はじめにかならずよんでください

医療人類学の新しい分野

Notes on George M. Foster and Barbara G. Anderson' Medical Anthropolpgy, 1978

解説:池田光穂

医療人類学
第1章 医療人類学の新しい分野


 第二次大戦後、医療システムの通文化的研究を行う人類学者が、社会文化的人類学及び生物学的人類学の両領域で増加した。そして彼らは健康と病気の発生に 影響を与える生物生態学的及び社会文化的要因について、現状と、人間の全歴史を比較文化的に注目しようとしているのである。ある意味では、彼らの興味は、 人間の幅広い活動の中の健康に関する行動を理解したいという願いに喚起された、学問的なものであった。また、一方では、人類学的研究、技術、理論、そして 資料は、先進国と開発途上国両方において、ヘルスケアの改善を目指す計画に利用可能であり、利用されるべきであるという信念によって動機づけられた、実際 的なものであった。

 今日、これらの興味を持った人類学者が、医学、看護、公衆衛生などの学校や、病院や保健機関や、また伝統的な大学の人類学部において働いている。彼らは 様々な問題について研究している。例えば、人類の進化、解剖学、小児科学、疫学、精神衛生、薬の濫用、健康と病気の定義、医療従事者の訓練、医療官僚制、 病院組織と経営、医師−患者関係、また、伝統的医学しか知られていなかった社会へ科学的医学を導入した際の過程についてなどである。これらの研究を行う人 類学者は、一般に「医療人類学者」と呼ばれ、彼らが提起した領域は新しい人類学の下位分野である「医療人類学」である。

 医療人類学者が取り組んでいる活動の多様性からわかるように、この分野は様々な事象に関する眺望と焦点を包含している。概念的には、これら事象は一つの 連続体上に並べられるものであり、その連続体の一方の端は生物的でありもう一方の端は社会文化的である。生物的な方向には、人間の成長と発達、人類進化に おける疾病の役割、古病理学(古代人の疾病の研究)などにとくに興味を持つ人類学者がおり、そしてかれらは、遺伝学者、解剖学者、血清学者、生化学者らと 共通の基盤を持つ。社会文化的な方向には、伝統的医療システム(「民族医療」)、医療関係職とその育成、疾病行動、医師−患者関係、伝統的社会へ西洋医学 を導入した際のダイナミクスなどに特に興味を持つ人類学者がいる。こちらの医療人類学者は、医療社会学者、医学教育者、看護婦、保健教育や行政の公衆衛生 専門家、そして広義での「近代化」の分野で働く行動科学者らと興味が重なっている。中央付近で、両方の方向を向いて、疫学や文化生態学に興味を持つ人類学 者もいる。彼らは、右に述べた人々のほとんどと興味を分けあうだろうが、特に医学疫学者、生態学者、そしていま生まれつつある医学地理学者達と親しい関係 を持つ。

 ただし、医療人類学を、生物的なものと社会文化的なものとの二分野のゆるやかな結合と考えてはならない。なぜなら、両者の提起する問題は、どんな点にお いても、データと理論が深く関わりあっているからである。例えば精神疾患者は、生理学と生化学要因だけでも、またストレスに由来する心理−社会文化的現象 としてだけでも、それぞれ単独では研究できないのであり、その事象に何が含まれているかを正確に理解するには、両方のデータが必要である。同じことが、食 習慣と好き嫌いが栄養状態に密接に結びついている食生活に関しても言えるのである。また、疫学の理論は、人間の行動は多くの疾病を媒介する生物に大きく影 響を及ぼすという知見に基づいているのである。

 過去は現在に繋がっているのだが、しばしば予想さえしなかった形で見つかる。何年か前、二人のカリフォルニア大学の人類学者−考古学者と疫学者−が、ネ バダのラブロック洞窟で先史時代の住民の残した50個以上の糞石を調査した。これらの糞石からは消化管寄生虫の卵も幼虫も発見できず、糞石の保存状態の良 さから考えて、ここの住民達は、実際に条虫、鉤虫、吸虫、蛔虫などの被害に無縁だったと二人の人類学者は結論づけた(Dunn 1968 : 222)。最近になって、バークレー分校の動物学大学院学生で、医療人類学ゼミのメンバーが、この結論をより確実なものにした。彼は、これら消え去ったイ ンディアン達の食事の品目にアカザの種子が重要な位置を占めていたことを発見して、アカザがインディアンを寄生虫から守る駆虫薬として作用していたという 仮説を立てたのである。この生物学的起源を持つ仮説の魅力は、一人の民族学者の報告による文化的証拠によって、さらに増強された。その報告は、彼がよく 知っているメキシコの村では、アカザの地方亜種であるエパゾーテ(epasote)が、消化管寄生虫の治療薬として広く使われているというものである。 (1)

 簡潔に言えば、医療人類学とは、その当事者達にとっては、人間行動の生物学的及び社会文化的の両方の視点に関連した、生物文化的分野であると見なされて いる。特にこれら二方向のものが、健康と疾病とに影響する人間の歴史を通じて、相互に作用してきたし、現在もそうであるとする立場に関わっていく分野であ ると見なしている。医療人類学の生物文化的特徴は、ここ25年間に書かれた一連の綜説論文が明らかにしている(Caudill 1953, Polgar 1962, Scotch 1963a, Fabrega 1972, Lieban 1973, Colson and Selby 1974)。また、近代学問の分野の「ルーツ」と呼ばれるものを調べることによっても明らかにされる。医療人類学の起源に関していえば、いかにしてこの現 代的な分野が生まれ出たかという非常に狭い意味での「ルーツ」に関わってくる。我々は、人類学者達の個人史や、彼らの医学や医療問題への個人的な関心の持 ち方には興味がないし、また自然人類学の題材への医師の貢献についても興味はない。ハーサンが最近論じているように、次のように語ることも可能である。 「現代の医療人類学のルーツは、人類学それ自体の発展の中にさかのぼって調べられるであろう」(Hasan 1975 : 7)。

 もし、我々がこのアプローチを取ろうとするなら、まず偉大なドイツの病理学者ルドルフ・ウィルヒョウから始めねばならない。彼は1849年にこう書いて いる。「もし、医学が人間の病気の科学であると同様に、健康の科学でもあるなら(そうであるべきなのだが)、医学以外の他のどの科学が、人間本来の在り方 を効果的にするために社会構造の基本としての法則を提起するのに、実際により適切であろうか。一たび医学が人類学として確立されれば、また、一たび特権階 級の利害では公的事象の方向がもはや動かされなくなったならば、生理学者や医師が、社会構造を支える一流の政治家の仲間として見なされることになるだろ う。医学は骨の髄まで社会科学である…」(Rather 1958 : 66 より引用、傍点筆者)。

 これらの予言的言辞にもかかわらず、実際のところウィルヒョウは、この現代的分野の起源には何の関わりも持たなかった。新しい分野の出現のためには、鋭 いインスピレーションのひらめき以上のものが必要なのである。科学は着実に発展し、以前は無視されていた研究の領域も少しずつ次第に取り入れられることに なり、こうして新しい分野はゆっくり発達するものである。十分な数の研究者が、同一の、もしくは関連した題材に焦点を当てて、そして意義のある新しいデー タが明らかになり始めるにつれて、新しい分野や下位分野が生まれる契機となる。しかし、共通の焦点の周囲に生ずる複数の関心を連合するには、ある種のひら めきが必要である。通常は、適切な名称が、このひらめきを与えるかに見える。

 さて、このことは、医療人類学の歴史に明確に見られる。健康に関する分野で、勃興しつつある人類学的(そして他の行動科学的)関心からの最初の大きな調 査は、『医学における応用人類学』(Caudill 1953)というタイトルで1953年に出版された。これはすばらしい力作であった。しかし、これに注ぎ込まれた情熱にもかかわらず、この作品は新しい下 位分野を「創出」しなかった。アメリカの人類学者が健康と病気の関連を人類学の研究対象として、初めて十分に認識したのはそれから10年後であった。それ はスコッチが、専門的調査論文に、「医療人類学」のタイトルを付け、またポールが医学と公衆衛生に関する論文の中で「医療人類学者」について言及してから である。(Scotch 1963a, Paul 1963(2))。同年出版の人類学指向の『医療行動科学』(Pearsall 1963)によって新しい下位分野がさらに正統化された。この本の参考文献に挙げた3000にのぼる文献は、人類学の分野における医療システムの重要性を 疑いないものにした。

   医療人類学のルーツ

 我々は、今日の医療人類学の由来をかなり異なった四つの源泉に求める。これらは互いに、完全にではないがある程度まで、別々に発展してきたものである。 この四つは、以下のごとくである。

 (1)自然人類学者の関心。例えば進化、適応、比較解剖学、人種、遺伝学、血清学のような題材。

 (2)呪術や魔術をも含めた未開医療への伝統的な民族誌的関心。

 (3)1930年代後半から1940年代にかけての、精神科医と人類学者の共同研究による「文化と人格」指向性。

 (4)第二次世界大戦以降の国際的公衆衛生運動。

1 自然人類学

 「文化的」医療人類学者が出現するはるか以前から、医学校では、一般的には解剖学教室においてであるが、自然人類学者が教育と研究を行ってきた。定義か らいえば、自然人類学者のほとんどは医療人類学者である。なぜなら、彼らの生物としての人間への関心は、医師達の関心と類似し重複するからである。実際、 自然人類学者のうちのかなり多くの人達が医師である。初期の自然人類学者は、今日と同様に、個人的にも共同的にも、彼らの関心の多くを明らかに医学的重要 事項に向けた。ハーサンとプラサード(1959)は、この領域の内容をリストアップしたが、それには栄養状態と成長、体格と関節炎や潰瘍や貧血や糖尿病な どの種々の疾病との相関関係が含まれている。人間の成長と発達に関する人類学的研究は、人類学的であると同じくらい医学的でもあり、これは血清学の研究に ついても言えるのである。

 人類進化の影響や、また、移民、植民地化、都市化の拡大などの文化的要因による人口分布の差異などに注目することによって、疾病経過についてより広い理 解を得ようとしたのがアンダーウッド達である(Underwood 1975 : 58)。フィネスにいたっては、人間集団の中で見られる疾病は、文明化された生活の特殊な結果の一つであり、その発生の時点を、農業が大規模な定住社会の 出現と発展に基盤を与え始めた時であると論じている(Fiennes 1964 : 23-26)。

 何十年もの間、自然人類学者は、「法医学」の仕事に従事してきた。この領域は、何らかの不正が疑われる遺体から、年齢、性、人種を固定したり、血液型か ら父子関係の可能性を決定したりする法律上の医学的問題を扱うのである。例えばアルバート・デイモンは、マサチューセッツ州検事総長からボストン絞殺犯人 逮捕のための諮問委員会として任命された科学者チームで働いたことがある。

 予防医学の発達の中で、自然人類学者は鎌状赤血球貧血症患者や肝炎キャリアーのようなハイリスク・グループの判定に関する研究に貢献してきた。彼らはま た、「バイオメディカル・エンジニアリング」の分野に貢献しながら、人間の多様性に関する知見を利用してきた。極地や熱帯での、アメリカ軍人や軍駐屯地の ための適切な服装と装備に関する知見の進歩などは、この貢献の一つであった。宇宙飛行士の服も、作業空間と同様に自然人類学の下位分野である人体測定学に よる設計明細書から作られた。「人類学的研究に由来する測定法、規準、標準などが種々の領域で利用されている。例えば、一般医学、小児科学、歯学、栄養状 態の調査、また、一つの集団内におけるのと同様に、異なる集団間での疾病の病因調査などの領域が挙げられる。生物学的応用人類学が適応できる項目のリスト は、ほとんど無限である」(Damon 1975 : 366)。

2 民族医学

 医療人類学の一部分は、今日「民族医学」と呼ばれているものである[すなわち、「疾病に関しての信条と行為であり、これらは土着文化の発達から生み出さ れたものであり、近代医学の概念的枠組みから理論的に引き出されたものではない」(Hughes 1968 : 99)]。これは、人類学者の非西洋的医療システムに対する初期の興味に直接由来するものである。100年以上も以前に、人類学者がフィールド調査を始め た頃から、彼らは研究対象の民族の文化のあらゆる面に関してのデータを集め、可能な限り完璧な民族誌を作ろうとした。この中で、ルーチンワークとして、そ の民族の医療信条のデータも同様の方法と目的から集められたのである。初期の人類学者だけでなく、探検家や宣教師達も、彼らが発見した民族、つまり彼らが その中で働いた民族について熱心にデータを集めた。彼らがいかに勤勉であったかは、半世紀も昔のものになるが、最初の世界的規模の疾病の原因に関する信条 の比較研究を見ればよい。それは、ほとんどが民族誌的研究によるものであるが、229の原因が挙げられている(Clements 1932)。このクレメンツに先だって、有名なイギリスの内科医であり人類学者であるW・H・R・リバースは、医療人類学の分野で画期的な研究を発表して いる。それは『医療、魔術、宗教』と題されたものである(Rivers 1924)。我々は基本的概念をリバースに負うている。土着の医療システムは社会制度であり、一般の社会制度と同じ方法で研究されるべきであるという考え 方や、また、土着の医療行為は、その土地に普及している病気の原因論から判断すれば合理的行動であるという考え方が特にそうである(Wellin 1977 : 49 参照)。この肯定的遺産を相殺するかのように、現在までも未開医療の研究に支配的な不幸なステレオタイプを遺贈したのも、他の誰でもなく、リバースその人 であったと指摘できるだろう。このステレオタイプとは、未開医療においては、宗教、魔術、医療がいつも密接に結びついているので、それらのうちの一つの研 究は他の二つの用語だけで行えるという考え方である。このようなステレオタイプが、ここ半世紀の間、人類学者の多数に、無批判的に受け入れられてきたの で、我々の非西洋的医療システムについての理解は非常に制限されてきている。

 いうまでもなく、リバースもクレメンツも、また未開医療システムのデータを収集していた同時代の人々も、彼ら自身が医療人類学的研究をしているのだなど とは思ってもいなかった。また、彼らの調査結果が研究対象の民族の健康に重要な意味をもつことに、彼らが気づいていたとは思えない。つまり、医療人類学 が、未開医療の初期の調査から発展してきたなどとは言えなくて、むしろ別の過程を経てきているのである。今日、健康保健領域で仕事をしている人類学者が、 非西洋的医療の伝統的研究を「再捕捉」して、「民族医学」という形式的な名前を与え、自分達の専門の一分野にしたのである。医療人類学が、特に国際的な公 衆衛生やトランス文化精神医学などの幅広い領域で発達するにつれ、非西洋的医療システムに関する知識の重要性が、理論面同様に実際的な局面でも明らかに なってきた。この認識が民族医学的研究に新たな興味の火をつけ、医療人類学の中の最も重要な部分にまで持ち上げたのである。

3 文化とパーソナリティ研究

 主として部族研究の一部として行われた民族医学の研究をのぞけば、1950年以前に人類学者が健康について発表したものは、ほとんど心理学的または、精 神医学的現象を扱ったものであった。1930年代中期から、人類学者、精神科医、そして他の行動科学者達が、大人のパーソナリティや性格、それが置かれて いる社会文化環境について問題を提起しはじめた。大人の人格形成は、大きくなってからの人生経験によっていると同様に、多くの部分を幼児時代の適応性と、 子供時代の環境への感受性によっているのであろうか。それとも、文化とパーソナリティを決定するのに重要な役割を演ずる生物学的要因に基づく遺伝的精神的 素質というものがあるのだろうか。これらの問いは、世界の様々な地域での人間行動の観察結果の多様性が引き金となったのである。例えば、極北アメリカと極 北アジアに見られる「北極ヒステリー」が他の社会では全然見られないことを、どう説明したらよいのであろうか。また、東南アジアにおける「走るアモック」 (running amok)も、どう説明しよう。また文化が異なると、かくもパーソナリティの「規範」が違うことをどう説明できるのだろうか。行動科学者達もロールシャッ ハテストや絵画統覚検査(TAT)のように人間の心の機能に光を当てて、提起されている問題の解決の糸口を与えるような新しい「投影的」テストの可能性に 興味を引かれていた。

 この新しい分野で、人類学者と他の行動科学者が興味を示した対象の範囲の広さは以下の代表的出版物のタイトルによってわかるだろう。

 『本能に関しての人類学的考察』(Mead 1942)

 『ピラガ・インディアンの子供の人形劇』(Henry and Henry 1944)

 『サンペドロの血縁間の拮抗』(Paul 1950)

  『未開民族における精神分裂病』(Demerath 1942)

 『サウルテックス社会での侵犯』(Hallowell 1940)

 『未開民族の精神医学』(Devereux 1940)

 『ナホバの宗教における精神療法の原理』(Leighton and Leighton 1941)

 『機能的障害の治療における、アパッチ・シャーマンと現代の精神医療との比較考察』(Opler 1936)

 おもしろいことに、この「医療」人類学のほとんどが、精神医学の雑誌に登場しているが、一般的な人類学の文献の中にはほとんど見出せないのである。

 文化とパーソナリティの研究の大部分は、本来理論的なものであったが、この傾向のリーダーである何人かの人類学者は、人類学の知見はヘルス・ケアのレベ ルを上げるのに役立つにちがいないと考えた。そのようにして、デベローは治療の適切さを判断する視点をもって、分裂病の病棟の社会構造を研究した (Devereux 1944)。レイトン達は、ナバホ・インディアンの文化と社会の矛盾と、ナバホ族への現代医療の導入の問題を扱ったすばらしい本を書いた (Leighton and Leighton 1941)。同じ頃、内科医で人類学者であるアリス・ジョセフは、アメリカ南西部の白人医師とインディアンの患者との人間関係の問題点を記述し、役割認知 と文化的差異がいかに最適な治療関係を邪魔するかを示した(Joseph 1942)。

4 国際的公衆衛生

 ロックフェラー財団が国際的な公衆衛生活動に今世紀初頭から従事してきた(例えば、1916年−1922年のセイロンでの鉤虫駆除キャンペーン、 Philips 1955)にもかかわらず、合衆国政府がラテン・アメリカ諸国の政府に、広範囲の技術援助計画の一環として健康計画の協力を開始したのは、なんと1942 年に至ってからである。戦後、合衆国のアジア、アフリカへの技術援助計画が拡大し、また世界保健機構も設立され、発展途上国における大規模な二国間、およ びそれ以上の国々にまたがる公衆衛生計画が世界中で見られることになった。その結果、自分達の文化の中、特に臨床医学の中だけで働いている人達に比較し て、通文化的状況の中の保健従事者達の方がはるかに早く気がついたことがある。それは、健康と病気は生物学的現象であると同様に社会的文化的現象でもある という事実である。発展途上国の健康への要求は、工業国の保健サーヴィスを単に移植するだけでは満足させられないということを、彼らはすぐに悟ったのだっ た。

 未開民族や農耕民の医療観や医療行為に関する資料は、以前から文化人類学者によって集められていた。これらの、文化的価値や社会形態に関する情報と、社 会の安定性と変化のダイナミクスに関する知見とは、この頃の初期の公衆衛生計画が直面した問題を解決する鍵を与えたのである。ここでは、人類学者は保健従 事者に説明する立場にあった。例えば、どのように伝統的信条と行為が西洋医学の前提と衝突したか、どのように社会的要因が保健に関する意志決定に影響を与 えたか、そして、いかに健康と病気とが全体的文化パターンの様相にすぎなく、より広範囲で包括的な社会文化的変化にのみ伴って変わるものであるか、などに ついて説明したのである。

 1950年代の初めに至って、人類学者は彼らの知識が(そして研究方法も)実際に役立つものであることを国際的公衆衛生関係者に示すことができるように なった。そして、公衆衛生関係者の多くは、諸手を上げて人類学者を歓迎した。人類学は何故に多くの計画において期待はずれの結果しか得られなかったのかに ついて洞察を与え、幾つかの実例では計画を改良する方法を提案できた。人類学的アプローチは、また公衆衛生関係者にとっても受け入れ易いものであった。と いうのは、そのアプローチは、専門職としての公衆衛生関係者を脅かすものではなかったからである。彼らはこの方法が安全であるとも見なした。この考えによ ると、変化に対する抵抗の問題は、変化を受け入れるも抵抗するも、ほとんどそれを受け取る人々の側の問題であると定義していたからである。通文化的及び国 際的保健計画に人類学者が初期に関与した代表的研究には、Adams(1953)、Erasmus(1952)、Foster(1952)、Jenny and Simmons(1954)、Kelly(1956)、Paul(1955)、Saunders(1954)などがある。これが現在の医療人類学の第四番 目の、つまり最後の「ルーツ」である。そして、人類学の中に新しく、かつ重要な分野があり、現時点ではその可能性がやっと理解され始めたにすぎないのだと いうことを実感させるように促したのは、他の三つのルーツよりも、このルーツであると我々は信じている。

   理論的次元と応用的次元

 最初に指摘したように健康と病気の問題への人類学的興味の発達は、部分的には理論面での動機づけによるものであった。それによると、医療観と医療行為は 全ての文化において重要なカテゴリーとなっているので、政治や経済や社会や宗教や他の全ての制度に対するのと同様の関心が、健康に関する制度に対しても向 けられることを要求している。生物医学的人類学においても、研究の大部分は理論面に志向性を持ってきた。しかし、方法手段が発達するにつれ、人類学者の健 康と病気への関心は、実際的な次元に関わるようになった。保健計画事業の医療スタッフの協力の下で多くの研究が進められたり、保健サーヴィス改善を目的と したり、また種々の疾病の発生における要因としての人間行動の理解を目的としたりすることで、まさに「応用」されることになったのである。このようにし て、医療人類学は本質的には応用科学であると見なされるようになった。このことは、公衆衛生の医学者と人類学者が連帯して、発展途上世界の健康水準の改善 に携わった1950年代の形成期についてはとりわけ正しいと言える。事実、最初の大規模なフィールド調査に『医学における応用人類学』(Caudill 1953)というタイトルがつけられていたのが思い出される。応用的次元が最も重要であると、いまだに見なしている人類学者達もいる。例えば、ウィーバー は「医療人類学は、健康と病気の多様な観点を扱う応用人類学の一分科である」と考えている(Weaver 1968 傍点筆者)。  

 しかしながら、ほとんどの医療人類学者は少なくとも暗黙のうちに社会学者ストラウスのモデルに賛同している。彼は「医療の社会学」、つまり医療制度の全 ての局面の研究は、「公的な医療職から離れて独立した地位で働いている人達によって行われるのがベストである」と言う。これは、この分野の理論面である。 これに対して、「医療における社会学」は、調査や、またしばしば教育においても、医学スタッフとの共同研究を含んでいる。そしてその活動においては、多方 面の学問分野からの概念、技術、そして人材が統合されている(Straus 1957 : 203)。ストラウスに従って言えば、医療の人類学を理論面として、また医療における人類学を応用面として語れるであろう。

 ストラウスは、医療社会学の理論的分野と応用的分野は両立し難いものと考えた。「医療の社会学者が、彼のアイデンティティを医学教育や臨床研究に接近さ せすぎたら、彼は客観性を失ってしまうだろう。かたや、医療における社会学者が彼の同僚達を研究対象としようとしたら、人間関係を駄目にする危険性があ る」(Straus 1957 : 203)。これとは対照的に、我々の経験からは、理論的なものと応用的なものとの区別は、大まかな分析的なものにすぎなく、つまり、仕事の内容を多方面の 視点から眺める際や、調査の結果をまとめる際の方法の区別であるように思える。応用的要請の下に実行される研究は、他の応用研究と同様に、基本的データを 文化理論の根幹にフィードバックしてくれるし、また、純粋な理論的調査(例えばメキシコ村の医療システムに関する研究)でも、その村への政府の新しい保健 サーヴィス導入のような実際的計画において直接的価値を持つことに、我々は気づいている(3)。 

 コルソンとセルビーの次のような意見は正しい。つまり、医療人類学という分野が急速に成長し、メンバーの間に集団への同一化の強い意識が働いているにも かかわらず、「この分野に関して幅広く共有された定義もなければ、その境界線に関する同意もない」(Colson and Selby 1974 : 245)。パイオニア的定義としてはハーサンとプラサードの次のようなものがある。医療人類学は、「《人間の科学》(science of man)の一分野であり、これは人類の医学的、医学史的、法医学的、社会医学的、公衆衛生的諸問題の理解を通して、この視点から、人間の生物学的そして文 化的(歴史的も含む)位相を研究するものである」(Hasan and Prasad 1959 : 21-22)。もっと後の定義でもこの分野の生物的−文化的次元を明確にしており、「医療人類学は、人間と、健康と医療への人間の働きかけの、生物的文化 的理解に関わるものである」(Hochstrasser and Tapp 1970 : 245)とされている。リーバンは、簡単にこう言い切っている。医療人類学は、「医学的現象を社会的文化的事象に影響されたものとして扱う研究と、社会的 文化的現象を医学的状況に啓発されたものとして扱う研究とを包含している」(Lieban 1973 : 1034)。ファブレーガは、それまでのこの分野の業績を基盤にして次のように定義する。「医療人類学の研究」とは、「(a)個人や集団が病いや疾病に冒 されたり、反応したりする際に、ある役割を果たすか、影響を与えるところの要因、機構、過程を説明することである。また(b)行動パターンに重点を置い て、これらの問題を検討することである」(Fabrega 1972 : 167)。

 我々は、医療人類学は健康と病気に関した正統的な人類学的活動である、と定義するのが最も適切であると考える。実際に役に立つ定義として、我々は次のよ うなものを提起する。

 医療人類学とは、以下のことを記述するために人類学者によって使われる用語である。

 (1)人間行動と健康・病気のレベルとの間の、生物的文化的相互関連性を、過去から現在まで、まずはこの知識の実際的有用性を無視しながら、包括的記述 と解釈を目標とする研究。

 (2)そして、健康水準の改善を目的とする計画に専門家として参画すること。これは、生物−社会−文化現象と健康との連関性のより高度の理解を通して、 また健康改善を進めると考えられる方向へ保健行動を変化させることを通して行われるものである(4)。

原註

(1) 糞石とは排泄物の乾燥標本で、化学的復元後は新鮮な糞の標本同様に分析できる。この考古学者とは、カリフォルニア大学バークレー分校人類学部教授 のロバート・F・ハイツァーであり、疫学者とはカリフォルニア大学サンフランシスコ分校国際医学部教授のフレデリック・L・ダンのことである。これらのこ とが書かれた時点では、大学院生ミッシェル・クリクスは、ラテン・アメリカのエパゾーテを食用している人達の腸管寄生虫の有病率の調査中であった。

(2) しかし、これらは「医療人類学」という用語の最初の使用ではなかった。1956年に、P・T・レジェスターが、あらゆる集団において人類の疾病と 障害の罹患率に対する社会的、遺伝的、環境的、家庭的要因の影響に関する研究を意味して、この表現を使用した。レジェスターの指向性は明らかに生物−文化 的で、彼はこの種の研究を「自然人類学及び社会人類学の視点を含むもの」と述べている(Regester 1956 : 350)。1959年、ハーサンとプラサードは、インドの医学雑誌の重要な論文の中で「医療人類学」という用語を使用した(Hasan and Prasad 1959)。これらの論文は合衆国においては広く知られることがなかったので、医療人類学の概念を具体化するのに有効な影響力は発揮されなかったのであ る。

(3) フォスターの1969年の著作の第2章の、理論的及び応用的人類学の間の関係についての論考を参照せよ。

(4) 医療社会学と、医療人類学の社会的視点の比較は、フォスター(1974)とオルセン(1974)を参照せよ。 


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医療人類学
第1章 医療人類学の新しい分野


 第二次大戦後、医療システムの通文化的研究を行う人類学者が、社会文化的人類学及び生物学的人類学の両領域で増加した。そして彼らは健康と病気の発生に 影響を与える生物生態学的及び社会文化的要因について、現状と、人間の全歴史を比較文化的に注目しようとしているのである。ある意味では、彼らの興味は、 人間の幅広い活動の中の健康に関する行動を理解したいという願いに喚起された、学問的なものであった。また、一方では、人類学的研究、技術、理論、そして 資料は、先進国と開発途上国両方において、ヘルスケアの改善を目指す計画に利用可能であり、利用されるべきであるという信念によって動機づけられた、実際 的なものであった。
 今日、これらの興味を持った人類学者が、医学、看護、公衆衛生などの学校や、病院や保健機関や、また伝統的な大学の人類学部において働いている。彼らは 様々な問題について研究している。例えば、人類の進化、解剖学、小児科学、疫学、精神衛生、薬の濫用、健康と病気の定義、医療従事者の訓練、医療官僚制、 病院組織と経営、医師−患者関係、また、伝統的医学しか知られていなかった社会へ科学的医学を導入した際の過程についてなどである。これらの研究を行う人 類学者は、一般に「医療人類学者」と呼ばれ、彼らが提起した領域は新しい人類学の下位分野である「医療人類学」である。
 医療人類学者が取り組んでいる活動の多様性からわかるように、この分野は様々な事象に関する眺望と焦点を包含している。概念的には、これら事象は一つの 連続体上に並べられるものであり、その連続体の一方の端は生物的でありもう一方の端は社会文化的である。生物的な方向には、人間の成長と発達、人類進化に おける疾病の役割、古病理学(古代人の疾病の研究)などにとくに興味を持つ人類学者がおり、そしてかれらは、遺伝学者、解剖学者、血清学者、生化学者らと 共通の基盤を持つ。社会文化的な方向には、伝統的医療システム(「民族医療」)、医療関係職とその育成、疾病行動、医師−患者関係、伝統的社会へ西洋医学 を導入した際のダイナミクスなどに特に興味を持つ人類学者がいる。こちらの医療人類学者は、医療社会学者、医学教育者、看護婦、保健教育や行政の公衆衛生 専門家、そして広義での「近代化」の分野で働く行動科学者らと興味が重なっている。中央付近で、両方の方向を向いて、疫学や文化生態学に興味を持つ人類学 者もいる。彼らは、右に述べた人々のほとんどと興味を分けあうだろうが、特に医学疫学者、生態学者、そしていま生まれつつある医学地理学者達と親しい関係 を持つ。
 ただし、医療人類学を、生物的なものと社会文化的なものとの二分野のゆるやかな結合と考えてはならない。なぜなら、両者の提起する問題は、どんな点にお いても、データと理論が深く関わりあっているからである。例えば精神疾患者は、生理学と生化学要因だけでも、またストレスに由来する心理−社会文化的現象 としてだけでも、それぞれ単独では研究できないのであり、その事象に何が含まれているかを正確に理解するには、両方のデータが必要である。同じことが、食 習慣と好き嫌いが栄養状態に密接に結びついている食生活に関しても言えるのである。また、疫学の理論は、人間の行動は多くの疾病を媒介する生物に大きく影 響を及ぼすという知見に基づいているのである。
 過去は現在に繋がっているのだが、しばしば予想さえしなかった形で見つかる。何年か前、二人のカリフォルニア大学の人類学者−考古学者と疫学者−が、ネ バダのラブロック洞窟で先史時代の住民の残した50個以上の糞石を調査した。これらの糞石からは消化管寄生虫の卵も幼虫も発見できず、糞石の保存状態の良 さから考えて、ここの住民達は、実際に条虫、鉤虫、吸虫、蛔虫などの被害に無縁だったと二人の人類学者は結論づけた(Dunn 1968 : 222)。最近になって、バークレー分校の動物学大学院学生で、医療人類学ゼミのメンバーが、この結論をより確実なものにした。彼は、これら消え去ったイ ンディアン達の食事の品目にアカザの種子が重要な位置を占めていたことを発見して、アカザがインディアンを寄生虫から守る駆虫薬として作用していたという 仮説を立てたのである。この生物学的起源を持つ仮説の魅力は、一人の民族学者の報告による文化的証拠によって、さらに増強された。その報告は、彼がよく 知っているメキシコの村では、アカザの地方亜種であるエパゾーテ(epasote)が、消化管寄生虫の治療薬として広く使われているというものである。 (1)
 簡潔に言えば、医療人類学とは、その当事者達にとっては、人間行動の生物学的及び社会文化的の両方の視点に関連した、生物文化的分野であると見なされて いる。特にこれら二方向のものが、健康と疾病とに影響する人間の歴史を通じて、相互に作用してきたし、現在もそうであるとする立場に関わっていく分野であ ると見なしている。医療人類学の生物文化的特徴は、ここ25年間に書かれた一連の綜説論文が明らかにしている(Caudill 1953, Polgar 1962, Scotch 1963a, Fabrega 1972, Lieban 1973, Colson and Selby 1974)。また、近代学問の分野の「ルーツ」と呼ばれるものを調べることによっても明らかにされる。医療人類学の起源に関していえば、いかにしてこの現 代的な分野が生まれ出たかという非常に狭い意味での「ルーツ」に関わってくる。我々は、人類学者達の個人史や、彼らの医学や医療問題への個人的な関心の持 ち方には興味がないし、また自然人類学の題材への医師の貢献についても興味はない。ハーサンが最近論じているように、次のように語ることも可能である。 「現代の医療人類学のルーツは、人類学それ自体の発展の中にさかのぼって調べられるであろう」(Hasan 1975 : 7)。
 もし、我々がこのアプローチを取ろうとするなら、まず偉大なドイツの病理学者ルドルフ・ウィルヒョウから始めねばならない。彼は1849年にこう書いて いる。「もし、医学が人間の病気の科学であると同様に、健康の科学でもあるなら(そうであるべきなのだが)、医学以外の他のどの科学が、人間本来の在り方 を効果的にするために社会構造の基本としての法則を提起するのに、実際により適切であろうか。一たび医学が人類学として確立されれば、また、一たび特権階 級の利害では公的事象の方向がもはや動かされなくなったならば、生理学者や医師が、社会構造を支える一流の政治家の仲間として見なされることになるだろ う。医学は骨の髄まで社会科学である…」(Rather 1958 : 66 より引用、傍点筆者)。
 これらの予言的言辞にもかかわらず、実際のところウィルヒョウは、この現代的分野の起源には何の関わりも持たなかった。新しい分野の出現のためには、鋭 いインスピレーションのひらめき以上のものが必要なのである。科学は着実に発展し、以前は無視されていた研究の領域も少しずつ次第に取り入れられることに なり、こうして新しい分野はゆっくり発達するものである。十分な数の研究者が、同一の、もしくは関連した題材に焦点を当てて、そして意義のある新しいデー タが明らかになり始めるにつれて、新しい分野や下位分野が生まれる契機となる。しかし、共通の焦点の周囲に生ずる複数の関心を連合するには、ある種のひら めきが必要である。通常は、適切な名称が、このひらめきを与えるかに見える。
 さて、このことは、医療人類学の歴史に明確に見られる。健康に関する分野で、勃興しつつある人類学的(そして他の行動科学的)関心からの最初の大きな調 査は、『医学における応用人類学』(Caudill 1953)というタイトルで1953年に出版された。これはすばらしい力作であった。しかし、これに注ぎ込まれた情熱にもかかわらず、この作品は新しい下 位分野を「創出」しなかった。アメリカの人類学者が健康と病気の関連を人類学の研究対象として、初めて十分に認識したのはそれから10年後であった。それ はスコッチが、専門的調査論文に、「医療人類学」のタイトルを付け、またポールが医学と公衆衛生に関する論文の中で「医療人類学者」について言及してから である。(Scotch 1963a, Paul 1963(2))。同年出版の人類学指向の『医療行動科学』(Pearsall 1963)によって新しい下位分野がさらに正統化された。この本の参考文献に挙げた3000にのぼる文献は、人類学の分野における医療システムの重要性を 疑いないものにした。

   医療人類学のルーツ

 我々は、今日の医療人類学の由来をかなり異なった四つの源泉に求める。これらは互いに、完全にではないがある程度まで、別々に発展してきたものである。 この四つは、以下のごとくである。
 (1)自然人類学者の関心。例えば進化、適応、比較解剖学、人種、遺伝学、血清学のような題材。
 (2)呪術や魔術をも含めた未開医療への伝統的な民族誌的関心。
 (3)1930年代後半から1940年代にかけての、精神科医と人類学者の共同研究による「文化と人格」指向性。
 (4)第二次世界大戦以降の国際的公衆衛生運動。

1 自然人類学
 「文化的」医療人類学者が出現するはるか以前から、医学校では、一般的には解剖学教室においてであるが、自然人類学者が教育と研究を行ってきた。定義か らいえば、自然人類学者のほとんどは医療人類学者である。なぜなら、彼らの生物としての人間への関心は、医師達の関心と類似し重複するからである。実際、 自然人類学者のうちのかなり多くの人達が医師である。初期の自然人類学者は、今日と同様に、個人的にも共同的にも、彼らの関心の多くを明らかに医学的重要 事項に向けた。ハーサンとプラサード(1959)は、この領域の内容をリストアップしたが、それには栄養状態と成長、体格と関節炎や潰瘍や貧血や糖尿病な どの種々の疾病との相関関係が含まれている。人間の成長と発達に関する人類学的研究は、人類学的であると同じくらい医学的でもあり、これは血清学の研究に ついても言えるのである。
 人類進化の影響や、また、移民、植民地化、都市化の拡大などの文化的要因による人口分布の差異などに注目することによって、疾病経過についてより広い理 解を得ようとしたのがアンダーウッド達である(Underwood 1975 : 58)。フィネスにいたっては、人間集団の中で見られる疾病は、文明化された生活の特殊な結果の一つであり、その発生の時点を、農業が大規模な定住社会の 出現と発展に基盤を与え始めた時であると論じている(Fiennes 1964 : 23-26)。
 何十年もの間、自然人類学者は、「法医学」の仕事に従事してきた。この領域は、何らかの不正が疑われる遺体から、年齢、性、人種を固定したり、血液型か ら父子関係の可能性を決定したりする法律上の医学的問題を扱うのである。例えばアルバート・デイモンは、マサチューセッツ州検事総長からボストン絞殺犯人 逮捕のための諮問委員会として任命された科学者チームで働いたことがある。
 予防医学の発達の中で、自然人類学者は鎌状赤血球貧血症患者や肝炎キャリアーのようなハイリスク・グループの判定に関する研究に貢献してきた。彼らはま た、「バイオメディカル・エンジニアリング」の分野に貢献しながら、人間の多様性に関する知見を利用してきた。極地や熱帯での、アメリカ軍人や軍駐屯地の ための適切な服装と装備に関する知見の進歩などは、この貢献の一つであった。宇宙飛行士の服も、作業空間と同様に自然人類学の下位分野である人体測定学に よる設計明細書から作られた。「人類学的研究に由来する測定法、規準、標準などが種々の領域で利用されている。例えば、一般医学、小児科学、歯学、栄養状 態の調査、また、一つの集団内におけるのと同様に、異なる集団間での疾病の病因調査などの領域が挙げられる。生物学的応用人類学が適応できる項目のリスト は、ほとんど無限である」(Damon 1975 : 366)。

2 民族医学

 医療人類学の一部分は、今日「民族医学」と呼ばれているものである[すなわち、「疾病に関しての信条と行為であり、これらは土着文化の発達から生み出さ れたものであり、近代医学の概念的枠組みから理論的に引き出されたものではない」(Hughes 1968 : 99)]。これは、人類学者の非西洋的医療システムに対する初期の興味に直接由来するものである。100年以上も以前に、人類学者がフィールド調査を始め た頃から、彼らは研究対象の民族の文化のあらゆる面に関してのデータを集め、可能な限り完璧な民族誌を作ろうとした。この中で、ルーチンワークとして、そ の民族の医療信条のデータも同様の方法と目的から集められたのである。初期の人類学者だけでなく、探検家や宣教師達も、彼らが発見した民族、つまり彼らが その中で働いた民族について熱心にデータを集めた。彼らがいかに勤勉であったかは、半世紀も昔のものになるが、最初の世界的規模の疾病の原因に関する信条 の比較研究を見ればよい。それは、ほとんどが民族誌的研究によるものであるが、229の原因が挙げられている(Clements 1932)。このクレメンツに先だって、有名なイギリスの内科医であり人類学者であるW・H・R・リバースは、医療人類学の分野で画期的な研究を発表して いる。それは『医療、魔術、宗教』と題されたものである(Rivers 1924)。我々は基本的概念をリバースに負うている。土着の医療システムは社会制度であり、一般の社会制度と同じ方法で研究されるべきであるという考え 方や、また、土着の医療行為は、その土地に普及している病気の原因論から判断すれば合理的行動であるという考え方が特にそうである(Wellin 1977 : 49 参照)。この肯定的遺産を相殺するかのように、現在までも未開医療の研究に支配的な不幸なステレオタイプを遺贈したのも、他の誰でもなく、リバースその人 であったと指摘できるだろう。このステレオタイプとは、未開医療においては、宗教、魔術、医療がいつも密接に結びついているので、それらのうちの一つの研 究は他の二つの用語だけで行えるという考え方である。このようなステレオタイプが、ここ半世紀の間、人類学者の多数に、無批判的に受け入れられてきたの で、我々の非西洋的医療システムについての理解は非常に制限されてきている。
 いうまでもなく、リバースもクレメンツも、また未開医療システムのデータを収集していた同時代の人々も、彼ら自身が医療人類学的研究をしているのだなど とは思ってもいなかった。また、彼らの調査結果が研究対象の民族の健康に重要な意味をもつことに、彼らが気づいていたとは思えない。つまり、医療人類学 が、未開医療の初期の調査から発展してきたなどとは言えなくて、むしろ別の過程を経てきているのである。今日、健康保健領域で仕事をしている人類学者が、 非西洋的医療の伝統的研究を「再捕捉」して、「民族医学」という形式的な名前を与え、自分達の専門の一分野にしたのである。医療人類学が、特に国際的な公 衆衛生やトランス文化精神医学などの幅広い領域で発達するにつれ、非西洋的医療システムに関する知識の重要性が、理論面同様に実際的な局面でも明らかに なってきた。この認識が民族医学的研究に新たな興味の火をつけ、医療人類学の中の最も重要な部分にまで持ち上げたのである。

3 文化とパーソナリティ研究

 主として部族研究の一部として行われた民族医学の研究をのぞけば、1950年以前に人類学者が健康について発表したものは、ほとんど心理学的または、精 神医学的現象を扱ったものであった。1930年代中期から、人類学者、精神科医、そして他の行動科学者達が、大人のパーソナリティや性格、それが置かれて いる社会文化環境について問題を提起しはじめた。大人の人格形成は、大きくなってからの人生経験によっていると同様に、多くの部分を幼児時代の適応性と、 子供時代の環境への感受性によっているのであろうか。それとも、文化とパーソナリティを決定するのに重要な役割を演ずる生物学的要因に基づく遺伝的精神的 素質というものがあるのだろうか。これらの問いは、世界の様々な地域での人間行動の観察結果の多様性が引き金となったのである。例えば、極北アメリカと極 北アジアに見られる「北極ヒステリー」が他の社会では全然見られないことを、どう説明したらよいのであろうか。また、東南アジアにおける「走るアモック」 (running amok)も、どう説明しよう。また文化が異なると、かくもパーソナリティの「規範」が違うことをどう説明できるのだろうか。行動科学者達もロールシャッ ハテストや絵画統覚検査(TAT)のように人間の心の機能に光を当てて、提起されている問題の解決の糸口を与えるような新しい「投影的」テストの可能性に 興味を引かれていた。
 この新しい分野で、人類学者と他の行動科学者が興味を示した対象の範囲の広さは以下の代表的出版物のタイトルによってわかるだろう。
 『本能に関しての人類学的考察』(Mead 1942)
 『ピラガ・インディアンの子供の人形劇』(Henry and Henry 1944)
 『サンペデロの血縁間の拮抗』(Paul 1950)
  『未開民族における精神分裂病』(Demerath 1942)
 『サウルテックス社会での侵犯』(Hallowell 1940)
 『未開民族の精神医学』(Devereux 1940)
 『ナホバの宗教における精神療法の原理』(Leighton and Leighton 1941)
 『機能的障害の治療における、アパッチ・シャーマンと現代の精神医療との比較考察』(Opler 1936)
 おもしろいことに、この「医療」人類学のほとんどが、精神医学の雑誌に登場しているが、一般的な人類学の文献の中にはほとんど見出せないのである。
 文化とパーソナリティの研究の大部分は、本来理論的なものであったが、この傾向のリーダーである何人かの人類学者は、人類学の知見はヘルス・ケアのレベ ルを上げるのに役立つにちがいないと考えた。そのようにして、デベローは治療の適切さを判断する視点をもって、分裂病の病棟の社会構造を研究した (Devereux 1944)。レイトン達は、ナバホ・インディアンの文化と社会の矛盾と、ナバホ族への現代医療の導入の問題を扱ったすばらしい本を書いた (Leighton and Leighton 1941)。同じ頃、内科医で人類学者であるアリス・ジョセフは、アメリカ南西部の白人医師とインディアンの患者との人間関係の問題点を記述し、役割認知 と文化的差異がいかに最適な治療関係を邪魔するかを示した(Joseph 1942)。

4 国際的公衆衛生

 ロックフェラー財団が国際的な公衆衛生活動に今世紀初頭から従事してきた(例えば、1916年−1922年のセイロンでの鉤虫駆除キャンペーン、 Philips 1955)にもかかわらず、合衆国政府がラテン・アメリカ諸国の政府に、広範囲の技術援助計画の一環として健康計画の協力を開始したのは、なんと1942 年に至ってからである。戦後、合衆国のアジア、アフリカへの技術援助計画が拡大し、また世界保健機構も設立され、発展途上国における大規模な二国間、およ びそれ以上の国々にまたがる公衆衛生計画が世界中で見られることになった。その結果、自分達の文化の中、特に臨床医学の中だけで働いている人達に比較し て、通文化的状況の中の保健従事者達の方がはるかに早く気がついたことがある。それは、健康と病気は生物学的現象であると同様に社会的文化的現象でもある という事実である。発展途上国の健康への要求は、工業国の保健サーヴィスを単に移植するだけでは満足させられないということを、彼らはすぐに悟ったのだっ た。
 未開民族や農耕民の医療観や医療行為に関する資料は、以前から文化人類学者によって集められていた。これらの、文化的価値や社会形態に関する情報と、社 会の安定性と変化のダイナミクスに関する知見とは、この頃の初期の公衆衛生計画が直面した問題を解決する鍵を与えたのである。ここでは、人類学者は保健従 事者に説明する立場にあった。例えば、どのように伝統的信条と行為が西洋医学の前提と衝突したか、どのように社会的要因が保健に関する意志決定に影響を与 えたか、そして、いかに健康と病気とが全体的文化パターンの様相にすぎなく、より広範囲で包括的な社会文化的変化にのみ伴って変わるものであるか、などに ついて説明したのである。
 1950年代の初めに至って、人類学者は彼らの知識が(そして研究方法も)実際に役立つものであることを国際的公衆衛生関係者に示すことができるように なった。そして、公衆衛生関係者の多くは、諸手を上げて人類学者を歓迎した。人類学は何故に多くの計画において期待はずれの結果しか得られなかったのかに ついて洞察を与え、幾つかの実例では計画を改良する方法を提案できた。人類学的アプローチは、また公衆衛生関係者にとっても受け入れ易いものであった。と いうのは、そのアプローチは、専門職としての公衆衛生関係者を脅かすものではなかったからである。彼らはこの方法が安全であるとも見なした。この考えによ ると、変化に対する抵抗の問題は、変化を受け入れるも抵抗するも、ほとんどそれを受け取る人々の側の問題であると定義していたからである。通文化的及び国 際的保健計画に人類学者が初期に関与した代表的研究には、Adams(1953)、Erasmus(1952)、Foster(1952)、Jenny and Simmons(1954)、Kelly(1956)、Paul(1955)、Saunders(1954)などがある。これが現在の医療人類学の第四番 目の、つまり最後の「ルーツ」である。そして、人類学の中に新しく、かつ重要な分野があり、現時点ではその可能性がやっと理解され始めたにすぎないのだと いうことを実感させるように促したのは、他の三つのルーツよりも、このルーツであると我々は信じている。

   理論的次元と応用的次元

 最初に指摘したように健康と病気の問題への人類学的興味の発達は、部分的には理論面での動機づけによるものであった。それによると、医療観と医療行為は 全ての文化において重要なカテゴリーとなっているので、政治や経済や社会や宗教や他の全ての制度に対するのと同様の関心が、健康に関する制度に対しても向 けられることを要求している。生物医学的人類学においても、研究の大部分は理論面に志向性を持ってきた。しかし、方法手段が発達するにつれ、人類学者の健 康と病気への関心は、実際的な次元に関わるようになった。保健計画事業の医療スタッフの協力の下で多くの研究が進められたり、保健サーヴィス改善を目的と したり、また種々の疾病の発生における要因としての人間行動の理解を目的としたりすることで、まさに「応用」されることになったのである。このようにし て、医療人類学は本質的には応用科学であると見なされるようになった。このことは、公衆衛生の医学者と人類学者が連帯して、発展途上世界の健康水準の改善 に携わった1950年代の形成期についてはとりわけ正しいと言える。事実、最初の大規模なフィールド調査に『医学における応用人類学』(Caudill 1953)というタイトルがつけられていたのが思い出される。応用的次元が最も重要であると、いまだに見なしている人類学者達もいる。例えば、ウィーバー は「医療人類学は、健康と病気の多様な観点を扱う応用人類学の一分科である」と考えている(Weaver 1968 傍点筆者)。  
 しかしながら、ほとんどの医療人類学者は少なくとも暗黙のうちに社会学者ストラウスのモデルに賛同している。彼は「医療の社会学」、つまり医療制度の全 ての局面の研究は、「公的な医療職から離れて独立した地位で働いている人達によって行われるのがベストである」と言う。これは、この分野の理論面である。 これに対して、「医療における社会学」は、調査や、またしばしば教育においても、医学スタッフとの共同研究を含んでいる。そしてその活動においては、多方 面の学問分野からの概念、技術、そして人材が統合されている(Straus 1957 : 203)。ストラウスに従って言えば、医療の人類学を理論面として、また医療における人類学を応用面として語れるであろう。
 ストラウスは、医療社会学の理論的分野と応用的分野は両立し難いものと考えた。「医療の社会学者が、彼のアイデンティティを医学教育や臨床研究に接近さ せすぎたら、彼は客観性を失ってしまうだろう。かたや、医療における社会学者が彼の同僚達を研究対象としようとしたら、人間関係を駄目にする危険性があ る」(Straus 1957 : 203)。これとは対照的に、我々の経験からは、理論的なものと応用的なものとの区別は、大まかな分析的なものにすぎなく、つまり、仕事の内容を多方面の 視点から眺める際や、調査の結果をまとめる際の方法の区別であるように思える。応用的要請の下に実行される研究は、他の応用研究と同様に、基本的データを 文化理論の根幹にフィードバックしてくれるし、また、純粋な理論的調査(例えばメキシコ村の医療システムに関する研究)でも、その村への政府の新しい保健 サーヴィス導入のような実際的計画において直接的価値を持つことに、我々は気づいている(3)。 
 コルソンとセルビーの次のような意見は正しい。つまり、医療人類学という分野が急速に成長し、メンバーの間に集団への同一化の強い意識が働いているにも かかわらず、「この分野に関して幅広く共有された定義もなければ、その境界線に関する同意もない」(Colson and Selby 1974 : 245)。パイオニア的定義としてはハーサンとプラサードの次のようなものがある。医療人類学は、「《人間の科学》(science of man)の一分野であり、これは人類の医学的、医学史的、法医学的、社会医学的、公衆衛生的諸問題の理解を通して、この視点から、人間の生物学的そして文 化的(歴史的も含む)位相を研究するものである」(Hasan and Prasad 1959 : 21-22)。もっと後の定義でもこの分野の生物的−文化的次元を明確にしており、「医療人類学は、人間と、健康と医療への人間の働きかけの、生物的文化 的理解に関わるものである」(Hochstrasser and Tapp 1970 : 245)とされている。リーバンは、簡単にこう言い切っている。医療人類学は、「医学的現象を社会的文化的事象に影響されたものとして扱う研究と、社会的 文化的現象を医学的状況に啓発されたものとして扱う研究とを包含している」(Lieban 1973 : 1034)。ファブレーガは、それまでのこの分野の業績を基盤にして次のように定義する。「医療人類学の研究」とは、「(a)個人や集団が病いや疾病に冒 されたり、反応したりする際に、ある役割を果たすか、影響を与えるところの要因、機構、過程を説明することである。また(b)行動パターンに重点を置い て、これらの問題を検討することである」(Fabrega 1972 : 167)。
 我々は、医療人類学は健康と病気に関した正統的な人類学的活動である、と定義するのが最も適切であると考える。実際に役に立つ定義として、我々は次のよ うなものを提起する。
 医療人類学とは、以下のことを記述するために人類学者によって使われる用語である。
 (1)人間行動と健康・病気のレベルとの間の、生物的文化的相互関連性を、過去から現在まで、まずはこの知識の実際的有用性を無視しながら、包括的記述 と解釈を目標とする研究。
 (2)そして、健康水準の改善を目的とする計画に専門家として参画すること。これは、生物−社会−文化現象と健康との連関性のより高度の理解を通して、 また健康改善を進めると考えられる方向へ保健行動を変化させることを通して行われるものである(4)。
原註
(1) 糞石とは排泄物の乾燥標本で、化学的復元後は新鮮な糞の標本同様に分析できる。この考古学者とは、カリフォルニア大学バークレー分校人類学部教授 のロバート・F・ハイツァーであり、疫学者とはカリフォルニア大学サンフランシスコ分校国際医学部教授のフレデリック・L・ダンのことである。これらのこ とが書かれた時点では、大学院生ミッシェル・クリクスは、ラテン・アメリカのエパゾーテを食用している人達の腸管寄生虫の有病率の調査中であった。
(2) しかし、これらは「医療人類学」という用語の最初の使用ではなかった。1956年に、P・T・レジェスターが、あらゆる集団において人類の疾病と 障害の罹患率に対する社会的、遺伝的、環境的、家庭的要因の影響に関する研究を意味して、この表現を使用した。レジェスターの指向性は明らかに生物−文化 的で、彼はこの種の研究を「自然人類学及び社会人類学の視点を含むもの」と述べている(Regester 1956 : 350)。1959年、ハーサンとプラサードは、インドの医学雑誌の重要な論文の中で「医療人類学」という用語を使用した(Hasan and Prasad 1959)。これらの論文は合衆国においては広く知られることがなかったので、医療人類学の概念を具体化するのに有効な影響力は発揮されなかったのであ る。
(3) フォスターの1969年の著作の第2章の、理論的及び応用的人類学の間の関係についての論考を参照せよ。
(4) 医療社会学と、医療人類学の社会的視点の比較は、フォスター(1974)とオルセン(1974)を参照せよ。  

ch01-FosterAnderson_MA_All1978.pdf
このページは、かつてリブロポートから出版されました、フォスターとアンダーソン『医療人類学』の改訳と校訂として、ウェブ上においてその中途作業を公開 するものです。



他山の石(=ターザンの新石器)

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