かならず読んでく ださい

民族的アイデンティティをめぐる覚書

On Ethnic identity

池田光穂


ユダヤ人とは何かという問題が提起されること自体私 には不思議に思われる@アイザック・ドイッチャー

ユダヤ人は(排斥されるがゆえに)自分が肌の白いニ グロであることをアメリカのデモクラシーの中で知るがその当の黒人排斥運動の中でも先鋭的なリーダーは白人ユダヤ人なのだと、とも@アイザック・ドイッ チャー

スターリンが様々な悪事にも関わらずナチに侵攻をう けたロシア領内の250万人のユダヤ人を移動させたという事実は、さまざまな意味で「当惑」させられる歴史的事実である

奴ら(非シオニストユダヤ人)には根がない。連中は 根無し草のコスモポリタンだ。最低の存在だ@ベン・グリオン

イスラエルの入り口でイーデッシュの襤褸服を脱ぎ捨 てヘブライの金や紫の衣服に着替える@ドイッチャー

《民族アイデンティティの問いかけは答えを想定して おこなわれる》

在日とは何か?という問題が(聴衆のすべての民族で ある可能性のある)君たちから提起されること自体[在日の]私には不思議に思われるとある人が発語した時(在日以外の民族アイデンティティをもつ)僕たち は、どう応答すべきか?あるいは、こんな仮想な問いかけは意味がないのか?ドイッチャーの「ユダヤ人とは何かという問題が提起されること自体私には不思議 に思われる」のテーゼを思いおこす度に不思議な気分になる。

《たかが民族的差異、されど民族的差異》

民族アイデンティティの「定義」をめぐる議論は自ら 名乗りでる場合はその本質性を人質にして部外者を排除し、他者表象を扱う場合は、それはラベルの問題だといって当事者の特殊性や感情・情動は瑣末なものと して脇にのけられる。この齟齬を乗り越えるためには、当事者の本質を(自らの正当化のための自己を)人質にせず、痛みや喜びを伴わない「特殊性や情動」を 自らのもの(=本質)として引き受けるしかない。

《僕の結論》

今日では人種も民族の概念も本質的なものは何もない。だが不幸にも両方の意味で本質化され続けるのはユダヤ人だ。それゆえユダヤ人についての最良の定義は「自他共のステレオタイプスに諍う=争う=抗う人」ということだ #WeAreAllJews

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