義務論
Deontology
☆ イマヌエル・カント(1724-1804)の義務論 は、他の彼の哲学上の業績でもそう ですがゴリゴリの精密な論証をおこなうために難解で分かりにくいものになっています。他方、その論証の「美しさ」のために、カントの議論にハマるとその手 際の鮮やかさに舌をまき、皆を魅了するそうです。つまり、議論のシステムがわかると、カントの主張による「正しい」行為を明証性——理屈としてすっきりす る——をもって理解できるというのです。カントは、先に触れたイギリスの懐疑主義者ヒューム(1711-1776)とフランスの啓蒙思想家のジャン= ジャック・ルソー(1712 -1778)の影響を受けて、啓蒙主義的伝統における重要な概念である理性(合理性=正しい論理=人間存在を超えたという意味で「物自体 Ding an sich」までレベルが上がる)に、倫理を考える際にもとても重要なあるいは特権的とも言える位置を与えます。物自体ということは全宇宙を通してすら普遍 的=一般的であるということですので、この理性の法則に、人間もまた従うべきだ——なぜなら宇宙の法則ならその成員である人間にも当てはまるから——と考 えます。そう考えると人間はデフォルトで法則にしたがっているから道徳など必要ないと思われるのですが、カントはそう考えません。彼は、啓蒙主義から受け 取った「自覚してかつ行動し前よりもよりよく成長する」人間観をもっていますので、その法則に人間を従わせる規則——道徳法則——を与えます。それが「君 が意志し自分自身で決めている規則や規約(=格率・格律[かくりつ]という)が、すべての人に妥当する普遍的法則になることを願うようなものになるように 行 動しなさい*」(=君の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ——『実践理性批判』) というものです[* Act only according to that maxim whereby you can, at the same time, will that it should become a universal law.]。格率・格律(かくりつ)とはドイツ語のMaxime の訳語のことで、主観的=あなただけにのみ使える実践的な原則や規則(=例:寝る前に必ず歯を磨く人のその習慣)。これはあることを促していますが実際に は命令文に近いので、カントの「定言命法(ていげん・めいほう)」と呼ばれます。
★こ
のカントが命じる法
則は「普遍的立法の原理」がわからないから格率と合致しているかどうかわかならい、と言い逃れできそうですが、こう考えるとどうでしょうか。普遍的立法の
原理は、私にとっても正しいで
すが、他ならぬ他人においても正しいはずです。普遍立法をなにか難しい規則と考えずに、他人にも共有可能な——より積極的には共有しなければならない——
規則だとすると、他人が自分にやってほしいという行為(原則)は、自分が他人にやってあげる行為(原則)と同じでなければならないし、他人が自分にやって
ほしくないことを、自分が他人にやってはならないことになります。他人が自分に対して正直であってほしいならば、自分もまた他人に対して正直でなければな
りません。また、自分が他人からいじめてほしくないのであれば、他者をいじめてはいけないことになります。この定言命法はカントが編み出したものですが、
カントはこのような法則が導かれるのは、自分自身のオリジナルではなく、誰もが推論すれば、それは人間の理性の働きによるもので、そのように我々は結論で
きるのだと言います。これを「意志の自律」と呼びます——ここから他者から意志を押しつけるられる、つまり意志の自由が阻害される(=邪魔される)のはイ
カンという原理が見つけられます(だから意志の自律と意志の自由は、お互いがお互いを保証しかつ人間にとって崇高なものだということになります)。という
わけで、カントは抽象的な行為原則=義務
法則をいっけん我々に対して要求しているように思えるので、それを「〜しなければならない」理屈すなわち義務論(Deontology)と呼ぶようになり
ました——従ってカントによると真の義務とは人や社会から押しつけられるものではなくその人の自由を守りかつその自由の考え方から導きだされる行動の原理
の一部だということになります。いずれにせよ、その抽象的な義務論は、実際に日常行為のなかに当てはめてみると、不思議なくらい具体的に「正しい行為」を
導くことができるので、 この議論のやり方と実践原理を紡ぎ出す方法というのもなかなか侮りがたい(=容易には批判しがたい)ものがあります。
In moral philosophy,
deontological ethics or deontology (from Greek: δέον, 'obligation,
duty' + λόγος, 'study') is the normative ethical theory that the
morality of an action should be based on whether that action itself is
right or wrong under a series of rules and principles, rather than
based on the consequences of the action.[1] It is sometimes described
as duty-, obligation-, or rule-based ethics.[2][3] Deontological ethics
is commonly contrasted to consequentialism,[4] utilitarianism,[5]
virtue ethics,[6] and pragmatic ethics.[7] In this terminology, action
is more important than the consequences. The term deontological was first used to describe the current, specialised definition by C. D. Broad in his 1930 book, Five Types of Ethical Theory.[8] Older usage of the term goes back to Jeremy Bentham, who coined it prior to 1816 as a synonym of dicastic or censorial ethics (i.e., ethics based on judgement).[9][10] The more general sense of the word is retained in French, especially in the term code de déontologie (ethical code), in the context of professional ethics. Depending on the system of deontological ethics under consideration, a moral obligation may arise from an external or internal source, such as a set of rules inherent to the universe (ethical naturalism), religious law, or a set of personal or cultural values (any of which may be in conflict with personal desires). |
道徳哲学において、非論理的倫理学または義務論(ギリシャ語:
δέον, 「義務、義務」 + λόγος,
「学問」)とは、ある行為の道徳性は、その行為の結果に基づくのではなく、一連の規則や原則の下で、その行為自体が正しいか間違っているかに基づくべきで
あるという規範的倫理理論である[1]。 [義務論的倫理学は一般的に帰結主義、功利主義、徳倫理学、プラグマティック倫理学と対比される。 より古い用法では、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)に遡り、彼は1816年以前にこの言葉を、ディカスティック倫理学(dicastic ethics)または検閲倫理学(censorial ethics)(すなわち、判断に基づく倫理学)の同義語として造語した[9][10]。この言葉のより一般的な意味は、フランス語、特に職業倫理の文脈 で、code de déontologie(倫理規定)という用語に残されている。 考慮される義務論的倫理の体系によって、道徳的義務は、宇宙に内在する一連の規則(倫理的自然主義)、宗教的法則、または一連の個人的もしくは文化的価値 観(そのいずれもが個人的欲望と対立する可能性がある)など、外的または内的な源から生じることがある。 |
Deontological philosophies There are numerous formulations of deontological ethics. Kantianism Immanuel Kant Main article: Kantian ethics Immanuel Kant's theory of ethics is considered deontological for several different reasons.[11][12] First, Kant argues that in order to act in the morally right way, people must act from duty (Pflicht).[13] Second, Kant argued that it was not the consequences of actions that make them right or wrong, but the motives of the person who carries out the action. Kant's first argument begins with the premise that the highest good must be both good in itself and good without qualification.[14] Something is "good in itself" when it is intrinsically good; and is "good without qualification" when the addition of that thing never makes a situation ethically worse. Kant then argues that those things that are usually thought to be good, such as intelligence, perseverance, and pleasure, fail to be either intrinsically good or good without qualification. Pleasure, for example, appears not to be good without qualification, because when people take pleasure in watching someone suffer, this seems to make the situation ethically worse. He concludes that there is only one thing that is truly good: Nothing in the world—indeed nothing even beyond the world—can possibly be conceived which could be called good without qualification except a good will.[14] Kant then argues that the consequences of an act of willing cannot be used to determine that the person has a good will; good consequences could arise by accident from an action that was motivated by a desire to cause harm to an innocent person, and bad consequences could arise from an action that was well-motivated. Instead, he claims, a person has a good will when they "act out of respect for the moral law."[14] People "act out of respect for the moral law" when they act in some way because they have a duty to do so. Thus, the only thing that is truly good in itself is a good will, and a good will is only good when the willer chooses to do something because it is that person's duty; i.e., out of respect for the law. He defines respect as "the concept of a worth which thwarts my self-love."[15] Kant's three significant formulations of the categorical imperative (a way of evaluating motivations for action) are: Act only according to that maxim by which you can also will that it would become a universal law; Act in such a way that you always treat humanity, whether in your own person or in the person of any other, never simply as a means, but always at the same time as an end; Every rational being must so act as if he were through his maxim always a legislating member in a universal kingdom of ends. Kant argued that the only absolutely good thing is a good will, and so the single determining factor of whether an action is morally right is the will, or motive of the person doing it. If they are acting on a bad maxim—e.g., 'I will lie'—then their action is wrong, even if some good consequences come of it. In his essay, "On a Supposed Right to Lie Because of Philanthropic Concerns", arguing against the position of Benjamin Constant, Des réactions politiques, Kant states that:[16] Hence a lie defined merely as an intentionally untruthful declaration to another man does not require the additional condition that it must do harm to another, as jurists require in their definition (mendacium est falsiloquium in praeiudicium alterius). For a lie always harms another; if not some human being, then it nevertheless does harm to humanity in general, inasmuch as it vitiates the very source of right [Rechtsquelle].… All practical principles of right must contain rigorous truth.… This is because such exceptions would destroy the universality on account of which alone they bear the name of principles. |
義務論的哲学 義務論的倫理学には数多くの定式化がある。 カント主義 インマヌエル・カント 主な記事 カント倫理学 カントは、道徳的に正しい行動をとるためには、人は義務(Pflicht)から行動しなければならないと主張する。 カントの第一の議論は、最高善はそれ自体が善であり、かつ無条件に善でなければならないという前提から始まる[14]。何かが「それ自体が善」であるの は、それが本質的に善であるときであり、「無条件に善」であるのは、その何かが加わることによって状況が倫理的に悪化することがないときである。そしてカ ントは、知性、忍耐、快楽など、通常善であると考えられているものは、本質的に善でもなければ、無条件に善でもないと主張する。例えば、快楽は無条件に善 ではないように見える。なぜなら、人が苦しむのを見て快楽を感じるとき、その状況は倫理的に悪くなるように見えるからである。彼は、真に善いものは一つし かないと結論づける: 善なる意志を除いて、無条件に善と呼べるようなものは、この世界には、いや、この世界を超えるものでさえも、考え出すことはできない。 善い結果は、罪のない人に危害を加えたいという欲望に突き動かされた行為から偶然生じる可能性があり、悪い結果は、十分に動機づけられた行為から生じる可 能性があるからである。そうではなく、「道徳律を尊重して行動する」とき、人は善意を持っていると彼は主張する[14]。人が「道徳律を尊重して行動す る」のは、そうする義務があるから何らかの行動をとるときである。したがって、それ自体が真に善である唯一のものは善い意志であり、善い意志が善であるの は、意志を持つ人が、それがその人の義務であるから、すなわち法を尊重して何かをすることを選択したときだけである。彼は尊重を「私の自己愛を妨げる価値 の概念」と定義している[15]。 カントの定言命法(行為の動機を評価する方法)の3つの重要な定式化は以下の通りである: 普遍的な法則となるような格言に従ってのみ行動せよ; 自分自身であれ、他の人であれ、人間性を単なる手段としてではなく、常に目的として扱うように行動すること; すべての理性的存在は、あたかも自分がその格言を通じて、普遍的な目的の王国の立法メンバーであるかのように行動しなければならない。 カントは、唯一絶対的に善いものは善い意志であり、ある行為が道徳的に正しいかどうかを決定する唯一の要因は、その行為を行う人の意志、すなわち動機であ ると主張した。例えば、「私は嘘をつく」というような悪い最大公約数に基づいて行動しているのであれば、たとえ良い結果がもたらされたとしても、その行動 は間違っているのである。 カントは、ベンヤミン・コンスタン(Benjamin Constant)の『政治的反応(Des réactions politiques)』に反論する小論「慈善的関心から嘘をつく権利について(On a Supposed Right to Lie because of Philanthropic Concerns)」の中で、次のように述べている[16]。 それゆえ、単に意図的に他者に真実を告げない宣言として定義される嘘は、法学者がその定義において要求するような、他者に害を与えるという追加条件を必要 としない(mendacium est falsiloquium in praeiudicium alterius)。というのも,嘘は常に他人を害するからである。ある人間でなくとも,権利の根源[Rechtsquelle]を損なう以上,それは人 類一般に害を与えるからである......権利の実践的原則はすべて,厳密な真理を含んでいなければならない......なぜなら,そのような例外は,そ れだけで原則の名を冠する普遍性を破壊してしまうからである。 |
Divine command theory Main article: Divine command theory Although not all deontologists are religious, some believe in the divine command theory, which is actually a cluster of related theories that essentially state that an action is right if God has decreed that it is right.[17] According to English philosopher Ralph Cudworth, William of Ockham, René Descartes, and 18th-century Calvinists all accepted various versions of this moral theory, as they all held that moral obligations arise from God's commands.[18] The divine command theory is a form of deontology because, according to it, the rightness of any action depends upon that action being performed because it is a duty, not because of any good consequences arising from that action. If God commands people not to work on Sabbath, then people act rightly if they do not work on Sabbath because God has commanded that they do not do so. If they do not work on Sabbath because they are lazy, then their action is not, truly speaking, "right" even though the actual physical action performed is the same. If God commands not to covet a neighbour's goods, this theory holds that it would be immoral to do so, even if coveting provides the beneficial outcome of a drive to succeed or do well. One thing that clearly distinguishes Kantian deontologism from divine command deontology is that Kantianism maintains that man, as a rational being, makes the moral law universal, whereas divine command maintains that God makes the moral law universal. |
神の命令説 主な記事 神の命令説 イギリスの哲学者ラルフ・カドワースによれば、オッカムのウィリアム、ルネ・デカルト、18世紀のカルヴァン主義者たちは皆、この道徳理論の様々なバージョンを受け入れており、彼らは皆、道徳的義務は神の命令から生じると考えていた[18]。 神の命令説は義務論の一形態であり、それによれば、あらゆる行為の正しさは、その行為から生じる善い結果のためではなく、それが義務であるためにその行為 が実行されることに依存するからである。神が安息日に働くなと命じたのであれば、安息日に働かないことは正しい行為である。怠け者だからという理由で安息 日に働かないのであれば、実際に行っている物理的な行為は同じであっても、その行為は本当の意味で「正しい」とは言えない。神が隣人の財を貪るなと命じて いるのであれば、たとえ貪ることが成功や成功への意欲という有益な結果をもたらすとしても、そうすることは不道徳であるとするのがこの理論である。 カント主義的な義務論と神的な命令論とを明確に区別する点のひとつは、カント主義が理性的存在としての人間が道徳法則を普遍的なものにすると主張するのに対し、神的な命令は神が道徳法則を普遍的なものにすると主張することである。 |
Ross's deontological pluralism W. D. Ross objects to Kant's monistic deontology, which bases ethics in only one foundational principle, the categorical imperative. He contends that there is a plurality (7, although this number is seen to vary to interpretation) of prima facie duties determining what is right.[19][20]: xii These duties are identified by W. D. Ross: the duty of fidelity (to keep promises and to tell the truth) the duty of reparation (to make amends for wrongful acts) the duty of gratitude (to return kindnesses received) the duty of non-injury (not to hurt others) the duty of beneficence (to promote the maximum of aggregate good) the duty of self-improvement (to improve one's own condition) the duty of justice (to distribute benefits and burdens equably).[20]: 21–5 [21] One problem the deontological pluralist has to face is that cases can arise where the demands of one duty violate another duty, so-called moral dilemmas.[22] For example, there are cases where it is necessary to break a promise in order to relieve someone's distress.[20]: 28 Ross makes use of the distinction between prima facie duties and absolute duty to solve this problem.[20]: 28 The duties listed above are prima facie duties (moral actions that are required unless a greater obligation trumps them); they are general principles whose validity is self-evident to morally mature persons.They are factors that do not take all considerations into account. Absolute duty, on the other hand, is particular to one specific situation, taking everything into account, and has to be judged on a case-by-case basis.[19][23] It is absolute duty that determines which acts are right or wrong.[19] |
ロスの義務論的多元主義 W. W.D.ロスはカントの一元論的義務論に異論を唱えている。この義務論は倫理学の基礎となる原理を定言命法ただひとつに置いている。彼は、何が正しいかを 決定する一応の義務は複数(7つ、ただしこの数は解釈によって異なると見られる)存在すると主張する[19][20]: xii。 これらの義務はW・D・ロスによって特定されている: 忠実義務(約束を守り、真実を語ること) 賠償の義務(不当な行為を償うこと) 感謝の義務(受けた親切に報いること) 不侵害の義務(他人を傷つけないこと) 恩恵の義務(善の総体を最大限に促進すること) 自己改善の義務(自分の状態を改善すること) 正義の義務(利益と負担を公平に配分する) [20]: 21-5 [21]. 義務論的多元主義者が直面しなければならない問題の一つは、ある義務の要求が他の義務に違反するケース、いわゆる道徳的ジレンマが生じうるということであ る[22]。例えば、誰かの苦痛を和らげるために約束を破る必要があるケースがある[20]: 28。ロスはこの問題を解決するために、一応の義務と絶対的義務との区別を利用している。 [それらは一般原則であり、その妥当性は道徳的に成熟した人にとって自明である。他方、絶対的義務は、すべてを考慮に入れたある特定の状況に特有のもので あり、ケースバイケースで判断されなければならない[19][23]。どの行為が正しいか間違っているかを決定するのは絶対的義務である[19]。 |
Contemporary deontology Contemporary deontologists (i.e., scholars born in the first half of the 20th century) include Józef Maria Bocheński, Thomas Nagel, T. M. Scanlon, and Roger Scruton. Bocheński (1965) makes a distinction between deontic and epistemic authority:[24] A typical example of epistemic authority in Bocheński's usage would be "the relation of a teacher to her students." A teacher has epistemic authority when making declarative sentences that the student presumes is reliable knowledge and appropriate but feels no obligation to accept or obey.[25] An example of deontic authority would be "the relation between an employer and her employee." An employer has deontic authority in the act of issuing an order that the employee is obliged to accept and obey regardless of its reliability or appropriateness.[25] Scruton (2017), in his book On Human Nature, is critical of consequentialism and similar ethical theories, such as hedonism and utilitarianism, instead proposing a deontological ethical approach.[26] He implies that proportional duty and obligation are essential components of the ways in which we decide to act, and he defends natural law against opposing theories. He also expresses admiration for virtue ethics, and believes that the two ethical theories are not, as is frequently portrayed, mutually exclusive.[26] |
現代の義務論 現代の脱論者(すなわち20世紀前半に生まれた学者)には、ヨゼフ・マリア・ボチェンスキ、トマス・ナーゲル、T・M・スカンロン、ロジャー・スクルトンなどがいる。 ボチェンスキ(1965年)は、信義的権威と認識論的権威を区別している[24]。 ボシュンスキーの用法における認識論的権威の典型的な例は、「教師と生徒の関係」である。教師は、生徒が信頼できる知識であり適切であると推定するが、受け入れる義務も従う義務も感じない宣言文を作成するときに、認識論的権威を持つ[25]。 決定論的権威の例としては、「雇用者と被雇用者の関係 」が挙げられる。雇用主は、従業員がその信頼性や適切性に関係なく受諾・服従する義務を負う命令を発する行為において、脱論的権威を有する[25]。 スクルトン(2017)は著書『人間の本性について』において、帰結主義や快楽主義や功利主義といった類似の倫理論に批判的であり、代わりに脱論理学的な 倫理的アプローチを提案している[26]。彼は、比例的な義務や義務は私たちが行動を決定する方法の本質的な構成要素であることを示唆しており、対立する 理論に対して自然法を擁護している。彼はまた、徳倫理学への賞賛を表明しており、この2つの倫理理論は、しばしば描かれるように、相互に排他的なものでは ないと信じている[26]。 |
Deontology and consequentialism Further information: Trolley problem, Consequentialism, Utilitarianism, and Effective altruism Principle of permissible harm Frances Kamm's "Principle of Permissible Harm" (1996) is an effort to derive a deontological constraint that coheres with our considered case judgments while also relying heavily on Kant's categorical imperative.[27] The principle states that one may harm in order to save more if and only if the harm is an effect or an aspect of the greater good itself. This principle is meant to address what Kamm feels are most people's considered case judgments, many of which involve deontological intuitions. For instance, Kamm argues that we believe it would be impermissible to kill one person to harvest his organs in order to save the lives of five others. Yet, we think it is morally permissible to divert a runaway trolley that would otherwise kill five innocent, immobile people, onto a sidetrack where only one innocent and immobile person will be killed. Kamm believes the Principle of Permissible Harm explains the moral difference between these and other cases, and more importantly expresses a constraint telling us exactly when we may not act to bring about good ends—such as in the organ harvesting case. In 2007, Kamm published Intricate Ethics, a book that presents a new theory, the "Doctrine of Productive Purity", that incorporates aspects of her "Principle of Permissible Harm".[28] Like the "Principle", the "Doctrine of Productive Purity" is an attempt to provide a deontological prescription for determining the circumstances in which people are permitted to act in a way that harms others.[29] |
義務論と帰結主義 さらなる情報 トロッコ問題、帰結主義、功利主義、効果的利他主義 許容される害の原理 フランシス・カムの「許容される危害の原理」(1996年)は、カントの定言命法に大きく依拠しながらも、我々の考慮事例判断と一致する義務論的制約を導 き出そうとする試みである。この原則は、多くの人が考えるケース判断の多くが義務論的直観を含んでいるとカムが感じていることに対処することを意図してい る。例えば、私たちは5人の命を救うために1人の人間を殺して臓器を摘出することは許されないと考える。しかし、そうでなければ5人の罪のない動けない人 を殺してしまう暴走トロッコを、1人の罪のない動けない人だけが殺される脇道にそらすことは道徳的に許されると考える。カムは、「許容される害の原則」が これらのケースと他のケースとの間の道徳的な違いを説明し、さらに重要なのは、善い目的をもたらすために行動してはならない場合、例えば臓器狩りのケース のような場合を正確に教えてくれる制約を表現していると考えている。 2007年、カムは『複雑な倫理学』を出版し、彼女の「許容される害の原理」の側面を取り入れた新しい理論「生産的純粋性の教義」を提示している [28]。「原理」と同様に、「生産的純粋性の教義」は、人々が他者に害を与えるような行動をとることが許される状況を決定するための義務論的処方を提供 する試みである[29]。 |
Reconciling deontology with consequentialism Various attempts have been made to reconcile deontology with consequentialism. Threshold deontology holds that rules ought to govern up to a point despite adverse consequences; but when the consequences become so dire that they cross a stipulated threshold, consequentialism takes over.[30] Theories put forth by Thomas Nagel and Michael S. Moore attempt to reconcile deontology with consequentialism by assigning each a jurisdiction.[30] Iain King's 2008 book How to Make Good Decisions and Be Right All the Time uses quasi-realism and a modified form of utilitarianism to develop deontological principles that are compatible with ethics based on virtues and consequences. King develops a hierarchy of principles to link his meta-ethics, which is more inclined towards consequentialism, with the deontological conclusions he presents in his book.[31] |
義務論と帰結主義の和解 義務論と帰結主義を両立させるために様々な試みがなされてきた。閾値義務論は、不利な結果にもかかわらず、ある時点までは規則が支配すべきであるとする。 しかし、結果が規定された閾値を超えるほど悲惨になると、帰結主義が引き継ぐ[30]。30]。2008年に出版されたイアン・キングの著書『How to Make Good Decisions and Be Right All the Time(善き決断を下し、常に正しくあるために)』では、準実在主義と功利主義を修正した形式を用い、美徳と結果に基づく倫理と両立可能な義務論的原則 を展開している。キングは、帰結主義に傾いた彼のメタ倫理学を、著書で提示した脱ontologicalな結論と結びつけるために、原則の階層を構築して いる[31]。 |
Secular deontology Intuition-based deontology is a concept within secular ethics. A classical example of literature on secular ethics is the Kural text, authored by the ancient Tamil Indian philosopher Valluvar. It can be argued that some concepts from deontological ethics date back to this text. Concerning ethical intuitionism, 20th century philosopher C.D. Broad coined the term "deontological ethics" to refer to the normative doctrines associated with intuitionism, leaving the phrase "ethical intuitionism" free to refer to the epistemological doctrines.[32] |
世俗的義務論 直観に基づく義務論は、世俗倫理学の概念である。世俗倫理に関する文献の古典的な例は、古代タミル・インディアンの哲学者ヴァルヴァルが著した『クラル』 である。義務論的倫理学のいくつかの概念は、このテキストにまでさかのぼると言える。倫理的直観主義に関して、20世紀の哲学者であるC.D.ブロード は、直観主義に関連する規範的教義を指すために「非論理的倫理学」という言葉を作り、認識論的教義を指すために「倫理的直観主義」という言葉を残した [32]。 |
Convention (norm) – Set of agreed, stipulated, or generally accepted standards Categorical imperative – Central concept in Kantian moral philosophy Deontic logic – Field of philosophical logic Deontological libertarianism – Political ideology Lawrence Kohlberg's stages of moral development – Psychological theory describing the evolution of moral reasoning Meta-ethics – Branch of ethics seeking to understand ethical properties Moral responsibility – Concept in ethics Norm (philosophy) – Sentences used to effect an action Plank of Carneades – Thought experiment proposed by Carneades of Cyrene Rule according to higher law – Belief that universal principles of morality override unjust laws The Right and the Good – 1930 book by Scottish philosopher David Ross Divine command theory – Meta-ethical theory of morality Euthyphro dilemma – Ethical problem on the origin of morality posed by Socrates |
条約(規範) - 合意された、規定された、または一般的に受け入れられた基準のセット 定言命法 - カント道徳哲学の中心概念 非論理的論理 - 哲学的論理学の一分野 義務論的リバタリアニズム - 政治的イデオロギー ローレンス・コールバーグの道徳的発達段階 - 道徳的推論の進化を説明する心理学理論 メタ倫理学 - 倫理的特性を理解しようとする倫理学の一分野 道徳的責任 - 倫理学における概念 規範(哲学) - 行為を効果的に行うための文章 カルネアデスの板 - キレネのカルネアデスによって提案された思考実験 高次の法則に従った支配 - 普遍的な道徳原理が不公正な法律を覆すという信念 正義と善 - スコットランドの哲学者デイヴィッド・ロスによる1930年の著書。 神の命令理論 - 道徳のメタ倫理理論 エウテュフロのジレンマ - ソクラテスが提起した道徳の起源に関する倫理的問題 |
https://en.wikipedia.org/wiki/Deontology |
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リ ンク
文 献
そ の他の情報
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