はじめにかならずよんでください

保健=健康の人類学の誕生

From Medical anthropology to anthropology of health

——援助する人類学者とその社会的使命に関する考察——

池田光穂 1999 

1.  グアテマラにおける応用医療人類学に対するある1つの批判

本発表は、医療的身体 の構築に関するさまざまな社会分析のうち、とくに医療的身体の構築に現場で関わる人 ——ここでは医療人類学者と呼ば れている人びと——の実践に焦点をしぼり、考察をおこないます。

私は中央アメリカにおいていくつかの民族誌学的研究——このセッションに関係のある テーマとしては近代医療制度の浸透と社会変化の調査 ——に従事してきました。最近、北米の研究者でグアテマラの医療援助協力に従事してきたと思われるBruce Barrettの「アイデンティティ・イデオロギー・不平等性:1950年から95年におけるグアテマラの医療人類学の諸方法」(Social Science and Medicine, 44(5),1997)という論文を読む機会がありましたが、その際に私は奇妙な違和感を覚えました。個人的な経験を交えながらも、総説的なタイトルを冠 しているわりには、スペイン語で書かれた関連文献がほとんど引用されていないからです。最初は、読者を英米圏の人に限定したものだろうという印象をもった にすぎませんでした。しかし、十数年来の友人であるグアテマラ人のある医療人類学者と旧交を温め、彼女の経験豊かなライフヒストリーを改めて聞く機会をも つに至り、グアテマラの医療人類学の現状に関する両者の受け止め方の差異=違いを意識することが重要であることに気づきました。バレット論文のタイトルを 捩れば、その違いこそが、医療人類学の研究者がおかれた歴史的・社会的文脈のアイデンティティ・イデオロギー・不平等性を表象するものであるということで す。

この両者の違いは、あえてステレオタイプとして対比させますと、一方は米国の男性人 類学者であり、他方はグアテマラの非先住民族のラディ ナladina(=メスティサmestiza)つまり女性の医療人類学者である。また一方は援助をおこなう側の人間であり、他方は援助を受ける側の国民で あり、援助を受ける側の人間に近い——ここで近いと言ったのは、グアテマラでは国際的な医療援助は、政治的経済的に優越する非先住民族であるラディノ/ラ ディナよりも、文化的に<豊か>ではあるが保健的には<貧しい>先住民族であるインディヘナに優先されるために、ラディナは援助を受ける直接の当事者では ありません。なお、2人の医療人類学者の共通点としては、ともに先住民族の社会や文化に対する尊敬の念をもち、医療援助を効果のあるものとしたいと考えて いることであり、それは2人が書く著作の中に容易に認めることができます。

さてバレットの論文に戻ると、グアテマラの医療人類学は、1940年代の先住民族の 医療文化にかんする民族誌研究を嚆矢=<始まり>とす るのではありません。1950年代初頭からはじまる村落における栄養改善のプロジェクトにおいて人類学者Richard Adamsが関わることによって、世界でおこなわれた最初の応用人類学プロジェクトのひとつとして発足したことが、その<始まり>とされています。その時 以来、グアテマラにおける米国の人類学者は、先住民族文化のよき理解者であると同時に、医療プロジェクトに対する現地住民の不服従や抵抗(たとえば採血の 拒否)の文化的理由について医療関係者に分かるような形で説明することができました。そのような知識にもとづいてプロジェクトは先住民族に対して新たな交 渉の糸口を掴むことができ、そのことが医療援助において<文化の解釈者>兼<文化のブローカー>という専門家としての医療人類学者の地位を確立することが できたというのです。これは1970年代後半から深刻化し1990年代以降ようやく沈静化する内戦が終焉してゆく、ポスト内戦の時代のグアテマラにおいて も北米出身の医療人類学者は、おなじような役割を担っていると、バレットは主張します。彼は自ら参加した医療プロジェクトにおける挫折の経験を通して、現 地の文化に精通しつつ同時に文化のブローカーになることが医療人類学者であるというアダムスの主張がいまなお必要とされるような状況にあると締めくくって います。

彼のグアテマラにおける活動の経験から得られた、医療人類学への処方箋とは、客観的 −科学的中立性を装ってきた流れから価値中心的な批判 的視点を取り戻し、プロジェクトの目標を医療計画のそれではなく先住民族の側の要求にシフトさせようとするという、ある種の正当な訴えです。  

2. もう一つの医療人類学

バレットの論文を読んだ時の、私の最も大いなる違和感は、そこに登場するのは先住民族と応用人類学を推進させる北米の人しかおらず、プロ ジェクトの側に協力するグアテマラ人(ラディノ)やプロジェクトから排除されるラディノの人びとの姿が見えないという疑問でした。

私がグアテマラの医療人類学者から聞いた、その学問の歴史的発展の物語とは、バレットのそれとは似て非なるものでありました。たとえば、 世界初の応用医療人類学者であるアダムスの評価は、医療人類学者が回帰すべき原点にはなっていません。むしろアダムスの応用人類学が結果として産み出すプ ロジェクトの社会的効果、すなわちグアテマラ人の国民的統合を彼女は危惧します(cf.本分科会の松岡論文)。先住民族の生活が文化変容を被りラディノ的 な生活として統合されること——ラディノ化(ladinizacion)——に主眼がおかれているとアダムスの姿勢を批判します。これらは米国の政治的関 心や意図と無関係ではなく、インディヘナの文化について敬意を払うものではなかったと総括しました。さらに具合の悪いことに、彼女によると、アダムスの研 究は他のグアテマラ人の医師の関心を呼ぶことが少なかったといいます。

彼女によると、グアテマラにおける真の応用医療人類学の展開は、アダムスの活動開始から20年後に、グアテマラのラディノの医師たちが、 先住民族の救済=救援(rescate)を目指して活動をし始めたことから始まります。1970年代以降、サンカルロス大学の小児科医Juan Jose Urtadoは、彼の教え子たちが小児科や母子保健に関するプロジェクトに従事する際に、先住民族の土着の医療や衛生に関する概念に注意を払うことを促し ました。また、医療や衛生の観念が、マヤの宇宙観と関係していることを論じた論文を刊行しました。しかしながら、ウルタド医師は民衆指向の医療を目指した ために、内戦が激化して大学知識人の誘拐や失踪事件が多発するにつれて、身の危険を感じ、グアテマラを去り10年近く米国での生活を余儀なくされました。 ウルタドの実質的亡命そしてテロリズムの日常化の中で、医療人類学の学問的=実践的伝統が途絶えてしまったと彼女は指摘します。グアテマラで医療人類学 (=民族医学)の研究が復活するのは、彼女たちが関与するフォークロア研究センター主催による総合調査の1980年代の中頃以降であるといいます。

 3. 保健=健康の人類学の誕生

バレットとグアテマラ人の女性医療人類学者の理解の違いは、その研究者が与えられた歴史的文化的な拘束性やスタンス (positionality)の違いによるものであると思われます。バレットには、米国人スタッフを主要なメンバーとする国際機関が現地でおこなうプロ ジェクトにおいて、実際には先住民以外のグアテマラ人が働いたり関与しているという視点が欠落しています。そのために、グアテマラにおける医療人類学の問 題とは、プロジェクトにおける双方の当事者である先住民族と外国人という2者の間の文化の理解と実践の問題へと回収されます。しかし、先住民族に対して優 越した地位をも持ちうるラディナである彼女の場合、事情はより複雑となります。彼女は先住民文化に対して敬意を払いながら伝統的な治療技術の民族誌学的豊 かさに言及しつつ、同時に他方で経済的貧困と政治的抑圧の被害者である先住民族の救済=救援という実践をおこなわなければなりません——そして彼女は文化 の豊かさと政治経済的な貧困=困難は相矛盾することなく同時に生起するものだと断言します。ところで、ラディノ/ラディナは先住民族を抑圧するという図式 は正確ではありません。1970年代から1980年代前半まで、先住民族のことに興味をもち、それに関与したラディノ/ラディナたちもまた先住民族となら んで政治的抑圧の犠牲者となりました。グアテマラでは、村落民の衛生教育に従事する多くの保健普及員が住民を共産主義化するエージェントとみなされ軍部に よって行方不明になったり虐殺されたりしました*。

このような道徳的に両義性を帯びているグアテマラ人による研究というものは、米国で標準化されている学術論文の水準や修辞法 (rhetoric)において異なった側面をみせており、そのためにインターナショナルな学会において学術的な値踏みがなされ、英語圏の研究者の間で評価 しにくい状況を生みだしてきました。私じしんの経験でもありますが、グアテマラ人研究者による医療人類学の論文は、医学史やコスモロジーの紹介に重点が置 かれる割には文献考証の精度が劣る、さらには純学術的な論文と思われる結論部分に、それとは一見無関係に思われる実践的な要請——これは<勧告 Recomendacion>と言われます——が唐突に命題集のごとく提示される等々、きわめて(一見)エキゾチックな書記法(writing)があり、 どのようにそれを理解するかについて悩まされてきました。これを、洗練されていない素人の論文として切り捨てることは容易であるし、実際、北米の人類学者 にとっては座りのわるい文献として、歴史的先行研究や資料としてのみ引用することで、グアテマラ人による研究を、対等のアリーナの中に置かず、特殊なジャ ンルの中に囲い込んできたことは十分考えられます。だが人類学者の歴史的文化的な拘束性やスタンスという観点からみると、この特異な書記法の存在は決して 軽んずることはできません。先住民でもない、かと言って医療プロジェクトに主導的地位をしめる外国のエージェントでもない、中間者的存在とは、そもそも人 類学者の立場性(positionality)そのものであったからです。

彼女は1990年以降になって、それまでの自分の専門であった医療人類学Antropologia medicaという看板を健康=保健の人類学Antropologia de Saludと呼ぶようになります。それは、このタイトルが、臨床医学の医師と人類学者が、用語法においてお互いに競合関係にあるような印象を与えるからだ と言います(また実際にそのようだと指摘する)。そして医療人類学という用語を使っていては、彼女の言うところの全体論的な保健の信条と実践の体系である 「伝統的民衆的医療Medicina Popular Traditional」についてより広い範囲の協力が求めることが難しいとの判断から、看護者、栄養学者、医師、教育者、疫学者、保健普及員のみなら ず、当事者を構成する伝統的な治療師(curandero)や司祭(sacerdote)をも含んだ人たちの共同的活動の場として保健=健康の人類学とい う認識論的枠組を提唱するようになったといいます。

したがって、医療人類学から保健=健康の人類学への彼女の<改宗 conversion>は、「自分が生きる世界を問題として構成する」(Foucault)、あらたな医療的主体を構築するひとつの方法なのであると私は 考えます。

註:

*このトラウマは現在でも、彼(女)らをして学問成果を国内で公開することに対する躊躇を生むと同時に、逆に米国人をふくめた我々外部の人 間に<語り>を伝え、世界中に公開すること要求するという2つの側面をもった社会的効果を生みだしています。

 医療人類学プロジェクト

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099



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