モシェ・ダヤンのイスラエル
Moshe Dayan's Jerusalem
以下は1967年6月7日(第三次中東戦争あるいは6日戦争[Six-Day War]の3日目)のモシェ・ダヤンによるイスラエルの風景の述懐である。
「私は[西]壁に面して無言で立った。ポケットから小さなノートを取り出し数語※を走り書きすると、それを折りたたんで壁の石の割れ目の間 に押し入れた。何世紀にもわたるユダヤの巡礼の伝統に従ったのだり、彼らはこのように紙に書いた願い事や祈りを壁に捧げてきたのだった」(ダヤン 1978:9)。
※「イスラエルのすべての家に平和あれ」(ダヤン 1978:10)。
「エルサレムに数年間住んだことはあるが、私はエルサレム人ではな
い。一九四八年以前に旧市街を訪れた時は、別世界に踏み込んだ感があ
った。厚い石壁に囲まれた世界は、物売り、商人、海外からの観光客や
巡礼でごった返すバザーであり、頭巾を冠ったアラビア人、伝統的な黒
服を着たハシド派のユダヤ人、位階を示すローブをまとった司祭や尼僧
で満ちていた。狭い市場の通路から曲りくねった石段が上の方に通じて
いるが、先は暗いナゾめいた小路に消えてしまう。すべてが、私の生ま
れ育ったイスラエル、開放的な光に溢れたイスラエルとは全く違ってい
た。しかしいま、この解放の日、エルサレムは私の知っている町のよう
ではなかった。パラシュート部隊兵、戦車兵、エルサレム歩兵旅団の兵
士たちが、肩に銃を吊るし、眼には喜びを浮かべて市内に充満していた。
これこそわれわれが憧れ、そのために戦ってきた町エルサレム、われわ
れの町エルサレム、ユダヤのエルサレムであり、自由なお祭り気分に浮
かれていた。だが、悲しみもあった。この祝祭を可能にするために失わ
れた生命に対する悲しみ、一九四八年に破壊されたユダヤ人地区を初め
て見た時の悲しみ。/
この日、エルサレムはそれを解放した軍隊のものだった。これから先
は、再びかつてそうであった通りの、全イスラエルのエルサレムになる
だろう。
私はユジ[・ナルキス]に、旧市街の城壁の門を開け放すように指令した。これから
は、東西が一つに統一された市に関する取りきめや、ユダヤ人とアラブ
入社会の共存のための新しい調和のとれたパターンをいかにして導き出
すかを考え、決定する必要に追られることになろう。それには時間がか
かる。旧市街の城壁は素晴らしい創造物で、世界のいかなる記念物も及
ばない、さからい難い偉大さを持っている。しかし、私はそれが異なっ
た居住区の間を分かつ障壁となることを望まなかった。私はその門が、
あらゆる意味で新旧二つの世界に開かれたものとなることを望んだ。/
私は空路総司令部に戻った。ヘリコプターの中で、私は外套に身を包
み、片隅に丸くなっていた。眠りたかったわけではなく、話したくなか
ったのである。解放されたエルサレムの市内を見たことで呼びさまされ
た感情が消え去るのが厭だった。エルサレムは、かつてなかったほど私
の身近にあった。二度とわれわれは離れはしないだろう」(ダヤン 1978:10)。
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