「人類学」以前のフィールドワーク
Fieldwork in the time before the establishment of modern anthropology: With People of the Tierra del Fuego
A watercolour of a native from Tierra del Fuego, painted by Conrad Martens (1801-1878) when he and Charles Darwin visited the area during the Voyage of the Beagle (1832/34).
フエゴ島民のほとんどの人は掘立小屋風の家から遠巻きに上陸隊を見守り「長老」格の老人が上陸隊を迎えた様子が、ビーグル号に乗船した 画家によって描かれ、『ビーグル号航海記』に収載されている。ダーウィンの記述によると、ジェミー・ボタンは島民たちのことばを理解できなかったらしく、 通訳としては役割をほとんど果たさなかった。。その変わりに上陸隊は身振り手振りでコミュニケーションをおこなっている。この接触の様子は、それにはるか に遡る三五〇年前のコロンブスの探検や、およそ半世紀前のクックの探検における最初の接触(ファースト・コンタクト)とたいして変わらない。もちろんこれ は人類学の調査のレベル以前の問題で、むしろ歴史的記録の部類に相当するものである。なぜならダーウィンたちが想像する意味を相手の身振りから恣意的に都 合のよいように推察しているに他ならないからである。
ダーウィンにとってすべてが初めての野蛮人との遭遇であった。ダーウィンは、彼らの話し方、身振り、着ている衣類、態度や容貌を簡潔 にではあるが、細か く描写している。そして事実の後に、彼にとっての意味や解釈を短く添えるのである。この記録はとても印象的である。このことについて次節で引用しながら解 説を加えてみよう。
HMS Beagle at Tierra del Fuego (painted by Conrad Martens). HMS
Beagle in the seaways of Tierra del Fuego, painting by Conrad Martens
during the voyage of the Beagle (1831-1836), from The Illustrated
Origin of Species by Charles Darwin, abridged and illustrated by
Richard Leakey
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ダーウィンのフエゴ島民の最初の接触は次のような言葉でつづられている。
「声の届く距離にわれわれが到着したとき、そこにいた四人の野蛮人たちの一人は迎えに進みでて、船つき場所を教えるのにひどくはげしく 怒鳴りだした。われわれが上陸すると、その連中はやや警戒しているようだったが、のべつにしゃべったり、非常に速く身振りをしたりした。私にとっては、ど の男の様子も、今までに見たこともないほどの不思議な面白い見物だった。蛮人と文明人の間にこれほど著しい隔たりがあるとは信じられなかった。人間には改 善の能力があるはずだから、この差は野獣と家畜との差よりもさらに大きい」(中、四八ページ)。【一部改訳】
「その老人は額に白い羽毛の鉢巻をして、それで黒い、ちぢれた、粗い髪を幾分つつんでいた。顔には二本の広い横棒を描いてあって、その 一本は鮮やかな紅色に塗られて、上唇から両耳に達しており、他の一本はチョークのように白く、前記の棒の上に平行しているので、まぶたまで塗りこめられて いた。……この連中はだいたい『魔弾の射手』のような劇の舞台に出てくる悪魔によく似ていた」(中、五〇ページ)。【要改訳】
ダーウィンは幾度も野蛮人たちとの違和感をおもに視覚的表現を通して述べている。それらは、彼らのみすぼらしく奇妙な衣装や顔面の装 飾である。これはファースト・コンタクトの時に「他者」である彼らと「自己」としての私たちを、もっとも際だたせる要素である。『ビーグル号航海記』の他 の箇所では、ヨーロッパの宣教師たちは顔や四肢への刺青を野蛮の表象としてつねに嫌悪しその習慣を止めさせようとしたことに述べているが、初期の人類学の 記録にはこれらの刺青のデザインについての非常に事細かな記録が残っている。後になって我々は、よく目立つ野蛮の印(これを有徴という)が、いつしか今度 は逆に、文明人にとって野蛮を回顧するノスタルジーの対象となることに、気づくはずである。
しかし、このダーウィンの説明は、同乗している「文明化した」フエゴ島民と彼ら野蛮人が同じ人たちであったことを忘れている。とにか く、彼には文明人と 野蛮人の絶対的な距離の隔たりしか頭にない。それは、野蛮人の特異的な能力の差に現れる
「彼らは物まねがうまい。われわれが咳をしたり、あくびをしたり、あるいはなにか変わった動作をすると、彼らはすぐそのまねをし た。……彼らは、われわれが話しかけた語句の一つ一つの語を覚えていた。ところが、われわれヨーロッパ人はいずれも外国語の音声を弁別することが、どれほ ど難しいか、よく知っている。例えば、われわれのうちで誰がアメリカインディアンの言語で、三語以上の文句をそれについてゆくことができるのか。すべての 野蛮人は不思議なほど、模倣力をもっているとみえる。……またオーストラリア人は他人の歩き方をまねて表現し、またそのまねによって、正真の当人の判別が できることが以前から有名である。この能力をどうして説明したものであろうか。これは野蛮な状態にある人々に共通したことであって、永らく文化(教養?) に浴している人々よりも、知覚を著しく実際に動かす習慣や、鋭敏な感覚による結果であろう」(中、五一ページ)【要改訳】。
模倣の能力のみならず五感の感覚能力が野蛮人が文明人より優れているというこの種の記録は探検家たちに共通した印象であった。しかし この記録は、後にダーウィンたちが打ち立てる人間の種としての生物学的共通性の議論とは論理的齟齬を引き起こした。なぜなら一方で野蛮人と文明人の両者の 間で感覚力に差があると言い、他方で両者は同じ生物学的能力をもつと主張されたからである。そのため、人類学が誕生する一九世紀の最後の四半世紀から二〇 世紀の初頭にかけて、心理学者、医学者、そして人類学者たち——多くはその三つの役割を一人の人間が掛け持った——は、フィールドに出かけてさまざまな身 体能力や知能検査を含む心理的能力の調査に従事することになる。
Annie Darwin (1841-1851), daughter of Charles and Emma Darwin. Daguerrotype taken in 1849.
「われわれの注意したところでは、この部族の言語はほとんど音節をなしているというに価しない。キャプテン・クックはそれをうがいをし ている人にたとえたが、ヨーロッパ人ならば、これほどしわがれた、喉にかかる、舌打ちをするような音をたてて、うがいをする者はあるまい」(中、五〇ペー ジ)。【一部改訳要改訳】
他者の言語が奇妙に聞こえるのは、人間がもつ基本的偏見でありダーウィンも例外ではない。先住民の言語については、宣教師たちが布教 の必要に応じて現地語を学んだり語彙集をまとめたりしている。ダーウィンが指摘する言語には、その後、人類学者が本格的に調査するようになり——ハウシュ を含むオナについては二〇世紀の最初の四半世紀に調査がなされている——隣接するヤガンの人たちよりも、パタゴニア南端に住んでいた先住民族テウエシュ (Teuesh)と言語学的には類縁関係が強いことがわかっている。ダーウィンが描写する「舌打ち」の発音とは現在の言語学においては摩擦音であり、「う がいをする」音とは口蓋垂という喉の一番奥の部分で声門化する音であり、非ヨーロッパ語には広くみられる発音の形式である。実際およそ一〇〇年後の人類学 者はオナ人の発音上の特徴を破裂音と軟口蓋音に特徴づけている。先に挙げたように視覚表象とともに、人間の主要なコミュニケーションの手段である言語活動 もまた、未開と文明を分かつ一つの特徴とされたのである。しかし、特定の言語の間に優劣があるという考え方は、これ今日では誤りとされている。
このように現在の文化人類学の水準から言えば、素人科学者による独断と偏見に満ちたものだと言えないこともない。しかしながら、ダー ウィンは、ヨーロッ パの文明人との隔たりにとまどいながらも、それらが先天的なものではなく、習慣の差によって現れる可変的なものとしてとらえていることに我々は注目すべき である。人種差別的な偏見にみられるように文明人と野蛮人の間に移行不可能な壁があると彼が考えなかった理由は、先に述べたようにビーグル号に乗船してい た三人のフエゴ島民の観察——英国人と共に生活することで野蛮人は文明化(=発達)するという事実——を通してであったと思われる。
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ダーウィンの『ビーグル号航海記』をめぐって、ダーウィンの生い立ちや探検がおこなわれて時代背景、そして、ダーウィンが直接接触し た「野蛮人」の記録を通して、「人類学」以前のフィールドワークがどのような社会的状況のもとでおこなわれてきたかについて紹介してきた。この書物の読解 は、したがって人類学について学ぶことには直接には繋がらない。
では今日においてダーウィンの『ビーグル号航海記』を読むことにいったいどのような価値があるのだろうか。私の意見はこうである。こ の書物から人類学に ついて何かを学ぼうとするとそれは失敗する。しかし、どのようにして世界の果てまで西洋近代の人たちが敢えて危険な旅をして、人間を含めた異質な事物や風 習を「発見」しようとしたのか。その動機は何であったのか。そこから得たものはなにか。『ビーグル号航海記』は、そのことを考察するふさわしい一つの事例 であるということだ。
若き日のダーウィンが船出をしようとしている時、フランスの哲学者オーギュスト・コント(1798-1857)は人間の知識は神学 的、形而上学的、そし て実証的段階という三つの発展をとおして進歩すると主張して、彼の言うところの実証哲学に関する著述活動を続けていた。コントはこの作業をとおして社会学 と実証哲学を完成させようと目論んでいた。コントが夢見ていた思弁をダーウィンは、その脈絡とはほとんど関係なくそれを実践していた。それからおよそ一〇 年後社会運動家のフリードリヒ・エンゲルス(1820-95)は著作『イギリス労働者階級の状態』(1845)の中で、イギリスの労働者の中に共産主義革 命の担い手としての夢を仮託し、実際に彼らの生活を見聞きし、彼らと話し合うという経験を通して、悲惨な状況におかれている労働者の中に「新しい人間」の 誕生を見いだし、その確固たる意志と未来を見ている。これらの人々の精神の中に、世界と経験がどのように関連しているのだろうか。それは一九世紀の近代 ヨーロッパの知識人の中に、観察をもとにして理論を構築し、それを再び経験的事実から確認することを通して、理論が確かめられるという実証主義の精神であ る。
だがこれらの活動の中における野蛮人の未来は彼らの関心の埒外であり、文明化が進めばいずれ滅びる人たちであった。この時期に、野蛮 人について詳細な記 録を取り始めていたのは科学者ではなく宣教師たちであった。彼らは言葉を学び、語彙を増やし、人々と共に暮らす時間が増えるに連れて人々の文化の概観につ いて報告をおこない始めた。その時に初めて、野蛮人の模倣の能力について、あれこれ想像力を働かすよりも、その実生活に関心をもちはじめ、また「うがいを する」発音に驚嘆するのではなく、その発話の内容に理解を示し始めた。このような実践は、今日人類学においてフィールドワークとよばれているものにきわめ て類似する。そして、これが人類学の始まりであると、読者に説明できればよいのだが、残念ながら事実はこれとは異なり、事情はもっと複雑である。
ダーウィンのフエゴ島民との接触してから半世紀後、のちに進化主義人類学とよばれる人類学理論がタイラーらによって始まったが、これ
らの理論的関心は
フィールドワークによってある種の事実を構築するということにはなく、ダーウィンの進化論を受けて、人間の社会の歴史的発展を進化論から説明するというこ
とにより力点が注がれた。このような理論的指向がつよくフィールドワークを通して実証が困難な進化主義的な歴史検討を放棄し、フィールドワークが理論を作
るのだという実証主義にもとづく科学を模範とする機能主義がイギリスの学界に登場するのは、ダーウィンのフエゴ島探検のおよそ一世紀後の一九二〇年代のこ
とであった。
Mitsuho_ikeda_Darwinian_fieldwork_2002
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