下痢性疾患と社会
Diarreal disease and the society of Mesoamerican Pesants
ドローレス人の民族解剖学(Ethno-anatomy
of the Dolores, Honduran mestizo
pasants)池田光穂『実践の医療人類学』
(2001)より(Amazonで購入)
コスモスとしての身体
身体は、人間生活を考える際に最も基本的な尺度である。それは、即物的な身体から、理念やイデオロギーとしての身体、あるいは宇宙(コス モス)としての身体まで、広大で奥深い領域を有する。
報告者は、この多様な身体の存在様式を〝消化管の異常」の徴候と考えられている「下痢」を事例にして考察する。そして、それが今日、メソ アメリカ社会の人びとの保健問題とどのように結びついているのかについて描写する。
他の地域の人類集団と同様、病気や身体について、古代メソアメリカ人も深い洞察力をもって観察していた、と推察されている。
古代マヤにおける疾病観は、宗教的ならびに道徳的観念と深く結びついていたことが指摘されている。例えば、疫病などの流行病を、性の乱 れ、罪、不服従などの原因に帰していた。『バカブスの儀礼書( Ritual de Bacabs )』には祭司-医師(priest-physician)が神に対して治癒を願う五十ほどの呪文が記されている。また、病気によっては、その原因を、敵の 意図や邪視といった外的なものによって、引き起こされたと考えた。マヤの神話・伝承を描いたポポル・ブフ(Popul Vuh)には、そのような病気の原因についての考え方をみることができる。
マヤの解剖観は、9世紀以降のメキシコ中央高地からのトルテカの侵入あるいは文化接触以降に、人体に対する解剖の知識の量が飛躍したとす る説がある。すなわち、メキシコ中央高地由来(と思われる)の人身供犠の儀礼が始まったり、それらに関する知識が流入したと考えるものである (Guerra,1964:38)。もっとも、解剖に関する医学的な知識も、古代のマヤがオリジナルに発展させた可能性も十分考えられ、解剖の知識がたん なるメキシコ中央高地からの文化伝播だけでは説明できないだろう。しかし、現在のところ、あまり詳しくは知られていない。身体の解剖学的な知識は、メソア メリカ全体の文化的複合という観点からも探究される必要があると思われる。
マヤの身体・解剖に関する知識は、古文書による資料だけでなく、植民地時代に修道士たちが、布教用に作成した語彙集などからも入手でき る。フランシスコ派修道士ペドロ・ベルトラン(Fray.Pedro Beltran)による18世紀以降に収集されたユカテク・マヤに関する語彙集(1746)は重要である。この語彙集の中には、150以上にわたる体表解 剖に関する言葉が収録されている。これらは、ロペス・アウスティンによって詳細に報告された、アステカ族のナワトル語による身体観に、充分比較検討に足る 有用なものであろう(L>pez-Austin,1980)。
では、現在のマヤの諸民族についてはどうであろうか?。
民族の固有かつ具体的な知識体系をエスノサイエンス(ethnoscience)という。エスノサイエンスにはその知識体系のジャンルに 応じて、さまざまな下位領域を設定することが可能であるが、人体の解剖(体表および内臓)の知識は、民族解剖学(ethnoamatomy)と呼ぶことが できるものである。
研究者は、個々の民族集団が共有する人体のしくみに関する知識、すなわち民族解剖学を通して、人びとが理解するミクロコスモスとしての身 体を理解することが可能となる。
我々の関心の中心にある下痢現象に関する、消化管や消化現象の民族解剖学的位置づけについて、グアテマラ高地のツトゥヒル (tzutujil)語を話すサンティアゴ・アティトランの人たちから得られた資料を紹介する(Douglas,1969:261-267)。
彼らは、諸臓器の配置と機能において、「胃袋、心臓、膀胱、および内臓」に中心的な価値をおいている。そして、それらの主要な臓器は相互 に関連していると、人びとは考えている。
胃袋(apam)は心臓と直結しており、消化された食物が直接心臓に流れ込んで、身体全体をかけめぐる。また、胃袋は体温調節をおこなう 主要な器官でもある。腹腔(abdomi- nal cavity/fosas abdominal/xpun)は別の種類の胃袋であると考えられているが、とくに大きな意義は与えられていない。腸(awuskuluj)は胃袋から肛 門へいたる消化物を貯めておく器官であり、口から胃袋に送られた空気は、胃袋の内容物を腸に送り出す作用がある。
これらのことから、彼らの抱く身体イメージは【図.1】のように描かれているという。
同じような身体イメージについて、インディヘナではない集団である、隣国ホンジュラス西部のメスティーソにおいて得られたものを【図. 2】に示す。サンティアゴ・アティトランの人びとの臓器のイメージに比べて、一般により単純化され、近代医学の解剖図に近づいたものになっていることが、 わかる。
このように、人びとの臓器に対するイメージを提示したのは、それらが病気の認識と深くかかわっているからである。この関係は、本報告にと りあげた「下痢」という病気においても、同様に指摘できる。
下痢の現実
このように下痢は人間にとって普遍的な病気あるいは症状であると言える。また軽微なものから生命を失うものまで、その病いの表情は極めて 多彩である。それゆえに歴史的文献に数多く記載されてきた。もちろん人間の生活が変わっても下痢が我々の身体症状から消えることはないだろう。中央アメリ カにおける下痢の歴史的および現在の記載について述べてみよう。
(1)歴史の中に記憶された下痢、「赤痢」
下痢は、古くから日常的な病気あるいは病気の症状(sintoma)であり続けてきた。とくに血液を伴う下痢は、古くは C>mara de sangre、後には disenter>a などと呼ばれて恐れられた。これらの病気が歴史的文献のなかに登場するのは、エスパーニャ人の使役が過酷であったために、インディヘナたちが病死してゆく ようすや、疫病によって都市が壊滅状態に陥ってゆく様が描かれるときである。
歴史に残る「赤痢」の流行の例として、16世紀後半のグアテマラのものが挙げられる。すなわち、アルタ・ベラパスでは、1561年から貢 納が始まるが、その人数は7千人を越えた、と言われている。しかし、その13年後には2千9百人、すなわち58%の人口が減少していた。疫病が流行した年 には2百名以上が死亡したといわれ、その病気は「赤痢」であったと報告されている(Tompson 1970:64)。
赤痢(disenter>a)を意味する、いろいろな用語によって、当時の人びとの消化管の異常の頻度が歴史的に高かった (Guerra 1964:39)。このことは、ロイ が歴史的文献から編集した『マヤ民族植物学』(“Maya Ethno-Botany")――病気別に利用された植物名と処方が書かれてある――のなかに記された、さまざまな消化管症状と、その治療に使われた植物 の多様さのなかにも窺い知ることができる(Roy 1976)。どのような記述にも、下痢と赤痢は、お互いに類似しているが、病気の種類としては、それぞれ別個のものであるとされている。
赤痢を、下痢から明確に区分し、より「危険」な病気または症状と見なしていることは、現在のメソアメリカの人びとも同様である。
ホーランドの報告しているチアパス高原のツォツィル語を話すインディヘナたちのあいだには、明確な伝統医療と近代医療の使い分けがある。 すなわち、彼らは、「伝統的な治療師」と国立インディヘニスタ研究所に所属する医師がいる「近代医療の診療所」を、その病気の種類や具合いによって区別し て、別個に利用している。そして、伝統的な治療者が病人を診て、近代医療の診療所の受診を勧めることが、しばしば見られる。すなわち、近代医療と伝統医療 は競合しているのではなく、傷病の種類や重症度によって、選択利用されている。このような、少なくとも2つ以上の医療システムが共存する、多元的医療シス テムは、他のメソアメリカ地域にも広くみられる。そのような状況の中で、マチェーテなどによる外傷や(インディヘナたちが言うところの)「赤痢」などの治 療には、伝統医療の治療よりも近代医療のそれが優っていると思われている(Holland 1963: 226)。
ツォツィルの人びとのようなインディヘナのみならず、ホンジュラスあるいはコスタリカのメスティーソなどでも、「赤痢」 (disenter>a)を重い病気とみなし、その治療に近代医療の選択が優先されることは広く見られる。「赤痢」という名称は、メソアメリカの長 い歴史のなかに、畏怖すべきものとして長く記憶されているのかもしれない。
(2)医療の対象としての下痢
下痢は、メソアメリカ、とくに村落部の住民にとって、馴染みのある日常的病気である。しかし、下痢は総じて、人びとの死亡の原因に結びつ くために、政府や保健省にとっては、おろそかにはできない問題になっている。
医療の対象としての「下痢」には、2つの側面がある。すなわち、症状としての「下痢」と、病気としての「下痢性疾患」である。下痢という のは、さまざまな要因で引き起こされる消化管の異常の症状のひとつである。従って、下痢の治療は、その原因になった疾患に対して行なわれるのが通常であ る。しかしながら、下痢は、身体に対して消化吸収障害や急性の脱水症状を起こさせるので、それらの症状に対する対処療法も重篤な患者や乳幼児にとっては重 要な治療の一環を形成する。
下痢性疾患は、今日のメソアメリカ地域の人びとのあいだでは、高い罹患率(morbili-dad)を示しており、乳幼児死亡率 (mortalidad infantil)の1位を占めている。【表1.;表.2】従って、その病気の克服は人びとの健康の達成にとって重要な課題となっている。国連の世界保健 機関(OMS;Organizaci>n Mundical de Salud)では、乳幼児と妊婦への予防接種(vacnaci>n)とともに、下痢性疾患の疫学的コントロールを、プライマリヘルスケア戦略の基本 戦術として位置づけている。
下痢の医療人類学
メソアメリカ地域全体におけるプライマリヘルスケアの推進にもかかわらず、下痢対策の政策的意義と、それを人びとに理解してもらい「住民 の自助努力によって下痢疾患対策を実現させること、との間には今までのところ大きなギャップがある。このような、「近代医療を提供するセクター」(以下、 近代医療セクター)と住民が、葛藤を起こした例を、1950年代のグアテマラに求めることができる。
公衆衛生の作業員が、グアテマラの村むらに、粉ミルクと栄養補給物資を導入しようとした時である。それらの栄養物資の配給に対して、共同 体の外からやって来たプロジェクトの人間たちが、村の子供たちに栄養を与え、子供たちを太らして食べようとしているのだ、と村の人びとは考えた。さらに、 その共同体では、人にはそれぞれに憑いているナグアル(nagual)という動物の霊がある、という伝統的観念があり、個人の性格や力量とナグアルの強度 には関連があると考えられていた。強力な力をもっているように思われたプロジェクトの人間のナグアルは、村人を食べてしまうほどのものであると考えられて いた(Adams 1955)。
別の例も、同じ時期にあった出来事である。そのインディヘナの村では、血液は更新されたり、再生することができないと考えられていた。血 液は、力の源泉であり、傷病によって失われると二度と回復できない、と思われていた。プロジェクトが計画した子供に対する採血が、村人の反対によって中止 されたことは言うまでもない(ibid.)。
下痢対策にも起こり得る、このような近代医療セクターと人びととのギャップを埋めるには、したがって次のようなことが最初に明らかにされ なければならない。すなわち、「日常生活を通して、人びとはどのようにして下痢を認識し、どのような対処をしているか?」と。このような問題意識をもっ た、いくつかの医療人類学的研究(Estudios Antropo- l>gicos M>dicos)が、現在までに試みられてきた。
下痢性疾患が、近代生物医学において説明されるように、伝統的な医療においてもさまざまな民俗的説明がなされる。
そのような住民―時には専門の施術師―による病気の説明体系は、民俗的病因論(etiolog>a folkl>rica)と呼ばれる。民俗的病因論は、現実的な対処、すなわち伝統的「治療」についての説明を構成する。そして同時に、それは伝統的 治療を正当化する際の根拠にもなる。
それゆえに、メソアメリカ地域のみならず、世界のいろいろな各地で調査をおこなう応用的な立場の医療人類学者たちは、まず、ある病気― ここでは下痢―についての民俗的病因論を知ることが重要になる。
そして、その次のステップとして、近代医療で確立した疾患―下痢―対策の手法を、伝統的な医療体系に組み込むことができるかにつ いて考察したり、それを実際の現場に還元させようと試みる。
下痢の民族誌
下痢の民俗的病因論を明らかにするためには、そもそも身体―とくに消化管―について、人びとはどのように考えているかということ が明らかにされる必要がある。
先に、例にあげた、サンティアゴ・アティトラン(Santiago Atitl>n)のツトゥヒル(tzutujil)語をはなすインディヘナの人たちの民俗解剖学に即して、彼らの消化(diges-tion)につ いての考えについて触れてみる。その際の説明は、消化に関する我々のいうところの「生理学的」説明の体裁を成しているので、民族解剖学におけるネーミング と同様に、これを民族生理学(etnofisiologia)と名づけてもよいかもしれない(Douglas 1969:268-270)。
サンティアゴ・アティトランの人びとにとって、食物はそのまま心臓に入り、血液となる、という。したがって、血液は身体を形成するもとで あると見なされている。その論理的な帰結として、食欲の減退は血液の生成の減退を招き、ひいては不健康な状態になることを意味するのである。よく食べるこ とが、健康であることを暗示する。
しかし、食べ過ぎもまた、危険なものと見なされている。彼らは、自分たちは食生活に関して「保守的」であると考えており、新奇な食物を試 みることは少ない。食事は、トルティージャ、フリーホレス、チレ、コーヒーと僅かの野菜(huisquil)である。肉は一週間に2度をこえることはな く、魚はときどき食されるのみである。
食物は、他のラテンアメリカの多くの地域同様、「熱いもの」と「冷たいもの」に分類される。食物のこの性質と、食べ物自体の温度の微妙な バランスが、食事には重要な意味をなす。
消化と回虫(寄生虫)の関係もまた重要である。人は生まれながらに、回虫をもって生まれると言われる。回虫が多いことも少ないことも、良 いことであるとは思われなかった。回虫は、食事の時間になるとその人に食事をすることを知らせるという。幼児の場合、回虫が増えることは、よくないことと 考えられた。余った回虫が身体の中を移動し、咳とともに出たり、鼻からでると考えられた。すなわち、一種類の回虫が身体に繁殖していたと考えられる。
胃袋をこえる回虫の繁殖には、下剤が処方され、その数を減らすことが試みられなければならない。特に子供には、一年に少なくとも一度は下 剤が処方された。理想的には、雨期に先立つ乾期の間で下剤を飲む必要があった。なぜなら、雨期になってしまうと、雷の光や音で、回虫がびっくりしてしま い、下剤を飲んでも胃袋の中に逆戻りするという言伝えがあったからである。
民俗的病因論(★→次章の内容と重複するので削除か書き換える/民俗病因論の理論的考察か何か?)
では、消化という現象から、さらに枠を狭めて、下痢という現象についてホンジュラスのメスティーソの人たちが説明する民俗的病因論につい て触れてみよう。
報告者や、別の地域でおこなわれた他の研究者(Kendall et al. 1984 )による調査をもとに、ホンジュラスにおける「下痢を引き起こす原因」について要約すると、およそ次のような要因にまとめられる。
(1)empacho
エンパチョは、広範な消化管症状を特徴とする病気である。その症状の中には、下痢と便秘という対照的なものも含まれるが、下痢を引き起こ した要因(=「病気」)として、しばしば登場する。その原因について、食事時間が不規則であったり、食物における「熱いもの」と「冷たいもの」の調和が乱 されたとき、など多様な説明がなされる。
エンパチョの下痢は、一般的なものとみなされているが、時には死を伴う重症になることもある。すなわち、頻繁な用便と(爆発的に出る)水 様の下痢である。下痢と便秘が交互に起こる場合もある。皮膚に特徴的な変化がでると同様に、満腹感があったり、腹が張った(鼓腸)感じがする。
(2)邪視(mal de ojo,ojo)
重症で死ぬこともある。下痢のほかに、発熱と眼が落ち込む。そのため眼が赤く張れることもある、という。親類、隣人、友人などによる妬み が原因とされ、病気の診断は「誰が引き起こしたか?」について問われることから始まる。しかし、ある種の人は、意識をしなくとも視線が強いこともある。子 供がその犠牲者になりやすいが、母親は、邪視から子供を守る必要があることが、しばしば強調される。
(3)落ちた「おどりこ」(ca>da de mollera)
病名が記述的用語になっている病気ある。下痢は、しばしば悪化する。乳児期の子供の泉門(fontanera)が開いていることを「おど りこ」が落ちて病気に発症すると考えられている。その原因を、母親が子供を落としたり、取り扱いが悪いことに帰して考えられている。
(4)ぬけ落ちた乳歯(ca>da del diente de leche)
子供の下痢の原因となる。母親がうっかりして、子供の乳歯(diente de leche)の抜け変わりに気づかないでおくと、その歯は飲み込まれ、下痢の原因になるというものである。
邪視、落ちた「おどりこ」、ぬけ落ちた乳歯、によって下痢になるのは、ほとんどが乳幼児である。これらの病気は、母親の不注意によって引 き起こされると考えられている。このことは、病気の原因を「母親は子供を注意深くケアする」という社会的道徳の違反に帰する点で、興味深いものになってい る。
(5)回虫(lombrices)
寄生虫。下痢のもっとも典型的な原因と考えられる。一般的であるために、あまり異常とは考えられていない。人びとは、ふつう腹の中には 「回虫」(lombriz)がいるものであると考えている。「回虫」が自分たちのいる袋を離れて、腹の中を移動しようとする際に、病気がおこる。駆虫剤や 下剤が、その治療に使われる。下痢の原因となる他に、発熱の原因にもなり、その際の発熱を「回虫の発熱」(fiebre de lombrices)とよぶ。
以上のような、ケースの報告は、医療人類学という学問的枠組み(marco t>orico)があって初めてもたらされたものではない。メソアメリカにおいては、おもに米国人を中心とする人類学者たちによる長年の民族誌 (etnograf>a)―残念ながらスペイン語には、その多くは翻訳されていないが―の膨大な蓄積がなされており、医療人類学もそれらの 民族誌研究に多くを負っている。また、いくつかの古典的な民族誌のなかに、今日の医療人類学の先駆的な調査ともいえるものが多数ある。
さて、多くのメソアメリカ社会における下痢性疾患の民俗的病因論を概観してみると、いくつかの特徴的な性格に気がつく。その代表的であり かつ組織的に調査されたグアテマラにおける報告が参考になろう【表.3】。これらのことを総合すると、メソアメリカにおいて―あくまでも大枠であるが ―、下痢の原因を説明するさいに、およそ次のような特徴があることが指摘できよう。
1、象徴的に「熱いもの」と「冷たいもの」のバランスによって、病気を説明する 原理(熱-冷二元論:dicotom>a de caliente-fr>o):【表.4】
2、エンパチョ(empacho)と呼ばれる独特な消化管症状の説明体系と治療法
3、寄生虫疾患に込められた豊富なイメージ
4、乳幼児にみられる下痢性疾患と母親のケアの因果的な説明
また、下痢性疾患に対する伝統的な治療法においては【図.3】に見られるように、多様な広がりをもっている。そのなかで、とくに特徴的な ものといえば、多様な薬草の利用【表.5】である。しかしながら、市販の工業医薬品が村落の隅々まで浸透するようになって、薬草処方に関する文化的伝統は 急速に失われようとしている。今日、薬草に関する知識の復活・保護や栽培事業の振興などが、地域住民のアイデンティティの「向上」や地元の内発的発展のモ デルとしてとらえられていることは、注目に価する。
下痢の象徴論
「病気になること」は、現実にも非日常な状態を引き起こすために、それが人びとに象徴的な意味づけを喚起させることになる。とくに下痢性疾 患の場合、視覚や嗅覚に強烈な印象を与え、そのイメージが人びとに喚起する作用も強力である。
下痢の伝統的な治療の際に、薬草や下剤、あるいは浣腸(enema)などを利用して「消化管をきれいにする」と人びとは説明するが、これ は現実的である以上に、象徴的な意義が大きいように思われる。
特に、浣腸のようすは、紀元後4から9世紀ごろの彩色を施した土器(cer>mica poli-cromada)に頻繁に描かれている。これは、人びとが、幻覚性薬物を直腸(recto)から吸収していたことを示唆する、という (Furst and Coe 1977; de Smet 1985)。このような技術は、消化管に対する深い関心と想像力がなくては、達成できなかったであろう。
エンパチョの治療に見られるマッサージなどの身体への物理的操作、サウナ風呂(es- tufa ;ba<o de vapor)を利用して下痢に処方することなどは、身体を実際的に清潔にするが、それ以上に「象徴的」に清潔にすると言えよう。
古代から現在に至るまで、メソアメリカの人びとの消化管症状(sintoma intestinal)に対する観察の深さは、その病気に対する実用的な知識以上に、人びとの身体感覚や宇宙観(cosmovisi>n)に至るま で影響しているものと思われる。
変貌する民俗的病因論
このような伝統的な治療概念も、今日のメソアメリカ社会における近代化のなかで「変貌」を遂げつつある。それを促進している要因として、
(1)世界保健機関や政府の保健省などが中心に行なっている公衆衛生プロジェクト
(2)村むらの隅々までゆきわたった多国籍製薬企業の医薬品
(3)代替技術(オルターナティブ・テクノロジー)を基調とする村落開発プロジェ クトにおける伝統的薬草の復権と新規の栽培事業
などの影響、が挙げられる。メソアメリカの医療システムの現状を概観する限り、その変貌のプロセスは複雑である。この地域だけにとどまら ず、他の世界の各地でも、こと医療に関する限りは、「未開な」ものが現代的なものに置き替わってゆく単線的な「近代化」の図式ではとらえらない。メソアメ リカの医療人類学においては、伝統的な資料の蓄積の上に、より動態的な現状の把握が要求されている。
応用的な傾向に彩られていた当初の医療人類学は、近代医療に基づく下痢性疾患の対策を伝統的な社会にどのように外挿するかに焦点を当て た。しかし、このような現象を前にして、我々はいくつかの点で再考を促されるにいたった。報告者は、これをメソアメリカ地域を対象とする医療人類学の課題 として提起してみたい。すなわち、(1)下痢に関する実用的知識の取扱い、(2)病気の認知とそれに対処する行動の理解、(3)知識と実践の相互交流、の 3つの点である。
(1)伝統的知の取り扱い、あるいは組み込みについて考察することの重要性
最初は、下痢に関する民俗的知識をどのように「近代的知識体系」として取り扱うかという課題である。
ある伝統的な社会における、下痢の対処行動や使用される有用薬物の知識には、現代社会のみならず、他の伝統社会への、近代医学的処方の代 替技術として還元するために有益なものも少なくない。
だが、その際、近代科学水準からみて、それにかなう現地の知識や技術体系を断片的に分析し採集する傾向があったことは否めない。下痢性疾 患など特定疾患に対して個別に罹患率(morbilidad)を下げることを目標にする「選択的プライマリーヘルスケア」(Atenci>n Primaria selectiva)は、この傾向をさらに強化する方向にある。
しかしながら、このような要素還元的に分析する科学は、薬草の活性物質を発見し、近代医学の処方に貢献したが、それは決して万能ではない と指摘する声が高い。
人類学が主張する「包括的な理解」(reconocimiento comprensivo)を、下痢性疾患対策にどのように生かしてゆくか、人類学者は新たな戦略を提示する必要に迫られている。
(2)政策上で予想される行動と実際の行動のギャップの把握
次は、病気の認知とその対処行動に関する理論研究についてである。
従来の近代化論に基づいた保健医療政策における課題は、近代的な知識や行動の基準を、いかに伝統的な社会に「伝達・注入」するか、というこ とであった。
そこで利用される方法論は、行動科学的な「啓発」と条件付けである。これは、医療人類学者が、闘争モデル(modelo de conflicto)とよんでいるものである。すなわち、現地の人びとの行動を変化させることによって、医療プロジェクトと現地の人びとが直面する、文化 的障壁(obstaclo cultural)を乗り越える、ということがその関心の中心にあった。
しかしながら、認知と行動の変容には複雑な過程が伴い、いまだに明らかにされていない多くの点がある。
例えば、世界保健機関(OMS)は、低開発地域における下痢性疾患対策として、乳幼児の死亡を食い止めるための経口補水塩(SRO ;Sal de Rehidrataci>n Oral)を普及・促進している。これは、下痢の際の急性期の脱水症状を改善するために開発されたものである。しかし、メソアメリカ社会の下痢の伝統的治 療では、「水分の補給」は原則として控えられ、「消化管をきれいにする」という治療法が根強く残っている。このような、治療法は、近代医薬品の村落地域へ の浸透とともに、人びとが利用する薬剤が「伝統的な薬草」から「強力な工業医薬品」へと変化した。このことが、幼児の下痢性疾患の脱水化をさらに促進さ せ、その死亡率を上げるという、悲劇的な変化をも引き起こしている。
このような拮抗する行動様式に対して、一方の価値体系を否定することなしに受容することができる方法について、さまざまな考察がなされて いる。すなわち、人びとが伝統的に共有する「現地の文化的知識」(conociminento nativo)を積極的に用いて、医療プロジェクトを成功を導くよう強化するような方法論である。これらは、先の「闘争モデル」に対して、「洞察モデル」 (modelo de penetraci>n)と呼ばれる。
しかしながら、伝統的な医療というものの実態が調査されるにつれて、次のようなことが明らかになってきた。すなわち、伝統的な知識体系と いうものは、不変に永続するものではなく、外的な影響を受けたり、内的な刷新のもとで、常に、ダイナミックにその内容を変え得るものである、ということで ある。
カリブ海のハイチでは、下痢対策のために導入された経口補水塩の普及は、呪術師あるいはシャーマンには受容されない一方で、産婆 (parteras)たちに受け入れられ、伝統的な産婆術(arte de parto tradicional)の中に組み込まれているという(Coreil 1988)。
このような、伝統的な知識の「捉えどころの無さ」と近代的な知識や技術体系とのダイナミズムを前に、医療人類学者が学ばねばならないこと は多数ある。
(3)医療人類学の研究・実践モデルとしての下痢研究の独自性
最後は、下痢性疾患の医療人類学的研究が、民俗的な実用的知識とその応用的実践の関係を探るひとつの「モデル」として位置づけられると言 うことである。
身体の変調としての下痢は、環境改善の程度に関係なくどの社会にも出現する。例えば、先進国における下痢現象は、感染 (contaminaci>n)における問題は乗り越えたが、薬剤の使用による腸内細菌叢(ambiente intestinal de los microbios)の乱れや、神経性の下痢(diarrea nerviosa)として観察される。それらは、また先進国がもつ、医療や社会上の問題を反映しているのである。
そして、メソアメリカをはじめ第三世界においては、下痢対策は現在まで重要な課題としてあり続けている。
「下痢」という現象は、人類が居住する地域にはあまねく存在しており、その通文化的比較や歴史的な検討も容易である。実践的で危急なテー マから一般的で理論的なモデルまで、下痢は、病気と人類の文化の関係を知る幅のひろい素材として我々に提示されているのである。
■クレジット:池田光穂「下痢性疾患と社会」
図表
図.1 サンティアゴ・アティトランの人びとの身体概念(ダグラス)
図.2 ホンジュラス西部の人びとの身体概念(池田原図)
表.1 グアテマラ共和国の病院・診療所に訪れた外来患者の主訴(世界保健機関)
表.2 ホンジュラス共和国における主な死亡要因と人口10万対の死亡率
(世界保健機関)
表.3 グアテマラの人びとによる「下痢」の民俗分類
(スクリムショーとウルタード)
表.4「熱いもの」と「冷たいもの」の二元的なシステムによる食物の分類
(ローガン)
図.3 「下痢」治療のタイプ(スクリムショーとウルタード)
表.5 下痢や赤痢に対する薬草(オレヤナより池田作成)