慢性医療人類学中毒
Chronic
Medical-Anthro Intoxication
対策本部長 光菱鎮忘斎
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(会場:拍手)
本日は、防犯、特に学問中毒から身を守る方法をめぐる一連の講演会の演者としてお招きいただいてありがとう ございます。私の略歴は、さきほどご司会の方からありましたので、早速本題に入らせていただきます
昨今流行している「癒し」ということのいかがわしさがどうも気になります。
まず歴史を検討しておきたいと存じます。
日本では昭和五〇年代の中頃でしょうか、にアンドリュー・ワイルなどの海外の動向紹介を通してこの言葉が登 場し ます。その際に、癒しは、近代医療の治療の特徴である要素還元的あるいは攻撃的治療に対抗する、全体論的あるいは調和的な治療を指し示す言葉であったよう に存じます。時はイヴァン・イリイチ『脱病院化社会』が馬鹿受けした時代である。余談ですが、イリッチの著作の原題は、「医療の限界」とか「医療の復讐」 となっており、近代医療そのものに対する怨念的呪詛を投げかける標題ですが、翻訳はまあ出版社もリベラル&ナチュラル系で、ご存じのように読者に希望を持 たせるタイトルだったのが印象的ですね。べつに訳者は反精神医学派の方ではなかったような気がしますが・・・
さて、要点をまとめましょう。自然治癒力という言葉と並んで、癒しは近代医療を批判する対抗的言説として華 々し くデビューしました。そのため癒しは、近代医療が予め到達することのできない領域における技術すなわちアートとして位置づけられたのは、当然でございま す。癒しを追及する人たちが、そのモデルとして求めたのは、シャーマンやヒポクラテスあるいはオスラーといった、どちらかと言えば神棚に奉っておけばよい ような偉人がなせる技であった。あははは・・・、シャーマンは職能の名前で、後の二人は実在した歴史もぜんぜん違う人ですね。ま、いずれにしても世間から 一目置かれている人たちであることは確かですね。癒しは技芸、それも技能者の身体や精神性と不可分なものとしての技芸なのです。癒しは、近代医療がもつ宿 痾を退治するためにやってきた幻影のヒーローみたいなもんです。癒しが神秘的用語である起源はここにあります。
しかし皮肉なことが起こります。というか、歴史には―無恥な唯物史観を未だに振り回す人は別でしょうけれど も― 必然性などはありません。皮肉しかありませんけど――これを自由主義史観に対抗して皮肉主義史観なんちゃって言うと、どこからかカーキー色の宣伝カーが やってくるかも知れませんので注意しましょう――クワバラ、クワバラ。
はい、また脱線しましたね。またまた皮肉が起こったところでした。癒しを近代医療の批判として利用する人た ち は、治療者の身体や全体性とは不可分の癒しを、分節化可能な――つまり要素として還元できる――ものとして分析しはじめました。これは何を意味するので しょうか? 簡単であります。癒しを近代医療の概念で説明するということなんですねぇ。設問のあるところには答えがある。これは、ガキの頃からドリルを やってきた我々の恒久の真理であります。
孤高で分解不能であった癒しというものが腑分けされその要素を再び組み立てられ怪しげなフランケンシュタイ ンが 作られたのです。それ以降、癒しは本来の道とは異なる堕落の道、つまり近代医療に奉仕する道を歩み始めます――あ、なんか「癒し」原理主義者みたいな発言 になりましたなあ。さてさて、癒しは患者本来が望んでいるもの、あるいは医療者は病気の治療だけではなく、患者を癒さなければならない、といった素人芝居 めいたスローガンが蔓延ったわけなんですよ。
このような現象の弊害は、「近代医療者」ではなく――というのはこの医療体系は治療のためならあらゆること を試 みて科学的にそれを裁定するという教条を旨とするパラノイア・パラダイムですかねぇ――近代医療者はその原因ではありません。むしろ、癒しの概念の可能性 と限界ときちんと見極めつつ公正な議論の俎上にあげようとしなかった、「癒し派」と言うべき、近代医療批判論者や代替医療支持者にその罪があります―― あ、また原理主義者みたいなこと言ってしまいましたねぇ。もちろん尻馬に乗り、ちゃっかり儲けた近代医療「従事者」もいる――例えば脳内革命とかですね、 いえ、金儲けは悪くないですよ、ただ、問題は近代医療のパラダイムを使って人を金を儲け人を騙したということですね――科学者の倫理にもとります。人を騙 してもいい、人を笑わしてもいい、人を不快にさせてもいい、しかし、それは無償の行為でなければなりません――あれ、マジで怒っちゃいました、ゴメンナサ イ。
しかしまあ、実際問題として癒し概念の病根は深いです。しかし情けないことに、今や明日の医療を担う医学生 も が、意味不明な「癒しの重要性」を叫ぶ時代になりました。これでは医学は、錬金術の時代に逆戻りしてしまう。暗黒時代の中世です。みなさんジルソンの本を 読まれましたか?――まあ、そんなことは書いてませんけど。しかし、まあ医学教育の現場に立つ人は戦慄を覚えないわけにはまいりませんねえ。
賢明なる皆さんはもうお分かりだと思います。癒しなどという意味不明な用語を弄する必要などありません ねぇ。近 代啓蒙の精神が必死に説いてきた「人間的な医療の実践」という用語があるではないですかぁ。癒しを使わなくとも十分説明可能なんですよ――ここが味噌です からもう一度言います。癒しなどという怪しげな言葉を使わなくとも十分説明可能なんですよ。「医療は骨の髄まで社会科学だ」と言うルドルフ・ウィルヒョウ は、常識的には医療の社会的実践性を説いたと理解されております――日米安保の頃にですねぇ社会医学者たちはこの言葉に勇気づけられてデモにでかけたんで すね――もっともなんとかの早とちりというか、その理解たるや歴史的社会的文脈の検討抜きの政治的スローガンにすぎませんでしたけどねぇ。
だがですよ、皆さん、ここでは、医学者は社会科学者たるセンスもまたしっかりと訓練される必要があり、教育 者は 論理的かつ批判的である科学の精神をもつ医学生を世に送りだすべきだいう教示であると私は理解したいですね。ウィルヒョー翁が生きていたらですね、そう 言ったんじゃないかと思うんです―まあこれも勝手な思いこみですけどねぇ。
癒し概念の変節の歴史を眺めると、軒を貸す近代医療もまたうかうかとはしておられないような気持ちがする今 日こ のごろであります。いや、あるいは近代医療は内部から自己崩壊を起こして「もう死んでいる」のかも知れませんね――北斗の拳の下手巧は私の趣味ではありま せんが罵倒の文句はイカしますね。まあ、みなさんには脳死患者を脳死体としたように・・・というブラックジョークで締めくくるほうが、この講演の締めには ふさわしかったりして(笑い)。
(会場:拍手)
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
平成X年X月X日コロニアル・ホテル「誹謗の間」での講演をそのまま収録