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アンシュルスあるいは独墺合邦

Anschluß; Der Anschluss Österreichs an das Deutsche Reich

池田光穂

アンシュルス(独: Anschluß; Der Anschluss Österreichs an das Deutsche Reich)は、1938年3月12日にナチス・ドイツがオーストリアを併合した出来事を指す語で、日本語では独墺合邦(どくおうがっぽう)、オーストリ ア併合(-へいごう)等と訳される。本来の「アンシュルス」「Anschluß(1996年ドイツ語正書法改革以降の表記:Anschluss))」は 「接続・連結」を意味するドイツ語の普通名詞であったが、ナチスの言語の影響から固有名詞化したドイツ語や他の言語においては1938年のドイツによる オーストリア併合を指すようになった。ドイツとオーストリアを合邦する政治構想は、第一次世界大戦敗北にともなうオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊直後 から登場していた[1]。だが、周辺諸国からの圧力によって1920年代には合邦構想が進展せず、1930年代にナチス党が実施した対外・対内政策の結果 として実現した。そのため、第二次世界大戦が勃発するとアンシュルスの政治的正統性は連合国から否定され、連合国軍のオーストリア占領と共にアンシュルス は終焉を迎えた(以下もすべてウイキペディア日本語「アンシュルス」の情報 である)。

1848

国民国家としてのドイツ統一は、1848年革命に よってドイツ民族のナショナリズムが高揚する中、憲法制定を通じた自由主義的なドイツ統一を図るフランクフルト国民議会において、初めて具体的な実現方法 を討議された。だが議会では、多民族国家であるオーストリアを排除した統一国家をとりあえずつくるべきだという「小ドイツ主義」と、オーストリアを含めた 全ドイツ語圏の国家統一を目指す「大ドイツ主義」が対立し、自由主義への反動や各領邦の利害対立も相まって、統一に関する実行可能な合意を得ることができ なかった。

1866

その後、ドイツ連邦内でいち早く強国となったプロイ センは、自らが完全に主導権を掌握できる「小ドイツ主義」での統一策を推進し、1866年の普墺戦争でオーストリアに勝利するとドイツ連邦を解体して新た に自らを盟主とする北ドイツ連邦を新設した他、バイエルン王国等のドイツ南部諸国と同盟関係を結んだ。

1871

1871年の普仏戦争でプロイセンがフランスに勝利 すると、ヨーロッパ大陸で軍事的にプロイセンに対抗できる国が存在しなくなった。この結果、同年中にプロイセン国王はドイツ皇帝となり、オーストリアを除 く統一国家ドイツ帝国(ドイツ国)が誕生した。

1918

1918年、第一次世界大戦に敗北してドイツ帝国と オーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊した。民族自決による旧オーストリア帝国領内の諸民族の独立は、2つのドイツ人国家間の主導権争いと非ドイツ系民 族の問題を解消させることとなり、再度「大ドイツ主義」によるドイツ統一の希望を抱かせることになった。特に工業生産力の高いチェコの独立はオーストリア 共和国を経済的に脆弱にし、経済的な自立は極めて困難と考えられ、ドイツとの合併以外には生存方法はないと考えられるようになっていた。

11月に成立したオーストリア第一共和国の臨時国民 議会ドイツ系オーストリアはドイツ共和国の一構成部分であるという決議を全会一致で行い(この点に関してのみは右派も左派も一致した見解であった)、オー ストリア社会民主党のカール・レンナー首相も講和の条件としてこの問題を取り上げた。

1919

1919年7月31日にヴァイマル共和政下のドイツ で採択されたヴァイマル憲法にも、将来のオーストリアと併合をほのめかす条文があった[2]。フランスやイタリアなどは、ドイツとオーストリアの合邦はド イツの強国化を招くとして反対した[3]。一部には「民族自決は敗戦国にも当然の権利として許されるのではないか」とする意見もあったが、結局ドイツと オーストリアの合併は認められなかった。

6月28日のヴェルサイユ条約80条、9月10日の サン=ジェルマン条約88条[3]によって合邦の禁止は明文化された。

オーストリアは1919年に死刑を廃 止していたが、1938年にドイツに併合されると再び死刑制度が復活した。死刑制度廃止以前には絞首刑が行われていたが、併合後はドイツ式のギロチンによ る死刑が行われるようになった。併合されていた間の死刑執行件数は過去200年分を上回るほどになった。死刑制度は、戦争犯罪者を処刑するために連合軍軍 政下でも残り、新たに任命された死刑執行人を教育するためにイギリスからアルバート・ピアポイントが呼ばれた。この時期の死刑は絞首刑に戻り、1950年 6月30日に再度死刑制度が廃止されるまで行われた。最後の死刑囚は、強盗殺人で有罪となり、1950年3月24日に刑が執行されたヨハン・トルンカ(ド イツ語版)であった。

1920年代

1920年代のオーストリアはキリスト教社会党を率 いるイグナーツ・ザイペル(イエズス会聖職者)と同党の支持を受けた官僚のヨハン・ショーバー(ドイツ語版)(元ウィーン警察長官)の2人の指導者が、交 互に政権を交代しながら、オットー・バウアー率いるオーストリア社会民主党と対峙するという時代が続いた。世界恐慌の余波を受けた総選挙で社会民主党が台 頭し、弱体したキリスト教社会党政権で外相として入閣していたショーバーはドイツとの関税同盟(輸出入関税の廃止)によってドイツとオーストリアを一体と した経済圏とすることでこの危機を乗り越えようと考え、ドイツ側の了承も得て秘密交渉を続けていた。

1922

連合国はオーストリアが独立を維持できるための措置 も取り、1922年10月4日、国際連盟の斡旋でオーストリア首相イグナーツ・ザイペルと4ヶ国(イギリス・フランス・イタリア・チェコスロヴァキア) は、ジュネーヴ議定書を締結した。これによりオーストリアは6億5000万クローネ(3000万英ポンド)の国際借款を得た。しかし「(オーストリア政府 は)独立を直接ないし間接的に危険にすると考えられるいかなる交渉も、いかなる経済的ないし金融的義務も持たない」という条件がつけられ、アンシュルスに つながる可能性のある経済的結合も禁止された[3]。

国際条約では禁止されたものの実際の政策では独墺間 で法律・税制・交通・通信などの共通化政策が進められ[4]、両国においてアンシュルスを求める動きは残っていた。

1925

1925年に設立されたオーストリア=ドイツ民族同 盟(独: Österreichisch-Deutsche Volksbund)やオーストリア=ドイツ活動共同体(独: Österreichisch-deutsche Arbeitsgemeinschaft)はその代表格であり、独墺両国にまたがるアンシュルス運動を行っていた。

1931

3月、この(独墺の経済一体構想の秘密交渉[上掲 1920年代参照]の)ニュースが新聞によって洩らされると、国内ではオーストリア政府と敵対する社会民主党や護国団までが賛同の意思を表明するなど、支 持が広がった。しかしジュネーヴ議定書4ヶ国のうち、フランス・イタリア・チェコスロバキアがこれを「経済的な合併」、即ち実質的なアンシュルスと見なし て議定書違反であると抗議した。オーストリアとドイツは合併ではなくリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの唱えた「汎ヨーロッパ主義」に基づくものと 反駁した[5]。この問題は国際連盟の理事会や国際司法裁判所に諮られることとなったが、それ以前にフランスが大規模な経済制裁を発動し、これがきっかけ に5月8日オーストリア最大の銀行である「クレジット・アンシュタット」が破綻した。これがヨーロッパにおける恐慌を一層激化させることを恐れた他のヨー ロッパ諸国の奔走によって、3億シリングの追加借款案が提案され、その結果9月3日ショーバーは同盟交渉の断念を発表したのである。

だが、この結果ショーバーはこの混乱下で社会民主党 や護国団を加えた挙国一致内閣を組織しようとして失敗したザイペルとともにキリスト教社会党の保守派から糾弾を受けて失脚してしまった。代わってキリスト 教社会党の指導的立場にたったのは、ザイペルの直弟子を自称する若きエンゲルベルト・ドルフースであったが、社会民主党が関税同盟交渉の失敗を政府の弱腰 外交に帰したために2大政党の関係はもはや修復不能の状態となり、新たな勢力であるナチズムの台頭を促すことになった。

1932

ドイツにおいて多くの国民から支持を受け、議席およ び勢力の拡大を続けていたナチス党の活動はオーストリアにも波及してきた。1932年の地方選挙において、「オーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党 - ヒトラー運動(ドイツ語版)」[6](オーストリア・ナチス)は既存の右派集団である護国団を上回る実力を見せ、一方護国団の一部が暴走してクーデター計 画を立てて失敗したことによって、保守的・反共的な思想の人々の支持が急速にナチスに移りつつあった。

1933

1933年、ドイツで(オーストリア生まれの)ヒト ラー政権が誕生すると、その支援を受けたオーストリアのナチス党員が公然と暴力によるオーストリアの政権奪取とドイツへの併合を主張し始めた。6月19日 にはクレムス・アン・デア・ドナウで手榴弾攻撃が行われたことによってオーストリア・ナチスとその関連団体は禁止された[7]。

1934

 キリスト教社会党と護国団を基盤とした ドルフース政権は1934年の2月内乱をきっかけに、オーストリア社会民主党とナチスの弾圧に動いた。そして、いわゆるオーストロファシズム体制と呼ばれ る一種のカトリックの権威に基づいた権威主義体制を打ち立てた。これには、ドイツと友好的な関係を持ちつつも、ドイツによるオーストリア併合に反対するイ タリアのムッソリーニの支援があった[8]。また、ハンガリー王国のゲンベシュ・ジュラ首相もドイツ・オーストリア・イタリアを調停する動きを見せていた が、あくまでオーストリア・ナチスの解禁とドイツによるアンシュルスが行われないことを前提としていたものであった[8]。

6月12日、ヒトラーはムッソリーニとの会談でアン シュルスは差し迫った問題ではないと釈明する一方で、反ナチスであるドルフースは替えるべきであると述べたが、ムッソリーニは拒絶した[9]。

7月25日、オーストリア・ナチスは首相官邸を襲撃 してドルフース首相を殺害し、親ナチス派アントン・リンテレン(ドイツ語版)元文相の組閣を要求するクーデターを起こした。このクーデターはヴィルヘル ム・ミクラス大統領から全権を委任されたクルト・シュシュニック教育相に鎮圧された。オーストリア国内にはナチスへの嫌悪感が高まり、却って今まで国内に 存在していた「ドイツとの合併」論を吹き飛ばしてしまった。また事件が発生した直後、イタリアは国境地帯に4個師団を集結させており、ドイツの介入を牽制 した[10]。ムッソリーニのヒトラーに対する心証も悪化し、ヒトラーを口を極めて罵っている[11]。ヒトラー自身はこのクーデター計画を知らされてお らず、オーストリア・ナチスの指導者であったテオドール・ハビヒト(ドイツ語版)を解任し、首相経験者でカトリック教徒でもあったフランツ・フォン・パー ペン副首相をオーストリア公使に任命し、事態の収拾に当たった[10]。

1935

国際情勢は推移し、ドイツ側に有利な情勢となった。 1935年に英独海軍協定が結ばれて以降、イギリスはヒトラーとの「宥和政策」を外交の基本路線とするようになった。イタリアもまたエチオピア侵攻による 国際的な孤立から、ドイツと協調するベルリン・ローマ枢軸路線に転換し、オーストリア問題から手を引きつつあった[12]。これを好機とみたヒトラーは シュシュニックに対して攻勢に出た。

1936

7月11日、独墺協定が結ばれ、表面上はドイツはオーストリアの独立を認めるとしながらも内実 はオーストリア・ナチスへの恩赦と政治参加を容認させるものとなった。さらに護国団の指導者であるエルンスト・シュターレンベルクがこの協 定に反対すると、11月にシュシュニックは護国団を解散させた。

1938

2月12日にベルヒテスガーデンでヒトラーとシュ シュニックは会合を行い、ヒトラーはオーストリアを保護下に置くための幾つかの要求を行った。ヒトラーの要求は到底受け入れられるものではなかったが、結 局シュシュニックは2月18日にオーストリア・ナチスに転向していたアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命する。だが、既にオーストリア国 内ではオーストリア・ナチスが公然と政府打倒とドイツへの併合を求める動きを開始していた。

シュシュニックには、奥の手として暖めておいた秘策 があった。それは国民投票を実施してオーストリア国民に「ドイツとの合併」か「自主独立」か選択させ、正面からヒトラーの要求を拒絶することであった。ド ルフス前首相暗殺以来のドイツ側による様々な圧力に国民の反感が高まっており、実施されれば「自主独立」の選択が確実であった。更にかつてドルフスが非合 法化したオーストリア社会民主党とも極秘に交渉し、国民投票への協力と引き換えに非合法化の取消を約束した。

これを知ったヒトラーは激怒して国民投票の中止とザ イス=インクヴァルトへの首相職移譲を要求する一方、3月10日にオーストリア制圧作戦『オットー』を発動した。

3月12日にドイツ国防軍を越境させ、実力でオース トリア国土を占領する計画であった。この情報はオーストリアに漏れ、政府に衝撃を与えた。3月10日午後4時、シュシュニックは国民投票の中止と総辞職に 追い込まれ、「屈服」の意をラジオで放送した。シュシュニックはザイス=インクヴァルトを後継に推薦したが、ミクラスは承認を渋った。しかし、「屈服」放 送に勢いづいた各地のオーストリア・ナチス党員は、ウィーン、リンツ、グラーツ、インスブルックなどの地方政府の施設にハーケンクロイツ旗を掲揚するなど した。この間ドイツはザイス=インクヴァルトに「派兵要請」を打電するように迫り、ザイス=インクヴァルトは午後9時45分に派兵要請を打電させた [13]。12日になる少し前、ミクラスはついにザイス=インクヴァルトを首相に指名した。

3月12日午前8時、ドイツ軍の進駐が開始された。 ドイツ軍は各地で熱狂的な歓迎を受け、そのため進軍速度が鈍ることもあった。首相となったザイス=インクヴァルトは、続いて名目上の国家元首であるミクラ ス大統領に対して、ドイツとの合併協定を締結するように迫った。ミクラスはこれを拒絶して辞職したため、ザイス=インクヴァルトは大統領の権限も代行する ことになった。ただし、ミクラスは戦後に自分は辞意を表明した事はなく、ザイス=インクヴァルトが一方的に宣言したものであり、彼を首相に任命してもいな いと証言している。

3月13日、ザイス=インクヴァルトはウィーンに迎 えたヒトラーの目の前でオーストリアを新たなドイツの州・オーストリア州(Land Österreich)とする法案「ドイツ国とオーストリア共和国の再統合に関する法律」を起草して署名を行った。4月10日、ヒトラーとザイス=インク ヴァルトは独墺両国で合邦の是非を問う「国民投票」を行い、97%の合邦賛成票を集めたことを発表した。これにより、オーストリアはドイツに併合されて オーストリア州となり、ザイス=インクヴァルトはオストマルク州総督に就任した。イタリアや日本、フランスなどの列強は直ちにウィーンの大使館を領事館に 格下げして、事実上の併合を認めた(オーストリア併合=アンシュルス)

かつて、ドイツとオーストリアの合併に反対したフランスなどは20年前にドイツ系オーストリア のドイツへの合併を認めなかったのは民族自決の原則に反した歴史的な過ちであったと主張して、20年前とは全く逆の論理でオーストリアを突き放した

1938(続き)

9月30日ミュンヘン会談(ズデーテン地方のドイツへの割譲を決定。ズデーテン 地方はオーストリア=ハンガリー帝国の一部であったが、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約とサン=ジェルマン条約によってチェコスロバキアの一部となっ た。しかしこの地域をめぐってナチス・ドイツとチェコスロバキアが対立し、ミュンヘン協定によってドイツへの編入が認められた。)

From left to right: Neville Chamberlain, Édouard Daladier, Adolf Hitler, and Benito Mussolini pictured before signing the Munich Agreement

●アンシュルス(1938.03.13)後の国民感情の変化

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)とドイツ国家 社会主義労働者党の主導で実現した独墺合邦は、オーストリア人の民族意識に重大な影響を与えた。

実は、「第一共和国」と称されたこの時期のオーストリアにあって、オーストリアへの プロテスタントの侵入を危惧する一部のカトリック保守派を除けば、ほとんどのオーストリア国民にとってドイツとオーストリアの統一は悲願であった。それは 大ドイツ主義に基づく発想で、社会民主党のカール・レンナーや対立する保守派のドルフス、シュシュニックにも共通した考えであった。あくまでも彼らは(そ れぞれの立場から見た)「ドイツの伝統の継承者」と自負するオーストリアが異質なナチスによって飲み込まれて行くことに対して反対し続けていたのである。

そして、当時の彼らには独自の国家として「オーストリア」が存在し続けることや 「オーストリア」という国家に愛国心を持つことなどは全く思いもよらないことであった。なぜなら、オーストリアの人々が愛国心を抱いていた対象は、あくま で大ドイツ主義によって形成される「ドイツ」国家か、或いは彼らがかつて実際に暮らしていた1918年以前のハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー 二重帝国)に向けられたものであったからである。例えば、「第一共和国」は成立から1919年まで正式な国名として「ドイツ=オーストリア 共和国」(Republik Deutschösterreich)を採用していたし、「第一共和国」時代のオーストリアの国歌だった「ドイツ・オーストリア、汝壮麗の国よ(ドイツ語 版、英語版)」(1920年〜1929年)で「ドイツ=オーストリア」、「終わり無き祝福あらんことを(ドイツ語版、英語版)」(1929年〜1938 年)で「ドイツの地」(Deutsche Heimat)という詞を歌っていた。従って、実際にドイツ軍がオーストリアに入ってしまうと、「大ドイツ主義によって形成される「ドイツ」国家」への愛 国心から、一転して合併に賛成する投票行動に出てしまったのである(カール・レンナーが併合直後にナチスは嫌いだがオーストリアとドイツの合併は必要であ ると発言して、ヒトラーから「彼も今回の併合そのものは支持している」と誤解を受けて政治犯収容所送りを免れたという説があるほどである)。

だが、オーストリア人の「統一ドイツ」に対する期待とは裏腹に、オーストリア人は現 実の独墺合邦で一方的な犠牲を強いられた。当時のドイツではナチスが強制的同一化政策を全国で実施しており、ナチス・ドイツ統治下のオーストリアではその 一環としてハプスブルク帝国以来のオーストリアを根本的に否定する政策が取られた。オーストリア州の行政機関はオストマルク法により1939年4月から7 つの帝国大管区へと再編され、帝国大管区を総称する「オーストリア(エスターライヒ)」と言う地名は、1940年にプロパガンダ的な名称 (Propagandabezeichnung)の「オストマルク」(オストマルク帝国大管区群)、更に1942年にドナウ=アルプス帝国大管区群 (Donau- und Alpenreichsgaue)へと改称させられた。また、合併直後、多くのユダヤ人や社会民主主義者、自由主義者や反ナチス的愛国主義者、知識人などが 逮捕され、収容所に送られるか、処刑された。粛清の嵐はオーストリア軍にも及び、最後まで合併に反対し続けたヴィルヘルム・ツェーナー(Wilhelm Zehner)将軍が暗殺された他、「サウンド・オブ・ミュージック」で有名なゲオルク・フォン・トラップ少佐のようにオーストリアから亡命する者もいた。 ナチス・ドイツのオーストリア統治は、政治的にも経済的にもドイツ本土への従属性を強化する一方[14]、オーストリア人をドイツ人の中でも落ちこぼれの「二流市民」として扱う結果となった。 このため、ユダヤ人抹殺(ホロコースト)など、ドイツ人が直接関りたくない仕事など に動員されたり、その一方でドイツ人としてのアイデンティティ確立のために、自ら積極的にナチスに忠誠を誓う者もいた[15]。またナチス 親衛隊の特殊部隊であるフリーデンタールの指揮官オットー・スコルツェニーもオーストリア出身である。そもそも、ヒトラー自身がオーストリア出身者であっ た。

第二次世界大戦とドイツによる支配の中で、オーストリア人は自分達がドイツ人ではな くオーストリア人であるというナショナル・アイデンティティーを初めて抱くことになった。また、連合国は1943年にモスクワ宣言を発表し、オーストリア を「ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の自由国」であるとする一方、オーストリアの戦争に対する責任追及はオーストリア自身がどの程度解放に関与した のかに影響されるとした。そのため、大戦末期のウィーン攻勢敗北でドイツ軍がオーストリアから撤退し、連合国軍の分割占領下でカール・レンナーを首班とし て再度オーストリアを再興することになった時、もはや「ドイツ系オーストリア」という単語は過去の呪縛でしかなく、オーストリア人によるオーストリア国家 の建設へと動き出すことになる。何より冷戦開始に伴い、ドイツと同様に東側・西側両陣営による分割の危機さえあったオーストリアを単一の国 家として再建させるためには、あくまでもオーストリアは「ドイツによる侵略の最初の犠牲者」という立場でいなければならなかった。このため第二次世界大戦 における「オーストリア人の戦争責任」の問題は、戦後長年にわたってオーストリア国内ではタブー視され、この問題が本格的にオーストリア国内で議論される ようになるのは冷戦終結後のことである。

なお、1955年のオーストリア再独立の際に連合国とオーストリアが調印したオース トリア国家条約では、オーストリアとドイツの合併は永久的に禁止されている。また、欧州連合による欧州統合が進められ、オーストリアとドイツはもちろんの こと、他の欧州諸国との国境の意味合いまでもが失われつつある現状において、ドイツと合併する必要性も既にない状態である。ただし一方では、2000年か ら2006年までオーストリア国民党(キリスト教社会党の後身)のヴォルフガング・シュッセルがドイツ民族主義を唱える極右政党オーストリア自由党と連立 を組むなど、オーストリア国内ではドイツ民族主義が台頭してきている。2013年にオーストリア国民を対象として行われた世論調査では、4割がナチス政権 下の生活はそこまで悪くなかったとし、6割が強い人が政府を動かすべきであり、5割以上がナチス党が再び認められれば非常に高い確率で議席獲得すると信じ ているという結果が出る[16]など、「『ドイツ人』か『オーストリア人か』」という問題やナチスに対する評価は今でもオーストリアに影を落としてい

1938(続き)——以下は「ナチ文化史年表・ナチス年表」よりの引用

1月9日 水晶の夜事件(ユダヤ人商店への襲撃)→ユダヤ人商店の営業停止・ユダヤ人セクシュアリティ表象?をドイツの学校から追放する。

記録映画『オリンピア(Olympia)』(『民族の祭典』と『美の祭典』の2部作):ベルリン・オリンピックの記録映画。監督はレニ・リーフェンシュ タール。

1939

1月30日この時期以降、ヒトラーは、その演説による諸外国に対する敵意と反ユダヤ主義を明確に打ち出す。

3月14日 チェコスロバキア内のスロバキア民族派に働きかけ、スロバキア共和国をチェコスロバキアから独立させる。

3月15日 チェコスロバキアのボヘミア・モラビアをベーメン・メーレン保護領として保護領とする(チェコスロバキア併合)。

3月22日 リトアニアのメーメルを住民投票で併合。

4月20日ヒトラー50歳の誕生日

8月23日 独ソ不可侵条約締結

9月1日 スロバキアと共同してポーランドに侵攻

9月3日にイギリス、4日にフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦勃発

10月1日までにポーランド全土を制圧。ポーランド総督府を設置。

1940

4月9日 ノルウェー、デンマークに侵攻(ヴェーザー演習作戦・ノルウェーの戦い)。デンマークは降伏し、保護国下に置かれる。

5月にはほぼノルウェー全土を占領。ヴィドクン・クヴィスリングによる傀儡政権が設置される。

5月10日 フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始(ナチス・ドイツのフランス侵攻、オランダにおける戦い (1940年))。ルクセンブルクは占領、併合される。

5月17日 ヨーロッパのオランダ軍がドイツ軍に降伏。

5月28日 ベルギー降伏。

6月21日 フィリップ・ペタンを首相とするフランス政府、ドイツに休戦申し入れ、翌22日に独仏休戦協定締結。北部をドイツの占領下に置き、南部はヴィシー政権とし てドイツの強い影響下に置かれる。

9月20日 日独伊三国軍事同盟締結。

1941

4月6日 ユーゴスラビア侵攻開始。

4月17日 ユーゴスラビア制圧。セルビアを占領下に置き、クロアチアにはクロアチア独立国を建国し、保護国とする。

4月10日 ギリシャ・イタリア戦争にイタリア側として介入(バルカン半島の戦い)。

6月22日 バルバロッサ作戦を発動し、ソビエト連邦に侵攻(独ソ戦)。

12月11日 12月7日に日本が真珠湾攻撃を行い、アメリカ・イギリスに宣戦布告したことを受け、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告。

1942

1月 ヴァンゼー会議「ユダヤ人問題の最終的解決」

10月 ドイツ国内の強制収容所の全ユダヤ人をアウシュヴィッツに移送。

11月10日 連合軍のトーチ作戦に対抗するため、ヴィシー政権統治下のフランス南部の占領を開始(アントン作戦)

1943

2月2日 スターリングラードで、パウルス元帥率いる第6軍がソ連軍に降伏(スターリングラードの戦い)

2月22日 「白いバラ」グループ(ショル兄妹とプロープスト)の裁判(民族裁判所)・処刑

6月24日 公用文書で「大ドイツ国」(Großdeutsches Reich)の国号が用いられ始める。

7月25日 イタリア王国においてムッソリーニが首相を解任、逮捕される。

9月8日 イタリアが連合国に降伏。

9月15日 グラン・サッソ襲撃により救出したムッソリーニを首班としてイタリア社会共和国をイタリア北部に成立させる。

1944

3月8日 マルガレーテI作戦によりハンガリー王国を占領下に置く。

6月6日 ノルマンディー上陸作戦。連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く。

7月20日 反ヒトラー派グループ(黒いオーケストラ)により、ヒトラー暗殺計画とクーデターが行われるが失敗に終わる。

8月25日 パリの解放。枢軸国であったルーマニアが連合国につき、ドイツに宣戦布告(ルーマニア革命 (1944年))。

9月 西部戦線において連合軍がドイツ国境を越えて侵攻。占領地に連合軍による地方政府が樹立されはじめる。

アンネ・フランク(『アンネの日記』で有名)(1929-1944)がベルゲン=ベルゼン収容所で死亡。

1945

4月16日 ベルリンの戦い始まる。

4月30日 ヒトラー自殺。後継大統領にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルスを指名。

5月1日 ゲッベルスが地下壕において自殺し、政府機能が崩壊。デーニッツのフレンスブルク政府が活動を開始。

5月2日 ベルリンがソ連軍に占領される。

5月7日 アルフレート・ヨードル大将がランスにおいて連合国への降伏文書に署名。

6月5日 ベルリン宣言により、ドイツに中央政府が存在しないことが確認される。統合的な占領行政がスタート(連合軍軍政期)。

7月5日 ドイツの統治を担当する連合国管理理事会(Allied Control Council)設置。

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