医療と福祉の実践の現場を考える
私の話は、医療と福祉の具体的な実践の場に対しては、それほど役に立たないかもしれません。その理由は次のようなものであります。
(1)我が国における医療と福祉の実践の場についての具体的な知識が私には乏しい。
(2)どのようなものでも得られた知識というものは、(経験的事実の)結果として、かならずしも人間の生活に役立つとはかぎらない。
(3)医療の応用に関する人類学的研究が私の研究テーマですが、私の研究スタイルの中で最も重きをおいているのが、いったいそのような現場で今何がおこっているのかを明らかにすることで、その結果、どのようにその研究資料を運用すべきかということについて、それほど深く研究していない。
にもかかわらず、今回のようなお誘いに賛同したのは、次のような理由からであります。
(4)実践的・道徳的立場がまったく異なっている我々を繋げる唯一の接点が「ヘルスプロモーション」であり、これを考えたり・実践することの意味に両者とも関心があること。つまり、ヘルスプロモーションという考え方を通して繋がっていること
(5)私の専門分野を受け入れている職場では、私はもっぱら、文化人類学の考え方、知識の使い方、使われ方について教えており、このことを知り、実践することはよいことであることを信じていること。そのために、この現場においてもそれらのことを実践する必要性を感じていること。
医療職・福祉職という<呪われた仕事>
なぜ健康支援をおこなうのか?
これに答えられないと仕事が困難に陥った時にドロップアウトしやすくなる。
もっとも安易な処方箋は、人びとのためという宗教的熱情で説明すること。
だがこれは理由付けとしてもっとも説得力を欠くものだ。
もっとも簡単な理由付け=現在の自分の存在を徹底的に肯定することだ。
つまり、今の職業を選んで私は生活していかねばならない、だからこれに従事する。
だがこれは、格好悪い説明だ(特に子供たちから質問をされてこう答えるか?)。
だから人は外面的な理由付けをさがす、そして説教じみた宗教的熱情ではなく。
そこで動員されるのが、私は「この仕事が好きなんだ」という、他人からはわからない個人的熱情で説明することである。
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でも、本当にそうなのだろうか?
もっとも祝福されるべき仕事とは、もっとも呪われた仕事でもある。なぜなら、つねに、この仕事の意味は何なのだろうかと、つねに繰り返し、繰り返し、我々の良心が問いかけるからである。
だから人びとは、この仕事を道徳的に宙づりになった状況のなかでおこなうのである。
ここまで自虐的にならなくても、医療や福祉の実践というのは奇妙なプログラムを内包している。
a.この社会では常に不幸な人が産出されることを自明の理としていること
b.不幸な人たちは、医療や福祉職と呼ばれる人びとによって救済されなければならないというヒューマニズム的課題をかならず教育されること。
c.社会はこれらのことを当然の義務としているにもかかわらず、実際には人権上・行政上・医学上・経済上その他もろもろの社会的制約条件のもとで、すべての不幸なものの救済が不可能なことを、他ならぬ実践している人たちが最もよく知っていること。あるいは、そのような実務と理念は分裂している、あるいは二重の規準(ダブルスタンダード)でおこなわなければならないことがよく知られていること。
d.不幸な人びとの救済の努力が達成されたとき、このような実務は消失することが理想とされているが、実際には、医療や福祉の専門家が新たに、必要な対象者を捜し出し、作り出していること。