臨床コミュニケーション2(5)20110519
担当:西村ユミ
「身体」とコミュニケーション
<講義内容および目標>
1) 他者と会話をしている際に生じる「自己接触」(※)の種類を確認する。
2)自己接触が対人コミュニケーションにどのように関わっているのかを考える。
身振りとの違いは何か?
(※)「自分の手によって自分の体のどこかに触る行為のすべて」<スケジュール>
16:20-16:40 資料説明
16:40-17:25 グループワーク(約40分)@4-5人/G 司会・記録(発表)・コメント
1) 二人で話す(10分ぐらい)
・一方が他方に、「最近、気になった、印象に残った出来事」を思い出しながら話す。(それ以外の者は、二人の「自己接触」を書きとどめる)
2) (課題1)自己接触の種類を挙げる。
3) (課題2)自己接触が自分や相手にとって/対人コミュニケーションにとって、どのような意味を持っているのかを考える。
17:30〜17:50 発表とコメント■「身体を考えるのに、なぜ自己触発か?(菅原)
・私たち(日本人)が会話の中でもっとも頻繁に行っていることだから。
(自己接触は対話と密接な関係を持っている。(略)自己接触は、相手の話を聞いているときよりも、自分で話をしているときの方が3倍以上頻繁に生じている。)
・自己触発こそは、言葉による整序化が困難な、身体性という領域にアプローチするうえで格好の素材を提供する。■「自己接触は無意味か?」
・私は照れ隠しに頭を掻くこともあれば、本当に痒いから掻くこともある。実際、身体動作を分類した古典的な論文では、自己接触は「自己適応子」と命名された。もし自己接触が純粋に個体の「自己適応」に奉仕するのみであれば、それは人間のコミュニケーションにとってまったく無意味な偶発時に過ぎない。菅原和孝『ことばと身体――言語の手前』の人類学』講談社、2010年より
<参考までに>
〔菅原和孝『ことばと身体――言語の手前』の人類学』講談社、2010年より〕
自己触発の「意味」とは、他者の醒めた意識によって「解読」されるような性質のものではなく、それは、言語的な意味よりもずっと深い層を流れる何かであるということだ。いいかえれば、それは、他者の身体それ自体に対して直接的な「促し」として働くような、ある種の雰囲気なのである。
私の自己接触があなたへの促しであることをもっとも明瞭に示しているのは、自己接触の同調という現象である。対面相互行為の参加者のあいだで身体動作が微笑なスケールで同期することは良く指摘されてきた。(略)私の自己接触が他者のそれと同調的に起こっているその瞬間、まさに「他人の志向は私の身体を通して働き」「私の身体は他者の身体のうちに己れ自身の意図の延長」(メルロ=ポンティ)を見出していると言えよう。(略)
だが、他の身体動作ではなく、なぜよりによって自己接触が同調するのかを理解するためには、以上の考察だけでは不十分である。メルロ=ポンティは、私とあなたの二つの身体に同時に棲みつく「無記名の実存」を導入することによって「他者の明証性」という問題を解決したかにみえながら、そのすぐあとで他者の内的経験はけっして私の内的経験ではありえないことを改めて論じ、ついに「乗り超えがたい独我論」が私たちの生きられた経験の中核にあることを認めている。まさに、自己接触する私は、私の受けとる感覚は私一人だけのものであるという根源的な独我論にひそやかに立ち還っているのである。しかも、このような私の独我論的な企てと、あなたのそれとが同調的に起こるというところにこそ、自己接触という現象の真にめざましい本質がある。確かに私は痒いから掻くのであるし、その痒みは私の皮膚上の一点に生じる私一人だけの感覚でしかない。しかし、あなたとの相互作用のなかでは、私は、あなたがあなた自身の痒みに還帰するのを見て、私の体のどこかに私自身の痒さを発見するのである。