契約主義
Contractarianism,
Contractualism
☆
「契約主義(Contractarianism)」とは、政治的権威の正当性に関する政治理論と、道徳的規範の起源や正当な内容に関する道徳理論の両方を指す。政治的権威論は、政府の正当な権
威は被治者の同意に由来するものでなければならないと主張し、この同意の形式と内容は契約や相互同意の考え方に由来するとする。契約主義の道徳理論では、
道徳規範は契約や相互合意の理念からその規範力を導き出すと主張する。契約主義者は、道徳や政治的権威を神の意志や人間の本質に関する完全主義的理想のい
ずれかに根拠づける可能性に懐疑的である。政治思想史上の社会契約論者には、ホッブズ、ロック、カント、ルソーなどがいる。現代の最も重要な政治的社会契
約論者は、20世紀後半に社会契約論を事実上復活させたジョン・ロールズであり、主に道徳的契約論者であるデイヴィッド・ゴーティエもその一人である。政
治理論に関する契約論者が道徳理論に関する契約論者である必然性はないが、現代の契約論者のほとんどはその両方である。最近になって、社会契約思想には2
つの異なる系統があることが認識されるようになり、現在では通常、契約主義A=コントラクタリアニズム(contractarianism)と契約主義B
=コントラクチュアリズム(contractualism)という名称で呼ばれている。
ホッ ブズ的な社会契約思想に由来する契約主義Aは、人は主として利己的であり、利己的利益の最大化を達成するための最善の戦略を合理的に評価することで、道徳 的に行動し(この場合、道徳的規範は共同利益の最大化によって決定される)、政府権力に同意するようになるとする。契約主義Bは、われわれはそれぞれ道徳 を受け入れるように動機づけられると主張する。「第一に、われわれは他者の侵害に対して脆弱であり、第二に、われわれは皆、他者との協力から利益を得るこ とができるからである」(Narveson 1988, 148)。カント派の社会契約思想に由来する契約主義は、合理性には個人を尊重することが必要であり、そのためには道徳的原則は各人にとって正当化できる ようなものでなければならないとする。従って、個人は私利私欲に突き動かされるのではなく、各自が従うべき道徳基準を公に正当化するというコミットメント に突き動かされるのである。ゴーティエやナルヴェソン、経済学者のジェームズ・ブキャナンがホッブズ的契約主義者の典型であるのに対し、ロールズやトーマ ス・スキャンロンがカント的契約主義者の典型であろう。このエントリーの残りの部分は、両者が乖離している場合、特に契約主義者の系統に関連する。
「契約主義」と
は、政治的権威の正当性に関す
る政治理論と、道徳的規範の起源や正当な内容に関する道徳理論の両方を指す。政治的権威論は、政府の正当な権威は被治者の同意に由来するものでなければな
らないと主張し、この同意の形式と内容は契約や相互同意の考え方に由来するとする。契約主義の道徳理論では、道徳規範は契約や相互合意の理念からその規範
力を導き出すと主張する。契約主義者は、道徳や政治的権威を神の意志や人間の本質に関する完全主義的理想のいずれかに根拠づける可能性に懐疑的である。政
治思想史上の社会契約論者には、ホッブズ、ロック、カント、ルソーなどがいる。現代の最も重要な政治的社会契約論者は、20世紀後半に社会契約論を事実上
復活させたジョン・ロールズであり、主に道徳的契約論者であるデイヴィッド・ゴーティエもその一人である。政治理論に関する契約論者が道徳理論に関する契
約論者である必然性はないが、現代の契約論者のほとんどはその両方である。最近になって、社会契約思想には2つの異なる系統があることが認識されるように
なり、現在では通常、契約主義A=コントラクタリアニズム(contractarianism)と契約主義B=コントラクチュアリズム
(contractualism)という名称で呼ばれている。 ホッブズ的な社会契約思想に由来する契約主義Aは、人は主として利己的であり、利己的利益の最大化を達成するための最善の戦略を合理的に評価することで、 道徳的に行動し(この場合、道徳的規範は共同利益の最大化によって決定される)、政府権力に同意するようになるとする。契約主義Bは、われわれはそれぞれ 道徳を受け入れるように動機づけられると主張する。「第一に、われわれは他者の侵害に対して脆弱であり、第二に、われわれは皆、他者との協力から利益を得 ることができるからである」(Narveson 1988, 148)。カント派の社会契約思想に由来する契約主義は、合理性には個人を尊重することが必要であり、そのためには道徳的原則は各人にとって正当化できる ようなものでなければならないとする。従って、個人は私利私欲に突き動かされるのではなく、各自が従うべき道徳基準を公に正当化するというコミットメント に突き動かされるのである。ゴーティエやナルヴェソン、経済学者のジェームズ・ブキャナンがホッブズ的契約主義者の典型であるのに対し、ロールズやトーマ ス・スキャンロンがカント的契約主義者の典型であろう。このエントリーの残りの部分は、両者が乖離している場合、特に契約主義者の系統に関連する。 1. 契約主義の基本的要素 2. 契約の比喩 3. 道徳懐疑論者への回答 4. 規範的契約主義への批判 5. 破壊的契約主義 6. 障害、動物、互恵、そして信頼 参考文献 学術ツール その他のインターネットリソース 関連項目 https://plato.stanford.edu/entries/contractarianism/ |
“Contractarianism”
names both a political theory of the legitimacy of political authority
and a moral theory about the origin or legitimate content of moral
norms. The political theory of authority claims that legitimate
authority of government must derive from the consent of the governed,
where the form and content of this consent derives from the idea of
contract or mutual agreement. The moral theory of contractarianism
claims that moral norms derive their normative force from the idea of
contract or mutual agreement. Contractarians are skeptical of the
possibility of grounding morality or political authority in either
divine will or some perfectionist ideal of the nature of humanity.
Social contract theorists from the history of political thought include
Hobbes, Locke, Kant, and Rousseau. The most important contemporary
political social contract theorist is John Rawls, who effectively
resurrected social contract theory in the second half of the 20th
century, along with David Gauthier, who is primarily a moral
contractarian. There is no necessity for a contractarian about
political theory to be a contractarian about moral theory, although
most contemporary contractarians are both. It has been more recently
recognized that there are two distinct strains of social contract
thought, which now typically go by the names contractarianism and
contractualism. Contractarianism, which stems from the Hobbesian line of social contract thought, holds that persons are primarily self-interested, and that a rational assessment of the best strategy for attaining the maximization of their self-interest will lead them to act morally (where the moral norms are determined by the maximization of joint interest) and to consent to governmental authority. Contractarianism argues that we each are motivated to accept morality “first because we are vulnerable to the depredations of others, and second because we can all benefit from cooperation with others” (Narveson 1988, 148). Contractualism, which stems from the Kantian line of social contract thought, holds that rationality requires that we respect persons, which in turn requires that moral principles be such that they can be justified to each person. Thus, individuals are not taken to be motivated by self-interest but rather by a commitment to publicly justify the standards of morality to which each will be held. Where Gauthier, Narveson, or economist James Buchanan are the paradigm Hobbesian contractarians, Rawls or Thomas Scanlon would be the paradigm Kantian contractualists. The rest of this entry will specifically pertain to the contractarian strain wherever the two diverge. https://plato.stanford.edu/entries/contractarianism/ |
1. 契約主義の基本要素 すなわち、近代政治哲学者によって「自然状態」、ロールズ(1971, 17-22, 118-193)によって「当初の立場」、ゴーティエ(1986, 14-16, 131-134,passim)によって「当初の交渉の立場」と様々に呼ばれる初期状況の特徴づけと、契約の当事者の特徴づけ、特に彼らの合理性と合意に 至る動機の観点からである。最初の状況は、交渉理論で「合意なしの立場」と呼ばれるものであり、合意や契約が成立しなかった場合に個人が戻る状況を想定し ている。この状況は、理論家が道徳や正義のルールがない場合の人間生活をどのように特徴づけるかによって、敵対的であったりそうでなかったり、社会的で あったりそうでなかったりする。しかし、すべての契約論にとって極めて重要なのは、最初の状況には何らかの希少性や競争の動機があり、社会的相互作用や協 力から利益を得る可能性があるということである。 現代の規範的契約論、つまり政府の正当性を根拠づけようとする理論や、道徳的なあるべき姿を導き出そうとする理論では、最初の立場は公正で公平な合意の出 発点を意味する。契約主義者が公正で公平な合意の要件を契約外の理由によって正当化するのに対して、契約主義者は、協力的相互作用を確保するという契約の 成功そのものが、出発点と手続きが公正で公平であることを必要とするとしている。 最近の文献では、契約主義者のように外的な独立した道徳規範に訴えることなく、契約主義理論がいかにして最初の交渉状況の公正さと公平さを確保できるかに 焦点が当てられている。契約主義者にとっては、すべての道徳規範は合理的な主体による合意の結果であるはずだが、もし契約主義者が合意を確保するために事 前の道徳規範に訴えなければならないのであれば、合意が道徳規範の内容を確立する上で実際にどのような働きをしているのかは不明である。同時に、最初の状 況に対する制約がまったくない場合、合意された結果は道徳的な結果とは言えず、ロールズが言うように「各自の脅威的利益に応じて」(1971, 141)という原則に従った結果になってしまうかもしれない。つの可能性のある戦略は、契約者が対称的な立場にあるという仮定など、初期状況の公正さと公 平さを保証するために設計された仮定は、合理性の条件として従うか、戦略的根拠に基づいて正当化されると主張することである。対称性のようなある種の前提 が合理性の行使からの含意として従うという考え方は、そのような前提が契約主義者には理論的にアクセスできない実体的制約を表しているという理由で、最近 の批判を集めている(Thrasher 2014)。また、契約論におけるそのような仮定の存在を擁護しようとする者もいる(Thoma 2015)。 契約論者の間で論争となっているいくつかの点は、理論における初期状況の役割に関するものである。初期状況は実際の歴史的状況とみなされるべきなのか、可 能な歴史的瞬間とみなされるべきなのか、それとも契約状況は完全に仮定のものなのか。デイヴィッド・ヒューム(1987/1777, 470-1)は、歴史的契約に基づく規範的道徳理論や政治理論に対する決定的な異議を初めて提起した。現代の政治哲学者たちも、仮説的契約について同様の 懸念を提起している。合意が仮説的である限り、それは合意を表しているとはまったく言えない(Dworkin 1975)。この種の異論に対して、契約論者の中には、契約装置の要点は契約者を直接拘束することではなく、むしろ実践的合理性の要件を発見するための一 種の思考実験を提供することだと主張し、発見的根拠に基づいて仮想契約を擁護する者もいる(Gauthier 1986, ch. VII)。つまり、もし人が合理的であり、合意が可能かつ有益な状況において合理的な他者の中にいるのであれば、合理性は人が契約条件に従うことを要求す る、というのが彼らの主張である。主流の契約論が仮定の契約論であるのに対して、契約論の興味深く強力な破壊的利用法(Mills 1997; Pateman 1989; Pateman & Mills 2007-以下の「契約論の破壊」の項を参照)は、契約状況を、白人至上主義や家父長制、あるいは男性優位を構築し維持するための歴史的合意として読み解 く。もちろん、こうした後者の契約論は現状を正当化するものではなく、むしろ説明や非難であるため、ヒュームの反論に直面することはない。現代の契約主義 者を二分するその他の問題には、次のようなものがある: 現実の人間に契約の成果を義務づける理想的な条件とは何か、理想的な契約者とは誰か。仮定の契約の内容とは何か。 契約理論の第二の要素は、潜在的契約者を特徴づけるものである。これには二つの部分がある:第一に、契約者は最小限の他者指向的な欲望や選好を持つこと、 第二に、契約者は他者との合理的な相互作用の能力を持つことである。契約主義とは対照的に)契約理論では、契約を結ぶ(そして契約を維持する)動機付けに 高い基準を設けている。彼らは、道徳や正義のルールを合理的な自己利益に基づかせるために、人が道徳的行動に対する選好を持っていると仮定することを避け る。人の利益には必ずしも他者の幸福は含まれないため、契約主義の主な課題は、そのような他者指向の選好がなくても、道徳的であることが合理的であること を示すことである。このような自己指示的選好は「非ツイスティック」と呼ばれる(Gauthier 1986, 87)。しかし、契約者の選好を非ツイスティックな選好だけに絞り込むことは、道徳性を根拠づける上で必要でも役にも立たないと考える理由がある。その理 由のひとつは、このような選好の制限は、実際の人物がそのような狭く解釈された選好を持たないという仮定の下で、行われた交渉に応じようとしないことを意 味するからである(Hubin 1991)。他方、道徳や正義に関する交渉において、正のtuistic選好が役割を果たすことを認めると、個人が仲間の感情のために搾取される可能性が 生じるかもしれない(Dimock 1999)。Dimockが指摘するように、ほとんどの文化において女性は子供の頃から性差別的規範や性別役割によって、自分の幸福よりも他人の幸福を優 先するように教育されているため、これは特に女性にとって問題となる。否定的な選好は、それを排除しようとする理論家にも、契約論にそれを含めようとする 理論家にも、道徳的懐疑の一種として別の課題を突きつけている(Superson 2009)。前者にはロールズやゴーティエが含まれ、否定的な選好(ねたみ、嫉妬、腹いせ、復讐)は相互利益のための協力を不可能にし、したがって非合理 的であると主張してきた(Rawls 1971, 142-150, 530-534; Gauthier 1986, 311, 329)。しかし、このような感情は一般的なものであるため、この回答は理論の適用範囲を著しく狭めてしまう。後者のグループは、相互の利点がこのような 否定的な他者指向的感情をどのように克服するかを示すという課題に直面している。 第二に、人は道具的に合理的であると推定されるため、協力的な社会的相互作用によって自分の欲望の充足がどのように助けられるかを理解する能力がある。契 約主義者は実践的合理性を道具的、主観的、優先的に特徴づける。合理的に行動することは、自分自身の主観的選好を最大限に満足させることを意味する。契約 主義者は、人間は協力することによって、それぞれが単独で働くよりも多くのものを生み出すことができるという人間に関する重大な事実に依拠しており、した がって少なくともいくつかの条件の下では協力することが合理的であるとする。自己利益と合理性は、協力者が自己利益を犠牲にすることなく協力できるのであ れば、協力したいという欲求を意味する。協力によって利益を得たいという欲求は、協力を可能にし合理的にする道徳的規範を遵守しているという評判を合理的 に気にするようになる。(この理性的人間の概念に対する批判については、自己に関するフェミニストの視点(第1節、批判)を参照のこと)。 契約主義者は、協力のための正義のルールがなければ、その人自身の光に照らして、人はより悪くなることを示そうとする。したがって、道徳と正義のルールを 採用することは合理的である。契約主義者である個人のこれら二つの側面-自己利益と他者との相互作用から利益を得る能力-は、適度な希少性の条件ととも に、ヒュームに続いてロールズが「正義の状況」と呼ぶもの、すなわち正義のルールが可能であり必要でもありうる条件を含意している(1971, 109-112)。正義、そして社会契約は、協力によって各個人に何らかの利益がもたらされる可能性がある場合にのみ可能となる。 契約主義的な社会契約理論では、個人が自分の利益と欲求を満たす手段について最善の判断者であるとする。このため、自由主義と契約主義の間には密接な関係 がある。しかし、すべての契約主義思想がリベラルであるというわけではない。例えば、ホッブズは、ジャン・ハンプトンが「疎外契約」(1986, 3, 103, 256-265)と呼ぶもの、すなわち、民衆が自分たちの紛争を裁く権利や自衛権を主権者に委ねる契約を支持した。このように、初期状況が十分に悪けれ ば、契約主義は全体主義の正当化につながるかもしれない。契約の当事者の性格付けから生じるもう一つの批判点は、彼らが相互作用という社会的生産物に貢献 できなければならない、あるいは少なくともそれを不安定にする恐れがなければならないということである。というのも、各個人は、含まれるすべての人々の包 摂から利益を得ることができなければならないからである。しかしこのことは、重度の障害者、グローバルプア、動物など多くの人々を正義の領域から置き去り にするおそれがあり、その意味するところを全く受け入れられないと考える人もいる(Kittay 1999; Nussbaum 2006)。 社会契約理論もまた、合意形成の指針となるルールを必要とする。それらは契約に先立つものであるため、自然的、合理的、慣習的なものであれ、道徳的規範の 先行源が存在しなければならない。通常規定される最初のルールは、合意の形成に強制や詐欺があってはならないというものである。肉体的暴力の脅しによって 合意を「強要」されてはならない。暴力を行使することが許されるのであれば、脅迫された側にとっては、「契約」と自然の状態との間に実質的な違いがないこ とになり、したがって契約には安全性がないことになるからである。しかし、暴力の脅しによって強制的に権利を放棄させられることと、窮乏の脅しによって不 利な契約を結ばされることとは紙一重である。このため、ゴーティエのような契約主義者は、安全で安定した合意につながるような、公平で公正な交渉の出発点 を主張することができるのである。契約の第二のルールは、契約の正当な当事者である各個人が、契約の成果である正義のルールに同意しなければならないとい うことである。 |
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2. 契約の比喩 社会契約の比喩を道徳や政治の状況に適用するには、何らかの解釈が必要である。その解釈は、3つの質問に対する答えを決定することによって特定することが できる。第一に、何についての契約なのか。考えられる答えとしては、正義の原則(ルソー、ロールズ)、基本的な社会制度の設計(ロールズ)、自分の権利の (一部または全部を)主権政府に譲るという約束(ホッブズ、ロック)、(慣習的に)道徳的であるという気質の採用(ゴーティエ、ハンプトン)などがある。 第二の問題は、この協定をどのように考えるかということである。実際の歴史的合意か?暗黙の歴史的状況か。第三の問題は、契約という装置を正当化として用 いるのか、説明として用いるのかということである。上述したように、規範的契約主義は契約装置を主として正当化として用いるが、ホッブズやロックは契約装 置には説明的な要素もあると考えていたのかもしれない。後述するように(破壊的契約主義)、現代の重要な契約主義は、抑圧の起源を説明するために暗黙の契 約を用いている。 |
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最も完全で影響力のある現代の契約論者、デイヴィッド・ゴーティエの理論を簡単に紹介しておこう。ゴーティエの『Morals By
Agreement』におけるプロジェクトは、道徳懐疑論者を打ち負かすために、合理性に道徳を根付かせる契約論的アプローチを採用することである。(た
だし、Anita Superson
(2009)は、ゴーティエが答えようとしているのは「なぜ道徳的でなければならないのか」と問う懐疑論者のみであり、道徳的に行動すれば十分であるが道
徳に動機づけられる必要はないと主張する動機懐疑論者と、道徳のようなものが存在すること、すなわち真の道徳的言明が存在することを否定する非道徳主義者
の両方を残していることを指摘している)。一般に、人間には自然な利害の完全な調和はありえず(そうでなければ道徳はほとんど不要となる)、協力を通じて
各個人が得るものは多いと考えられている。しかし、個人の自己利益の追求に対する道徳的制約が必要とされるのは、協力的な活動がほとんど必然的に囚人のジ
レンマに陥るからである。これは、社会的にも個人的にも最適とはいえない結果につながり、それぞれが他方から騙されることが予想される。しかし、他者もま
たそのような態度をとっているときはいつでも、道徳の要求に従って行動するよう自らを律することで、互いの信頼を獲得し、うまく協力し合うことができるの
である。 この理論の契約論的要素は、道徳規範の導出にある。遵守の問題-受容された規範を合理的に遵守することを正当化する問題-は、初期状況の正当化と契約状況 の遂行を推進しなければならない。契約状況を交渉として考えることは有益であり、そこでは各当事者は、最適な効用を実現できる道徳的ルールを交渉しようと している。このため哲学者たちは、最初の契約状況に多くの交渉解決策を適用してきた。ゴーティエの解決策は「ミニマックス相対譲歩」である(1986年、 第V章)。最小限の相対的譲歩の考え方は、各交渉者は、他者が行う譲歩と比較して、自分が理想とする結果からの譲歩を最も重視するというものである。もし 彼女が自分の譲歩を他者との相対的な比較において妥当なものだと考えるなら、彼女は合意を確保しながら(そしてそれによってゼロ・ポイント:協調的余剰の 分配なし)、他者からのその後の遵守を確保しながら、自分のためにできる限り多くのものを確保したいと考え、彼女はそれに合意するだろう。では、妥当な結 果とは何だろうか。この見解によれば、妥当な結果とは、交渉における各当事者の相対的譲歩の最大値を最小化する結果である(Gauthier 1986, ch. V)。 より最近の論文で、以前の見解とは対照的に、ゴーティエは、合理性に道徳性を根拠づける問題を交渉問題として枠組むべきという考えを全く否定している (2013年)。このように問題を組み立てた場合、解決策は契約交渉に参加する当事者がすべて合理的最大化者であると仮定することに依存する。しかし、彼 の修正された見解では、彼は問題を交渉問題とも、当事者を(制約された)合理的最大化者とも見ていない。パレート最適化者または合理的協力者として、当事 者はパレート最適な結果を生み出そうとする。パレート最適な結果とは、ある当事者のペイオフを増やすことなく、別の当事者のペイオフを減らすことができな い結果である。ある当事者のペイオフを増加させ、他の当事者のペイオフを減少させることなく、他の結果に移行することが可能であれば、現在の結果はパレー ト最適ではない。重要なのは、この変更が、自己利益という動機に加えて、当事者に新たな動機を付加することを意図していないことである。ゴーティエによれ ば、合理的協力は、合理的行動を構成するものについての代替概念を提供する。合理的な協力者は、協力による付加的な利益をテーブルの上に残したくないので ある。このような変化によって、(このような)合理性の概念に道徳性を根拠づけるという当初の問題はどのように解決されるのだろうか。その答えは、各結果 のペイオフを、協力的利益または協力的利益がない場合の観点から計算することである。例えば、協力的最小値とは、一方の当事者に協力によって生じる利益が 全くないペイオフである。これとは対照的に、協力的最大値とは、一方の当事者に、協力によって生じる可能性のある便益のすべてを与えるペイオフである。潜 在的な協力利得はこの2つの差である。そして、実際の協力利得は、そのペイオフと当事者の協力的最小値との差である。次に、実際の協力利得を当事者の潜在 的協力利得で割る。これにより、当事者の比例利得が生成され、これは、当事者の潜在的な協力利得の割合として実際の利得を示す。各結果は、協力による比例 利得として表される。最終的に、どの当事者にとっても最大最小の比例利得を生み出す結果を選択することが目標となる。Gauthierが最大比例利得と呼 ぶこの原則は、当事者が選択することが合理的であろうパレート最適な結果を選択する。 手続きと同様に解決策にとって重要なのは、当事者がどのような出発点から始めるかである。ゴーティエのような)契約主義者にとっては、無知のベールは存在 しない。しかし、無知のベールがなければ、契約当事者は、交渉の結果に影響を及ぼす可能性のある交渉力の違いを認識することになる。従って、契約の遵守が 確保されるためには、最初の立場が非強制的に到達したものでなければならないことが重要である。ロック的但し書き」(ロックの社会契約の初期状況に関する 記述に倣ったもの)は、「他者を悪化させることによって自分を向上させることはできない」というもので、無知のベールがない場合には有益であることが判明 するかもしれない。要するに、合理的な契約者が採用する(遵守する)道徳的規範とは、契約者たちが、各自が自分の行為によって到達した地位から出発し、他 の誰も悪化させることなく、最小限の相対的譲歩のルールを合意の原理として採用することによって到達する規範なのである(Gauthier 1986, ch. VII)。 |
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4. 規範的契約主義に対する批判 特定の契約論や、正義や道徳に関する規範的思考の枠組みとしての契約論に対して、多くの批判がなされてきた。(ジーン・ハンプトンは、その著書『ホッブズ と社会契約の伝統』において、現代の契約主義に直接関連する形でホッブズを批判している。ハンプトンは、自然状態における個人の特徴はジレンマにつながる と主張する。万人の万人に対する潜在的な戦争としてのホッブズの自然状態は、情念(特に貪欲と恐怖)か合理性(囚人のジレンマ推論、この推論では合理的な プレーヤーはそれぞれ、互いに交わした合意を反故にすることを選択する)のどちらかの結果として発生しうる。しかし、もし情念の説明が正しければ、契約者 は社会契約が結ばれた後も情念に突き動かされ、契約を守らないことになる(Hampton 1986)。また、合理性の説明が正しければ、合理的な行為者は、社会契約が結ばれる前に互いに協力する以上に、社会契約を遵守しないだろう。 この批判は、(ゴーティエのような)契約なしには、個人が社会的に最適でない状況に陥ってしまい、それが何らかの合意のために互いに譲歩する動機付けを与 えるには十分悪いが、契約なしには協力できない理由は、契約が結ばれた後も作用し続けることはできないと主張する理論に類似している。この問題に対する潜 在的な解決策は、個人は素直な(利己的な)最大化者ではなく、制約された(利己的な)最大化者になることを選ぶようになる、つまり、志を同じくする個人の いる環境に身を置けば、利己的なことを第一に考えるのではなく、むしろ合意を守るように自らを訓練し直すようになる、と主張することである (Gauthier 1986, 160-166)。しかし、この解決策は多くの論者によって疑わしいとされている(Vallentyne 1991参照)。 ハンプトンはまた、相互作用は単に道具的な価値しかないという現代の契約主義者の仮定にも異議を唱えている。ハンプトンは、相互作用が利己的な協力者にも たらす協力の果実のためだけに価値があるとすれば、そのような協力者がコンプライアンス問題をうまく解決できるとは考えにくいと主張する。要するに、道徳 への自然な傾斜がなければ、道徳を動機づけることはできないのである。興味深いことに、ハンプトンはゴーティエと同意見であり、契約主義が、あらゆる個人 の自己犠牲や搾取を制限するものとして、個人の利己心に訴える道徳的・政治的規範を要求するのは正しいとしている。 契約主義に対しては、さらに2つの批判がある(Southwood 2010)。規範性反対論によれば、契約主義の道徳は他者への配慮が不十分であり、他者への配慮よりもむしろ自己利益へのアピールによって道徳を動機付け るからである。そのため、この理論では悪行に対して罪悪感や自責の念を抱く理由がなく、せいぜい非合理的な行動に対する怒りや失望を自らに向けるしかな い。サウスウッドの反論は、ゴーティエの理論が動機懐疑論者に応えられないという、前述のスーパーソンの主張を補う一つの方法と見ることができる。この反 論は、道徳規範の内容が導き出されるロック的但書と交渉理論の両方に、他者の関心に訴えるものが組み込まれているという事実を見落としている。さらに、カ ント派の道徳理論も、道徳的に行動する動機として自律的合理性に訴える限り、同じ反論に服するように思われる。ゴーティエは、『合意による道徳』の最終章 で、相互利益契約主義が規定する道徳的生活を送ることによって道徳的心理が形成される「リベラルな個人」について述べており、この反論への回答を示してい ると見ることができる。 公平性の異論によれば、すべての人間はその力や能力に関係なく一定の義務を負っており、契約主義は道具的で主観的な実践理性の概念に依拠しているため、ど うしてそうなるのかを説明できない。それどころか、契約主義は、本当に力のない人間を平等に扱うことは不合理であるとする。この問題は、前述および後述の 第6節で論じる排除の問題と類似しており、深刻な問題である。ゴーティエのロック的但書は、歴史的な支配のパターンを考慮に入れることを排除するためのも のであったが、仮にそのような支配関係がすべて排除され、支配されていない資産を条件として交渉が行われるようになったとしても、生まれつきの才能や能力 の不平等が支配の可能性を再び呼び起こすことになる。 契約主義は人種的な理由からも批判されている(Williams 1991)。契約には、他人の助けなしに約束をし、実行できる独立した主体が必要である。歴史的に、白人男性が契約理論の純粋な意志として扱われてきたの に対し、黒人や女性は反意志、つまり依存的で非合理的な存在として扱われてきた。どちらの理想も誤っている。全人類は他の全人類に依存しているのだ、と彼 女は言う。しかし、ある人々を契約者と定義し、ある人々を契約不可能者と定義することで、全階層の人々を正義の領域から排除することができる。この点につ いては、契約主義を批判する他の論者も探求している。最初はアレン・ブキャナン(1993年)、最近ではエヴァ・キッテイ(1999年)が、子供や障害者 のような扶養家族は契約主義の理論では考慮から外されるだけでなく、その世話人のニーズや利益も契約では過小評価される傾向があると指摘している。 |
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5. 破壊的契約主義 契約主義の記述的な利用法は、抑圧という現象を照らし出すために、契約主義プロジェクトの排他的、内集団/外集団的性質を利用することである。キャロル・ パテマンの『性的契約』(1989年)は、家父長制を強制する暗黙の契約が男性の間に存在すると主張するために、契約論を用いている。彼女は自分のアプ ローチを「思い込みの歴史」と呼び、家父長制による女性抑圧の実際の歴史と社会契約論のイデオロギーの両方を照らし出すために用いている。同様に、チャー ルズ・ミルズ(Charles Mills)は、『人種契約』(The Racial Contract、1997年)の中で、白人は白人至上主義を強制するために、実際の、歴史的な、時には明示的な、しかししばしば暗黙的な契約を結んでき たと主張している。両者の主張は、歴史的・事実的な細部において異なるものの、契約論的な輪郭において類似している。両哲学者の理論によれば、契約には道 徳的、政治的、認識論的な条件があり、その効果は、ある集団が他の集団を効果的に支配し、従属させ、搾取することを可能にするものであった。道徳的条件 は、支配者集団が被支配者集団よりも自分たちの集団の生活を高く評価することを求め、政治的条件は、被支配者集団から効果的な政治権力を奪うことを求め、 認識論的条件は、支配者集団のメンバーが自分たちを被支配者集団よりも知的に優れているとみなすことを求める。社会契約は、契約の当事者による相互作用の 正当化、契約の当事者でない人々への搾取の正当化として見ることができるが、それは内集団と外集団という基本的な区分が受け入れられる場合に限られる。人 種契約や性契約が合理的であると示されれば、人種差別や性差別を正当化しているように見えるため、規範的契約主義に対する一応の批判を構成することにな る。ペイトマンとミルズは最近、『契約と支配』(2007年)で手を組み、両者の類似点と相違点を探っている。ペイトマンは、契約のイデオロギーに対する 批判を、彼女が 「入植者契約 」と呼ぶ先住民の土地の植民地的横領のケースにまで広げている。ミルズもまた、ジェンダーと階級を含む範囲に分析を拡張し、奴隷制の賠償問題に記述的契約 の規範的適用を与えている。彼は、より一般的なこの契約を 「支配契約 」と呼んでいる。ペイトマンが契約主義は本質的に支配を容認するものだとするのに対し、ミルズ氏は、より現実的な非理想的出発点から出発し、現存する不公 正をいかに合理的に排除すべきかを問うことで、契約理論を救済することができるとする。しかし、彼の正論は、道徳的平等という前提から出発しているため、 契約主義というよりはむしろ契約主義的である。 つまり、契約の当事者になることを許されるのは誰か、契約から排除される者はどのように扱われるべきか、という問いが、上記の批評の中心となっている。規 範的契約主義の考え方では、他者に利益を与え、また他者に利益を還元することができる者すべてを契約当事者に含めるのが合理的である。規範的契約主義で は、非白人や女性も他者から利益を受け、他者に利益を還元できるという前提に立てば、性的契約や人種的契約は根本的に不合理であることがわかる。ゴーティ エは実際、自分の契約主義は、搾取的な親密な関係を終わらせるというフェミニズムのプロジェクトを助けるものだと明確に主張している。契約主義の道徳は、 愛情の絆を前提とせず、相互に有利でない関係を否定する。彼は、「社会性は......仲間意識がなければ自分にとって犠牲となるような制度や慣行を受け 入れるように人を誘導すれば、搾取の源となる」(1984, 11)と書いている。このテーマは、フェミニストの契約主義の擁護にも取り入れられている(Hampton 1993)。フェミニスト思想における契約主義をめぐる議論では、契約主義者が本源的価値の問題を捏造するのではないかという懸念があり、これとは対照的 に、(ホッブズ的な)契約主義は、本源的価値の仮定なしに、世話関係の搾取的性質に関するフェミニストの主張を裏づけることができると考えられている (Sample 2002)。最後に、一部の哲学者の手にかかると、社会契約論は抑圧条件下で形成された適応的選好を明らかにすることで、抑圧、特にジェンダー抑圧と闘う ための装置となる(Walsh 2015)。 |
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6. 障害、動物、互恵、そして信頼 しかし、障害者の権利活動家たちは、規範的契約主義に対してまだ重大な不満を持っているように思われる。規範的契約主義の考え方では、そのような人は正義 のルールの範囲外ということになる。障害者に関する最近の文献は、それとは逆に、契約主義は障害者を包摂しうると論じている。例えば、実際には、ほとんど の障害者とすべての介護者は、明確な戦略的理由から交渉グループに含まれると主張することができる(Becker 2005)。協力は相互に有利であるという契約主義者の基本的な洞察は、誰かが貢献する協力者として含まれることができればいつでも、すべての人にとって 実現すべき利益があることを意味している。多くの障害者は、すでに貢献する能力があるか、便宜を図ったりリハビリを施したりすることで貢献できる可能性が ある。したがって、便宜を図ったりリハビリを施したりすることは社会にとって有利であり、そうすることで恩恵を受ける人々からの相互貢献が必要となる。リ ハビリを受けることができない障害者に対しては、契約主義は別の解決策を提供する。すなわち、「相互に有利な」社会保険制度であり、それを必要とするすべ ての人に尊厳ある標準的なケアを提供するのである(Becker 2005)。現在健康な契約者は、介護を必要とする確率が低いため、すでに障害のある人ほど高い保険料を支払う必要はないと考える人もいるかもしれない。 この保険制度が機能するためには(そして逆選択の問題を回避するためには)、全員が自分の状態を事前に知ることなく同額の保険料に同意する必要がある。し かし、契約主義者がこの合意を正当化できるとは考えにくい。一方、契約主義者は、このような合意は合理的に拒否できないと主張することができる。この論法 は、この見解が平等主義に陥ることを覚悟の上で、いかなる形の不運に対しても同様の論法が成り立たないことを示さなければならないだろう。 このような考え方は、ある障害者に将来期待される貢献の可能性を超えるレベルのリハビリテーションや宿泊の必要性があるという反論を引き起こす。そして、 障害者は社会を不安定にする脅威を持ち出すような立場にはないので、彼らと契約する動機は期待される利益でなければならない。相互利益と互恵性という考え だけに頼っていては、このような人々、つまり「はみ出し者」を契約の外に置き去りにし続けることになり、別の道徳的理論があれば、彼らが正当に主張できる ような許容可能な機能レベル以下に低迷することになる。ある人たちによれば、契約は本質的に敵対的である必要はない(Francis & Silvers 2005)。相互合意の利益は、「相互の期待に対する安定した遵守を促進する」(Francis & Silvers 2005, 60)ことによって最もよく達成されるので、契約の本質的な要素は信頼の発展であり、信頼がより深く、より広範であればあるほど、契約にかかる執行コスト は低くなる。信頼醸成の重要性を認めれば、障害者も健常者と同様に、おそらくはより脆弱であるがゆえに、この風土に貢献することができる。つまり、他者に ケアを依存する障害者は、裏切りや無視に対する恐怖を捨て、前向きで前向きであり続けることを決意し、それによって自分自身と介護者に肯定的な情緒的風土 をもたらすことができるのである。この信頼構築に向けた感情的な働きかけが、社会善への貢献となるのである。このように、他者の侵害を恐れるのではなく、 相互利益のために協力するという動機に焦点を当てることで、より包括的で積極的な契約主義的政治理論が見えてくる。この考え方は、人間の道徳的心理は、 いったん協力する気質が芽生えれば、目先の自己利益を満足させるために自分が結んだ合意をごまかしたり、他者に危害を加えたりする気質を失うという仮定 (ゴーティエの仮定と似ている)に依存している。先に述べたように、この仮定はしばしば契約主義を批判する人々から疑問視されてきた。 契約によって生み出される正義のルールの範囲に動物を含めるというケースはより難しい。なぜなら、互恵を得るために適切な便宜を図り、それに依存するだけ でよい障害者とは異なり、動物は他者に利益を還元することができず、理性的な相互作用もできないと考えられるからである。契約主義が動物の道徳的立場を説 明できるとすれば、障害者の場合よりも間接的な方法で説明しなければならない。動物の道徳的地位を、合理的相互作用が可能な他の契約者によって合意された 契約の一部として根拠づけることは可能かもしれない(Cohen 2007, 2009)。ボブは、ジェーンがボブの愛犬ロスコにも直接的な道徳的地位を認めるという条件でのみ、ジェーンと契約を結ぶことに同意したとしよう。ボブと ジェーンの契約の結果、ロスコは内在的道徳的地位を獲得し、ジェーンに相関的道徳的義務を課すことになる。もしジェーンが何らかの形でロスコに危害を加え るとすれば、ロスコの飼い主であるボブに対する義務に違反するだけでなく、ロスコ自身の内在的道徳的地位を有するロスコに対する義務にも違反することにな る。このように、契約者間の二者間協定は、理性的な相互作用ができず、他者に利益を還元することもできない存在にまで、正義のルールの適用範囲を拡大する 可能性がある。 他の契約者たちによって結ばれた合意から存在の道徳的地位を導き出すことは、契約者たちがtuisticな選好を持っていることを仮定しているだけでな く、多くの契約主義者たちが否定している仮定であるが、潜在的に、それらの存在の道徳的地位を、他の人たちが持っているtuisticな選好や利益の性質 に依存させることにもなる(Tanner 2013)。契約者は特定の種類の動物だけを保護することに同意するかもしれないし、そうすることが自分のより狭く解釈された利益と衝突しない場合にの み、動物を保護する契約を結ぶかもしれない。その結果、身体障害者や動物など、さまざまな理由で最初の状況に参加できない人々の地位は、契約論的思考にお いて依然として論争の的となっている。 |
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https://plato.stanford.edu/entries/contractarianism/ |
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リ ンク
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