義している。
PBL is any learning environment in which the problem drives the learning. That is, before students learn some knowledge they are given a problem. The problem is posed so that the students discover that they need to learn some new knowledge before they can solve the problem. [出典 2006年11月28日]
また、同ページでは、PBLによる教育の主要な3つの特徴として、小グループ・自発性・自己評価による問題にもとづいた学習(Small group, self-directed, self-assessed PBL)という点をあげている。マックマスター大学における学生中心の学習法が、SGL、SDL、PBL(小グループ学習・自発的学習・問題にもとづく学 習)という三本柱からなりたっていると言っても過言ではない。
・マックマスター大学で編纂された教科書(ウッズ 2001)には、PBLと系統的学習の対比の例が面白おかしく描かれている。
・すなわち、「ここに故障したトースターがあります、これを直してください。でなければ、少しばかり要求を譲歩して、ちょっとでも使えるように してね」という問題提起が、PBLであるとすると。系統学習ないしは系統的学習では、物理の授業で、電気に関する一般的説明があり、それが熱エネルギーに どのように変換されるかの学習をして、電気一般の勉強のあとに、実用的な電気機器に関する説明があり、家庭の電気製品がどのような規格化されているのか、 またテスターのメーターの読み方の講釈があり・・・という、体系的な勉強の総決算の延長上に故障したトースターの修理の問題――それも例題ないしは勉強の 応用問題として――が出てくると考えるわけだ。
・さらに、ネバダ大学医学校PBLのチュートリアル・ケース『ゲロ吐き少年!のケース』では、11 項目の情報が盛り込まれているが、最初の解説は「1.ランディ・ミルバーンは10歳の男性で、母親に連れられて君のオフィスにやってきたが、彼は虚弱、喉 の渇き、そして継続する嘔吐発作を訴えている」という一文のみなのである。
■PBLチュートリアル「ゲロ吐き少年ランディ・ミルバーンの症例」――この図版での医師と患者のイラストはネバダ砂漠の洞窟にある旧石器人の 洞窟壁画(cave painting)から引用されていると思われる。
■これらのことをまとめると、PBLは、問題が提示されて以降は、学習者の小グループの組織化、討論、各人の情報収集と分析(=いわゆる勉 強)、勉強の成果をグループに還元(フィードバック)、そして、グループによる再討論(PBL主宰者に再度、別の関連する問題が与えられる(=給備され る)ことがある)のサイクル――これを私はPBLサイクルと呼ぼう――から構成されるのである。
・ここまでくると、PBLがなぜ日本の多くの大学で、とくに医学教育や工学教育においてもっとも最初に取り入れられたのかがよくわかる。しかし ながらPBLが重要視されるのは、人間の病気をトースターの比喩で見るという不遜にあるのではなく、医学教育におけるより深刻な問題に直面しているからで ある。
【PBLが必要になる社会的背景】
・医学教育においてPBLが重要視されるようになった背景にあるのは、EBM(証拠にもとづく医療)にみられる医学的実践の科学化や正確化への 社会的要求と、社会と患者のニーズに適切に応えることという内部的な制度的要求という、医学・医療に求められている2つの重要な要求がある。ではなぜ、 PBLが具体的に重要になるのであろうか。
・生物医学的知見の急速な変容(イノベーション)により、臨床医学的実践には常に新しい知識と技法がもとめられるようになったこと。これによ り、医療者に対する期待される人間像は、家父長的権威者でも、また実験的科学者でもなく、つねに学習と研鑽を積む一方で患者との良好なコミュニケーション をもちうる患者の対話者になったということだ。
・このような医療者になるための資質とはなんであろうか。それはまず(1)現役であるかぎり、患者の本復と幸福を願いつつ、そのための情報収集 に勤しみ、かつ生物医学の知識に精通し、それを前向きに学習しつづけること。そして(2)現代医療の現場が完全にチームで動くことを必然としたために、個 人がもつ技量をより適切にチーム全体の資質の向上に振り向けるコミュニケーション能力をもつことである。(3)よき医療者としてチームのために果たすため には、チームのための滅私奉公的な発想から距離を置き、[近代人として]プライバシーもち人間として円熟するための自己反省能力が必要になる。
・このように、PBLが現代人としての我々に投げかけるものは、専門家として社会に寄与しうる期待される新しい人間像にほかならない。
【PBLの今後】
・それが当事者ないしは人間社会に十全のすばらしきものであるかどうかは、疑問の余地がある。しかし、我々が抱える最大の問題は、そのような テーマすらPBLの学習課題になるというパラドックスなのだ。つまりPBLは、現代において[少なくともそのフレームの内側においては]無敵の学習法であ るということになる。
・また、他方で、問題解決に取り組んでいる現場ではつねに、PBLでおこなうことが実践されているというふうに解釈することもできる。従って、 PBLについてそれほど反省的意識をもたない人は「PBL、PBLと叫んでも進取なことはない、当たり前のことさ」と、意外と臨床の現場で起こりつつある 地殻変動に対して鈍感な人がいることも故なしとはいえない。(→現場力に関する議論を参照のこと)
・他方、PBLの弱点は以下のようなことにある。
1.チューターなどのマンパワーが必要(意外とPBLの教育現場は労働集約的なところがある)。
2.系統学習に比べると学習者へのプレッシャーをかけないので、学習集団に対して均質な学習効果を予想することが困難。
3.学習者がもっている価値観や文化的背景がグループ学習の形成や運営にどのような効果を及ぼすかが不透明(もちろん、それはチューターがおこ なうべきであるので、質の高いチュートリアルの開発が急務)
これ以降の発展的議論は、池田光穂「問題にもとづく学習(PBL)の研究」「学部教育の改善について」などを参照してください。
■シナリオ
「1971年、ある晴れた早春の日の出来事です。その朝、私は夫と二人で、ボストンの南にある小さな海岸沿いの町をドライブしていました。そし て、目指していたいつものカフェの前に、駐車スペースを見つけました。そのカフェで私たちはいつも、チャウダーやアサリのフライ、大きなアイスティーなど を分け合いながら、将来の夢を語り合っていたものです。
私が「あら、そこの駐車スペースのメーターにはまだお金が入っているわ」と言うと、夫はサングラス越しに、「よかったね、でも僕のメーターに はもう残りが少ないようだよ」と言ったのです。ですが、そのときの私には、その意味がよくわかりませんでした。というよりは、四人目の子を身ごもっていた 私は、夫の言った意味を、どこかでわからないふりをしていたのかもしれません
ときどき夫が近所の人の名前を思い出せなかつたり、頼んだ買い物を忘れたり、車の鍵の設置を間違えたりすることには気がついていました。で も、それらはたわいのないことだと感じていたように思います。それに、夫は広告関係の仕事をしていたのでいろいろな車を運転しなければいけなかったし、何 よりもすごく忙しい人でしたので、いちいち細かいことには気が回らないのは当然だ、ぐらいに思っていました」。
出典:コステ,ジョアン・コーニグ『アルツハイマーのための新しいケア』阿保順子監訳、誠信書房、Pp.2-3, 2007年
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