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国王を処刑する

On Exceution of the King

Execution of Louis XVI of Franceon 21 January 1793, from an English engraving of 1798.

池田光穂

1787年
ルイ16世の時代になるとフランスは深刻な財政危機に陥り、政府はこの 打開策として免税特権を有する身分からの課税を図った[19]。だが、貴族特権を擁護するパリ高等法院はこれに抵抗し、1787年、パリ高等法院は土地 税、印紙税といった新たな課税の登記を拒否し、納税者の代表の同意が必要であると宣言して三部会を要求した[20]。1787年にフェヌロンが望んでいた 名士会が開かれたが、名士会もまた新税を拒否した
1789年5月5日 ルイ16世の時代になるとフランスは財政破綻に瀕し、特権階級への課税 を図るがパリ高等法院の抵抗に遭い、彼らの要求する三部会の招集する。1614年以降は召集されなかった。1614年の形式に従い、三部会の各身分の定員 は同数とされていた。第三身分は定員の倍増を要求し[注釈 2]、最終的に受け入れられた。5月5日にヴェルサイユで三部会が開催されると、定員の倍増は誤魔化しに過ぎないことが明らかになった。投票は各身分ごと に行われ、第三身分の578人の代表は他の身分と同じ重みしかないことを意味していた。
6月12日
課税問題のみに集中させようとする国王の努力は完敗した。三部会はすぐ に行き詰まり、財政問題よりも三部会自体の議決形式を巡って紛糾した。会議は膠着状態に陥り、6月12日、第三身分代表として三部会に出席した聖職者のア ベ・シエイエス[22]は、別個に審議を行っていた他の二身分にも第三身分への参加を呼び掛けた
6月17日
第三身分は6月17日にプロセスを完了して、より過激な施策を採決し、自ら第三身分ではなく「人民」のための国民議会を宣言した。国民議会は他の身分にも参加を呼び掛けたが、彼らの参加の如何に関らず国政を担う意図を明らかにしていた。
6月20日
国王ルイ16世は抵抗を試みた。国王が会議場(Salle des États)を閉鎖すると、国民議会は近くにある球戯場に移って議論を行い、球戯場の誓いに至った(1789年6月20日)ここで彼らは憲法を制定するま で解散しないことに同意した。程なく聖職者の代表の大多数と47人の貴族がこれに参加した
6月27日
国王はこれに屈して第一身分と第二身分へ第三身分への合流を指示したが[24]、多数の軍隊がパリとヴェルサイユ周辺に集結していた。パリやその他の都市から国民議会を支持するメッセージが押し寄せた。
7月9日
憲法制定国民議会(けんぽうせいていこくみんぎかい、仏: Assemblée nationale constituante)とは、フランス革命直前に全国三部会から離脱した第三身分を中心として形成された国民議会が、1789年7月9日に改称して成 立したフランス最初の近代議会である。憲法制定議会とも呼ばれる。
7月14日
バスティーユ牢獄への襲撃により革命が勃発し、革命が各地の農村へ波及 すると、領主への暴動などが各地で勃発した。この暴動によって、特権身分である貴族・聖職者の多くが亡命し、アンシャン・レジームが崩壊した。この無秩序 な武力蜂起は、特権身分の権力どころか国民議会まで否定しかねないものであり、議会はこの事態の収拾に乗り出すことになった
8月11日
8月11日に示された法令で封建制の廃止を定めて事態を沈静化させたが、領主裁判権をはじめとした人格的支配を否定したのみで、地代廃止などの措置はとられなかった。
8月26日
この封建制廃止とあわせて、8月26日にフランス人権宣言(正しくは 「人間と市民の権利の宣言」)を定められた。これによって、これまでの身分制社会の枠組みが完全に否定され、基本的人権を有し、自由かつ権利において平等 な市民によって構成される市民社会の諸原則が確認された。これらの国民議会の決定は、国王政府の認めるところではなかったが、すでにアンシャン・レジーム の崩壊によって国王政府の権力は限界に達しており、対抗策を打ち出すことが出来なかった。国王ルイ16世も、王妃や王弟に国王政府の権限を握られており、 絶対王政はここに終わったと言える。国民議会は、こうした法令を制定して行くことで、国王政府に代わり国家の主権者としての地位を確立していった。
9月11日
9月11日の会議において、「国王の法律拒否権」「一院制・二院制」の 是非を巡り、議長席から見て議場右側に「国王拒否権あり・二院制(貴族院あり)」を主張する保守・穏健派が、左側に「国王拒否権なし・一院制(貴族院な し)」を主張する共和・革新派が陣取った。これ以降、立法議会においても、右側に立憲君主派であるフイヤン派が、左側に共和派や世俗主義などの急進派 (ジャコバン派)が陣取ることが定着した
11月
1789年10月の、いわゆる「ヴェルサイユ行進」(十月事件)以来、 国王ルイ16世はオーストリアやスペイン・ブルボン朝の宮廷に行動費の援助と列強による支援を要請する一方、聖職者民事基本法をめぐる宗教界の紛糾を利用 してフランス国内を分裂に導こうとした[12]。とくに1790年夏にはフランス南東のジャレスに2万5,000名におよぶ反革命の農民ゲリラが組織さ れ、国王がリヨンに脱出するのをまって内戦にもちこむ計画が立てられた(「リヨンの陰謀」)。憲法制定国民議会はカトリック教会の財産国有化を定めた (11月)。
1790年
1790年より経済面における自由主義的な諸立法が行われ。1790年7月の聖職者市民法によって聖職者の国家への忠誠を求めた。こうした政策はローマ教皇の反感を招き、革命政府とローマ教皇の対立構図を作り出した。1790 年6月のパリの市政改革により、従来の60地区(ディストリクト)を改変して48のセクションに行政単位が再区画された。農村においても、領主制廃止が農 民にとってはかなり重い有償方式を採用しているため農民解放の進捗は遅々たるものであり、それに加えて聖職者の土地財産の払下げ(第一種国有財産売却)が 農民にとっては不利な競売方式だったため、1790年から農民一揆が再び各地で頻繁に発生するようになった。アッシニア債券は、1790年春から紙幣とし て流通し、乱発されてインフレーションとなり、物価高騰を引き起こして民衆生活は困窮の度を深めた。8月のナンシー連隊の兵士反乱(ナンシー事件)は、以 上のような政治的・財政的な不安定性が愛国派による革命方式の破産を露呈させる最初の事件となった[12]。これにより、ラファイエットは支持を失い、か わってバルナーヴ、ラメット、デュポールら三頭派が主導権を握った。
1791年6月20日
ヴァレンヌ事件(ヴァレンヌじけん、仏: La fuite à Varennes)またはヴァレンヌ国王一家逃亡事件、ヴァレンヌ逃亡、ヴァレンヌ逃亡事件[1]とは、フランス革命時の1791年6月20日夜に、フラ ンス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家がオーストリアへの逃亡を図り、東部国境に近いヴァレンヌで発見されパリへと戻された事件。
9月3日
フランス初の憲法(1791年憲法)が可決された。この憲法はまもなく国王ルイ16世によって承認。9月末に議会は解散された。フイヤン派にとっては、このことは革命の終了を意味していたが、革命はこれからさらに急進化していくことになる。
1791年憲法
革命派と反革命派との妥協の産物であり、革命の混乱の終息が目的の憲 法。この憲法は前文に人権宣言17条を置き、本文は全207条から成る[1]。フランスは立憲君主制に移行して王権神授説は放棄され[4]、国王は「国民 の代表者」[5]とし歳費を貰う一官吏として規定された[6]。しかし、国王は行政権をもち、内閣閣僚を議会外から任免することができ、議会の立法権に対 し拒否権を持っていた。立法議会は一院制で[7]、745人の議員から構成され[8]、任期は2年で[9]、選挙制度は一定の納税者(能動的市民)が5万 人を選挙人として選び、選挙人が立法議員、郡・県議会議員および裁判官を選挙する制限選挙かつ間接選挙である[1][10]。そのため、国民の大半を占め る農民や貧民(受動的市民)は政治から排除され、彼らの不満を受けた[1]。司法権は裁判所が有し、裁判官の売官制は廃止され公選となり、陪審制が導入さ れた。地方行政制度は、全国を83の県に分け、さらに地区、カントン、市町村に区分した[1]。後の憲法と異なり国民投票には付されず、国王の裁可によっ て効力を持った。
1792年6月
オーストリアなどによる対仏戦争の最中、デュムーリエは国防大臣を辞任 する際、宣誓忌避僧に対する法案に拒否権を行使し続けるルイに対し、「僧たちは虐殺されるでしょう。そしてあなたも…」と語ったが、これに対してルイ16 世は「私は死を待っているのだ。さようなら。幸せでいるように」と述べたという。6月20日、群集がテュイルリー宮殿に押し寄せた際、そのリーダーが王に 誠意ある態度を求め、幾人かが槍を王に向け振り回した。喧騒の中、彼は「余は憲法と法令が、余に命じていることをしているにすぎない」と冷静に述べ、威厳 を示した。
8月 1792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃(8月10日事件)によっ て、1791年憲法は事実上破綻する。8月10日事件で王権が停止され、国王一家はテュイルリー宮からタンプル塔に幽閉された。幽閉されたルイ16世は家 族との面会も叶わず、名前も「ルイ・カペー」と呼ばれ、不自由な生活を強いられることになる。その間(1792年後半)、国王の処遇を巡って、国王を断固 として擁護する王党派とフイヤン派、処刑を求めるジャコバン派、裁判に慎重なジロンド派が三竦みの状態になり[2]、長々と議論が続けられていた。
11月13日
11月13日、25歳の青年サン=ジュストLouis Antoine Léon de Saint-Just) が、人民が元々有していた主権を独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においては国王というその存在自体が罪として、個人を裁くのではなく、王政そのも のが処罰されるべきであると演説 [注釈 4]し、共和政を求めるものの国王の処遇は穏便に収めることを希望したジロンド派を窮地に陥れた[3]。

12月11日
ルイ16世の国務大臣を二度務めたマルゼルブが国民公会議長に宛てて手紙を送り、ルイ16世の弁護人を引き受けた
1793年1月15日〜1月19日
国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行った。投票 方法は、指名点呼という方法で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった [注釈 5]。第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定した [5]。ジロンド派が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」 が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)[6]で、ジロンド派の予想に反して否決された [注釈 6]。そして、第三回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となっ た。集計したところ、「無条件の死刑」が387票で最多となり、ただしこのなかにはマイユ条項つき死刑というものが26票含まれていた [→「マイユ条項」というものは第三回投票で最初に壇上に登った議員マイユが主張したもので、彼は無条件の死刑に賛成としながらも、付加条件をつけ、もし死刑賛成が最多数を占めた場合には死刑を延期すべきかを国民公会で改めて討議するとした。 これは執行猶予付きの死刑と同じに誤解されやすいが、延期は無条件死刑の確定という主文を前提とするものであり、延期の提案と判決とは“切り離されたも の”とされ、判決の内容に執行猶予が盛り込まれる執行猶予付き死刑とは異なる。また次に明記されているように、執行猶予付き死刑の46票はその他の刑とし て計算されている]。次いで「その他の刑」が334名で、内訳は鉄鎖刑2名、禁錮刑かつ追放刑 [注釈 8]286名、執行猶予付き死刑46名であった[7]。387対334(欠席23・棄権5)で死刑と決まった[5]。第四回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12[8])で、これも70票差で否決され、即時の死刑執行が決まったわけである。 マイユ条項支持者のなかで第四回投票で延期に賛成した議員は1人もいなかった。そればかりか第四回投票では(執行猶予付き死刑以外の)その他の刑を支持し ていた者の中からも22名は延期反対の方に寝返った[7]。王政復古では、この裏切りを含めた455名の国民公会議員が大逆罪と認識され、まだ生存して国 内にいたものは追放された。
1月21日午前10時22分

シャルル=アンリ・サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場) でギロチンで斬首刑にされた。これに先立って、革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改 良の助言を行ったのは、錠前作りによって工学的知識、金属器の知識を持っていたルイ16世本人だった。「朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車 が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、 ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。「私 は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」」大デュマ)

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