自己投薬行為
Self-medication in western Honduran mestizo people.
自己投薬
自己投薬行為(selfmedication,automedicacion、下線スペイン語) とは医療の専門職の監督の圏外で民間の人々によって行われる自己判断に基づく投薬行為のことをさす。自己投薬行為は、治療選択や保健追求行動( health seeking behavior) のひとつである。
自己投薬行為は、低開発地域いわゆる第三世界のみならず開発国においてさえも広くみられる一般的な現象である。しかし近代医療の導入が不 十分な第三世界では、自己投薬行為はその国の住民の保健追求行動のうち大きな部分を占めている。また医薬品の取扱いにかんする法制度が未整備で、かつ問題 のある使用例が見られるという点で、開発国の住民の自己投薬行為とは異なった独自の様相を呈している。
自己投薬行為に関する議論はその現象の解釈をめぐって大きく二つの潮流に分けられる。ひとつはこのような行為を医療化 (medicalization)や医原性(iatro- genesis)(Illich 1976)の脈絡で捉え、住民の保健追求行動に対する有害な干渉と見る態度である(Silverman 1976, Ferguson 1981,Melrose 1982)。他のひとつは自己投薬行為をプライマリーヘルスケアの中に位置づけるために、その行為そのものの問題性を取り除き公衆衛生教育の普及等によっ て住民の自助努力を促すものとする立場である(Abosede 1984)。いずれにせよ経済活動における自己投薬への負担やその実態は、第三世界における健康計画を考える上で等閑視できないものになっている。
医療行動研究の一環として関心を持たれていた自己投薬行為であるが(Colson 1971)、この行動のヴァリエーションの幅は相当に広く、地域によって様々なタイプをとることが明らかにされている(Ferguson 1981)。しかしながら、その文化と行動に関する研究は非常に少ない(Van der Geest 1984a,1984b)[★→この論文の骨子をまとめて考察の中で展開すること]
ホンジュラスでは医薬分業であり医師の処方箋により市中の薬局で医薬品を購入するシステムがとられている。しかし多くの第三世界と同様、 処方箋なしでも「カウンター越しに(over the counter)」あらゆるタイプの医薬品が購入することが可能である。薬局は県庁所在地には少なくとも7店、医師のいる保健センターのある隣町には4店 があるが、本調査地には無い。しかしながら共同体の小雑貨屋で20数種の医薬品が購入できる。
調査の目的
農村住民の自己投薬行為に関する調査資料は一九八六年二月および三月に採集した。その際にその行為に関する次の三点に留意した。
(1)心理的側面:自己投薬行為の動機を形成しそれを促進する要因は何か。
(2)経済的側面:それにかかる住民の経済的な負担はどの程度か。
(3)自己治療の文化的側面:近代的な医薬品と伝統的な治療法との関連。
調査の結果
最初にその行動を動機づける要因について調べた。インタビューや人々の日常の会話から、自己投薬行為を促進する因子に「医薬品または類似 物」(以下まとめて医薬品と呼ぶ)に関する情報の入手がある。一九八六年二月一〇日から一二日までの3日間に調査地で受信されたラジオ広告に出てきた医薬 品のカテゴリー別分類を掲げる(表1)。これらの医薬品のうち広告の多い上位4種は調査地の住民が常用するものであり、広告の量と使われる医薬品は相関が あるように思われる。コパン県の調査地の小雑貨店(pulperiaまたはtrucha)で買える医薬品の一覧は表2のとうりである。薬品の成分や製造国 はそれらの医薬品のパッケージより調べたので、不明な点が少なくない。医薬品は一錠単位で包装され、非専門家によって売られている。また住民は薬品成分や 注意書きにはほとんど関心がない。薬の効能に関する名声は住民の関心事であり、彼らの中で「名薬」(buena medicina)と呼ばれるものが幾種類かあった。このような状況が、薬品の誤用を生む素地を提供していることはほとんど疑いがない。
第二の経済的側面に関して八六年の二月と三月のそれぞれの二週間に住民がどれくらいの費用の市販医薬品を購入しているかというアンケート 調査をおこなった。その結果を表3と図1にあげる。これは対象人口全体に対する割合であり、また二週間の間に病気になってない人々も除数に含めてあるの で、そのあいだに病気になった人々の平均の支出はそれ以上になる(例えば、一家族当り一二・五レンピーラ;六・二五米ドル相当、以下同様)。表の結果より 単純に推定すれば、一カ月の間に住民一人当り約四レンピーラ(二米ドル)、家族では二六レンピーラ(同一三米ドル)出費している計算になる。これは農村部 の平均所得の水準から考えれば(推定1家族あたり月額約一〇八レンピーラ;五四米ドル相当)、かなりの支出になることは間違いないであろう。
第三の自己治療の文化的側面について、同じ時期に医療サービスへの接近性についての調査を住民五六三人に対しておこなった。どれだけ住民 が市販医薬品に依存しているかは、病気になったときに実際に医療施設等を訪れる(二三二人中九〇人;三八・八%)以上に、市販医薬品に依存している(二三 二人中一三四人;五七・八%)ことからも推察できる。つまり、医療にかからず市販医薬品だけで済ましている場合や、医療にかかりながらも市販医薬品の使用 を併用しているというのが現状である。
また同年の3月より5月までの間に本調査地と近隣する農村の二つの村落保健センターにやってきた人達が実際にそこに訪れる前にどのような 治療おこなったのかを調べた。その結果を表四に示す。使用される手段は、(1)市販医薬品、(2)伝統的民間療法(薬草を含む)、(3)以前に村落保健セ ンターでもらった医薬品、の3種類である。本調査地と近隣の郡では後者は前者よりも診療所に訪れるまえに、なんらかの治療手段を取っている人達が多いが、 両方のケースで市販医薬品の使用が最も多い。そのうちいくつかのケースでは村落保健センターでもらった薬を飲んだと述べていたが、住民は当該の病気でなく 以前受診したときの薬をすべて消費することなく自宅で保存し、それを飲用したのであり、ここにも専門家の診断以前に−不適切に−薬を使用している例を観察 することができよう。図三はそれぞれの治療選択の割合を図解したものであるが、いくつかのケースにおいて二つの治療を平行しておこなっており市販医薬品と 民間療法の併用が一番多くなっている。
自己投薬行為に関する研究はさまざまな分野から試みられている。まず法的関心があげられる。第三世界は数多くの医薬品が市場に出回ってい るが、多くの国々においてその法的規制は未整備である。シルバーマンはそうしたラテンアメリカ諸国における薬の社会的誤用について、いくつかの問題点を指 摘している。つまり、(a)自己投薬行為、つまり処方箋なしでの薬の販売が法的には禁じられているにも関わらず、黙認ないしは野放しにされている。(b) 薬剤の副作用、誤用に関心を持つ医師と、そうでない「二流の」医師がおり、後者は製薬会社からの情報だけをたよりに医薬品を患者に処方している。(c)薬 剤プロパー(visitador)が製薬会社からの情報のみを医者に提供している。(d)製薬会社の表示する指示、忌避と注意、副作用についての説明がラ テンアメリカ諸国の国々によってまちまちである。(e)民間の薬剤セールスマンが農村、都市を問わず住民に対して訪問販売をしている(Silverman 1976)。
また自己投薬行為を経済的批判から分析する視点(Pardo 1984)があるが、理論を実際のフィールドデータで充分に説明できていない。現代社会において病気に関わる医薬品が経済的商品であるように、健康が商品 化される。自己投薬行為についてメキシコにおける系統だった実態調査(CIESAS 1982)はこの枠組みをミクロな場で応用したものであるが、理論枠と現実のデータが解離して自己投薬行為の実態を掴むどころか、そのイメージを極めて複 雑で理解しにくいものにしている。これによると自己投薬行為は、医療の不足を補うと言う補完的機能仮説や、医療的疎外の一形態であると考えられている。こ れは従来の研究によくみられ、この行動が外的なもの、すなわち与えられた環境に消極的に適応したものであるという印象を付与しがちである。しかし本研究に おいては、住民のこの行動はむしろ積極的であり、この現象を支える文化構造についての考察が必要となる。
医薬品が導入された後、人々は西洋医学的な視点からではなく民俗的な思考の見地からその薬効を理解する。例えば調査地では下剤が大変重宝 されているが、下剤の使用は民俗的な病気、エンパチョ(empacho)と大いに関係する。これはこの地域のみならずメソアメリカ全域に浸透している消化 不良を伴う幅広い−時には相反することも稀ではない−症状をもつ。エンパチョはどの住民に聞いても「医師では治せない病気」で、特別なマッサージと下剤の 処方というステレオタイプの治療がおこなわれる。危険であるのは母親が脱水症状を伴う小児の下痢に対してこの病のカテゴリーをあてはめ下剤を処方すること であり、政府は経口補水塩(sal de la rehidracion oral)の普及を通してこの問題に取り組んでいるが充分な成果はあがっていない。それはエンパチョの治療が身体の「汚れ」を完全にきれいにするという住 民の医療的信条に則ったかたちで遂行されるからであり、さらに穏やかな薬草よりも強力な下剤が導入されるという近代化のジレンマに人々は苦しんでいるのだ と言えよう。同様に水に加えて飲用される清涼剤は、やはりメソアメリカに遍在する病気の原因に関する熱/冷二元論と深くむすびついて処方される。このよう に住民にとって治療選択として、伝統的民間療法と市販医薬品を平行しておこなうことはなんら矛盾しない。近代医学に基づく市販医薬品と民間医療の概念は、 近代医療の側に立つ人間が考えるような二律背反的な現象ではない。それは住民が治療手段を選択する時に、近代医学と民間療法のシステムの有効性の比較を検 討するのではなく、治療戦略が多元的に提示された中から自由に選び取っているのだと言うことを示唆している。
住民自らの知識を駆使して処方する文化的伝統のなかで自己投薬行為が普及する際、それは近代化社会のそれとは異なった過程をたどる。例え ば本調査地において、主要な薬草に関する知識は−呪術師で代表される−特定の専門家に独占されているのではなく、一般の人々に共有されている。そして病気 の際には各個人あるいは各家庭で薬草に対する固有の知識が実践に用いられる。そこで重んじられるのは、実際に試みられた薬草の経験的知識と口承に基づくコ ミュニケーションである。そうするとインディオの伝統的文化を失ったかに見えるグアテマラのプランテーション労働者達に見られる近代医薬品の導入に伴う急 速な自己投薬行為の定着(Cosminsky and Scrimshaw 1980)も、伝統的「薬草」に関する知識の吸収が「近代医薬品」に置き換わったものであり、知識の吸収という文化的な枠組みは温存されたままになってい るのではないかと理解される。勿論それに加速度をつけるのはラジオを中心とする医薬の宣伝効果である。ただ薬草と明らかに異なる点は、近代薬の誤用の問題 であり、市場経済の中で公的医療制度が商業医薬品に従属化される可能性である。我々が「住民の文化」の問題に無配慮なうちに自己投薬行為の社会的問題はま すます肥大化していくのである。
ホンジュラスの一農村での自己投薬行為についての調査を行った結果、次のことがわかった。(i)医薬品の購入に関する情報の入手はラジオ と住民間の情報伝達によっている。(ii)自己投薬行為は住民に対してかなりの経済的医療負担を強いる。(iii)民間療法と近代医薬品が併存する医療的 多元化(medical pluralism)が、他の多くのラテンアメリカ諸国と同様、本調査地でも見られた。このような現象に対して筆者は従来からの経済的視点からの指摘の他 に、文化的諸観点からの検討の必要性を示唆した。
リンク
文献
- 実践の医療人類学 : 中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開 / 池田光穂著,京都 : 世界思想社 , 2001
その他の情報