かならずよんで ね!

外密性

Extimité

池田光穂

「外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)」。「私の最も内にある《親密な外部、モノとしての外密》——《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)」「要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にある。ここで問題となっていることを示すため に「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16)」「おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語「Extimité」 である。それは主体自身の、実に最も親密な intimité 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 ex に現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothby、Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN,2001)」「 ラカン自身、外密とフロイトの「物das Ding」、あるいは「隣人Nebenmensch」と関連づけて語っている。あるいは、《l'objet(a) est extime》ともある(参照:防衛と異物 Fremdkörper)。もちろんフロイトの不気味なものの変奏でもある(heimilich = unheimlich とintimité = extimité)」「※対象a にはいくつもの意味があるので注意(参照:対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa))」「Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas- tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001,PDF)」以上の引用は、http://kaie14.blogspot.com/2016/08/blog-post_27.html. による

●外密性とはなんらかの《強制力》としての存在であ る

「では、もし主体が、〈道徳法則〉の耐え 難き圧力の下から逃れん、かためだけに、外的な社会規範を館りあげるのだとしたらどうなのか、人間存在 の心の奥底に棲む親しみなき異形の身体、外密的な〈主人〉を保持するよりも、いっそのこと外部の世 界に〈主人〉を担ぎ出して、かれを巧く丸め込んでしまった方がはるかに簡単だし、かれと最低限度の距 離をおくことで、プライベート空聞を維持できるのではないのか、と。このように内なる〈法〉という外 ー密的な強迫力、「君に宿りし君以上の存在」が外在化していく様態、これこそまさに〈権力〉(主体にとっ て〈外部世界〉から圧力を加え、自分のやりたいことの足を引っ張り、目的の達成を阻害する強制し刀と経 験される作用)を定義する最低限度の必須要因に他ならないのではなかったか。この外的な規範と内的な 〈法〉との張りつめたせめぎ合い、それは現状そ撹乱する影響(たとえば、一人ひとりの個人が心に抱く 道徳的見地に則り、公権力へ真っ向から対立する姿勢など)までも生み出しうるのだが、そこにフーコー の関心が向かうことはなかった」(ジジェク 厄介なる主体 2005:69-70)。「それは外部から押し付けられてはいるが、しかし、われわれ自身のもっとも内奥にある、気まぐれな欲望を現実化したものに他なら ない」(ジジェク 厄介なる主体 2005:293)。

●ハイデガーの〈良心の呼び声〉

「カントのいう倫理の義務とハイデガーのいう〈良心 の呼び声〉のあいだには、事実上のつながり はないのだろうか。ハイデガーの〈良心の呼び声〉という概念は、それが型にはまった決定至上主義であ るために、たいてい批判されている。その〈声〉は純粋に形式でしかなく、〈現存在〉に正しい選択をす るように命ずるものであるが、それを可能にする具体的な基準をあたえることはしない(この〈呼び声〉 の位置は、ラカン的な意味で外密である。ハイデガ1が強調するように、との〈呼び声〉とはもうひと つの〈現存在〉、つまり〈聖なる行為者〉によって宣言/発言されるのではない。これは外部からやって くるが、同時に、どこからともなく〈存在しない場所〉から現れる何かである。というのも、この〈呼び 声〉はまさに〈現存在〉の本質の声であるため、〈現存在〉は自分が類まれな可能性をもつ存在だと考え るのである)。ハイデガーはこの〈良心の呼び声〉を罪の動機と結びつけ、〈現存在〉自身がいだくア・プ リオリ(実存的)な形式の特徴であると相、担比する。罪といっても、なんらかの行為をした、しなかったと いう具体的な罪を意味するのではなく、形式的な行為を表現するものである。つまり形式的というのは、 〈現存在〉の場合、有限であることや被投的であること、また、将来に向かって開かれているところに先 駆的に投げかけることといった特徴のために、〈現存在〉の存在が確固として実現するというのは、つね に可能性でしかありえないということである。この点について問題となるのは、たいていの場合、ハイデ ガーが「人聞の存在それ自体と間質であるプロテスタント的な〈原罪〉の概念を、日常レベルに置き換え」、 純粋に形式的な方法でその概念を再定義することによって、実定的な神学の土台を引き出そうとする点で ある」(ジジェク 厄介なる主体 2005:80-81)。

●外密的な隣人

「ラカンにかんしてよく言及されるのは、想像上おこ るアイデンティティの同一化について、その典型的な 説明が、散在した「身体なき器官」、寸断された身体、自由に浮遊するその身体の断片といった恐ろしい 経験によって、埋められるべき裂け目というものをすでに前提としているという点である」(ジジェク 厄介なる主体 2005:89)。 (ラカン的な現存在とは)「それ以前に別の主体との関係をもっているのだが、まだ きちんと「主体化されて」いない主体、すなわち推論上いるとされている片割れではなく、われわれと完 全に近接する異質の身体のため外密な「隣人」としてありつづける主体である」(ジジェク 厄介なる主体 2005:90)。

●マルクスの〈搾取という概念〉

「マルクスがここで喚起しているのは、ある例外が全体の構成要素の一部として内包 されているような、ラカン的な〈普遍〉の概念のことなのだ)。ゆえに、徴候論的/症候論的な解釈につ いての基本となる前提とは、あらゆるイデオロギーで用いられる普遍性は、必然的に、ある特殊な「外 密」的な要素を生じさせるが、その要素は同時に——まさしく、普遍であることに起因するプロセスの本 質に潜む必然の産物として——その普遍性を切り崩してしまう、という読みである。すなわち、症候とは、 みずから〈普遍なるもの〉の事例であるのにもかかわらず、当の〈普遍なるもの〉を根底から覆してしま うような事例なのだ(ジジェク 厄介なる主体 2005:321-322)。

●死の欲動もまた外密的なものである(ジジェク 2015:252)


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