Tachibana Akemi, Tachibana-no Akemi, 1812-1868
「独楽吟(どくらくぎん)な どで有名:橘 曙覧(たちばな あけみ、文化9年(1812年)5月[1] - 慶応4年8月28日(1868年10月13日))は、日本の歌人、国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。/越前国石場町(現・福井県福井 市つくも町)に生まれる。生家は、紙、筆、墨などや家伝薬を扱う商家で[2]、父親は、正玄(正源とも表記)五郎右衛門[3]。曙覧は正玄家(木田橘家七 屋敷のひとつ)[4]の第六代目で、名は五三郎、諱は茂時[5]。後に、尚事(なおこと)、さらに1855年安政元年、43歳の時曙覧と改名する[6]。 橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し[7]、そこから国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられた。/2歳で母に死別、15歳で父が死去。叔父 の後見を受け、家業を継ごうとするが、嫌気をさし、28歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学ぶなどする。その後、飛騨 高山の田中大秀に入門し、歌を詠むようになる。田中大秀(Oohide TANAKA, 1777-1847)は、本居宣長(1730-1801)の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもら い、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続ける。門弟からの援助、寺子屋の月謝などで妻子を養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁し ていたが、37歳の時、三ツ橋に住居を移し、「藁屋」(わらのや)と自称した。43歳の時、大病をし、名を曙覧と改めた。/1858年、安政の大獄で謹慎 中の松平春嶽の命を受け、万葉集の秀歌を選んだ。曙覧の学を慕った春嶽は、1865年、家老の中根雪江を案内に「藁屋」を訪れ、出仕を求めたが、曙覧は辞 退した[8]。/1868年(慶応4年)8月死去。明治に改元される10日前であった。」ウィキ「橘曙覧」
1796 ジェンナーの牛痘接種
1809 笠原良策(白翁)足羽郡深見村(福井市深見町)に生まれる。父は漢方医の笠原竜斉。
1812 越前国石場町(現・福井県福井市つくも町)に生まれる
1813 母・鶴子他界(享年23歳)
1824 笠原良策・藩医學所済世館に入る。後に、1829年江戸の磯野公道に師事して漢方(古方派)を修める。
1832 曙覧21歳、妻・直子17歳で、結婚
1832?-33? 笠原良策、福井城下で開業。
1836 長女が生まれるが夭折。中根雪江(せっこう)、笠原白翁(はくおう)らと国学を学びはじめる。
良策は山中温泉で大武了玄と知己になり蘭方への関心を抱く。
1839 28歳、黄金舎(こがねのや)で隠遁(家督をゆずり隠居)
ca.1839 西洋医学を志し京都の日野鼎哉に蘭学を修める。鼎哉は16歳の娘に種痘をおこなう。京都三条北に種痘所を構える。
1844 2月 三女・健子(たけこ)逝去/8月 本居宣長の門徒田中大秀に入門
1848 福井市三ツ橋(現在の照手二丁目)に転居し、その住居を「藁屋」と称す。
『藁屋詠草』(わらやえいそう)[11]長歌のみ15首。『藁屋文集』(わらやぶんしゅう)1898年明治31年[12]。原稿は焼失しているが、福田菱州の写本が存在。
1849 良策は、松平春嶽の援助を得て、日野鼎哉と協力し嘉永2年長崎から病痘を入手する。(後に『牛痘問答』)。その後、北陸内に種痘が流通するようになる。良策は1851年に除痘館が出来る前に自宅前に種痘所を設置し,種痘をはじめる。
1849 同年、緒方洪庵は大阪道修町開業の日野葛民(鼎哉の弟)を伴い、鼎哉を訪問し、(種痘をおえた子供を連れて)分苗を懇請する。良策は大阪に於ける「分苗 の儀式」を「白神記」に克明に記す。白神とはVaccin[蘭語] を「はくしん」と発音したことにより、良策は白翁と名乗ることになる。
1850 嘉永三年 「拝除痘神詞」を良策のために認める(画像かここをクリックで拡大)(打越 2002:158-159)。出典は、岩波書店版『橘曙覧全集』(1927:164)
1851 嘉永四年 福井に、除痘館が開設。
1855 それまで尚事と名乗っていたものを曙覧と改名
1861 9-11月 伊勢神宮参拝、元居宣長の墓参などの旅に出る。
『榊の薫』(さかきのかをり)1861年文久元年[13]9月2日から10月10日に行った伊勢神宮参拝などを記した旅行記。
1868 死去
1878 『志濃夫廼舎歌集』(しのぶのやかしゅう)1878年明治11年木版にて出版[10]。短歌のみ860首。編者は長男、井手今滋(いましげ)
1879 孫、井手薫(1878-1944)生誕。薫は日本統治時代の台湾で活躍した建築家。
1880 白翁8月23日に死去。
1894 白翁の門人、大武又玄が同門の協力を得て笠原白翁碑を建立(福井市足羽上町111)。
1899 正岡子規『日本』紙上に発表した「曙覧の歌」
源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛し、「墨汁一滴」において「万葉以後において歌人四人を得たり」として、源実朝・田安宗武・平賀元義とともに曙覧を挙げた。
1927 岩波書店版『橘曙覧全集』/窪田空穂は、江戸時代を代表する「万葉風の歌人」と褒め称える(打越 2002:149)/相馬御風『曙覧と愚庵』
1934 折口信夫編『曙覧の研究』高遠書房
1941 折口信夫『橘曙覧評伝』教学局
1943 辻森秀英『曙覧』有光社
1944 浅野晃『橘曙覧』大日本雄弁会講談社。
1945年以降 辻森秀英(1995)は、戦争中に勤王歌人と呼ばれ、敗戦後は忘れかけられたという(打越 2002:143)が、辻森自身がそれを煽ったことについては自己反省していない。
1971 久米田裕 『橘曙覧の研究』 柊発行所、1971年
1973 百周年記念誌編集委員会 『足羽小学校百年誌』 百周年記念事業実行委員会、1973年
1980 天然痘根絶宣言(WHO)
1994 6月、天皇皇后の訪米中にビル・クリントン大統領(当時)が、独楽吟五十二首中の九番目の歌を紹介(打越 2002:142-143)し、そのニュースを知る、福井県は大騒ぎになる。同県知事はクリントンに親書を認め、同大統領より返礼。クリントン(ないしは 彼のスピーチライター)は、ドナルド・キーンによる曙覧の和歌の英訳のアンソロジーを参照にしたと思われる。
1995 辻森秀英『完本橘曙覧歌集評釈』明治書院。
2000 福井県福井市の愛宕坂の旧居「黄金舎」跡に顕彰施設である橘曙覧記念文学館が開館した。
2002 『橘曙覧入門』,福井市橘曙覧記念文学館編,2002年
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晩年の橘曙覧(『橘曙覧書簡集』口絵より)