新潟県立図書館資料181006
1.小林茂『ぼくたちは生きているのだ』岩波ジュニア新書、岩波書店、2006年
第3章写真と映画の世界へのなかに「ハンセン病の人たちとの出会い」の記述がある(pp.61-71)。
邑久光明園の人たちとの出会い(大阪の人が多い)。1988年5月当時の邑久長島大橋開通のエピソードなど。
2.高橋淳子(新潟青陵大学短期大学部)ーー藤野豊『孤高のハンセン病医師』六花出版、2016年の謝辞の中にあり。無らい県運動研究会のメンバーの一
人。
3.ソロクト・楽生院訴訟
http://shimingakkai.com/sosyou/08.pdf
2005年10月26日
代表 酢山 省三、※酢山氏の現在の肩書きは、酢山省三氏(新潟県憲法会議事務局長)か?
新潟民医連 気付
『お話をきかせてください:13人の新潟県出身ハンセン病療養所入所者の聞き書き集』ハンセン病回復者と故郷・新潟を結ぶ会編、私家版、2005年、新潟
市:同会。
4.新潟県藤楓(とうふう)協会
会長は歴代知事か、その夫人が多い。ただし「新潟県藤楓協会規約」にはそのような定めがない。
藤楓協会は、財団法人で、東京都港区
https://nippon.zaidan.info/dantai/002080/dantai_info.htm
『渋沢敬三著作集 第5巻』(平凡社, 1993.07)p.424-428に、藤楓協会会長挨拶 / 渋沢敬三がある。
(藤楓だより : ハンセン病を正しく理解するために, 最終号)藤楓協会, 2003.3、財藤楓協会役割終え解散、56p、が日本社会事業大学
附属図書館に所蔵されている。
『藤楓にいがた45年のあゆみ』平成26(2014)年に「新潟県藤楓協会発足して45年が経ちました」との記述(あとがき
p.80)があるので、新潟のそれは、単なる支部ではなく、地方自治体が支える独自の性格をもつ団体として現在も存続している可能性がある。平成25年度
募金、寄付金の総額は約112万円程度。
5.新潟県福祉保健部健康対策課編『ふるさと:新潟県出身ハンセン病療養者入所の手記集』新潟県、平成16年7月。98pp.
11名の手記ならびに聞き書き、作品(短歌等)「この冊子は、新潟県出身のハンセン病療養所入所者の方々から、今のお気持ちを綴った手記を寄稿していただ
き、それをまとめたものです。 新潟県」
栗生楽泉園4名
長島愛生園4名
多磨全生園3名
・後藤昌文(ごとう・しょうぶん)ウィキ:https://goo.gl/QmSTq8
1826年(文政9年) -
漢方医後藤宗謙(宗健)の子として美濃国(岐阜県)北方にて出生。後藤宗謙は大垣藩医の杉田玄白系蘭医学塾、江馬塾門人帳に名を連ねていた。北方市漢方医
里村家に養子に入り漢方を学ぶ。
1870年(明治3年)5月[要検証 – ノート] - 上京。大学東校の付属病院で癩の診療を行った。
1871年(明治4年) - 大学東校閉鎖に伴い退職。同年11月に東京市第八大区三小区柏木成木町に癩病室を設立。
1874年(明治7年)4月 - 満室となり東京市第六大区八小区(本所)中之郷本町に癩病室を増設。
1875年(明治8年)4月 -
上記2癩病室を合併し、東京市第四大区二小区神田猿楽町2丁目19番地に、癩専門の「起廃病院」を開院、ハンセン病患者の治療と共に門人教育を行った。同
年浜松にも分院を開設した。このとき静岡県令の大迫貞清は大いに喜び、静岡県下に広告文を出した記録が残っている[1]。後藤は当時の癩治療の権威となっ
た。治療は大風子油の丸薬の服用、大風子実の絞り糟などの薬湯、栃の実の使用、温浴療法である。
1876年(明治9年) - 「癩病考」を著す。
1877年(明治10年) - 「起廃病院醫亊雑誌」を発刊。仮名垣魯文との交流がはじまる。
1881年(明治14年) -
ハワイ王カラカウアが起廃病院を訪問。ハワイでは1840年頃から癩が広まり1866年からモロカイ島で隔離収容していた。
1882年(明治15年) -
息子の後藤昌直とともに「難病自療」を著す。これは後藤式療法でハンセン病が治りえることを口語でわかりやすく患者向けに説いた書物である。ハンセン病の
感染の可能性に言及し、発病には遺伝・自発・感染の三つの場合があり、潜伏期間が長いため感染であったとしても、それを特定することはできないと述べた。
当時隔離政策が主であったハンセン病を、外来・通院治療で治癒に導いていたことは日本のハンセン病歴史上特記すべき事項である。後藤式療法は、大風子油の
丸薬の服用、大風子実の絞り糟などの薬湯、栃の実の使用、温浴療法である。完治した患者もおり、ハンセン病は当時不治の病であったことから、高名を博し
た。[2]
1883年(明治16年) - 起廃病院は芝新堀町に移転。製薬も行い、ハワイにも輸出した。
1895年(明治28年) - 6月27日 東京にて没。享年70。東京都品川区南品川の海晏寺に墓石あり。
第一回国際らい会議(1897年)にて、感染症の認定。日本政府への勧告がなされる?
Pandya SS(2003), The first international leprosy conference, Berlin,
1897: the politics of segregation. Hist Cienc Saude Manguinhos.
2003;10(Suppl 1):161-77.
●貞明皇后の光明(治癒の力/治癒の慈悲)とは裏腹に、皇族にハンセン病を感染させまいという努力は宮内伝染病予防令によくあらわれている。http:
//www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10213543
立田清辰(たつたきよとき)https://goo.gl/R56Tzv
岐阜県吉城郡出身。第七高等学校造士館を卒業。1916年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、逓信省に入省。1918年10月、高等試験行政
科試験に合格。1919年、内務省に転じ鳥取県属となる。/1919年、香川県警察部刑務課長に就任。以後、神奈川県警視、内務事務官、徳島県書記官・警
察部長、茨城県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長などを歴任。1929年、朝鮮総督府に転じ同事務官・警務局図書課長、同保安課長を務める。
1933年、山梨県内務部長に転じ、1935年1月、宮城県書記官・総務部長に就任。/1936年4月、鳥取県知事に就任。前任知事の方針を基本的に踏襲
し、従来の事業を見直した財源により、県立盲唖学校の創設、水産試験船建造、鳥取県振興会の設置などを実施した。1939年1月、千葉県知事に転任。戦時
体制の確立などに尽力。1941年5月に知事を退任し、同年に退官。その後、住宅営団理事となった。
立田清辰の行政手腕は「無癩県運動」https://goo.gl/CKKVoc「特高課長講演問題」で発揮
https://goo.gl/28BrjR
No Leprosy Patients in Our Prefecture Movement
https://en.wikipedia.org/wiki/No_Leprosy_Patients_in_Our_Prefecture_Movement
・「癩予防は私の念願」『鳥取新報』昭和11年11月25日
・(財)朝鮮癩予防協会の発起人のひとり(1933)
・「癩患家の指導」『集成』戦前編、6巻、75ページ
1937年1月9日、長島の「鳥取寮」建設予定地を訪問。その後、県外に鳥取県出身者を訪問、寄附(愛国基金?)を求める。3月25日には内務省を訪問、
東京在住の県民にも会う。
・売薬業者による顧客情報により、地域から患者があぶりだされるーー「最初の調査粗漏か/癩患者続々発見さる/県下に実在患者三百名以上/知事も一驚いよ
いよ積極的救済へ」『鳥取新報』昭和12年1月17日
・皇太后宮大夫(こうたいごうぐうだいぶ)戦前の宮内省で皇太后に関する事項を所掌する。皇太后宮職の長官:「宮内庁にある皇太后の家政機関。皇后が、天
皇崩御を経て皇太后の位につくことで、その后が崩御するまでの間のみ設置。」
1937年4月9日(前年12月に開局したラジオ放送を通じて)立田清辰は、桂警察部長代読として「鳥取県ノ癩予防運動二就イテ」を発表。その中で「3月
29日大谷皇太后宮大夫を通じて、貞明皇太后に本県の癩予防運動状況を奏上したところ、皇太后が「御満足」に思われた……。立田知事はこれにいたく感動
し、『我々鳥取県民上下一致益々此の民草の心情を思目召さるる大御心を拝し奉り、恐懼(きょうく)感激愈々(いよいよ)本運動の完成を期せばならない』
と」放送をしめくくった(鳥取県 2008:59-60)。
ーー財団法人鳥取県癩予防協会『鳥取県ノ無癩運動概況』昭和13(1938)年6月(「愛生」編集部に所蔵/同志社大学図書館にも所蔵)
1937年4月10日、財団法人鳥取県癩予防協会創立総会での光田健輔の講演(上掲『概況』より)
「立田知事はかつて朝鮮におられた時も、朝鮮の癩患者のために非常に御心配をされました。(中略)昭和七年に皇太后様の「癩を早く救え」という御令旨
(りょうじーー命令文書)に依って、朝鮮でもあのような癩予防協会ができまして非常に完備されているのであります。今は四千人位の患者を容れるような立派
な病院ができております。また最近はこれを拡張して五千人を収容なするようなことになっておりますが、そういうような動きを朝鮮でなさった知事さんであり
ます。でありますから、鳥取県に御出になっても癩患者があるのを御覧になってこの施設を思いつかれたのであります」(鳥取県 2008:64)。
5月17日、天皇との陪食ででの、「地方事情奏上」における立田清辰のテーマ「癩予防協会発足と我が国初の試みとしての無癩計画」(鳥取県
2008:65)ーー山陽中国合同新聞、昭和12年5月18日、因伯時報、昭和12年5月19日
・楠城嘉一(なんじょうかいち 1883-1942)鳥取市長ーー八頭町出身、第10代市長
「特別の白衣にマスク、長靴で」島内を視察。軽症患者に医師が素手で診療をおこなっているのに「頭の下がる思い」と心情を吐露。ーー「運命の同胞を楽しく
安らかに/鳥取寮建設を喜ぶ患者たち/楠城鳥取市長の愛生園見学」因伯時報、昭和12年5月18日
・同時期の収容者の語りは徳永進『隔離』ゆみる出版、1982年がある。21,49,110ページ
・その後、20名が脱走(鳥取県 2008:78)
・山下多恵子(1953-)長岡高専非常勤講師『海の蠍』未知谷、2016年、作家、啄木研究者
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