書評『苦悩することの希望:専門家のサファリングの人類学』浮ケ谷幸代編著;阿部年晴[ほか]著
池田光穂
浮ケ谷幸代編著;阿部年晴[ほか]著『苦悩すること の希望:専門家のサファリングの人類学』協同医書出版社、2014年,評者:池田光穂(大阪大学)
本書のキーワードは(i)サファリング——以下「苦 悩」を中心に記す、(ii)ケア、そして(iii)専門職、の3つである。端的に言うと、現代の医療・看護・理学療法・福祉・医学教育・葬儀等の現場にお ける、これら3つのキーワードを手がかりにして、各執筆者が自由に論を展開した論文集であるとも言える。論文の著者達も、医療人類学、文化人類学、文化人 類学、社会学、臨床医学、看護、福祉等の専門家——専門領域の記載がないため評者の推測による——という多彩な陣容である。編者による冒頭の序論に始ま り、第1部「サファリングとケアの理論」(2論文)、第2部「苦悩するケアの現場から:専門家としての実践を通して」(3論文)、第3部「苦悩するケアの 現場へ:人類学・社会学の目を通して」(3論文)からなる全10章9名の執筆者による論文から成り立っている。
編者による序章では、医療専門家が被る苦悩への気づ きから、その苦悩がケアの対象者からおよび「専門職システム」と呼んでいる制度から来歴することを確認する。そして、文化人類学や社会学の研究において研 究対象となる医療専門家へのアプローチにみられるような客体化ではなく、界面というキーワードを手がかりにして、連携してゆき、従来の研究における理論/ 応用という単純な二元論から脱出していくことのマニュフェストとして読むことができよう。
第1部、第1章は、ケアの語義に関する論考である が、短いドラマ——誤植と欠落であるが出典が明記されていない——印象主義的な分析が主である。サブタイトルには「原サファリング」「二次サファリング」 という概念の提唱が示唆されているが厳密な検討がさらに必要になるかもしれない。第2章では「医療の生活化」という概念の提唱が行われる。著者は、それを 東アフリカの牧畜民の医療民族誌の記述を題材に分析する。この章では、医療システムが肥大化し影響力が増し、日常生活の慣習のレベルにまで浸透すると、単 純に自分たちの非医療化された生活領域が十全に担保された世界を想起することはできないと言う。その中では生活者は主体的に医療システムと生活知を組み合 わせ、日常生活のなかに医療システムをいわば飼いならすことが実際に起こっていると言う。
第2部の冒頭は第3章からはじまる。この章の著者自 身が臨床医であり、感情労働論を手がかりとした医師たちの苦悩について、専門家意識の内容やその変貌について考察したものである。語りの事例を用いた分析 は興味深いものの、先行研究にある社会学理論や概念についての言及が少なく、評者は読んでいて多少欲求不満になった。第4章では焦点が当てられる専門家の 職種が理学療法士および関連職種になり、生活・生命・人生という次元における専門家の苦悩が分析される。客観的な論文の分析の合間に著者自身の声や所感が 織り交ぜられ、読む側の人間——本書の性格からみてその多くは専門家や学生・院生であろう——としては、主観的感想と実証的な叙述は、このスタイルの文章 では峻別してほしいという感想を評者は抱いた。引き続き、第5章はソーシャルワーカーである筆者が本間さん(仮名)との邂逅から別れまでを描いた、他章と は異質の自己の語りと内省による分析である。この章の著者はそのような職業的アイデンティティを「かかわりの専門職」と呼ぶが言い得て妙である。ただし筆 者が本間さんとの間で経験した苦悩が、他の「かかわりの専門職」たちの経験との比較という方法をもち、自己分析をより相対化できれば、内容は格段に向上す るだろう。
第3部の冒頭3章は、医療人類学者による解剖実習や 教育に関する紹介(第6章)、文化人類学による葬儀業への参与観察による実証分析(第7章)、および医療社会学者による対人援助専門職の苦悩に関する事例 とその社会背景に関する理論的考察(第8章)である。3名ともその専門領域や調査研究におけるベテランで筆力のある作品になっている。第6章は医学生のへ の解剖教育で提唱される「ご遺体は最初の患者である」というスローガンを手がかりに、医学生が解剖実習の時系列や最後の火葬の時間相において医学教育用の 献体(死体)をモノ化したり人格表象としてのヒトとしたりするダイナミズムが小気味よく分析される。第7章は、評者にとって、あるいは読者にとってもっと も非日常的な葬儀業者の参与観察すなわち実際に葬儀業に関わり、経験を積まないと審らかにされない業界関係者へのインタビューの分析からなりコメンタリー もすばらしい。ただし本章の著者が言うように専門家が抱える苦悩の分析をこの論集の目的とするのに対して、このテーマが相応しいものか評者もまた疑問に思 う。第8章は、現代の地域包括ケアシステムの文脈におけるフォーマルとインフォーマルケアの連携というテーマに関与する人びとの苦悩についての分析であ る。この論考のユニークな点は、苦悩を「分断のサファリング」と「コード化のサファリング」という2つの位相に分けていることである。前者の領域では、機 能と専門の分化による分業や規範の領域化の現象がおこり、後者では標準化・精密化と身体知にみられるような不可視な経験を重視する矛盾する現象がおこる。 この論文ではそれに対する苦悩への支援という処方せんという著者のサービスまである。
同じく第3部で最終章になる第9章では、同じ編者に よる序章で紹介された医療専門家が経験する苦悩を、職業的障害とみなさず、創造的なこの職種の僥倖とするための考察がおこなわれている。この章の主題にあ るように、ケアの過程で専門家が遭遇するさまざまな苦悩は、熟達者によるものほど「適切な距離」が意識化されていることを著者は強調する。そのあたりが、 この書の大団円であり、編者としての狙いであったのだろう。
21世紀の現代人が抱える心の状態を表現するキー
ワードをひとつあげるとすると、それはトラウマあるいは心的外傷(trauma)である。この用語は、米国のようなベトナム帰還兵の社会問題ではなく、日
本では阪神・淡路大地震(1995)を皮切りに1990年代中期以降に、精神医療のケア専門家たちによって急速に人口に膾炙したPTSD(心的外傷後スト
レス障害)という用語にも反映されている。それに対する治療やカウンセリングを含むコービング一般を包括した用語が「こころのケア」であろう。トラウマと
こころのケアは、身体(ボディ)よりもこころ(マインド)が優位になる現代には、些かインフレーション気味に使われ過ぎる言葉である。これに関する代表的
な批判的研究(Allan Young, The Harmony of Illusion,
1995)は、自然災害(地震や津波)や人為的災害(虐殺や凄惨な殺人)の事例研究ではなく(より先に社会問題化した)ベトナム帰還兵への心身問題と制度
的対応の歴史の事例分析である。トラウマに比べると苦悩(suffering)という用語は、米国の医療人類学界ではお馴染みではあるが、我が国の医療人
類学・医療社会学においてもまた、認知度がそれほど高いものとは言えないようだ。その意味で本書の着眼点は瞠目に値するものである。本書において比較的広
範囲の医療・看護・福祉等の専門職が抱える苦悩を取り上げたことは本邦において重要な学問的貢献になった。編者ならびに各章の著者たちの努力は、今後もよ
り着実に実を結ぶことであろう。
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