63■強い文化概念としての「部族」
部族(ぶぞく, トライブ:
tribe)という用語とその概念は、長く、植民地主義の遺産として宗主国から植民地の人びと(people)の集団の種別概念として扱われてきた。また
その歴史的事実もそれに対応している(Gregory
2003)。それゆえ、部族の概念は、外部から押し付けられたカテゴリーであり、ある意味で19世紀のフィクションにちかい概念であるという批判も当然指
摘されてきた(Freid 1975)。
"Nation-states seized positions of political power a long time ago, and
like corporations more recently with their economic power, label and
disparage those who are left out from participation and involvement.
The word “tribe” is one such label, and the term fits a wide diversity
of people, most of whom never regarded themselves as being a member of
a “tribe.” Still, those people have conceptualised, designed, and
experienced strategic and tactical relationships with the proverbial
powers that be and managed to survive, and frequently, thrive. We can
learn much from tribes, the origin, use, and futures of tribes, and
their rich experiences in living" (Gregory 2003:5).
このため、ポストコロニアルな現今においては、そのような用語を差し控えるべきであるという主張が当然のことながら出てくる。それに代わる政治的に脱色さ
れ用語がエスニシティである。部族(トライブ)がもつレッテルの劣等性や侮蔑性を嫌うという統治者側の「配慮」もある。しかし、この概念は国民国家体制な
かで少数民族や先住民を管理する便利な用語になりかねないという批判がある。現に、劣等性や侮蔑性とは無関係に、(元)部族の人びとが、自分たちのカテゴ
リーを堂々と名乗っている事実もある。例えば、下記に事例で示してあるMashpee Wampanoag Tribeの人びとがそうである。
ジェームズ・クリフォードは、部族の概念には、アンビバレントだが力強い意味が当事者側からの申し立てと自己カテゴリーの命名としてあり、このことは無視
できない歴史的事実であると同時に、文化人類学が学ぶべき「観点」だと主張する。
「文化と部族という民族誌カテゴリーが弱体化されたものであるとはいえ、最近のより流動性が高いエスニシティの言説に組み込まれるべきだなどと私は主張し
ているわけではない。エスニシティは通常考えられているように、多元主義的な国家内部で多様性を組織するのに都合のよい脆弱な文化概念である。部族という
制度は、いまだに先住民的匂いをぷんぷんと発し、18(ママ:
19?)世紀には、部族と同義語であったネイションを連想させるのであり、そう易々と現代の多民族的、多人種的国家に統合されるものではない。インディア
ン諸部族が主張している復権的な文化=政治的アイデンティティは、アイルランド系アメリカ人やイタリア系アメリカ人のアイデンティティよりも、はるかに転
覆的なものだ。北米先住民は、アメリカ合州国の完全市民であることと完全にその外側に位置づけられることのどちらとも要求してい
るのである」(クリフォード 2003:467:原注(5)――太字は原文の強調;下線は引用者による強調)