On Affaire Dreyfus
ドレフュス事件
1)1894年7月20日 マリー=シャルル=フェルディナン・ワルシン・エステラージ少佐は、パリ駐在ドイツ大使館附武官マクシミリアン・フォン・シュヴァルツコッペンに面会を申し入れ、フランス陸軍に関わる機密情報の売却を持ちかける。
2)エステラージ少佐とシュヴァルツコッペンの間で、複数回の面会と書面の交換がおこなわれる。
3)120ミリ砲制動機使用法等「数日中に入手見込み」軍事情報が書かれたエステラージ作成の1通の手紙が、6片に破られて・シュヴァルツコッペンの屑篭に捨て置かれる。
4)ドイツ大使館の掃除婦を装ったフランス側のスパイであるバスティアン夫人が、焼却処分を装いその屑篭の中味を、拾い出す。
5)同年9月26日バスティアン夫人は、フランス陸軍参謀本部統計局に中味を委ねる。
6)統計局内でスパイの実務を引き受けていたユベール=ジョゼフ・アンリ少佐は、この文書を「明細書」と名付けて、翌9月27日、局長ジャン・サンデール大佐に実物を示し報告する。
7)その場にいたマトン大尉は、明細書の中味から、明細書の書き手は、参謀本部内の砲兵士官である可能性を示唆する。
8)サンデールは、9月27日のうちに、参謀次長ルヌアールを通じて、陸軍大臣メルシェに事実関係を報告する。メルシェは真相究明を指示。
9)9月28日以降の数日間に、ルヌアール、サンデール、アンリによる内偵がすすむ。
10)明細書の筆跡を調べ、写真版を作成し、部署の局長級に配布し、同様の、類似書類がないかの作業を依頼する。
11)10月5日までは、なんの進展もなかった。
12)10月6日。同日に着任した参謀本部第4局次長ダボヴィル中佐は、局長ファーブル大佐に対して、容疑者の可能性について独自の自説を披露する(同日昇進の勇みがあったのではないか言われる)。それは、「明細書」の内容が、ひろく局内の情報に分散していたために、自由に局内(第1〜4局まである)に出入りできるのは、参謀本部付きの研修生であると。
13)ファーブル局長は、過去4,5名の研修生を受け入れており、個別に評価を認めている。
14)ファーブル局長の予見は、前年1893年の下半期で第4局で研修を受けて、当時大尉であったアルフレッド・ドレフュス大尉を焦点があてられた。
15)その理由は、ファーブルの評価がドレフュスに対して低いものであることにつきた(後に裁判に証拠として文書が提出される)。評価書の記述 「士官として欠陥あり。知力、才気ともに申し分なきも、矜持に満ち、性格、良心、勤務態度の面で参謀本部に配属されるための条件を満たしておらず」(菅野 2002:9)。
16)しかし、このファーブルの評価書は、部下で研修生の指導に関わるロジェ中佐とベルタン=ムロー少佐の報告をそのまま鵜呑みにしたものであった(破毀院, 2:41)。また、ベルタン=ムロー少佐は、自らのユダヤ系出自(母方)を気に病みそれを忘れ去るかのように反ユダヤ言説を標榜す。
17)ファーブル局長に取り入ったダボヴィル中佐は、「明細書」の筆跡と、ドレフュスの筆跡が類似であることを多数の文書から「確信」するに至る。
18)ファーブル大佐は、参謀総長ボワデッフル将軍、参謀次長ゴンス将軍に、ダボヴィル中佐の調査結果を報告する。
19)同時に、ドレフュスの名と履歴は、陸軍大臣メルシェ、統計局長サンデールにも報告される。サンデールは額を叩き「そんなことだと思っていた」と叫んだ(レンヌ再審 1:578)。メルシェ将軍は、ドレフュスと自分がアルザス(Alsace, Elsàss, Elsäß, Elsass)出身であることに「身の毛のよだつ思い」をしたという。
20)サンデールの口からはこの件に関して「ユダヤ人」という言葉が頻出する。
21)ダボヴィル中佐とファーヴル(ファーブル)大佐の筆跡鑑定だけでは説得力に欠けると判断したメルシェ将軍は、参謀本部内に筆跡分析に心得ある部下を探し、参謀本部第3局のアルマン=オーギュスト=シャルル=フェルディナン=マリー・メルシェ・デュ・パティ・ド・クラム少佐を指名する。
22)1894年10月6日夕刻、デュ・パティ少佐は、ゴンス将軍のもとに呼ばれ、「明細書」と名前を付したドレフュスの筆跡をみせられ、その間に「一致」があると証言した。ゴンス将軍は直後に、デュ・パティ少佐にその筆跡はドレフュスのものだと告げられる。
23)翌10月7日は日曜だったが1日がかりで鑑定作業をおこない、完全な一致はないものの、司法鑑定として一致を結論づけるだけの類似性はあると、報告書を作成する。
24)10月8日から11日までの4日間は、政界工作に費やされる。メルシェ将軍が会談を重ねたのは、パリ軍事総監ソーシエ将軍、共和国大統領カジミール=ペリエ、首相デュピュイ、法務大臣ゲランら。とくに、外相アノトーは、ドイツ帝国との一大外交事件にならぬように「明細書」以外の確実な情報のさらなる提出を求めたという。
25)10月12日、メルシェ将軍は、法務大臣から推薦されたフランス銀行専属筆跡鑑定士アフレッド・ゴベールを陸軍に召喚するよう依頼。拡大写真等を手渡される。ボワデッフル参謀総長に呼び出されたデュ・パティ少佐は、司法警察史として事件にあたるよう命令される。
26)10月13日(土)午前、ゴベールは鑑定の結果「明細書の筆跡とドレフュスの筆跡は一致せず」と結論づける。同時に、同じ鑑定依頼をうけたパリ警察司法人体測定課アルフォンス・ベルティヨンは「偽造の形跡はあるが、ふたつの筆跡は完全一致」の結論を出す。
27)10月13日(土)午前の同時期に、ドレフュスの自宅には、週明けの10月15日平服にてボワデッフル将軍の執務室に出頭せよとの命令がくだる。
28)10月14日(日)ダボヴィル中佐は、重罪被告人の準備をせよと陸軍監獄司令に書き送り、デュ・パティ少佐は、警察庁と協議して逮捕と尋問のシナリオを準備する。
29)10月14日(日)夕方、メルシェ将軍を囲んで最終打ち合わせがおこなわれる。デュ・パティ少佐は口実をつけてドレフュスに「明細書」に似た文面を書かせて、心理的動揺を与えて逮捕するというシナリオを開陳した。また、ドレフュス当人の自決を想定し提案したデュ・パティ少佐は、メルシェ将軍の無言の頷きにより、弾1発を込めた回転拳銃(リヴォルバー)をさりげに被疑者の近くに置く、という段取りまで整えた。
30)ドレフュスは、平服にて、10月15日午前9時に出頭。種々のやりとりがあり、逮捕の宣言があり、ドレフュスは無罪を主張する。
31)1894年10月15日ドレフュス大尉は、シェルシュ=ミディ陸軍監獄に収監される。ただし、この事件はすぐには報道されなかった。
ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵(官位剥奪式で剣を折られるドレフュス=左側)"The traitor: Degradation of Alfred Dreyfus, degradation in the Morland Court of the military school in Paris"
1894 「反ユダヤ系の新聞「自由言論」がすっぱ抜きで大々的に報じ、ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っていると論じて、軍部の優柔不断を糾弾」(ウィキ、以下同様)
1895? 「軍上層部は、証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに「有罪」の判決を下し、南米の仏領ギアナ沖のディアブル島(デヴィルズ島)に終身城塞禁錮とした」(ウィキ)
---- 「ドレフュスは初めから無罪を主張しており、彼の誠実な人柄から無実を確信した妻のリュシーと兄のマテューらは、再審を強く求めるとともに、真犯人の発見に執念を燃や」す。
1896 情報部長に着任したピカール中佐は、真犯人はハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステラージ少佐であることを突き止めた。しかし、軍上層部はフランス陸軍大臣のシャルル・シャノワーヌが再審に反対[2]したように軍の権威失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールを脅して左遷、形式的な裁判でエステラージを「無罪」とし釈放した(エステルアジはイギリスに逃亡し、そこで平穏な生涯を終えた)
1898 「1月13日号の新聞「オーロール(フランス語版、英語版)」紙は、一面に「私は弾劾する」(フランス語: J'accuse)という大見出しで、作家のエミール・ゾラによる大統領フェリックス・フォール宛ての公開質問状を掲載した。その中でゾラは、軍部を中心 とする不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾した。」
---- 「世論は沸騰し、それまで細々と続けられてきたドレフュス支持の運動が一挙に盛り上る一方、各地でユダヤ人迫害事件が頻発した。ゾラ も名誉毀損で告発されて有罪判決を受け、一時はイギリスへ亡命を余儀なくされた。ドレフュスらの再審を求める勢力はフランス人権同盟[3]を結成して、正 義と真理、自由と平等を唱え、軍国主義批判を展開した。反対派、反ドレフェス派はフランス祖国同盟を結成して国家の尊厳を力説」
---- 「こうして事態はドレフュス個人の事件から、自由と民主主義・共和制擁護か否かの一大政治闘争の色彩を帯び始め、フランス世論を二分 して展開された。その後、ドレフュスの無実を明らかにする事件(彼の有罪の証拠となったものが、偽造されたものであることが判明)が続いたため、軍部は世 論に押されてやむなく再審軍法会議を開いた。しかし、ドレフュスの有罪は覆されなかった」
1906 「ドレフュスは時の首相により特赦で釈放されたが、その後も無罪を主張し続け、1906年、ようやく無罪判決を勝ち取って名誉を回復
することとなった。ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派が、その後のフランス政治の主導権を握り、第三共和政はようやく相対的安定を確保すること
ができた。」
【設問】
1.
2.
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文献
Mitzub'ixi Quq Chi'j
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