48■このことは国民統合のために「先住民・土民・インディオ」という用語の公的言語からの放逐を意味した
・「ホセ・マリア・モレーロス・イ・パヴォン(1813年のメキシコ共和国の宣言者)がスペイン人に処刑される少しまえに作ったあの美しい新語、我々の聖
なる革命(Nuestra Santa
Revolucion)も、新しさについてのこの深甚な感覚から出てきたものだった。またサン・マルティンの1821年の布告、「今後、原住民を、イン
ディオ、土民などと呼んではならない。かれらはペルーの子にしてかつ市民であり、ペルー人として知られるべきである」もとこから末日。この文章は、パリの
国民公会がキリスト教暦に対して行ったことを、「インディオ」および/または「土民」について行っている。つまり、古くからいわれなく使われてきた名称を
廃し、まったく新しい時代をはじめるものだった。「ペルー人」と「〔新世界暦〕元年」はこうして既存の世界との深刻な断絶を修辞的に画したのである」(ア
ンダーソン 1997:319)。
"Out of this profound sense of newness came also nuestra santa
revolucion, the beautiful neologism created by Jose Maria Morelos y
Pavon (proclaimer in 1813 of the Republic of Mexico), not long before
his execution by the Spaniards. Out of it too came San Martin's 1821
decree that 'in the future the aborigines shall not be called Indians
or natives; they are children and citizens of Peru and they shall be
known as Peruvians.' This sentence does for 'Indians' and/or 'natives'
what the Convention in Paris had done for the Christian calendar - it
abolished the old time-dishonoured naming and inaugurated a completely
new epoch. 'Peruvians' and 'Year One' thus mark rhetorically a profound
rupture with the existing world" (Anderson 1991:193).
・Source: John Lynch, The Spanish American Revolutions, 1808-1826, Chap.4
・José de San Martín,
1778-1850(アルゼンチンの軍人、クリオージョ、リマの解放者)――アルト・ペルー(=ボリビア)の攻略に際して、インカ帝国復古派と連携する前
に、ペルーとチリの解放をめざした。