はじめにかならずよんでください

Notes on George M. Foster and Barbara G. Anderson' Medical Anthropolpgy, 1978

解説:池田光穂

医療人類学
第2章 医療人類学と生態学

   生態系と社会文化体系

 近年、次第に多くの人類学者が、生物文化的−環境的な保健問題に関心を抱くようになってきた。これらの問題の多くは、ベイツが「生態学的視点」と提唱し た立場で研究されている(M.Bates 1953 : 701)。生態学的視点が人類学者に適していることが明らかになったこと自体は、それほど意外なことではない。なぜなら、実はこの方法は人類学のシステム に関する基本的なアプローチを、全ての環境と生物的社会に拡張したにすぎないからである。「システム」とは、ウェブスター中辞典によると、「恒常的な相互 作用と相互依存の形で結合された全体を形成し、調和的に機能、活動、移動するために、自然にまたは人工的に結合された多種多様の単位からなる一つの集団」 である。

 人類学で、「統合された全体」といえば、もちろん 社会文化的システムのことであり、つまり一般的用語では文化のことである。生態学では、統合された全体 とは生態(学的)システムのことであり、「植物、動物そして非生命的環境まで含めた相互作用的集団」である(Hardesty 1977 : 289)。ギアーツが指摘したように、この環境(Environment)、つまり「生息圏」(habitat)は、規模、複雑さ、時間幅において、微生 物を含んだ池の水の一滴から動植物の生活を含んだ地球全体までの範囲に及ぶであろう(Geertz 1963 : 3)。もっと一般的には、生態学者の研究する生態システムとは、植物や動物や人間の生活を含めたカラハリ砂漠とか、北極のツンドラ、アマゾンの密林、アル プスの草地、または潮だまりのようなものを指すのである。

 両方の分野において、辞典の定義も指摘するよう に、多くの疑問の中に特に2つの主要な疑問がある。第1の疑問は、種々多様の単位がどのようにして相互に システムを組織するのか(つまり、構造的配置はどのようなものであり、機能的相互依存はどのようなものであるのか)。第2の疑問は、システムが働いている とき(常に働いているのだが)、どのようにして構造的配置が新しい配列に変化するか。そして、このシステムの機能を維持するために新しい配列は何をもたら すのか。つまり最初の疑問は、形態と機能に関するものであり、2番目のものは動態(dynamics)の問題に関するものである。

 重大な崩壊を起こさないで機能し続けるためには、 生態システムも社会文化システムも統合と内的一貫性の最低のレベルは維持しなければならない。このレベ ルとは、系内の別個の単位が互いに分担協力的な役割を果たすために十分なものでなければならない。しかし統合は変動に対して完全に対応できるとは限らな い。システムの各部分が不変の場所に永久に固定されているわけではないことだけから考えても、変化が本質的に不可避のものであるといえるであろう。生態シ ステムも社会文化的システムも、動態の多様性に促されて、形態的にも機能的にも変化する。そして、変化することにより、それらが機能的に結びついている要 素に、形態面と機能面での変化をもたらすことになる。生態システムと社会文化システムを結ぶ学生にとってこの事実は非常に重要なことである。なぜならば、 この両学問分野において、研究者達は主として、変動と革新の後に生じる系統的変化に関心を持っているからである。

医療人類学者の生態学的関心

 医療人類学者と、彼らの関連する分野の病理学者、地理学者、疫学者、社会学者、さらに様々な人達が、生態学的テーマに興味を持ち、このテーマを記述する のに数多くの種類の用語を使ってきた。その結果、人類生態学、医学生態学、社会生態学、疾病生態学、疫学、社会疫学、などの用語が、ある時は異なった意味 で、ある時は同じ意味に使われているのに気がつくことになる。しかしながら、重要なのは関心の内容や範囲であり、ここに人類学的成果に対しての、かなり一 般的な同意があることを見出す。

 人間の自然環境、社会環境、人間の行動、疾病との 相互関係について、また人間の行動と疾病がどのようにフィードバックを通して人間の進化と文化に影響す るかが、生態学的な方向での医療人類学者の関心の的である。古代人の疾病の研究である古病理学は、我々の祖先が生活環境にどのように影響されていたか、ま たどんな生活をしていたかを教えてくれるものである。次にこの古代人の疾病に関する知見は、彼らの次の世代達が、遭遇した健康の脅威に(文化的にと同様) 生物学的にも適応した方法、つまり人類進化について理解するのに役立つことになる。個人と集団の行動が、様々な集団における健康水準や様々な種類の疾病の 発生率に関連性を持つという疫学的諸問題の研究では、現在では生態学的アプローチが基本となっている。この生態学的視点は、特に国際的な開発近代化計画に おける健康問題の研究に役に立つのである。というのは、緻密に企画された技術開発計画は、その開発が達成された時に、往々にして別の長期にわたる変化を引 き起こすことに、無自覚なまま着手されていると思えるからであり、そして、この新しい変化の中には、逆に健康へ悪影響を及ぼすものが多く含まれているかも しれないのである。

 生態学の研究は、まず環境について始まる。人間に 関する限り、環境とは自然的なものと社会文化的なものの両方である。全ての人間集団は、生活する地域に 特有の地理的気候的条件に順応しなければならないし、同時に資源を必要に応じて利用可能なものに活用することを学ばねばならないのである。また、彼ら自身 が作り出し、彼ら自身が生活している人工的環境にも順応しなければならない。しかし、環境には二つの異なったタイプがあるのだと言い切ってしまうのは、単 純化のしすぎである。二つの要素は、しばしば互いに混じり合い、実際我々が扱うのは、単一の環境である。例えば、疾病は人間環境の一部分である。疾病は病 理学なものでもあり、あるレベルでは明確に生物学的なものである。しかし、社会心理学的及び文化的要因が、しばしば疾病の引き金の役割を果たすし、また一 方では、患者が治療を受ける間に患者の環境が変化していく過程は、純粋に文化的なものである。

 人間環境の一要素と見なされる疾病は、人間の進化 に影響を与えてきた。このことは、西アフリカにおける鎌状赤血球貧血症因子の増加に簡単に見てとること ができるであろう。この病気の保因者はマラリアに対して相対的に抵抗力を持っており、これが進化的には、適応的変化となっているのである。疾病は、また、 文化的進化においても役割を果たすのである。例えば、カトリック諸国においては、若くして死んだ子供達は、「小さな天使」として煉獄を通らずに天国に直接 行けるとされている文化形式がある。煉獄を避けられるということは非常に幸運と見なされるので、小さな天使の通夜と葬式は、音楽や歌や踊りや、その他幸福 な表現で飾られる。伝統的社会においては、半数以上の子供が五歳未満で死亡しており、この文化様式は両親や親類の悲しみを、ある程度、順応させ、和らげる ものとして見ることも可能であろう。

 栄養もまた、環境の生物文化的な一様相と見なせる だろう。もちろん、自然環境によって与えられる条件の限界を、栄養は越えることはできない。しかし、環 境から入手可能な栄養物の中からどれを「食物」−それゆえに食べられる−と定義するかは文化的な問題である。また、男達が最初にタンパク質に富んだ食物の ほとんどを食べてしまい、女子供は残りものを食べ、時には栄養的に非常な犠牲を強いられるような状況では、栄養は社会文化的環境の一部分である。乳児が栄 養を与えられる方法も、また環境依存的と見なせるであろう。発展途上国の多くでは、乳児の人工栄養としての缶入り粉ミルクが商業的に大々的に売られてお り、かなりの率で母乳栄養にとって代わっているところもある。医師達が認めているように、人間の母乳は非常に新鮮で、適切に栄養が混合されており、簡単に 清潔が保てて、まさに理想的な乳児の食物なのである。これに対して、缶入り粉ミルクは、しばしば栄養バランスが不適切であったり、汚染された水が溶くのに 使用されたりして、乳児に下痢や他の胃腸障害を引き起こす原因となる。哺乳びんか、乳房か、乳児の食物はまさに彼の環境そのものなのである。

 以下、生態学的傾向の人類学者の興味を引いた主要 なトピックスを論じてみよう。

古病理学

 病理学者、解剖学者、自然人類学者達は有史以前の人間の疾病と外傷について、かなりの知識を手に入れてきた。しかし、知りたいことの全ては知りえないの であり、そこには多分、突破できない限界があるだろう。知りえた知識のほとんどは、骨に可視的な証拠を残すような疾病に限られる。認知しえたのは、例えば 梅毒、結核、フランベジア、骨髄炎、灰白脊髄炎、レプラ、等々の感染症による骨変形と膿瘍なのである。しかし、これらの疾病に限っても不確実なことが多 い。梅毒は西欧による征服以前のアメリカ大陸の疾病でコロンブスの水兵達によってヨーロッパに持ち帰られたものなのか、それとも旧大陸の起源のものなのか は、いまだに病理学者の議論の的である(Kerly and Bass 1967 : 640-642)。関節炎、う歯、くる病、そして他の多くの疾病も残された骨から確認されている。

 人工的に、もしくは自然に保存されたミイラの軟部 組織は感染症について多くの情報を与えてくれる。比較的古い解剖技術による研究は、初期にエジプト・ミ イラに関して行われたが、現在ではこの方法は廃れている。コーバーンは最近、改良された組織学的技術によって新たに見出した証拠を挙げながら、新しい方法 での研究の必要性を説いている(Cockburn 1971 : 53)。古代人の疾病の分析の最新技術は、排泄物(糞石)の利用であり、これが復元された時に腸管寄生虫の有無について重要な情報が得られるのである。糞 石は同時に、古代人の食生活について、特に彼らが食べていた種子や穀物について、驚くべき情報を与えてくれる。古病理学者は、同じように洞窟壁画と、壺や 人間の彫像や木や石や陶器の上に描かれた絵などの美術様式をも利用する。そして、時代的にもう少し近いものになれば、初期の医学的記録や歴史家の著作はか なり役に立つものである。もちろん、彼らが記述したのは何の疾病についてなのか確定することが不可能な場合もしばしばあるが。

 骨標本に戻って言えば、古代人の骨に見られる外傷 の類のものは、喰人風習の可能性や戦争やその他の日常生活の局面を教えてくれる。例えば、ウェルズは、 古代遺跡からのペルー人の頭蓋骨に、一ダース以上の陥歿骨折がしばしば見られ、これらの骨折は埋葬場所からよく見つかる投石器の石によるものと考えられる と指摘している(Wells 1964 : 19)。たいていこれらの傷はほとんど治癒した跡があることから、この戦闘の形式は、相手に疼痛を与えるが、必ずしも致死的である必要はなかったかのよう に思われるのである。もっと重症の「頭蓋骨の頭頂部の二重、三重の陥歿骨折」は、好まれた武器である6つの突起のついた「星形頭」の棍棒の使用によるもの であった(同書,49)。

 骨標本に見出される傷の中では、武器によるものが 一番ありふれたものではあるが、その他の傷の種類や分布からも、もっと殺風景な性質の文化様式を推察で きる。アングロサクソンの埋葬の中から、頻繁に脚の骨折、しばしば腓骨だけの骨折が見られ、これは足がねじれるような転倒によっての骨折と考えられるので ある。今日でいえば、歩道の緑石を踏みはずした時に起きる種類の骨折である。ウェルズは、アングロサクソンの埋葬の中のこの骨折を、荒れた土地を切り拓き 耕しているうちに起こった転倒によるものと解釈している。不器用な足どりも頻繁な踏みはずしの要因だったろう。また、この脚の骨折とよく一緒に見られる手 首から一インチ離れた前腕の骨折も、この仮説を信じられるものにしている。というのは、この種の転倒の典型的なものは、前方に向かって手を伸し、その上に 倒れていくものだからである(Wells 1964 : 51-52)。

 アングロサクソンの骨折と、古代エジプトのヌビア 人の骨折とを比較すると環境の違い、そして多分、文化様式の違いが示される。後者においては脚骨折は前 者におけるほどは一般的なものではなく、ほぼ6000体の調査のうち約10パーセントにしか見られなかった。ヌビア人の脚骨折がアングロサクソンの農民に 比して低い頻度であるのは、エジプトの土地が荒地でなく、畝あいが低く、そのために足を踏みはずすことが少なく、また裸足の人達はきつく足を靴で包んだ人 達よりしっかりと大地に立てるからであるとウェルズは考える。前腕骨折はヌビア人の標本の30パーセントに見られる。しかし、アングロサクソンのものが手 首骨折であったのに対して、ヌビア人の骨折はほとんどが前腕の中央部の骨折であり、これは頭に対する打撃を腕で防御する際に被る骨折の典型的なものであ る。これらの骨折は、「この社会では短気と攻撃的な行為が一般的なものになっており、それらが多くは女性に対して、妻を殴ることなどに向けられたことを示 している。このことは一般に女性の地位が低かったことも意味している。ある十代の少女のミイラは、両方の前腕がこのような形で粉砕されている。彼女は、腕 で自分の頭を守ろうとしたのだが無駄で、腕もろとも頭まで強力な殴打でつぶされたのである。彼女は妊娠四、五ヶ月の体だったが、これが殴打された原因だっ たかもしれない」(Wells 1964 : 53)。

 古代人の疾病や、環境適応に関しては、南アフリカ のブッシュマンや、オーストラリアの原住民のように現在も生きている狩猟採集民族の研究から推察でき る。未開民族を古代人の生き残りの例と考えるべきではないとのポルーニンの警告は、確かに正しい。しかし、「今日の未開民族が置かれている状況は、進歩し た社会よりは、むしろ古代に一般的であった状況に似ているし、未開民族の疾病パターンは、多分、現代の文明化された人々のものより、むしろ古代人の疾病パ ターンに近いだろうということを、ある程度の確信をもって言えるであろう」(Polunin 1967 : 70)。

 これらの研究から導かれる最も重要な結論は、遺伝 子やウィルスの動向などの証拠を併せて考えると、多分次のようなものになる。我々現代人の疾病の多く は、古代人には存在しなかったし、そして、「人間個々人が成長する間に悩まされる疾病の種類は、人間の歴史に出現した疾病の種類よりはるかに少ないという ことである」(Black 1975 : 515)。このことは、古代人が現代人より健康であったということではなく、むしろ、十中八、九、逆のほうが正しいであろう。古代人の病気は、現代人の病 気に比べて、より少ない病原体や環境要因によって引き起こされたということは明らかである。例えば、麻疹、風疹、天然痘、おたふく風邪、コレラ、水痘など は、多分古代には存在しなかった。

 これらの考えを持つ人達の中で、コーバーン (1971)が、これらの結論を導いた証拠を要約している。感染症の多くは、それが存在し続けるためには、宿 主である人間の集団を最低限でもある程度の数必要とする。もし、集団の規模がある閾値より下がったら、感染症が消滅してしまうと、彼は言う。感染期間が短 く、かつ病原体が一人の宿主から迅速に他の宿主へ感染することが必要な疾病では、疾病が存在し続けるには、感染の環を維持するための多数の感受性のある人 間が必要となってくる。前の文節でリストアップした疾病はこの種類のものであり、感染の環を維持するに足りる大きな人口がない限り、この種の疾病が持ち込 まれても、少し流行するだけで消滅してしまうだろう。

 先史時代の狩猟採集民族の集団の規模は小さく、一 グループたかだか200〜300人程度だった。前述のタイプの感染症を保持する貯蔵庫を形成するにはあ まりにも小さすぎた。病原体が生存し生き残るための視点からは、新しい宿主が出現するまで長い間生き延びることのできる別な種類の病原体である必要が出て くる。「それゆえに、宿主と共生関係で生き続けられる病原体と、宿主から離れて生き続けられる病原体との2方向に自然淘汰が働くであろう。麻疹のように、 一度の流行で急速に蔓延し、集団の大多数に免疫を与える種類の感染症は、小さな集団では存在しなかったろう。しかし、チフス、アメーバ赤痢、ピンタ(熱帯 白斑性皮膚病)、トラコーマ、レプラなどのように、宿主が長期間感染能力を持つ疾病や、マラリア、フィラリア、住血吸虫症のように、宿主体内に寄生虫が長 期間生存するだけでなく宿主の外側に付加的貯蔵庫として働く媒介動物や中間宿主を持つ疾病は、小さな集団でも存在したであろう」(Cockburn 1971 : 50)。

 狩猟採集民族の健康も彼らの遊牧の習慣に強く影響 を受けている。小集団で絶えず移動している人達は、大集団で定住した人達より、糞便などからの再感染の 機会が少なくなる。この定住大集団の中に感染がいったん流行すると、生活環境を消毒する近代的方法を持っていない限り、流行病を駆逐するのは、ほとんど不 可能に近いことなのである。

 奇妙なことなのだが、人間の罹患する疾病の種類と 頻度を増加させたのは、まさしく農業の発明だったのである。ニールは、こう指摘する。「文明の到来は人 間の健康に一撃をくらわした。そして今、やっとそれから人間は回復し始めているのだ」(Neel 1970 : 818)。農業(と動物の家畜化)により可能となった確実な食糧供給は、人口の増大を導いたが、このことは感染症の広範な急増という犠牲をも伴ったのであ る。部分的には、これは、小集団ではできなかった感染症の貯蔵庫の役目を、大集団がなしえたことにも起因している。また部分的には、動物との緊密な接触が 新しい病原体を導入したことも理由に考えられるであろう。コーバーンが指摘するには、天然痘ウィルスは牛痘ウィルスに非常に似ているし、麻疹ウィルスは犬 ディステンパーや牛ペストのグループに属しているし、インフルエンザ・ウィルスは豚から発見されるウィルスと近い関係があるという(Cockburn 1971 : 51)。再び述べれば、「反復する再感染の機会と、人間の廃棄物による汚染とが増加することにより、定住生活と定住集団の衛生状態の悪さは、確実に寄生虫 病の割合を増大させたに違いない」(Underwood 1975 : 59)。

 狩猟採集民族と農耕民族との間の感染症に対する感 染可能性の差は、人工調節に関しての刺激的な推論を生み出した。歴史を通して、高度の乳児死亡率が、世 界人口の比較的緩慢な増加に対する最も一般的な説明であった。しかし、狩猟採集民族の調査から、彼らの間では高度の乳児死亡率は必ずしも一般的なものでは ないことが示された。ニールは、アマゾン盆地のシャバンテ族、マキリタレ族、ヤノマモ族のインディアンの健康調査から、次のような結論を述べている。農業 発明に先行する、世界人口のゆっくりとした増加は、「多分、基本的には、感染症や寄生虫病による高度の乳児死亡率によるものではなかった。あまり文明と接 触せずに低い人口密度の状態で生活している未開民族が、《中程度》の乳児死亡率と、今日の我々と全く同等ではないが、比較的健康な生活を享受していること を、我々は見出したのである」(Neel 1970 : 816)。人間と、環境からの資源とのバランスは、文化様式によって維持されていたのである。特に、性交禁忌、授乳延長、堕胎、乳・嬰児殺し、そして同様 な事柄が全て結び合って、実質的出生率を4,5年に一人という値に押しとどめていたのだと、ニールは考える(Neel 1970 : 816)。このリストにドイツは殺人も加えて、「恒常的な持久戦は、未開民族の生活の中に簡単に影響をおよぼすので、先史時代の多くの民族にとっても、こ のような戦争が人口増加の実際的チェックになっていたに違いない」と述べている(M.Bates 1959 : 72)。

 だが、農業経済の出現とともに、「人口密度の高い 定住生活ほど、人口調節に置いて、感染症に一次的に影響を受けやすいことが明白になってきただろう」 (Underwood 1975 : 61)。フォスターの未発表の、メキシコの農村チンツンツァンに関する人口調査の資料は、この結論を以下のように実証している。実質的出生率の平均は、出 産可能年齢女性に対して、2年毎に約1人の子供であり、1950年という近年まで、粗出生率は人口千人に対して50という値が一般的であった。習慣として の性交禁忌はほとんどなかったし、堕胎もまれであったようだし、乳児殺しも全く知られていなかった。殺人は、全くないわけではなかったが、男性に限定され ているし、戦争は、今世紀の初頭のメキシコ革命をのぞいては、人口に影響を与えるようなものではなかった。しかし、感染症は強力な殺人者であった。特に百 日咳、天然痘、胃腸病。今世紀の初めという近い過去のことだが、何年かのうちに、村の全人口(もちろん大人も含んだ人口)の10パーセント以上が、疾病に よって消し去られたこともあった。その疾病のほとんどは感染症であった。チンツンツァンで、人口の顕著な増加が見られるようになったのは、やっと1940 年頃からである。それは、天然痘のワクチン、他の疾病の予防接種、浄水の供給、抗生物質、そして他の治療予防手段によってもたらされたものである。

疾病と進化

 感染症は200万年以上の長い間、人類進化にとって重要な要因であってきた。我々の古代の祖先が、個人と集団の生活に対する疾病の脅威に打ち勝つことが できたのは、「遺伝的防御」の進化の機構を通じてである(Armelagos and Dewey 1970)。西アフリカの民族の中の、マラリア抵抗性を与える遺伝子の出現は、この進化の最もドラマチックな例である。近年になって、アメリカ人はある疾 病を新しく解釈しなおした。それは、鎌状赤血球貧血症という、他の人種よりも特に黒人に多い疾病としてよく知られていたものである。この疾病は赤血球が正 常な円盤の形をとらないで、鎌型や三日月型になるのが特徴で、遺伝的なものである。この疾病に罹患した人は、ほとんど若死し、治療法は見つかっていない。 この死亡する人達よりはるかに多数の黒人が、この素因、つまり遺伝子を劣性の形で持っている。彼らは遺伝子を子供達に伝えるが、彼ら自身の健康には何の影 響もないのである。鎌状赤血球貧血症の遺伝的素因は、合衆国の黒人にとって深刻な健康脅威として認識され始めている。そして、検査や遺伝相談を通じて、こ の遺伝子の拡散をコントロールする努力がなされているのである。

 ところが、鎌状赤血球貧血症は、他の環境条件にお いては、健康の脅威どころか、理想的な特性となるのである。それはマラリア地域でハマダラカ (Anopheles属の蚊)に刺されるような状況では、鎌状赤血球貧血症であることはマラリアに対する高度の抵抗力を持っていることになるからである。 ここ2、30年の西アフリカの調査でも、このマラリアに対する抵抗力が、遺伝子淘汰において鎌状赤血球遺伝子を持つ人に、どのように有利に働いたかが明ら かにされた。このことは、ある特殊な疾病が−それ自体は健康への環境的脅威であっても−いかに人類進化に影響を与えることができるかという最も顕著な例で あろう。また、この点に医療人類学者が興味を持つのである。次に、これらの結論を導いた論証を、非常に簡単に要約して紹介しておきたい。

 西アフリカの多くの場所では、鎌状赤血球遺伝子は 原住民の人口の30パーセント以上に見られる。マラリアの地方流行と鎌状赤血球遺伝子との間には強い正 の相関があり、遺伝子保因者が15パーセントを越す地域ではマラリアの地方流行が見られるのである。しかし、この遺伝子保因率が低い集団も存在している。 この低保因率は西アフリカの先住民族の生き残りとして知られている人々の間に特別に見られるのであるが、このことは、彼らの大部分が、後に東方からの移住 民族によって密林の奥の辺境の地へ追いやられて来たことを示しているように思える。本当の意味での森林居住民族は、ほとんどマラリアに罹患しないようであ る。その理由は、西アフリカの最も重要なマラリア媒介蚊であるアノフェレス・ガンビエ(Anopheles gambiae)は、伐採されていない熱帯雨林の日陰の水のような所では育たないからである。

 だが、農耕民族により定住と栽培のための森林伐採 が行われ、アノフェレス・ガンビエにとっての理想的条件が作り出された。西アフリカでは、2000年前 から、東方からの農耕民族が先住民族にとって代わり始めた。この時期まで、熱帯雨林は農業的には魅力的なものではなかった。それは、石器で切り開くのが困 難であったことと、アフリカ最初の栽培物であるキビとモロコシの収穫に適さなかったからである。しかし、鉄器による作業と、多分ナイジェリア原産であった ろう高収穫のヤム(ヤマノイモ属の植物)の導入が同時に行われ、劇的な環境変化への準備がなされたのである。森林は伐採され、村落は恒久的なものになり、 そしてアノフェレス・ガンビエは増加したのである。鎌状赤血球遺伝子は、これらの新しい技術を利用したバンツー語族の間にすでに見られた。この遺伝子は、 マラリアに対する相対的免疫を持っているので、他の遺伝子に比して、自然淘汰において有利に働き、その保因率は顕著に増加したと推測される。「それゆえ に」、リビングストンは、ここまで述べてきたようなことから結論する。「この農業の普及は、鎌状赤血球遺伝子の自然淘汰における有利さを拡大させる原因と もなったし、遺伝子それ自身の拡散の原因ともなった」(Livingstone 1958 : 555)。さらに一般的な理論レベルとしては、彼は次のように結論した。「したがって、鎌状赤血球遺伝子は、この変化した疾病環境への進化的反応と見なせ る。かくして、疾病が進化の方向を決定する重要因子となりうるわけであり、この人間進化の重要事件に関して、この遺伝子が最初の知られた遺伝的反応であ る」(同書、557)(1)。

 ウィセンフェルドは、最近の論文で、鎌状赤血球遺 伝子を、「文化的問題に対する生物学的解決」と表現している。この鎌状赤血球遺伝子の問題から、広範囲 に適用できる一般的重要性を導き出し、次のように提起している。

 「人間の社会経済的適応が環境の変化を引き起こす と、そこでは、ある遺伝子の保因率が変化するであろう。その保因率の変化は、その遺伝子が新しい生態系 の中で保因者に与える生存のための有効性に比例するのである。新たに適応する遺伝子保因率の増加は、それまでの環境の限界を取り除き、さらなる社会経済的 適応の発達を可能にする」(Wiesenfeld 1967 : 317)。

食生活と進化

 疾病と同様に、食生活もまた、人間の進化に影響を与える環境的特性を持っている。スティニは、食生活が体格に影響を与えることを見ながら、この過程につ いて論じている。我々の霊長類の祖先は、樹上生活者で、完全ではないが、ほとんど草食であった。彼らが雑食性の狩猟−採集−食物あさりとなって地上に降り 立つのは約200万年前のことなのだが、この時期以前に彼らの体重は約70ポンドになっていた。この200万年間で、人類は地球上の生活可能地域のほとん どの場所に広がり、体格と脳の大きさは顕著に増加した。これら、少なくとも部分的には、人間の食生活の一部となった動物性タンパク質によるものと推測でき る。量とバランスとが適切な食生活だけが、この成長を促進したに違いない。だが、農耕生活において限られた野菜食品にばかり頼っていると、組織の発達に不 可欠なアミノ酸の欠乏のような栄養失調をまねくこともある。これのよく子供の間に見られる例が、クワシオルコールとして知られるタンパク質カロリー欠乏症 である。また成長速度の遅滞をまねくこともある。スティニは、コロンビアの農村へリコニアの調査で、そこの村の男性達が最大身長になるのに26歳までかか ることを報告している(Stini 1971 : 1025)。男性も女性も身長は小さいが体格の均斉が整っているので、この集団は、「総体的小型化」として記録された。「タンパク源が極端に制限された地 域の集団の全構成員に見られる、この均斉のとれた体格縮小化は、ある種の適応であろう。ここの場合、必要な栄養物資の減少に対応できるように、均斉のとれ た形で代謝組織を縮小させ、栄養必要量を減少させて、限られた利用可能な資源で生き延びることを可能とする適応だったのであろう」(同書、1027)。や がて、このような縮小化は、自然淘汰により遺伝的に固定化されたに違いないだろう。これは、狩猟−採集−食物あさりとしての人間の200万年の歳月が、大 柄で頑強な肉体を遺伝的に固定化したのと同じであろう。こうスティニは語り、さらに続ける。しかし、体格の縮小化は熱帯農耕民族に多く見られることから、 「むしろこれは、本当の意味で確定された遺伝的な適応というよりは、現在進行中の進化の一つの例として、つまり人間の適応可能性、柔軟性の例として受け取 れるだろう」(同書、1027)。というのは、8000年から一万年という年月は、縮小体型を作り出すような複数の遺伝的変化を生じるには時間的に足りな さすぎると、スティニは考えるからである。

 栄養と、人間の進化過程への適応能力との間の関連 性を示唆するもう一つの研究は、成人のミルク摂取についてである。農耕民族の中でも、とりわけ日本人と 中国人の成人は、普段はミルクを飲まないことは、以前から人類学者によって報告されていた。人類学者は、この理由を、普通のアメリカ人がガラガラヘビを食 べることを考えるだけでも嫌気を憶えるのと同じような「習慣」、つまり文化に基づいた嫌悪のせいにした。だが、最近の研究からは、成人のミルク非飲用者に ついて次のようなうまい説明の可能性が提示されている。それによると、成人のミルク飲用は、下痢や腹痛の形で生理学的に胃部不快感を誘発するからというも のである。しかし、東アフリカや他の地域の牧畜民と同じように、ヨーロッパ人や世界中のヨーロッパ人の子孫達のほとんどは、成人がミルクを飲用しても大丈 夫であり、このことに新たな説明を必要とする。マックラッケンは、これに対して最近、興味深い仮説を提起している。

 ミルクは複合的自然食品であり、水分、脂肪、タン パク質、酵素、ビタミン、その他の要素、そして微量元素、それに炭水化物からなる。この炭水化物のう ち、実質的主成分として最も重要なものは、ラクトース(乳糖)である。他の食品同様に、ミルクは、摂取された後、人体にとって使える形に代謝されなければ ならない。ある種の単純な炭水化物は、人体内部で直接に吸収されたり代謝されたりする。また他の複雑な炭水化物は、この直接的吸収・代謝の過程以前に、単 純な形に変換されなければならないのである。ラクトースは、後者のグループに入り、その変換にはラクターゼ(乳糖分解酵素)の存在が必須であり、この酵素 の生産は遺伝的にコントロールされている。正常な人間の乳児は全て、ミルクやミルク製品のラクトースを代謝するに十分なラクターゼを生産する。ところが、 かなりの数の人が、成人になると、この生産能力を失うのである。この人達がミルクやミルク製品を摂取した際に、胃腸の調子が悪くなるという人達である。 マックラッケン(と、他の研究者達)は、このラクターゼの量の程度のバリエーションを、全てといえなくともある程度まで、遺伝学的解釈で説明できるのでは ないかと提案した。この解釈によると、多くの成人に見られるラクターゼ欠損は、人間の大人がミルクを飲み始める前からの(つまり、酪農業が開発される以前 から現在までの人間の歴史を通しての)、遺伝的生き残りの表現型であるという。この説明は次のように展開する。本来は、人間の成人は、他の哺乳類の成獣と 同様にラクターゼ欠損であった。このラクターゼ欠損という遺伝的性質は、特に生存に不利な条件を与えるものではなかったので、ラクターゼを増加させる方向 への自然淘汰的圧力は加わらなかった。しかし、5000年以上前から酪農業が発達してきた地域においては、自然淘汰の圧力を通して、人間は、一生涯ラク ターゼを産生し続ける能力を開発し始めた。「ラクトース(乳糖)が成人の食生活でも重要な役割を占めるような環境においては、ラクターゼ欠損の成人は、ラ クターゼ産生の成人に比べて、自然淘汰的に不利な状況にいるわけである。このような環境下においては、長い時間を経て、成人ラクターゼは産出者は、ラク ターゼ欠損者の犠牲の上に、確固たる地位を得る傾向がありうるだろう。そして成人ラクターゼ産生の遺伝子は、有利な遺伝子として、不利な成人ラクターゼ欠 損の遺伝子を、明らかに数の上でも上回ることになるだろう。このように食生活の習慣や伝統は、ある遺伝子型をえこひいきするような自然淘汰的圧力を作り出 すこともあるだろう」(McCracken 1971 : 484 傍点筆者)。 

疫学

 この章のここまでは、生物文化的−環境的テーマで考え、人類学者の研究を、病理学者、生化学者、医学者、生態学者の研究に接続させる形で検討してきた。 さて今度は疫学的研究であるが、現在及び少し前までの行動科学者の中でも特に医療社会学者の仕事内容に注目しなければならない。医療社会学者達は、この分 野を彼らの専門分野の一つにしてしまったのである。疫学とは、簡単に定義すれば、疾病に関して、その地理的分布、有病率、発生率を、自然環境と人工的環境 と人間行動の影響によるものとして扱う学問であるといえる。年齢、性別、婚姻形態、職業、人種関係、社会階層、個人的行動、自然環境のような項目が、社会 学者や疫学者の調査で最も一般的に使われる変数である。

 これらの変数全てと、さらに他の多くの因子が、種 々の疾病の分布と有病率に重要な関係を持っていることはすでに証明されている。例えば、合衆国の青年男 子は、青年女子や老人男女に比べて、事故で死にやすい。石綿工場の労働者は、石綿肺症と肺癌に関して高いリスクを持っているが、大学の教授はそうではな い。喫煙者は、非喫煙者に比べて、はるかに肺癌や心臓血管疾患で死にやすい。内陸部、特に山岳部の人達は、海岸近くの人達やヨードが豊富な海産物に触れる ことができる人達に比べて、甲状腺腫の発生率が著しく高い。

 疫学者は自分の役割を「疾病原因の複雑なパターン を解明し、疾病コントロ−ルを可能にする端緒を獲得するために、疾病発生の相関関係を明らかにする」こ とと自己規定している−社会学者のクラーゼンはこう話す(Clausen 1963 : 142)。疾病の相関関係は、まず住民調査の方法によって明らかにされる。この調査は、疾病発生と、生物学的、身体的、社会的要因との間の関連性を発見し ようとするものである。「多くの場合、追求される《証拠》とは、仮定された《因子》と、疾病発生との統計的関連である」(Suchman 1968 : 98)。

 疫学は目的指向的学問であり、その第一義的目標 は、健康水準を上げ、健康に対する全ての脅威を減少させることである。その歴史においても、疫学は注目に 価する成功を収めているのである。例えば、甲状腺腫は早くから食生活のヨードの欠乏の結果であると結論されており、ヨード添加食塩で簡単に治療された。 1850年代まで遡ってみると、有名なロンドンのブロードストリートの公衆用水ポンプ事件において、ジョン・スノウはコレラは汚染された水によって蔓延す るもので、きれいな水を飲用する人々はこの疾病になることが少ないことを実証した*1。そして最近では、研究が進めば進むほど、癌の発生に関する多くの部 分が環境的要因によるものであり、この恐るべき疾病の発生を減少させるために、これらの環境要因の大部分を変化させたりコントロールすることも可能である との結論が明らかになっている(Cairns 1975)。これら疫学的研究が「実際的」に役立っていることは、この疫学的方法が公衆衛生専門職の大部分の科学的基盤となっていることを見れば明らかで あろう。

 社会学者の興味とは対照的に、人類学者は非西洋民 族の疾病の疫学的特徴に興味を持ち続けてきた。その中には、北極ヒステリー、アモック、カナビスつまり ガンジャ精神病(ganja psychoses)(例えば Rubin and Comitas 1976)、コロー(koro)、ラター(latah)、ウィンディゴ(windigo)等々のいわゆる「文化特異症候群」も含まれている。もし可能なら ばこの種の研究においては、住民調査と統計学的分析が適切なものなのであるが、こと人類学の研究の多くの場合、他の社会科学者が統計学的に正当な根拠があ ると認めるような資料が集まるのはまれである。人類学の研究において、結論の多くは、行動の観察や文化様式の知見から描かれるのである。また時にはクー ルー(kuru)の例のように、研究自身が、捉えにくい説明の鍵となる変数を追求する探査的仕事の性格を帯びることもある。

 人類学者は、また、「開発の疫学」とでもいうべ き、工業開発計画の健康への影響−しばしば有害なものである−についても、非常に関心を示してきた。人造 湖構築の結果として時々見られる「河盲目」の発生の増加、また灌漑事業の結果としてのビルハルツ症(住血吸虫)の蔓延などは、人類学者によって発展途上国 で研究された疫学的問題の実例といえる。古典的な疫学や、その歴史や、現在の合衆国での実践などについてもっと知りたい読者には、医療社会学の教科書のほ とんどが、良い情報源になりうることを指摘するにとどめ、ここからは我々が興味を持っている、より純粋な人類学的関心事について述べてみたい。

クールーのミステリー

 1950年代中期、それまで医学的に知られていなかった新しい疾病−クールー−が、ニューギニア東高地に住む南部フォーレ語を話す人口約15000の集 団の間で発見された。この南部フォーレ族の基本的文化形態は他の東高地原住の部族と同じものである。この文化形態の特徴の一つは、男性と女性の生活の明確 な分離である。男性は男性用家屋で生活し、食事し、寝起きし、その多くの時間を裁判の論争や、争い、襲撃、儀式に費している。男性達は、土地の開墾だけは やるが、残りのほとんどの農作業は、小さい円型の小屋に子供達と家畜のブタと一緒に住む、女性達の仕事である。1950年代中期には、南部フォーレ族の女 性達は、近隣の部族の女性達と同様、儀礼的喰人の風習を行っており、亡くなった血族の女性の肉体を、とりわけ脳を食べていた。政府によるこの東部高地の部 族達の懐柔が進むにつれ、この種の土着の生活様相は、精力的な努力の末に除去されていった。

 クールーは、あまり例のない疫学的特徴を示した。 その発症がほとんど、女性か子供に限られたのである。また、若い男性がたまたまこの病気に罹ることが あっても、重篤なものにはならなかった。対照的に、いくつかの村落では、成人女性の全死亡の半数が、また5歳から16歳までの年齢の子供の死亡のほとんど が、クールーによるものであった。南部フォーレ族とかなり親しく行き来のあった近隣の他の部族にはクールーは発症しなかったのである。また、現地に入った ヨーロッパ人にも伝染はしなかった。故郷を離れて出稼ぎに行っていた南部フォーレ族の青年に、たまたまクールーの発症をみたが、他の地方から集まっていた 彼の仕事場の同僚達にも伝染することはなかった。そして、政府住民簿の調査から、クールーはほとんど家系的に発生していることが明らかにされたのである。

 クールーの医学的特徴は、中枢神経系の進行性の変 性であり、最終的には完全な機能喪失まですすめ、しばしば嚥下困難に陥る。初発症状から、一般には6ヶ 月から12ヶ月で、飢餓、肺炎、褥瘡(とこずれ)などの合併症で死亡するが、まれには2年ほど生き延びる症例も見られる。クールーを治す治療法は見つかっ ておらず、クールーはまさに不治の病であった。ここに、明らかに解決が求められているミステリーが存在したのである。 
 このミステリーは、現地調査と実験室研究との結合と、多方面にわたる科学者達の洞察力とにより、10年以上かかってやっと解決の日の目を見たのである。 この研究の第一人者は、ウィルス学者で人類学者でもあるカールレトン・ガジュゼックであった。彼は1957年に10カ月間、この南部フォーレ地方を訪れる が、その後このクールーの研究に彼の学者生活のほとんどを捧げることになる。彼の偉大な貢献に対して、一九七六年にノーベル医学・生理学賞が授与された。 初めの頃、クールーを説明するために様々な仮説が提出された−「遺伝的、感染症的、社会学的、行動学的、毒物的、内分泌的、栄養的、免疫学的−まるで『ハ ムレット』の演者のレパートリーを読んでいるように」(Alpers 1970 : 134)。この中でも、クールーが家族集積性があり、南部フォーレ族に限定されているという明白な傾向から見て、遺伝学的説明がもっともらしく見えた。し かしながら、この遺伝学的説明には重大な弱点があった。一人の個人に出現した優性的な、もしくは部分的に優性的な突然変異が、保因者数が数千人にまで拡大 するには、自然淘汰的に有利な状況が数世紀は続かねばならないのである。この点から、クールーが遺伝的なものと仮定しても、クールーのような高い致死性を 持つ遺伝子が、このような長い期間、自然淘汰に有利な位置にい続けたとは考えられないのである。さらに、部族の長老達の記憶などの現地の記録によると、 クールーが初めて出現したのは、たった50年前に過ぎないのである。

 解決の糸口は、1959年にある疫学者が、クー ルーと、スクレーピーとして知られている羊の疾病との病理学的類似性を指摘したことに始まる。スクレー ピーは、羊の間に伝染する濾過性病原体によって起こる疾病とされていたが、他のウィルス病と違って、1年か、それ以上の長い潜伏期の後に発症することが知 られていた。このようなパターンをとる疾病に、「スローウィルス感染症」という用語が現在では与えられている。このスクレーピーの伝染的性質は、研究者に クールーに関してある実験を思いつかせた。その実験とは、クールーで死亡した現地人の脳細胞の懸濁液をチンパンジーに接種するというもので、1963年の 初めに実施された。長い潜伏期の後、チンパンジーは、この疾病に罹った。後には、もう少し長い潜伏期をもって、新大陸、旧大陸の様々な種類のサルへの接種 実験に成功した。かくして、クールーは、スローウィルスによって引き起こされる人間の病として、最初に明らかにされたものとして有名になったのである。

 だが、霊長類による実験データからは、クールーの 南部フォーレ地方での奇妙な推移を説明できなかった。クールーは、1950年代に最盛期をむかえ、 1960年代からは急速な減少傾向を示し始め、1970年までに青年期以前の子供には発症をみなくなった。また、クールーの奇妙な性別年齢別の分布も説明 できなかった。ここに、社会人類学者、ロバート・グラーセとシャールー・グラーセの民族誌的仕事が、ある構図を持ち込んだのである。彼らは、現地の習慣を 検討して、南部フォーレ族の女性の喰人風習は比較的近い過去に始められたものであり、最初に行われたのは1910年頃であったことに気がついた(ちなみ に、クールーが出現したのも同じ頃である)。この喰人風習は、最初は近隣の部族から学んだものであるが、すぐ葬式の一部として儀式化した。この儀式では生 き残った親族の女性達が、死亡した血族の女性の脳を料理して食べることになっており、食べ残りの分は男女両方の子供達に与えられた。そして、この脳はしば しば火を通した調理が完全にはされていなかったので、クールーの犠牲となって死んだ女性の中に生き残っていたウィルスが、血族の女性や家族の子供達に伝染 したのである。近年になって新たな発症が急激に減少したことに関しては、オーストラリア政府の喰人風習に対しての啓蒙活動の成功によるものであると説明さ れる。換言すれば、喰人風習の中止によって、クールーは最終的には消滅するであろうと推定できるわけである。この説明は、この問題に取り組んできた全ての 疫学者に、事実上受け入れられているものである。しかし、どこからウィルスが来たのか、また1910年以前はどこにウィルスが潜んでいたのか、などの問い は、今後解答されるべきものとして残っている(2)*2。

生態学(エコロジー)と開発

 最近のアメリカのエコロジー運動とは裏腹に、世界の多くの人々にとって「開発」という言葉は肯定的な意味あいを持っている。「開発」つまり国家の人的物 質的資源の合理的使用を通じて、貧困は取り除かれ、教育は普及し、疾病はコントロールされ、標準的生活が享受できると、多くの人は信じている。「開発」と いう概念は、自然のバランスへの人間の技術的介入を意味をするのである。ダムの建造、土地の開墾・地ならし・灌漑、高速道路・学校・病院の建設、油田の採 掘、鉱山の採鉱、工場の建設などがそうである。広義の意味では、人間の開発的活動は決して新しいものではなく、少なくとも新石器時代まで遡ってその跡を見 ることができる。この時代に、狩猟−漁撈−採集の生活形態の基盤となっている生態学的バランスを修正する最初の重要な様式として、農業が開始されているの である。ヨーロッパにおける産業革命の到来をもって、人間の自然への介入のペースは急激に加速され、大気汚染が初めて知られるようになった。汚れた空気、 不衛生、密集住居、−産業革命によってもたらされた都市スラムの健康問題は、今日でもまだ完全には解決されていない。しかし、初期の開発の形態がいかに著 しいものであったといっても、スケールと複雑さにおいて現在の世界的規模での「近代化」ラッシュとは比べものにならないのである。

 開発とは、もちろん、現在の状況そのものでもあ り、密集した世界においては理論的に筋道の通った代案というものは、そう簡単にはない。しかし開発には 「良い」開発と、「悪い」開発とがある。良い開発とは、開発が行われた地域の人々の生活が、バランスがとれていて(このようなバランスが実際に計測できる としたらだが)、開発以前より暮らし良い状態になるものであり、悪い開発とは暮らしが悪くなるものである。このことは、この章の初めに述べたように、変化 とは個別的にのみ起きることはないという理由による。文化は微妙にバランスのとれたシステムであり、断片的には変化しない。また、ある領域(例えば農業) における外観上利益が多く見える改革は、他の領域(例えば健康)において、二次的三次的変化を引き起こすことになるかもしれない。そして、この変化は、当 初の狭い視野から予期した利益よりも、もっと重大なものになるかもしれないのである。ほとんどいつものことであるが、「計画された改革には、予知できな かった結果が伴うものである」(Foster 1962 : 79-86)。その結果のうち、あるものは良い結果であるが、多くの場合望ましくない結果である。

 デュポスは、文化現象の「予知せざる結末」モデル を生態学の言葉で表現している。「全ての技術革新は、それが工業的、農業的、もしくは医療的なものであ ろうとも、必ず自然のバランスを狂わすことになるのである。実際、自然を支配するという言葉は、自然の秩序を攪乱させるという言葉と同義語である」 (Dubos 1965 : 416)。デュポスは、多くの他の人々と同様に、自然のバランスを守ることは「原則的には望ましいこと」と考えている。しかしその一方で、彼は、このこと を実現する方法を、はっきり定義するのは非常に困難であることも認めている。「自然は決して、静的安定状態にあるのではない。なぜなら、自然の物理的及び 生物的構成要素間の相互作用は、無限に休みなく変化するからである。それ以上に、人間は土地を耕し始めてからは自分自身を、自然の一部としてでなく、自然 から離れたものとして考えるようになったのである。この考え方は、都市生活を送るようになると、さらに進んだのであった」(同書、416)。数千年前に、 サイは投げられたのである。だから問題は、我々が自然を攪乱するか否かではない。むしろ問題は、種々の革新が有益なものとなり、有害なものにはならないよ うな方向で、自然をどう変化させていくかということである。

 少々異なった言葉でであるが、ヒューズとハンター は同様の考えを述べている。人間と環境の間の既存の関係を変化させようとする計画は、全て生態学的枠組 みから検討されなければならない、と彼らは語る。「これらの計画は、人間と環境との間に、いわば新しい《生態学的契約》を創り出すものと見なさなければな らない。この契約ではいつも、掛かる損失は隠されている」(Hughes and Hunter 1970 : 479)。

 人類学者は、彼らの分野のまさに始まりの頃から、 文化がどう変化するかに関心を持ってきた。第二次大戦以後の時期は、開発計画の表向きの利益と同様に隠 された損失をも含めて、「技術変化がどのような社会的結果を導くか」に、人類学者の興味の中心があてられている。計画事業のほとんどが自然への介入を含ん でいるので、このような開発による変化の研究には、生態学的視点が格好の視座を与えるのである。「隠された損失」という概念は、もちろん全ての種類の変化 に適用できるが、ここでの我々の文脈では、おもに健康被害について見てみたいと思う。人間に関する決定的変数は、環境と人間行動であると気がついた時、我 々は疫学の主流的立場に立っていることになるのである。我々が関心を持つ環境とは、原則的には、純粋な自然環境ではなく、膨大な新しい「生態学的契約」と 結ばねばならないほどに、人間によって隅々まで働きかけられた自然環境なのである。都市や、その中の工場やスラムなどが、この環境の重要な構成要素であ る。また、人造湖、再定住した人々、新開墾農地、高速道路などもそうである。開発は本質的に物理的プロセスと考えられがちである。しかし、それは同時に社 会的で経済的なプロセスでもあり、この中には、集団移民とか換金作物栽培とか信用経済とか、そして人間の健康と福祉に影響を与える多くの活動などが含まれ ている。これ以降の本文では、我々の目的は、「開発疫学」とも呼ばれるべきものの概説を述べることではなく、開発に伴う健康問題について、いくつかの例を 述べることに限定したい。

 まず、全般的に健康状態が低く、ある特定の疾病が 蔓延していると、そこでの開発は非常に阻害されるという極めて明白なことを記することから始めたいと思 う。パナマ運河の例においては、最初に運河建設を試みたフランスの技師レセップスを挫折させたのは黄熱病であった。合衆国の医師達が黄熱病の原因を発見 し、そして媒介昆虫の蚊を駆除して後に初めて、運河の完成が可能となったのであった。近年まで、風土病としてのマラリアは、人の住めない地域として、肥沃 な熱帯の低地を残しておいてくれたし、ツェツェバエによる睡眠病は、アフリカの多くの地域の開発に厳しい制限を加えている。そして、慢性的に病気が多い地 域では、工場や現場での仕事の欠勤率が高く、重大な経済的損失となっている。

 これらのことより、疾病はそれ自身、多くの開発計 画の中心的促進者ともなるのである。というのは、疾病撲滅計画は、多くの開発計画の重要な要素となり、 時々は天然痘撲滅計画のようにそれ自体が計画事業となることもあるからである。

 開発の成功は、最終的にはある種の疾病の発生を顕 著に増加させ、それ以前には存在しなかったか、存在しても重要でなかったような健康問題を新たに作り出 すことも、時にある。逆説的に、感染症のコントロールや撲滅の成功も、隠された健康損失を伴っているのである。まさにこのような成功が、人口爆発を引き起 こし、それが人類の未来に対しての最大の脅威となっていると多くの人が考えている。疾病コントロールに近代医学が成功したことにより人口増大がおきたのだ が、また、この人口増大のために、一世紀も前と同じように、世界的規模で病が存在し続けていると指摘することも可能であろう。
 我々はかくして、疾病によって導入される円環的連鎖関係に直面する。疾病は開発を阻害する−そこで疾病は医療サーヴィスと疾病コントロールの発展を生み 出す刺激剤として働く−そしてこれが多くの種類の開発を可能とする−これらの開発の「成功」の結果として、しばしば人口過剰と疾病増加とが出現して、ここ で新しいサイクルが再び始まるのである。

開発による疾病

 疾病間の平衡的関係は、ある程度までは開発による変化によって影響されているということができるだろうが、全ての病が同じように影響されているわけでは ない。しかし、開発の活動によって、有病率が顕著に増加した疾病もいくつか存在する。ヒューズとハンターは、医療行為の結果起きる疾病を「医原病」と呼ぶ ことから類推して、このような疾病を「開発原病」(developo-genic disease)、つまり「開発による疾病」と呼んだ(Hughes and Hunter 1970 : 481)。この分類に入れられる疾病のうちで重要なものは、トリパノゾーマ症(睡眠病)、ビルハルツ症(住血吸虫病)、河盲目(オンコセルカ病)、フィラ リア病、マラリア、栄養失調からの劣悪健康状態などがある。そして多分、結核と慢性疾患も一般的な意味では入れられるであろう。これらの疾病は比較的少な い原因によって引き起こされるものであり、その原因の主なものは、人造湖、灌漑農業、労働力移動と商業活動を結果として伴う道路建設、自給農業から換金農 業への交代、そして急速な都市化などが挙げられるのである。以下の文章では、疾病の発生に反映するいくつかの活動を取り上げ、その疫学的関係を簡単に検討 してみたい。

1 河川・貯水池開発

 第二次大戦以降、居住可能な土地の全てに出現した膨大な数の人造湖ほど、地球の表面を変えてしまった開発事業はなかった。例えば、エジプト−スーダン国 境のナセル湖を考えてみればよい。これらの人造湖とダムによって何が可能となるかの理論的説明は、だいたいどこでも同じである。洪水のコントロール、水力 発電、灌漑用水、そしてやや利益は少なくなるが漁業や他の水利活動が挙げられている。確かにこれらの目標は賞讃に値するものかも知れないが、ほとんどの開 発事業は健康に対する影響では、高度の有害性を持っていた。その中でも、ここでの最も重大なものは、ビルハルツ症とオンコセルカ症の増加であった。

 ビルハルツ症は特にアフリカに多く見られるが、南 アメリカや中東や東洋にも見られる疾病で、ヒラマキガイを中間宿主にした、血液中に寄生する住血吸虫属 (Schistosoma)の一種によって引き起こされる。この住血吸虫のライフサイクルは複雑であり、ライフサイクルのどの時期においても断ち切って治 療することが困難なものである。住血吸虫の成虫は、人間の膀胱と腸管の周囲の静脈に寄生し産卵するので、人間の尿と大便に受精卵が排卵される。この受精卵 が、体の外の水に到着すると、約6時間生存可能な幼虫に孵化する。この幼虫が、その時間中に、お目当ての特定の種のマキガイに出会えると、マキガイの中に 入り込み、約6週間にわたって棲家にする。この期間で幼虫は、水中で出会う人間の皮膚を貫いて侵入できる第2次幼虫型に成長する。さらに人間宿主の体内 で、2ヶ月間成長を続け、これで成虫の住血吸虫となり、再び膀胱や腸管の静脈に集まり、交尾して、ここから新しいサイクルが始まる。ビルハルツ症は、体内 から駆除することが極めて困難なものであるが、この疾病自体では死に至ることは少ない。その代わりに、この疾病は腸管、泌尿生殖器、腎臓、肝臓、脾臓、心 臓そして肺などの種々の臓器を侵し、重篤な進行性の機能不全を引き起こす。そのために死因は、以上の多くの原因の一つが記録されることになるのである。ビ ルハルツ症は、治療は可能であるが、治療期間は長く、不愉快な副作用がしばしば伴うものである。それ以上に、この疾病は、感染後の免疫獲得がなく、再感染 率も高いものである。

 ここ数十年で、ビルハルツ症の患者数は急激に増加 し、世界的には推定約2億人にのぼると見られている。ある専門家によると、この疾病は、「人間の寄生虫 の中で、最も早い速度で広まったものであり、最も病原性の強いものである」とされている(Heyneman 1971 : 301)。この疾病の蔓延は、ほぼ間違いなく、巨大ダムと、それの貯水池によって新しく灌漑された土地の産物である。例を挙げれば、エジプトにおいてナセ ル・ハイダムの完成後3年間で、この地域の2歳と6歳の子供のこの疾病の感染率は、5−25パーセントの範囲から、3年後に55−85パーセントの範囲に 増加しているのである(Miller 1973 : 15)。同様の例は、ガーナのボルタ・ダム建造においてであるが、この地域では1960年代の初期までは住血吸虫の中間宿主のマキガイは発見されていな かった。しかし、このダムによって生態学的バランスは急激に破壊され、このダム湖の10マイル以内の湖畔の地域における子供達1000人の調査では、 1972年までに70パーセントの子供達がこの疾病に感染してしまったことが報告されている(Scudder 1973 : 50)。これらの事例と、他の同様な事例におけるビルハルツ症の急激な発生増加は、灌漑水路と、その給水を受けた畑の、緩流や澱んでいる水が宿主マキガイ に絶好の生息環境であるという事実から生じているのである。灌漑を通して、自然は新規の「生態学的契約」を作成した。しかし、この契約では、往々にして、 人間が敗者となるのである。

 ビルハルツ症よりも、やや影響は少くなるが、オン コセルカ症(つまり「河盲目」)もまた、熱帯の河川や湖の岸辺に住む多くの人々の生活をますます脅かし 続けている。このような環境で良く育つ媒介昆虫のブヨが、犠牲者の首の背部を刺し、そこに卵を産みつけ、孵化すると幼虫が視神経を侵す。この虫刺によって 生じる皮下結節を外科的に除去すれば、失明を防ぐことも可能である。しかし、発展途上国の医療資源の限界から、このような方法でのコントロールもあまり有 効性を持たず、いつも同様の再感染が待っているのである。

2 土地開墾

 土地開墾と「合理的」農業とは、河川流域開発事業の一部分となっていることが多いのだが、これらが往々にして健康に有害な影響を及ぼすものであり、これ については、ミラーが多くの例を挙げている(Miller 1973)。カリブ海沿岸の組織化された農業は、マラリア伝播のハマダラカ属の蚊の発生を増加させる条件を作り出した。蚊の立場から見れば、米作農園や灌 漑水路や貯水槽の日の当たった水は、それ以前の自然のままの環境より、好適であったのだ。マラヤにおいては、ゴム農園はマラリアのない地域に作られた。し かし農園建設のために厚生林を伐採した結果、ハマダラカの成育に理想的な条件を作り出し、ついにはマラリアの侵入を導くことになったのである。全く同じ事 態が南インドでも起こった。人の住んでいない丘陵の原生灌木の茂みを伐採した結果、ハマダラカの成育が促進され、これに続いてマラリアが侵入して来たので ある。西アフリカの先史時代の鎌状赤血球遺伝素因を説明するためにリビングストンによって仮定された文化的革新が、今日でも明らかに繰り返されているので ある。

3 道路建設

 かつては、一定の地域に局限していたり、広がるとしてもゆっくりであった疾病が、現在では、以前は見られなかった地域にまで伝播している。これは、道 路、鉄道、航空機によって可能となった迅速での大量の人と物資の交流の結果である。トリパノゾーマ症(睡眠病)は、この種の疾病の一つで、現在ではアフリ カの全域で見られることになった。ツェツェバエに媒介されるこの原虫病は、人間だけに感染するわけではなく、家畜や野生動物の中にも多数の感染した動物が おり、これが自然の病原貯蔵庫となっているのである。このハエの好適地は、水路や藪に覆われた場所である。新しい道路ができ、河川の合流点は旅行者にとっ て足を止め、飲食や水浴やその他の一息をつく格好な場所となった。そしてここで、彼らはツェツェバエに刺され、睡眠病に感染する危険にさらされるのであっ た。道路の完成によって出稼ぎできるようになった移住労働者は、この病気の蔓延の中心的役割を演じている。ガーナでは、北部からの移住労働者が、南部のア ジャンティ地方に働きに行く途中でツェツェバエ地帯を通過するのでアジャンティ地方の隅々までこの疾病を広めることになり、アジャンティ地方は、もともと この疾病が国土病として存在していた北部地方に比べて、はるかに高い感染率を持つようになったのである(Hughes and Hunter 1970 : 452-453)。「このような道路は、流行地から新しい土地への直線的な伝播の仕掛けになるが、また経済開発のために作られた近代的道路は、もともと風 土病が流行している地域にも、結果としてはさらに重大な健康被害を与えるものであるかもしれない。なぜなら、近代的道路の本来の目的は、人と物資の移動や 交換を促進することであり、このことが、いくつかの種類の昆虫媒介性伝染病に関して人間−媒介動物間の接触を容易にし、感染の機会を増加させる効果がある からである」(同書、453)。

4 都市化

 村落の人々が過密な都市スラムに移住することは、様々な健康問題を引き起こしている。ほとんどの第三世界の国々に見られる、都市中心部を取り囲む掘っ建 て小屋の町並みの生活条件は、過密で、汚なくて、不衛生である。多くの場合、飲用水道施設は不備で、水を媒介とする疾病、特に赤痢が蔓延している。産業化 初期のイギリスでも、結核の比率は非常に高かった。栄養失調もまた、多くの疾病に対する抵抗性を低めるものである。同じ環境に長く住み続けて伝統的生活を 営んでいる人々は、その土地で手に入る栄養資源を利用することに関して、無自覚ではあるが役に立つ民俗的知恵を身につけている。しかし、ソフトドリンク、 菓子、高炭水化物のパック入り食品などの都市生活の文脈の中では、民俗的知恵など何の意味も持たない。栄養的に正しく、食費を分配する知恵は、そう簡単に 身につくものではない。その結果、新しい都市居住者は、しばしば重大な栄養欠乏症に陥るのである。

 都市の健康問題で栄養に関係したもう一つの事例 は、発展途上国での乳児の人工栄養の利用が、広範囲に広がり、増加していることであり、公衆衛生関係者の 関心を集めている。ある場合は、母親が工場で働いており、乳児を祖母や他の女性に預けて、粉ミルクで育てる以外に方法がないような例もあろう。またある場 合は、母親の栄養状態が悪く、赤ん坊に与える母乳が出ない例も、もちろんあるだろう。しかし、それ以上に、数多くの例の場合、母親達が執拗なコマーシャル の犠牲者となっているように見える。人工栄養は、「近代的」で「進歩的」なことであり、市販の粉ミルクは、栄養的に母乳より優れていると、母親達はコマー シャルによって思い込まされているのである。人工栄養を利用する契機は何であれ、結果として来るのは、多くの場合、子供達の健康への被害である。無教育の 子育て役は、粉ミルクを調合する際に、濃くしすぎたり薄くしすぎたりするかもしれないし、また溶かす水も汚染されているものを使うかもしれないのだ。これ らの全ての被害を被るのは乳児なのである(3)。

5 公衆衛生計画

 すでに述べてきたように、逆説的に見えるかもしれないが、環境の衛生改善や疾病コントロールを目的とする計画は、実際には状況を悪化させたり、問題を単 にある疾病から他の疾病に移したりするにすぎないのかもしれない。北マラヤにおいて、家屋内部での殺虫剤の残留噴霧は、家の内部や壁の上やわらぶき屋根の 中に生息していた媒介蚊をほとんど駆除してしまった。ところが、これによって森林内部に生息していたハマダラカの一種に、人家まで来て壁に止まることなく 人間を刺し、そして噴霧剤の届かないジャングルに戻って行くという、新たに人間の血液を資源とする生活を作ったことになった。その結果、制圧不可能だった 感染症の避難所に、新たにマラリアが発生するようになった(Heyneman 1971 : 305)。砂漠居住民に対して、「衛生的な」便所を作れと説得した試みは、逆効果として有名な例である。1950年代の初めに、イランにおいてアメリカ人 の公衆衛生顧問は、全く逆の明白な証拠があるにもかかわらず、外気にさらされたところで排便するとハエが発生すると主張した。実際は、乾ききった空気は、 直ちに糞便を乾燥してしまい、ハエなどは発育しないのである。しかし、顧問達は、便所を作らなければならないと主張し続け、そして多くの便所が設置された のである。しかしこの便所がうまく管理されず放置されたものだから、この便所からハエが多く発生したのである(Foster 1962 : 180)。1959年に、黄色のキューバ・トウモロコシがボリビアの東部低地に導入された。このトウモロコシは、在来種に比べて栄養的に優秀だったので、 人間と家畜の食生活改善に卓越した試みになるかに見えた。ところが不幸にも、保存する立場からは理想的なこのトウモロコシの硬さが、ボリビアの人達には自 分で粉びきするには硬すぎ、そして彼らはこのトウモロコシを町の商売の製粉屋まで運搬する手間を嫌がったのである。しかしながら、このトウモロコシから、 家庭内の蒸留器で優秀なアルコールができることにより、見かけ上の理想的改新は、栄養状態の改善の代わりに、アルコール症を促進させたのである (Kelly 1959 : 9-10)。

 最後の例は、琉球列島の例であるが、巧妙に意図さ れた事業が、実際には歪んだ方向へ行く場合である。トラコーマは失明まで達する感染性の眼病で、ウィル スによって引き起こされるものだが*3、その感染経路は、人間から人間に直接的接触や、または水やタオルや衣服を介しての間接的接触によって広がるものと 考えられている。衛生的な環境条件と、清潔な水が備わっているところでは、トラコーマの発生は、非常に低いか、全く見られないかである。琉球地域において は、清潔な水と衛生的環境条件は備わっていたのも事実である。にもかかわらず、トラコーマの罹患率は40パーセントにも達し、これらの条件が備わっていな い地域と同じほどの高さであった。水不足のような特別な状態の場合、たくさんの人々が同じ洗面器の水を使って顔を洗うこともあり、これがウィルス伝染に容 易な状況を作り出すのである。水が豊富な地区の子供達は、トラコーマを制圧する努力の一つとして、食事前には手と顔を洗うことが義務づけられていた。しか し学校側には、児童一人一人にペーパータオルを用意する予算がなかったので、ハンカチがその目的で用意されることになった。そして、一枚のハンカチが10 人もの子供達の手や顔を拭くのに使われることになったのであった。「このやり方により、トラコーマが子供から子供へと伝染するのは、間違いないであろう」 (Marshall 1972 : 11)(4)。

 この他にも、開発に伴って生じる重大な生態学的論 題や健康問題が存在するが、これらは、この分野のより包括的な再検討の対象として適切に扱われなければ ならないだろう。このような論題の一つが、急激な都市化の波の中にいる人達に特徴的なストレスの増加が持つ意味についてである。例えば、ズール族 (Scotch 1963)と、ノースカロライナの西部地区(Tryoler and Cassel 1964)のように、文化は全く異なるが、同じように急激な都市化の中にある人々の間で、高血圧と心血管疾患の増加が両方の地域の人々に見られるのであ る。急激な変化の状況における心理社会的障害についての疫学もまた、検討に値するものである。この種の障害の増加は、ストレスの多い生活条件の結果である ことを指し示すたくさんの証拠が挙がっているのである(例えば、Hughes and Hunter 1970 : 474-479)。このような論点は理想的には医学生態学の討論の中で検討されなければならないものであり、我々がここで全ての論点についてカバーできる わけではない。だが、田舎から都市への移住民の栄養的変化や、開発に伴う健康問題で追加する部分など、関連してくるテーマについては、14章と15章で扱 いたいと思う。

原註

(1) サラセミア、つまり地中海貧血も、同じようにマラリア抵抗性を持っている遺伝的疾病である。これは、ヨーロッパや近東のマラリアの風土病的流行地 域に多く見られるが、インド−インドネシア−日本と、アジアを横切るベルト状地域にも見られる。古病理学の骨標本からの研究によると、この疾病は、地中海 沿岸東部の青銅器時代の農民まで遡ることができる。この研究結果から、エンゼルはマラリアは紀元前二〇〇〇年の以前から、この地域で風土病的に流行してお り、サラセミアの遺伝的素因を持つ人は、他の人達よりはるかに強いマラリア抵抗性を持つことになるので、このような状況下では自然選択的に有利な立場に あったと考えた(Angel 1964)。

(2) クールーに関しては広範囲な文献がある。こ の概説は以下の文献を参考にした。Alpers (1970), Alpers and Gajdusek (1965), Burnet and White (1972 : 256-261), Fischer and Fischer (1961), Gajdusek (1963,1973), Gajdusek and Gibbs (1975), Gibbs and Gajdusek (1970), Zigas (1970) ハントは最近、生態学的−疫学的アプローチが、疾病の原因を追求するのに有効である例として、クールーの場合を挙げて検討している。彼はカ スケードモデ ル(階段状モデル)を使って、「可能な説明仮説を連続的に除外していくことを通して健康問題を分析する」。彼は、クールー研究において、邪術や、栄養失調 や、環境毒物や、遺伝などの説明仮説が、どのように次々と棄却されていって、現在一般に受け入られているスローウィルス仮説のための研究分野が明らかに なってきたかを、述べている(Hunt 1978)。

(3) 急速な都市化に伴う栄養的問題に関しては、 この例も含めて15章でもっと深く論及する。

(4) トラコーマの治療における同じような難問が メニーファームズという名のナバホ族のコミュニティの保健管理の試みの中で報告されている。顕在化した 症例に治療を行っても、疾病の流行に対しては何らの影響をも与えることができなかったのである。疾病の感染は、特に子供達の間では、汚染された指を介して 広がっているのは容易に確認できた。しかし、「汚染された手指、共同のタオル、桶などを消毒するには、手や顔を洗うこと、石鹸や個人用タオルの使用、手を 使う時の心掛け・・・・・等々の日常的習慣を永久に変えてしまわなければならないだろう」(McDermott et al. 1972 : 28)。

訳註

*1 この事件とは、1854年ロンドンのブロードストリートの公衆用水ポンプから飲用水を得ている地区でコレラが大発生し、ジョン・スノーの提言でその ポンプのハンドルを取りはずし給水を断ったら、流行の勢いが弱まったというものである。これは医学史的には、コレラ菌の発見の30年以上前の事件であり、 初期の疫学の有効事例として有名である。原著ではこの病名がチフスとなっているが、コレラの間違いである。なお、この章に頻繁に出てくる感染症、寄生虫病 などの医学的記述の中には、現在の医学的知見と若干異なるものも見られるが、原著の大意と文脈に沿って適宜に訳出した。

*2 クールーで有名となったスローウィルス感染症 の研究は、クロエッツル・ヤコブ症候群などを対象にして、病原体の構造や遺伝形式の探究が行われてお り、現在的な医学のトピックスの一つである。著者は、このクールーの事例を、医学と人類学のドッキングの成果のように記述しているが、医学的にも人類学的 にも定まった評価はまだである。このクールーにおける医学と人類学のドッキングに対しての人類学の立場からの疑問は、W・アレンズ(『人喰いの神話』岩波 書店)によって提出されている。

*3 トラコーマの病原体はウィルスでなくクラミジ ア(chlamydia trachomatis)である。

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医療人類学
第2章 医療人類学と生態学

   生態系と社会文化体系

 近年、次第に多くの人類学者が、生物文化的−環境的な保健問題に関心を抱くようになってきた。これらの問題の多くは、ベイツが「生態学的視点」と提唱し た立場で研究されている(M.Bates 1953 : 701)。生態学的視点が人類学者に適していることが明らかになったこと自体は、それほど意外なことではない。なぜなら、実はこの方法は人類学のシステム に関する基本的なアプローチを、全ての環境と生物的社会に拡張したにすぎないからである。「システム」とは、ウェブスター中辞典によると、「恒常的な相互 作用と相互依存の形で結合された全体を形成し、調和的に機能、活動、移動するために、自然にまたは人工的に結合された多種多様の単位からなる一つの集団」 である。
 人類学で、「統合された全体」といえば、もちろん社会文化的システムのことであり、つまり一般的用語では文化のことである。生態学では、統合された全体 とは生態(学的)システムのことであり、「植物、動物そして非生命的環境まで含めた相互作用的集団」である(Hardesty 1977 : 289)。ギアーツが指摘したように、この環境(Environment)、つまり「生息圏」(habitat)は、規模、複雑さ、時間幅において、微生 物を含んだ池の水の一滴から動植物の生活を含んだ地球全体までの範囲に及ぶであろう(Geertz 1963 : 3)。もっと一般的には、生態学者の研究する生態システムとは、植物や動物や人間の生活を含めたカラハリ砂漠とか、北極のツンドラ、アマゾンの密林、アル プスの草地、または潮だまりのようなものを指すのである。
 両方の分野において、辞典の定義も指摘するように、多くの疑問の中に特に2つの主要な疑問がある。第1の疑問は、種々多様の単位がどのようにして相互に システムを組織するのか(つまり、構造的配置はどのようなものであり、機能的相互依存はどのようなものであるのか)。第2の疑問は、システムが働いている とき(常に働いているのだが)、どのようにして構造的配置が新しい配列に変化するか。そして、このシステムの機能を維持するために新しい配列は何をもたら すのか。つまり最初の疑問は、形態と機能に関するものであり、2番目のものは動態(dynamics)の問題に関するものである。
 重大な崩壊を起こさないで機能し続けるためには、生態システムも社会文化システムも統合と内的一貫性の最低のレベルは維持しなければならない。このレベ ルとは、系内の別個の単位が互いに分担協力的な役割を果たすために十分なものでなければならない。しかし統合は変動に対して完全に対応できるとは限らな い。システムの各部分が不変の場所に永久に固定されているわけではないことだけから考えても、変化が本質的に不可避のものであるといえるであろう。生態シ ステムも社会文化的システムも、動態の多様性に促されて、形態的にも機能的にも変化する。そして、変化することにより、それらが機能的に結びついている要 素に、形態面と機能面での変化をもたらすことになる。生態システムと社会文化システムを結ぶ学生にとってこの事実は非常に重要なことである。なぜならば、 この両学問分野において、研究者達は主として、変動と革新の後に生じる系統的変化に関心を持っているからである。

医療人類学者の生態学的関心

 医療人類学者と、彼らの関連する分野の病理学者、地理学者、疫学者、社会学者、さらに様々な人達が、生態学的テーマに興味を持ち、このテーマを記述する のに数多くの種類の用語を使ってきた。その結果、人類生態学、医学生態学、社会生態学、疾病生態学、疫学、社会疫学、などの用語が、ある時は異なった意味 で、ある時は同じ意味に使われているのに気がつくことになる。しかしながら、重要なのは関心の内容や範囲であり、ここに人類学的成果に対しての、かなり一 般的な同意があることを見出す。
 人間の自然環境、社会環境、人間の行動、疾病との相互関係について、また人間の行動と疾病がどのようにフィードバックを通して人間の進化と文化に影響す るかが、生態学的な方向での医療人類学者の関心の的である。古代人の疾病の研究である古病理学は、我々の祖先が生活環境にどのように影響されていたか、ま たどんな生活をしていたかを教えてくれるものである。次にこの古代人の疾病に関する知見は、彼らの次の世代達が、遭遇した健康の脅威に(文化的にと同様) 生物学的にも適応した方法、つまり人類進化について理解するのに役立つことになる。個人と集団の行動が、様々な集団における健康水準や様々な種類の疾病の 発生率に関連性を持つという疫学的諸問題の研究では、現在では生態学的アプローチが基本となっている。この生態学的視点は、特に国際的な開発近代化計画に おける健康問題の研究に役に立つのである。というのは、緻密に企画された技術開発計画は、その開発が達成された時に、往々にして別の長期にわたる変化を引 き起こすことに、無自覚なまま着手されていると思えるからであり、そして、この新しい変化の中には、逆に健康へ悪影響を及ぼすものが多く含まれているかも しれないのである。
 生態学の研究は、まず環境について始まる。人間に関する限り、環境とは自然的なものと社会文化的なものの両方である。全ての人間集団は、生活する地域に 特有の地理的気候的条件に順応しなければならないし、同時に資源を必要に応じて利用可能なものに活用することを学ばねばならないのである。また、彼ら自身 が作り出し、彼ら自身が生活している人工的環境にも順応しなければならない。しかし、環境には二つの異なったタイプがあるのだと言い切ってしまうのは、単 純化のしすぎである。二つの要素は、しばしば互いに混じり合い、実際我々が扱うのは、単一の環境である。例えば、疾病は人間環境の一部分である。疾病は病 理学なものでもあり、あるレベルでは明確に生物学的なものである。しかし、社会心理学的及び文化的要因が、しばしば疾病の引き金の役割を果たすし、また一 方では、患者が治療を受ける間に患者の環境が変化していく過程は、純粋に文化的なものである。
 人間環境の一要素と見なされる疾病は、人間の進化に影響を与えてきた。このことは、西アフリカにおける鎌状赤血球貧血症因子の増加に簡単に見てとること ができるであろう。この病気の保因者はマラリアに対して相対的に抵抗力を持っており、これが進化的には、適応的変化となっているのである。疾病は、また、 文化的進化においても役割を果たすのである。例えば、カトリック諸国においては、若くして死んだ子供達は、「小さな天使」として煉獄を通らずに天国に直接 行けるとされている文化形式がある。煉獄を避けられるということは非常に幸運と見なされるので、小さな天使の通夜と葬式は、音楽や歌や踊りや、その他幸福 な表現で飾られる。伝統的社会においては、半数以上の子供が五歳未満で死亡しており、この文化様式は両親や親類の悲しみを、ある程度、順応させ、和らげる ものとして見ることも可能であろう。
 栄養もまた、環境の生物文化的な一様相と見なせるだろう。もちろん、自然環境によって与えられる条件の限界を、栄養は越えることはできない。しかし、環 境から入手可能な栄養物の中からどれを「食物」−それゆえに食べられる−と定義するかは文化的な問題である。また、男達が最初にタンパク質に富んだ食物の ほとんどを食べてしまい、女子供は残りものを食べ、時には栄養的に非常な犠牲を強いられるような状況では、栄養は社会文化的環境の一部分である。乳児が栄 養を与えられる方法も、また環境依存的と見なせるであろう。発展途上国の多くでは、乳児の人工栄養としての缶入り粉ミルクが商業的に大々的に売られてお り、かなりの率で母乳栄養にとって代わっているところもある。医師達が認めているように、人間の母乳は非常に新鮮で、適切に栄養が混合されており、簡単に 清潔が保てて、まさに理想的な乳児の食物なのである。これに対して、缶入り粉ミルクは、しばしば栄養バランスが不適切であったり、汚染された水が溶くのに 使用されたりして、乳児に下痢や他の胃腸障害を引き起こす原因となる。哺乳びんか、乳房か、乳児の食物はまさに彼の環境そのものなのである。
 以下、生態学的傾向の人類学者の興味を引いた主要なトピックスを論じてみよう。

古病理学

 病理学者、解剖学者、自然人類学者達は有史以前の人間の疾病と外傷について、かなりの知識を手に入れてきた。しかし、知りたいことの全ては知りえないの であり、そこには多分、突破できない限界があるだろう。知りえた知識のほとんどは、骨に可視的な証拠を残すような疾病に限られる。認知しえたのは、例えば 梅毒、結核、フランベジア、骨髄炎、灰白脊髄炎、レプラ、等々の感染症による骨変形と膿瘍なのである。しかし、これらの疾病に限っても不確実なことが多 い。梅毒は西欧による征服以前のアメリカ大陸の疾病でコロンブスの水兵達によってヨーロッパに持ち帰られたものなのか、それとも旧大陸の起源のものなのか は、いまだに病理学者の議論の的である(Kerly and Bass 1967 : 640-642)。関節炎、う歯、くる病、そして他の多くの疾病も残された骨から確認されている。
 人工的に、もしくは自然に保存されたミイラの軟部組織は感染症について多くの情報を与えてくれる。比較的古い解剖技術による研究は、初期にエジプト・ミ イラに関して行われたが、現在ではこの方法は廃れている。コーバーンは最近、改良された組織学的技術によって新たに見出した証拠を挙げながら、新しい方法 での研究の必要性を説いている(Cockburn 1971 : 53)。古代人の疾病の分析の最新技術は、排泄物(糞石)の利用であり、これが復元された時に腸管寄生虫の有無について重要な情報が得られるのである。糞 石は同時に、古代人の食生活について、特に彼らが食べていた種子や穀物について、驚くべき情報を与えてくれる。古病理学者は、同じように洞窟壁画と、壺や 人間の彫像や木や石や陶器の上に描かれた絵などの美術様式をも利用する。そして、時代的にもう少し近いものになれば、初期の医学的記録や歴史家の著作はか なり役に立つものである。もちろん、彼らが記述したのは何の疾病についてなのか確定することが不可能な場合もしばしばあるが。
 骨標本に戻って言えば、古代人の骨に見られる外傷の類のものは、喰人風習の可能性や戦争やその他の日常生活の局面を教えてくれる。例えば、ウェルズは、 古代遺跡からのペルー人の頭蓋骨に、一ダース以上の陥歿骨折がしばしば見られ、これらの骨折は埋葬場所からよく見つかる投石器の石によるものと考えられる と指摘している(Wells 1964 : 19)。たいていこれらの傷はほとんど治癒した跡があることから、この戦闘の形式は、相手に疼痛を与えるが、必ずしも致死的である必要はなかったかのよう に思われるのである。もっと重症の「頭蓋骨の頭頂部の二重、三重の陥歿骨折」は、好まれた武器である6つの突起のついた「星形頭」の棍棒の使用によるもの であった(同書,49)。
 骨標本に見出される傷の中では、武器によるものが一番ありふれたものではあるが、その他の傷の種類や分布からも、もっと殺風景な性質の文化様式を推察で きる。アングロサクソンの埋葬の中から、頻繁に脚の骨折、しばしば腓骨だけの骨折が見られ、これは足がねじれるような転倒によっての骨折と考えられるので ある。今日でいえば、歩道の緑石を踏みはずした時に起きる種類の骨折である。ウェルズは、アングロサクソンの埋葬の中のこの骨折を、荒れた土地を切り拓き 耕しているうちに起こった転倒によるものと解釈している。不器用な足どりも頻繁な踏みはずしの要因だったろう。また、この脚の骨折とよく一緒に見られる手 首から一インチ離れた前腕の骨折も、この仮説を信じられるものにしている。というのは、この種の転倒の典型的なものは、前方に向かって手を伸し、その上に 倒れていくものだからである(Wells 1964 : 51-52)。
 アングロサクソンの骨折と、古代エジプトのヌビア人の骨折とを比較すると環境の違い、そして多分、文化様式の違いが示される。後者においては脚骨折は前 者におけるほどは一般的なものではなく、ほぼ6000体の調査のうち約10パーセントにしか見られなかった。ヌビア人の脚骨折がアングロサクソンの農民に 比して低い頻度であるのは、エジプトの土地が荒地でなく、畝あいが低く、そのために足を踏みはずすことが少なく、また裸足の人達はきつく足を靴で包んだ人 達よりしっかりと大地に立てるからであるとウェルズは考える。前腕骨折はヌビア人の標本の30パーセントに見られる。しかし、アングロサクソンのものが手 首骨折であったのに対して、ヌビア人の骨折はほとんどが前腕の中央部の骨折であり、これは頭に対する打撃を腕で防御する際に被る骨折の典型的なものであ る。これらの骨折は、「この社会では短気と攻撃的な行為が一般的なものになっており、それらが多くは女性に対して、妻を殴ることなどに向けられたことを示 している。このことは一般に女性の地位が低かったことも意味している。ある十代の少女のミイラは、両方の前腕がこのような形で粉砕されている。彼女は、腕 で自分の頭を守ろうとしたのだが無駄で、腕もろとも頭まで強力な殴打でつぶされたのである。彼女は妊娠四、五ヶ月の体だったが、これが殴打された原因だっ たかもしれない」(Wells 1964 : 53)。
 古代人の疾病や、環境適応に関しては、南アフリカのブッシュマンや、オーストラリアの原住民のように現在も生きている狩猟採集民族の研究から推察でき る。未開民族を古代人の生き残りの例と考えるべきではないとのポルーニンの警告は、確かに正しい。しかし、「今日の未開民族が置かれている状況は、進歩し た社会よりは、むしろ古代に一般的であった状況に似ているし、未開民族の疾病パターンは、多分、現代の文明化された人々のものより、むしろ古代人の疾病パ ターンに近いだろうということを、ある程度の確信をもって言えるであろう」(Polunin 1967 : 70)。
 これらの研究から導かれる最も重要な結論は、遺伝子やウィルスの動向などの証拠を併せて考えると、多分次のようなものになる。我々現代人の疾病の多く は、古代人には存在しなかったし、そして、「人間個々人が成長する間に悩まされる疾病の種類は、人間の歴史に出現した疾病の種類よりはるかに少ないという ことである」(Black 1975 : 515)。このことは、古代人が現代人より健康であったということではなく、むしろ、十中八、九、逆のほうが正しいであろう。古代人の病気は、現代人の病 気に比べて、より少ない病原体や環境要因によって引き起こされたということは明らかである。例えば、麻疹、風疹、天然痘、おたふく風邪、コレラ、水痘など は、多分古代には存在しなかった。
 これらの考えを持つ人達の中で、コーバーン(1971)が、これらの結論を導いた証拠を要約している。感染症の多くは、それが存在し続けるためには、宿 主である人間の集団を最低限でもある程度の数必要とする。もし、集団の規模がある閾値より下がったら、感染症が消滅してしまうと、彼は言う。感染期間が短 く、かつ病原体が一人の宿主から迅速に他の宿主へ感染することが必要な疾病では、疾病が存在し続けるには、感染の環を維持するための多数の感受性のある人 間が必要となってくる。前の文節でリストアップした疾病はこの種類のものであり、感染の環を維持するに足りる大きな人口がない限り、この種の疾病が持ち込 まれても、少し流行するだけで消滅してしまうだろう。
 先史時代の狩猟採集民族の集団の規模は小さく、一グループたかだか200〜300人程度だった。前述のタイプの感染症を保持する貯蔵庫を形成するにはあ まりにも小さすぎた。病原体が生存し生き残るための視点からは、新しい宿主が出現するまで長い間生き延びることのできる別な種類の病原体である必要が出て くる。「それゆえに、宿主と共生関係で生き続けられる病原体と、宿主から離れて生き続けられる病原体との2方向に自然淘汰が働くであろう。麻疹のように、 一度の流行で急速に蔓延し、集団の大多数に免疫を与える種類の感染症は、小さな集団では存在しなかったろう。しかし、チフス、アメーバ赤痢、ピンタ(熱帯 白斑性皮膚病)、トラコーマ、レプラなどのように、宿主が長期間感染能力を持つ疾病や、マラリア、フィラリア、住血吸虫症のように、宿主体内に寄生虫が長 期間生存するだけでなく宿主の外側に付加的貯蔵庫として働く媒介動物や中間宿主を持つ疾病は、小さな集団でも存在したであろう」(Cockburn 1971 : 50)。
 狩猟採集民族の健康も彼らの遊牧の習慣に強く影響を受けている。小集団で絶えず移動している人達は、大集団で定住した人達より、糞便などからの再感染の 機会が少なくなる。この定住大集団の中に感染がいったん流行すると、生活環境を消毒する近代的方法を持っていない限り、流行病を駆逐するのは、ほとんど不 可能に近いことなのである。
 奇妙なことなのだが、人間の罹患する疾病の種類と頻度を増加させたのは、まさしく農業の発明だったのである。ニールは、こう指摘する。「文明の到来は人 間の健康に一撃をくらわした。そして今、やっとそれから人間は回復し始めているのだ」(Neel 1970 : 818)。農業(と動物の家畜化)により可能となった確実な食糧供給は、人口の増大を導いたが、このことは感染症の広範な急増という犠牲をも伴ったのであ る。部分的には、これは、小集団ではできなかった感染症の貯蔵庫の役目を、大集団がなしえたことにも起因している。また部分的には、動物との緊密な接触が 新しい病原体を導入したことも理由に考えられるであろう。コーバーンが指摘するには、天然痘ウィルスは牛痘ウィルスに非常に似ているし、麻疹ウィルスは犬 ディステンパーや牛ペストのグループに属しているし、インフルエンザ・ウィルスは豚から発見されるウィルスと近い関係があるという(Cockburn 1971 : 51)。再び述べれば、「反復する再感染の機会と、人間の廃棄物による汚染とが増加することにより、定住生活と定住集団の衛生状態の悪さは、確実に寄生虫 病の割合を増大させたに違いない」(Underwood 1975 : 59)。
 狩猟採集民族と農耕民族との間の感染症に対する感染可能性の差は、人工調節に関しての刺激的な推論を生み出した。歴史を通して、高度の乳児死亡率が、世 界人口の比較的緩慢な増加に対する最も一般的な説明であった。しかし、狩猟採集民族の調査から、彼らの間では高度の乳児死亡率は必ずしも一般的なものでは ないことが示された。ニールは、アマゾン盆地のシャバンテ族、マキリタレ族、ヤノマモ族のインディアンの健康調査から、次のような結論を述べている。農業 発明に先行する、世界人口のゆっくりとした増加は、「多分、基本的には、感染症や寄生虫病による高度の乳児死亡率によるものではなかった。あまり文明と接 触せずに低い人口密度の状態で生活している未開民族が、《中程度》の乳児死亡率と、今日の我々と全く同等ではないが、比較的健康な生活を享受していること を、我々は見出したのである」(Neel 1970 : 816)。人間と、環境からの資源とのバランスは、文化様式によって維持されていたのである。特に、性交禁忌、授乳延長、堕胎、乳・嬰児殺し、そして同様 な事柄が全て結び合って、実質的出生率を4,5年に一人という値に押しとどめていたのだと、ニールは考える(Neel 1970 : 816)。このリストにドイツは殺人も加えて、「恒常的な持久戦は、未開民族の生活の中に簡単に影響をおよぼすので、先史時代の多くの民族にとっても、こ のような戦争が人口増加の実際的チェックになっていたに違いない」と述べている(M.Bates 1959 : 72)。
 だが、農業経済の出現とともに、「人口密度の高い定住生活ほど、人口調節に置いて、感染症に一次的に影響を受けやすいことが明白になってきただろう」 (Underwood 1975 : 61)。フォスターの未発表の、メキシコの農村チンツンツァンに関する人口調査の資料は、この結論を以下のように実証している。実質的出生率の平均は、出 産可能年齢女性に対して、2年毎に約1人の子供であり、1950年という近年まで、粗出生率は人口千人に対して50という値が一般的であった。習慣として の性交禁忌はほとんどなかったし、堕胎もまれであったようだし、乳児殺しも全く知られていなかった。殺人は、全くないわけではなかったが、男性に限定され ているし、戦争は、今世紀の初頭のメキシコ革命をのぞいては、人口に影響を与えるようなものではなかった。しかし、感染症は強力な殺人者であった。特に百 日咳、天然痘、胃腸病。今世紀の初めという近い過去のことだが、何年かのうちに、村の全人口(もちろん大人も含んだ人口)の10パーセント以上が、疾病に よって消し去られたこともあった。その疾病のほとんどは感染症であった。チンツンツァンで、人口の顕著な増加が見られるようになったのは、やっと1940 年頃からである。それは、天然痘のワクチン、他の疾病の予防接種、浄水の供給、抗生物質、そして他の治療予防手段によってもたらされたものである。

疾病と進化

 感染症は200万年以上の長い間、人類進化にとって重要な要因であってきた。我々の古代の祖先が、個人と集団の生活に対する疾病の脅威に打ち勝つことが できたのは、「遺伝的防御」の進化の機構を通じてである(Armelagos and Dewey 1970)。西アフリカの民族の中の、マラリア抵抗性を与える遺伝子の出現は、この進化の最もドラマチックな例である。近年になって、アメリカ人はある疾 病を新しく解釈しなおした。それは、鎌状赤血球貧血症という、他の人種よりも特に黒人に多い疾病としてよく知られていたものである。この疾病は赤血球が正 常な円盤の形をとらないで、鎌型や三日月型になるのが特徴で、遺伝的なものである。この疾病に罹患した人は、ほとんど若死し、治療法は見つかっていない。 この死亡する人達よりはるかに多数の黒人が、この素因、つまり遺伝子を劣性の形で持っている。彼らは遺伝子を子供達に伝えるが、彼ら自身の健康には何の影 響もないのである。鎌状赤血球貧血症の遺伝的素因は、合衆国の黒人にとって深刻な健康脅威として認識され始めている。そして、検査や遺伝相談を通じて、こ の遺伝子の拡散をコントロールする努力がなされているのである。
 ところが、鎌状赤血球貧血症は、他の環境条件においては、健康の脅威どころか、理想的な特性となるのである。それはマラリア地域でハマダラカ (Anopheles属の蚊)に刺されるような状況では、鎌状赤血球貧血症であることはマラリアに対する高度の抵抗力を持っていることになるからである。 ここ2、30年の西アフリカの調査でも、このマラリアに対する抵抗力が、遺伝子淘汰において鎌状赤血球遺伝子を持つ人に、どのように有利に働いたかが明ら かにされた。このことは、ある特殊な疾病が−それ自体は健康への環境的脅威であっても−いかに人類進化に影響を与えることができるかという最も顕著な例で あろう。また、この点に医療人類学者が興味を持つのである。次に、これらの結論を導いた論証を、非常に簡単に要約して紹介しておきたい。
 西アフリカの多くの場所では、鎌状赤血球遺伝子は原住民の人口の30パーセント以上に見られる。マラリアの地方流行と鎌状赤血球遺伝子との間には強い正 の相関があり、遺伝子保因者が15パーセントを越す地域ではマラリアの地方流行が見られるのである。しかし、この遺伝子保因率が低い集団も存在している。 この低保因率は西アフリカの先住民族の生き残りとして知られている人々の間に特別に見られるのであるが、このことは、彼らの大部分が、後に東方からの移住 民族によって密林の奥の辺境の地へ追いやられて来たことを示しているように思える。本当の意味での森林居住民族は、ほとんどマラリアに罹患しないようであ る。その理由は、西アフリカの最も重要なマラリア媒介蚊であるアノフェレス・ガンビエ(Anopheles gambiae)は、伐採されていない熱帯雨林の日陰の水のような所では育たないからである。
 だが、農耕民族により定住と栽培のための森林伐採が行われ、アノフェレス・ガンビエにとっての理想的条件が作り出された。西アフリカでは、2000年前 から、東方からの農耕民族が先住民族にとって代わり始めた。この時期まで、熱帯雨林は農業的には魅力的なものではなかった。それは、石器で切り開くのが困 難であったことと、アフリカ最初の栽培物であるキビとモロコシの収穫に適さなかったからである。しかし、鉄器による作業と、多分ナイジェリア原産であった ろう高収穫のヤム(ヤマノイモ属の植物)の導入が同時に行われ、劇的な環境変化への準備がなされたのである。森林は伐採され、村落は恒久的なものになり、 そしてアノフェレス・ガンビエは増加したのである。鎌状赤血球遺伝子は、これらの新しい技術を利用したバンツー語族の間にすでに見られた。この遺伝子は、 マラリアに対する相対的免疫を持っているので、他の遺伝子に比して、自然淘汰において有利に働き、その保因率は顕著に増加したと推測される。「それゆえ に」、リビングストンは、ここまで述べてきたようなことから結論する。「この農業の普及は、鎌状赤血球遺伝子の自然淘汰における有利さを拡大させる原因と もなったし、遺伝子それ自身の拡散の原因ともなった」(Livingstone 1958 : 555)。さらに一般的な理論レベルとしては、彼は次のように結論した。「したがって、鎌状赤血球遺伝子は、この変化した疾病環境への進化的反応と見なせ る。かくして、疾病が進化の方向を決定する重要因子となりうるわけであり、この人間進化の重要事件に関して、この遺伝子が最初の知られた遺伝的反応であ る」(同書、557)(1)。
 ウィセンフェルドは、最近の論文で、鎌状赤血球遺伝子を、「文化的問題に対する生物学的解決」と表現している。この鎌状赤血球遺伝子の問題から、広範囲 に適用できる一般的重要性を導き出し、次のように提起している。
 「人間の社会経済的適応が環境の変化を引き起こすと、そこでは、ある遺伝子の保因率が変化するであろう。その保因率の変化は、その遺伝子が新しい生態系 の中で保因者に与える生存のための有効性に比例するのである。新たに適応する遺伝子保因率の増加は、それまでの環境の限界を取り除き、さらなる社会経済的 適応の発達を可能にする」(Wiesenfeld 1967 : 317)。

食生活と進化

 疾病と同様に、食生活もまた、人間の進化に影響を与える環境的特性を持っている。スティニは、食生活が体格に影響を与えることを見ながら、この過程につ いて論じている。我々の霊長類の祖先は、樹上生活者で、完全ではないが、ほとんど草食であった。彼らが雑食性の狩猟−採集−食物あさりとなって地上に降り 立つのは約200万年前のことなのだが、この時期以前に彼らの体重は約70ポンドになっていた。この200万年間で、人類は地球上の生活可能地域のほとん どの場所に広がり、体格と脳の大きさは顕著に増加した。これら、少なくとも部分的には、人間の食生活の一部となった動物性タンパク質によるものと推測でき る。量とバランスとが適切な食生活だけが、この成長を促進したに違いない。だが、農耕生活において限られた野菜食品にばかり頼っていると、組織の発達に不 可欠なアミノ酸の欠乏のような栄養失調をまねくこともある。これのよく子供の間に見られる例が、クワシオルコールとして知られるタンパク質カロリー欠乏症 である。また成長速度の遅滞をまねくこともある。スティニは、コロンビアの農村へリコニアの調査で、そこの村の男性達が最大身長になるのに26歳までかか ることを報告している(Stini 1971 : 1025)。男性も女性も身長は小さいが体格の均斉が整っているので、この集団は、「総体的小型化」として記録された。「タンパク源が極端に制限された地 域の集団の全構成員に見られる、この均斉のとれた体格縮小化は、ある種の適応であろう。ここの場合、必要な栄養物資の減少に対応できるように、均斉のとれ た形で代謝組織を縮小させ、栄養必要量を減少させて、限られた利用可能な資源で生き延びることを可能とする適応だったのであろう」(同書、1027)。や がて、このような縮小化は、自然淘汰により遺伝的に固定化されたに違いないだろう。これは、狩猟−採集−食物あさりとしての人間の200万年の歳月が、大 柄で頑強な肉体を遺伝的に固定化したのと同じであろう。こうスティニは語り、さらに続ける。しかし、体格の縮小化は熱帯農耕民族に多く見られることから、 「むしろこれは、本当の意味で確定された遺伝的な適応というよりは、現在進行中の進化の一つの例として、つまり人間の適応可能性、柔軟性の例として受け取 れるだろう」(同書、1027)。というのは、8000年から一万年という年月は、縮小体型を作り出すような複数の遺伝的変化を生じるには時間的に足りな さすぎると、スティニは考えるからである。
 栄養と、人間の進化過程への適応能力との間の関連性を示唆するもう一つの研究は、成人のミルク摂取についてである。農耕民族の中でも、とりわけ日本人と 中国人の成人は、普段はミルクを飲まないことは、以前から人類学者によって報告されていた。人類学者は、この理由を、普通のアメリカ人がガラガラヘビを食 べることを考えるだけでも嫌気を憶えるのと同じような「習慣」、つまり文化に基づいた嫌悪のせいにした。だが、最近の研究からは、成人のミルク非飲用者に ついて次のようなうまい説明の可能性が提示されている。それによると、成人のミルク飲用は、下痢や腹痛の形で生理学的に胃部不快感を誘発するからというも のである。しかし、東アフリカや他の地域の牧畜民と同じように、ヨーロッパ人や世界中のヨーロッパ人の子孫達のほとんどは、成人がミルクを飲用しても大丈 夫であり、このことに新たな説明を必要とする。マックラッケンは、これに対して最近、興味深い仮説を提起している。
 ミルクは複合的自然食品であり、水分、脂肪、タンパク質、酵素、ビタミン、その他の要素、そして微量元素、それに炭水化物からなる。この炭水化物のう ち、実質的主成分として最も重要なものは、ラクトース(乳糖)である。他の食品同様に、ミルクは、摂取された後、人体にとって使える形に代謝されなければ ならない。ある種の単純な炭水化物は、人体内部で直接に吸収されたり代謝されたりする。また他の複雑な炭水化物は、この直接的吸収・代謝の過程以前に、単 純な形に変換されなければならないのである。ラクトースは、後者のグループに入り、その変換にはラクターゼ(乳糖分解酵素)の存在が必須であり、この酵素 の生産は遺伝的にコントロールされている。正常な人間の乳児は全て、ミルクやミルク製品のラクトースを代謝するに十分なラクターゼを生産する。ところが、 かなりの数の人が、成人になると、この生産能力を失うのである。この人達がミルクやミルク製品を摂取した際に、胃腸の調子が悪くなるという人達である。 マックラッケン(と、他の研究者達)は、このラクターゼの量の程度のバリエーションを、全てといえなくともある程度まで、遺伝学的解釈で説明できるのでは ないかと提案した。この解釈によると、多くの成人に見られるラクターゼ欠損は、人間の大人がミルクを飲み始める前からの(つまり、酪農業が開発される以前 から現在までの人間の歴史を通しての)、遺伝的生き残りの表現型であるという。この説明は次のように展開する。本来は、人間の成人は、他の哺乳類の成獣と 同様にラクターゼ欠損であった。このラクターゼ欠損という遺伝的性質は、特に生存に不利な条件を与えるものではなかったので、ラクターゼを増加させる方向 への自然淘汰的圧力は加わらなかった。しかし、5000年以上前から酪農業が発達してきた地域においては、自然淘汰の圧力を通して、人間は、一生涯ラク ターゼを産生し続ける能力を開発し始めた。「ラクトース(乳糖)が成人の食生活でも重要な役割を占めるような環境においては、ラクターゼ欠損の成人は、ラ クターゼ産生の成人に比べて、自然淘汰的に不利な状況にいるわけである。このような環境下においては、長い時間を経て、成人ラクターゼは産出者は、ラク ターゼ欠損者の犠牲の上に、確固たる地位を得る傾向がありうるだろう。そして成人ラクターゼ産生の遺伝子は、有利な遺伝子として、不利な成人ラクターゼ欠 損の遺伝子を、明らかに数の上でも上回ることになるだろう。このように食生活の習慣や伝統は、ある遺伝子型をえこひいきするような自然淘汰的圧力を作り出 すこともあるだろう」(McCracken 1971 : 484 傍点筆者)。 

疫学

 この章のここまでは、生物文化的−環境的テーマで考え、人類学者の研究を、病理学者、生化学者、医学者、生態学者の研究に接続させる形で検討してきた。 さて今度は疫学的研究であるが、現在及び少し前までの行動科学者の中でも特に医療社会学者の仕事内容に注目しなければならない。医療社会学者達は、この分 野を彼らの専門分野の一つにしてしまったのである。疫学とは、簡単に定義すれば、疾病に関して、その地理的分布、有病率、発生率を、自然環境と人工的環境 と人間行動の影響によるものとして扱う学問であるといえる。年齢、性別、婚姻形態、職業、人種関係、社会階層、個人的行動、自然環境のような項目が、社会 学者や疫学者の調査で最も一般的に使われる変数である。
 これらの変数全てと、さらに他の多くの因子が、種々の疾病の分布と有病率に重要な関係を持っていることはすでに証明されている。例えば、合衆国の青年男 子は、青年女子や老人男女に比べて、事故で死にやすい。石綿工場の労働者は、石綿肺症と肺癌に関して高いリスクを持っているが、大学の教授はそうではな い。喫煙者は、非喫煙者に比べて、はるかに肺癌や心臓血管疾患で死にやすい。内陸部、特に山岳部の人達は、海岸近くの人達やヨードが豊富な海産物に触れる ことができる人達に比べて、甲状腺腫の発生率が著しく高い。
 疫学者は自分の役割を「疾病原因の複雑なパターンを解明し、疾病コントロ−ルを可能にする端緒を獲得するために、疾病発生の相関関係を明らかにする」こ とと自己規定している−社会学者のクラーゼンはこう話す(Clausen 1963 : 142)。疾病の相関関係は、まず住民調査の方法によって明らかにされる。この調査は、疾病発生と、生物学的、身体的、社会的要因との間の関連性を発見し ようとするものである。「多くの場合、追求される《証拠》とは、仮定された《因子》と、疾病発生との統計的関連である」(Suchman 1968 : 98)。
 疫学は目的指向的学問であり、その第一義的目標は、健康水準を上げ、健康に対する全ての脅威を減少させることである。その歴史においても、疫学は注目に 価する成功を収めているのである。例えば、甲状腺腫は早くから食生活のヨードの欠乏の結果であると結論されており、ヨード添加食塩で簡単に治療された。 1850年代まで遡ってみると、有名なロンドンのブロードストリートの公衆用水ポンプ事件において、ジョン・スノウはコレラは汚染された水によって蔓延す るもので、きれいな水を飲用する人々はこの疾病になることが少ないことを実証した*1。そして最近では、研究が進めば進むほど、癌の発生に関する多くの部 分が環境的要因によるものであり、この恐るべき疾病の発生を減少させるために、これらの環境要因の大部分を変化させたりコントロールすることも可能である との結論が明らかになっている(Cairns 1975)。これら疫学的研究が「実際的」に役立っていることは、この疫学的方法が公衆衛生専門職の大部分の科学的基盤となっていることを見れば明らかで あろう。
 社会学者の興味とは対照的に、人類学者は非西洋民族の疾病の疫学的特徴に興味を持ち続けてきた。その中には、北極ヒステリー、アモック、カナビスつまり ガンジャ精神病(ganja psychoses)(例えば Rubin and Comitas 1976)、コロー(koro)、ラター(latah)、ウィンディゴ(windigo)等々のいわゆる「文化特異症候群」も含まれている。もし可能なら ばこの種の研究においては、住民調査と統計学的分析が適切なものなのであるが、こと人類学の研究の多くの場合、他の社会科学者が統計学的に正当な根拠があ ると認めるような資料が集まるのはまれである。人類学の研究において、結論の多くは、行動の観察や文化様式の知見から描かれるのである。また時にはクー ルー(kuru)の例のように、研究自身が、捉えにくい説明の鍵となる変数を追求する探査的仕事の性格を帯びることもある。
 人類学者は、また、「開発の疫学」とでもいうべき、工業開発計画の健康への影響−しばしば有害なものである−についても、非常に関心を示してきた。人造 湖構築の結果として時々見られる「河盲目」の発生の増加、また灌漑事業の結果としてのビルハルツ症(住血吸虫)の蔓延などは、人類学者によって発展途上国 で研究された疫学的問題の実例といえる。古典的な疫学や、その歴史や、現在の合衆国での実践などについてもっと知りたい読者には、医療社会学の教科書のほ とんどが、良い情報源になりうることを指摘するにとどめ、ここからは我々が興味を持っている、より純粋な人類学的関心事について述べてみたい。

クールーのミステリー

 1950年代中期、それまで医学的に知られていなかった新しい疾病−クールー−が、ニューギニア東高地に住む南部フォーレ語を話す人口約15000の集 団の間で発見された。この南部フォーレ族の基本的文化形態は他の東高地原住の部族と同じものである。この文化形態の特徴の一つは、男性と女性の生活の明確 な分離である。男性は男性用家屋で生活し、食事し、寝起きし、その多くの時間を裁判の論争や、争い、襲撃、儀式に費している。男性達は、土地の開墾だけは やるが、残りのほとんどの農作業は、小さい円型の小屋に子供達と家畜のブタと一緒に住む、女性達の仕事である。1950年代中期には、南部フォーレ族の女 性達は、近隣の部族の女性達と同様、儀礼的喰人の風習を行っており、亡くなった血族の女性の肉体を、とりわけ脳を食べていた。政府によるこの東部高地の部 族達の懐柔が進むにつれ、この種の土着の生活様相は、精力的な努力の末に除去されていった。
 クールーは、あまり例のない疫学的特徴を示した。その発症がほとんど、女性か子供に限られたのである。また、若い男性がたまたまこの病気に罹ることが あっても、重篤なものにはならなかった。対照的に、いくつかの村落では、成人女性の全死亡の半数が、また5歳から16歳までの年齢の子供の死亡のほとんど が、クールーによるものであった。南部フォーレ族とかなり親しく行き来のあった近隣の他の部族にはクールーは発症しなかったのである。また、現地に入った ヨーロッパ人にも伝染はしなかった。故郷を離れて出稼ぎに行っていた南部フォーレ族の青年に、たまたまクールーの発症をみたが、他の地方から集まっていた 彼の仕事場の同僚達にも伝染することはなかった。そして、政府住民簿の調査から、クールーはほとんど家系的に発生していることが明らかにされたのである。
 クールーの医学的特徴は、中枢神経系の進行性の変性であり、最終的には完全な機能喪失まですすめ、しばしば嚥下困難に陥る。初発症状から、一般には6ヶ 月から12ヶ月で、飢餓、肺炎、褥瘡(とこずれ)などの合併症で死亡するが、まれには2年ほど生き延びる症例も見られる。クールーを治す治療法は見つかっ ておらず、クールーはまさに不治の病であった。ここに、明らかに解決が求められているミステリーが存在したのである。 
 このミステリーは、現地調査と実験室研究との結合と、多方面にわたる科学者達の洞察力とにより、10年以上かかってやっと解決の日の目を見たのである。 この研究の第一人者は、ウィルス学者で人類学者でもあるカールレトン・ガジュゼックであった。彼は1957年に10カ月間、この南部フォーレ地方を訪れる が、その後このクールーの研究に彼の学者生活のほとんどを捧げることになる。彼の偉大な貢献に対して、一九七六年にノーベル医学・生理学賞が授与された。 初めの頃、クールーを説明するために様々な仮説が提出された−「遺伝的、感染症的、社会学的、行動学的、毒物的、内分泌的、栄養的、免疫学的−まるで『ハ ムレット』の演者のレパートリーを読んでいるように」(Alpers 1970 : 134)。この中でも、クールーが家族集積性があり、南部フォーレ族に限定されているという明白な傾向から見て、遺伝学的説明がもっともらしく見えた。し かしながら、この遺伝学的説明には重大な弱点があった。一人の個人に出現した優性的な、もしくは部分的に優性的な突然変異が、保因者数が数千人にまで拡大 するには、自然淘汰的に有利な状況が数世紀は続かねばならないのである。この点から、クールーが遺伝的なものと仮定しても、クールーのような高い致死性を 持つ遺伝子が、このような長い期間、自然淘汰に有利な位置にい続けたとは考えられないのである。さらに、部族の長老達の記憶などの現地の記録によると、 クールーが初めて出現したのは、たった50年前に過ぎないのである。
 解決の糸口は、1959年にある疫学者が、クールーと、スクレーピーとして知られている羊の疾病との病理学的類似性を指摘したことに始まる。スクレー ピーは、羊の間に伝染する濾過性病原体によって起こる疾病とされていたが、他のウィルス病と違って、1年か、それ以上の長い潜伏期の後に発症することが知 られていた。このようなパターンをとる疾病に、「スローウィルス感染症」という用語が現在では与えられている。このスクレーピーの伝染的性質は、研究者に クールーに関してある実験を思いつかせた。その実験とは、クールーで死亡した現地人の脳細胞の懸濁液をチンパンジーに接種するというもので、1963年の 初めに実施された。長い潜伏期の後、チンパンジーは、この疾病に罹った。後には、もう少し長い潜伏期をもって、新大陸、旧大陸の様々な種類のサルへの接種 実験に成功した。かくして、クールーは、スローウィルスによって引き起こされる人間の病として、最初に明らかにされたものとして有名になったのである。
 だが、霊長類による実験データからは、クールーの南部フォーレ地方での奇妙な推移を説明できなかった。クールーは、1950年代に最盛期をむかえ、 1960年代からは急速な減少傾向を示し始め、1970年までに青年期以前の子供には発症をみなくなった。また、クールーの奇妙な性別年齢別の分布も説明 できなかった。ここに、社会人類学者、ロバート・グラーセとシャールー・グラーセの民族誌的仕事が、ある構図を持ち込んだのである。彼らは、現地の習慣を 検討して、南部フォーレ族の女性の喰人風習は比較的近い過去に始められたものであり、最初に行われたのは1910年頃であったことに気がついた(ちなみ に、クールーが出現したのも同じ頃である)。この喰人風習は、最初は近隣の部族から学んだものであるが、すぐ葬式の一部として儀式化した。この儀式では生 き残った親族の女性達が、死亡した血族の女性の脳を料理して食べることになっており、食べ残りの分は男女両方の子供達に与えられた。そして、この脳はしば しば火を通した調理が完全にはされていなかったので、クールーの犠牲となって死んだ女性の中に生き残っていたウィルスが、血族の女性や家族の子供達に伝染 したのである。近年になって新たな発症が急激に減少したことに関しては、オーストラリア政府の喰人風習に対しての啓蒙活動の成功によるものであると説明さ れる。換言すれば、喰人風習の中止によって、クールーは最終的には消滅するであろうと推定できるわけである。この説明は、この問題に取り組んできた全ての 疫学者に、事実上受け入れられているものである。しかし、どこからウィルスが来たのか、また1910年以前はどこにウィルスが潜んでいたのか、などの問い は、今後解答されるべきものとして残っている(2)*2。

生態学(エコロジー)と開発

 最近のアメリカのエコロジー運動とは裏腹に、世界の多くの人々にとって「開発」という言葉は肯定的な意味あいを持っている。「開発」つまり国家の人的物 質的資源の合理的使用を通じて、貧困は取り除かれ、教育は普及し、疾病はコントロールされ、標準的生活が享受できると、多くの人は信じている。「開発」と いう概念は、自然のバランスへの人間の技術的介入を意味をするのである。ダムの建造、土地の開墾・地ならし・灌漑、高速道路・学校・病院の建設、油田の採 掘、鉱山の採鉱、工場の建設などがそうである。広義の意味では、人間の開発的活動は決して新しいものではなく、少なくとも新石器時代まで遡ってその跡を見 ることができる。この時代に、狩猟−漁撈−採集の生活形態の基盤となっている生態学的バランスを修正する最初の重要な様式として、農業が開始されているの である。ヨーロッパにおける産業革命の到来をもって、人間の自然への介入のペースは急激に加速され、大気汚染が初めて知られるようになった。汚れた空気、 不衛生、密集住居、−産業革命によってもたらされた都市スラムの健康問題は、今日でもまだ完全には解決されていない。しかし、初期の開発の形態がいかに著 しいものであったといっても、スケールと複雑さにおいて現在の世界的規模での「近代化」ラッシュとは比べものにならないのである。
 開発とは、もちろん、現在の状況そのものでもあり、密集した世界においては理論的に筋道の通った代案というものは、そう簡単にはない。しかし開発には 「良い」開発と、「悪い」開発とがある。良い開発とは、開発が行われた地域の人々の生活が、バランスがとれていて(このようなバランスが実際に計測できる としたらだが)、開発以前より暮らし良い状態になるものであり、悪い開発とは暮らしが悪くなるものである。このことは、この章の初めに述べたように、変化 とは個別的にのみ起きることはないという理由による。文化は微妙にバランスのとれたシステムであり、断片的には変化しない。また、ある領域(例えば農業) における外観上利益が多く見える改革は、他の領域(例えば健康)において、二次的三次的変化を引き起こすことになるかもしれない。そして、この変化は、当 初の狭い視野から予期した利益よりも、もっと重大なものになるかもしれないのである。ほとんどいつものことであるが、「計画された改革には、予知できな かった結果が伴うものである」(Foster 1962 : 79-86)。その結果のうち、あるものは良い結果であるが、多くの場合望ましくない結果である。
 デュポスは、文化現象の「予知せざる結末」モデルを生態学の言葉で表現している。「全ての技術革新は、それが工業的、農業的、もしくは医療的なものであ ろうとも、必ず自然のバランスを狂わすことになるのである。実際、自然を支配するという言葉は、自然の秩序を攪乱させるという言葉と同義語である」 (Dubos 1965 : 416)。デュポスは、多くの他の人々と同様に、自然のバランスを守ることは「原則的には望ましいこと」と考えている。しかしその一方で、彼は、このこと を実現する方法を、はっきり定義するのは非常に困難であることも認めている。「自然は決して、静的安定状態にあるのではない。なぜなら、自然の物理的及び 生物的構成要素間の相互作用は、無限に休みなく変化するからである。それ以上に、人間は土地を耕し始めてからは自分自身を、自然の一部としてでなく、自然 から離れたものとして考えるようになったのである。この考え方は、都市生活を送るようになると、さらに進んだのであった」(同書、416)。数千年前に、 サイは投げられたのである。だから問題は、我々が自然を攪乱するか否かではない。むしろ問題は、種々の革新が有益なものとなり、有害なものにはならないよ うな方向で、自然をどう変化させていくかということである。
 少々異なった言葉でであるが、ヒューズとハンターは同様の考えを述べている。人間と環境の間の既存の関係を変化させようとする計画は、全て生態学的枠組 みから検討されなければならない、と彼らは語る。「これらの計画は、人間と環境との間に、いわば新しい《生態学的契約》を創り出すものと見なさなければな らない。この契約ではいつも、掛かる損失は隠されている」(Hughes and Hunter 1970 : 479)。
 人類学者は、彼らの分野のまさに始まりの頃から、文化がどう変化するかに関心を持ってきた。第二次大戦以後の時期は、開発計画の表向きの利益と同様に隠 された損失をも含めて、「技術変化がどのような社会的結果を導くか」に、人類学者の興味の中心があてられている。計画事業のほとんどが自然への介入を含ん でいるので、このような開発による変化の研究には、生態学的視点が格好の視座を与えるのである。「隠された損失」という概念は、もちろん全ての種類の変化 に適用できるが、ここでの我々の文脈では、おもに健康被害について見てみたいと思う。人間に関する決定的変数は、環境と人間行動であると気がついた時、我 々は疫学の主流的立場に立っていることになるのである。我々が関心を持つ環境とは、原則的には、純粋な自然環境ではなく、膨大な新しい「生態学的契約」と 結ばねばならないほどに、人間によって隅々まで働きかけられた自然環境なのである。都市や、その中の工場やスラムなどが、この環境の重要な構成要素であ る。また、人造湖、再定住した人々、新開墾農地、高速道路などもそうである。開発は本質的に物理的プロセスと考えられがちである。しかし、それは同時に社 会的で経済的なプロセスでもあり、この中には、集団移民とか換金作物栽培とか信用経済とか、そして人間の健康と福祉に影響を与える多くの活動などが含まれ ている。これ以降の本文では、我々の目的は、「開発疫学」とも呼ばれるべきものの概説を述べることではなく、開発に伴う健康問題について、いくつかの例を 述べることに限定したい。
 まず、全般的に健康状態が低く、ある特定の疾病が蔓延していると、そこでの開発は非常に阻害されるという極めて明白なことを記することから始めたいと思 う。パナマ運河の例においては、最初に運河建設を試みたフランスの技師レセップスを挫折させたのは黄熱病であった。合衆国の医師達が黄熱病の原因を発見 し、そして媒介昆虫の蚊を駆除して後に初めて、運河の完成が可能となったのであった。近年まで、風土病としてのマラリアは、人の住めない地域として、肥沃 な熱帯の低地を残しておいてくれたし、ツェツェバエによる睡眠病は、アフリカの多くの地域の開発に厳しい制限を加えている。そして、慢性的に病気が多い地 域では、工場や現場での仕事の欠勤率が高く、重大な経済的損失となっている。
 これらのことより、疾病はそれ自身、多くの開発計画の中心的促進者ともなるのである。というのは、疾病撲滅計画は、多くの開発計画の重要な要素となり、 時々は天然痘撲滅計画のようにそれ自体が計画事業となることもあるからである。
 開発の成功は、最終的にはある種の疾病の発生を顕著に増加させ、それ以前には存在しなかったか、存在しても重要でなかったような健康問題を新たに作り出 すことも、時にある。逆説的に、感染症のコントロールや撲滅の成功も、隠された健康損失を伴っているのである。まさにこのような成功が、人口爆発を引き起 こし、それが人類の未来に対しての最大の脅威となっていると多くの人が考えている。疾病コントロールに近代医学が成功したことにより人口増大がおきたのだ が、また、この人口増大のために、一世紀も前と同じように、世界的規模で病が存在し続けていると指摘することも可能であろう。
 我々はかくして、疾病によって導入される円環的連鎖関係に直面する。疾病は開発を阻害する−そこで疾病は医療サーヴィスと疾病コントロールの発展を生み 出す刺激剤として働く−そしてこれが多くの種類の開発を可能とする−これらの開発の「成功」の結果として、しばしば人口過剰と疾病増加とが出現して、ここ で新しいサイクルが再び始まるのである。

開発による疾病

 疾病間の平衡的関係は、ある程度までは開発による変化によって影響されているということができるだろうが、全ての病が同じように影響されているわけでは ない。しかし、開発の活動によって、有病率が顕著に増加した疾病もいくつか存在する。ヒューズとハンターは、医療行為の結果起きる疾病を「医原病」と呼ぶ ことから類推して、このような疾病を「開発原病」(developo-genic disease)、つまり「開発による疾病」と呼んだ(Hughes and Hunter 1970 : 481)。この分類に入れられる疾病のうちで重要なものは、トリパノゾーマ症(睡眠病)、ビルハルツ症(住血吸虫病)、河盲目(オンコセルカ病)、フィラ リア病、マラリア、栄養失調からの劣悪健康状態などがある。そして多分、結核と慢性疾患も一般的な意味では入れられるであろう。これらの疾病は比較的少な い原因によって引き起こされるものであり、その原因の主なものは、人造湖、灌漑農業、労働力移動と商業活動を結果として伴う道路建設、自給農業から換金農 業への交代、そして急速な都市化などが挙げられるのである。以下の文章では、疾病の発生に反映するいくつかの活動を取り上げ、その疫学的関係を簡単に検討 してみたい。

1 河川・貯水池開発

 第二次大戦以降、居住可能な土地の全てに出現した膨大な数の人造湖ほど、地球の表面を変えてしまった開発事業はなかった。例えば、エジプト−スーダン国 境のナセル湖を考えてみればよい。これらの人造湖とダムによって何が可能となるかの理論的説明は、だいたいどこでも同じである。洪水のコントロール、水力 発電、灌漑用水、そしてやや利益は少なくなるが漁業や他の水利活動が挙げられている。確かにこれらの目標は賞讃に値するものかも知れないが、ほとんどの開 発事業は健康に対する影響では、高度の有害性を持っていた。その中でも、ここでの最も重大なものは、ビルハルツ症とオンコセルカ症の増加であった。
 ビルハルツ症は特にアフリカに多く見られるが、南アメリカや中東や東洋にも見られる疾病で、ヒラマキガイを中間宿主にした、血液中に寄生する住血吸虫属 (Schistosoma)の一種によって引き起こされる。この住血吸虫のライフサイクルは複雑であり、ライフサイクルのどの時期においても断ち切って治 療することが困難なものである。住血吸虫の成虫は、人間の膀胱と腸管の周囲の静脈に寄生し産卵するので、人間の尿と大便に受精卵が排卵される。この受精卵 が、体の外の水に到着すると、約6時間生存可能な幼虫に孵化する。この幼虫が、その時間中に、お目当ての特定の種のマキガイに出会えると、マキガイの中に 入り込み、約6週間にわたって棲家にする。この期間で幼虫は、水中で出会う人間の皮膚を貫いて侵入できる第2次幼虫型に成長する。さらに人間宿主の体内 で、2ヶ月間成長を続け、これで成虫の住血吸虫となり、再び膀胱や腸管の静脈に集まり、交尾して、ここから新しいサイクルが始まる。ビルハルツ症は、体内 から駆除することが極めて困難なものであるが、この疾病自体では死に至ることは少ない。その代わりに、この疾病は腸管、泌尿生殖器、腎臓、肝臓、脾臓、心 臓そして肺などの種々の臓器を侵し、重篤な進行性の機能不全を引き起こす。そのために死因は、以上の多くの原因の一つが記録されることになるのである。ビ ルハルツ症は、治療は可能であるが、治療期間は長く、不愉快な副作用がしばしば伴うものである。それ以上に、この疾病は、感染後の免疫獲得がなく、再感染 率も高いものである。
 ここ数十年で、ビルハルツ症の患者数は急激に増加し、世界的には推定約2億人にのぼると見られている。ある専門家によると、この疾病は、「人間の寄生虫 の中で、最も早い速度で広まったものであり、最も病原性の強いものである」とされている(Heyneman 1971 : 301)。この疾病の蔓延は、ほぼ間違いなく、巨大ダムと、それの貯水池によって新しく灌漑された土地の産物である。例を挙げれば、エジプトにおいてナセ ル・ハイダムの完成後3年間で、この地域の2歳と6歳の子供のこの疾病の感染率は、5−25パーセントの範囲から、3年後に55−85パーセントの範囲に 増加しているのである(Miller 1973 : 15)。同様の例は、ガーナのボルタ・ダム建造においてであるが、この地域では1960年代の初期までは住血吸虫の中間宿主のマキガイは発見されていな かった。しかし、このダムによって生態学的バランスは急激に破壊され、このダム湖の10マイル以内の湖畔の地域における子供達1000人の調査では、 1972年までに70パーセントの子供達がこの疾病に感染してしまったことが報告されている(Scudder 1973 : 50)。これらの事例と、他の同様な事例におけるビルハルツ症の急激な発生増加は、灌漑水路と、その給水を受けた畑の、緩流や澱んでいる水が宿主マキガイ に絶好の生息環境であるという事実から生じているのである。灌漑を通して、自然は新規の「生態学的契約」を作成した。しかし、この契約では、往々にして、 人間が敗者となるのである。
 ビルハルツ症よりも、やや影響は少くなるが、オンコセルカ症(つまり「河盲目」)もまた、熱帯の河川や湖の岸辺に住む多くの人々の生活をますます脅かし 続けている。このような環境で良く育つ媒介昆虫のブヨが、犠牲者の首の背部を刺し、そこに卵を産みつけ、孵化すると幼虫が視神経を侵す。この虫刺によって 生じる皮下結節を外科的に除去すれば、失明を防ぐことも可能である。しかし、発展途上国の医療資源の限界から、このような方法でのコントロールもあまり有 効性を持たず、いつも同様の再感染が待っているのである。

2 土地開墾

 土地開墾と「合理的」農業とは、河川流域開発事業の一部分となっていることが多いのだが、これらが往々にして健康に有害な影響を及ぼすものであり、これ については、ミラーが多くの例を挙げている(Miller 1973)。カリブ海沿岸の組織化された農業は、マラリア伝播のハマダラカ属の蚊の発生を増加させる条件を作り出した。蚊の立場から見れば、米作農園や灌 漑水路や貯水槽の日の当たった水は、それ以前の自然のままの環境より、好適であったのだ。マラヤにおいては、ゴム農園はマラリアのない地域に作られた。し かし農園建設のために厚生林を伐採した結果、ハマダラカの成育に理想的な条件を作り出し、ついにはマラリアの侵入を導くことになったのである。全く同じ事 態が南インドでも起こった。人の住んでいない丘陵の原生灌木の茂みを伐採した結果、ハマダラカの成育が促進され、これに続いてマラリアが侵入して来たので ある。西アフリカの先史時代の鎌状赤血球遺伝素因を説明するためにリビングストンによって仮定された文化的革新が、今日でも明らかに繰り返されているので ある。

3 道路建設

 かつては、一定の地域に局限していたり、広がるとしてもゆっくりであった疾病が、現在では、以前は見られなかった地域にまで伝播している。これは、道 路、鉄道、航空機によって可能となった迅速での大量の人と物資の交流の結果である。トリパノゾーマ症(睡眠病)は、この種の疾病の一つで、現在ではアフリ カの全域で見られることになった。ツェツェバエに媒介されるこの原虫病は、人間だけに感染するわけではなく、家畜や野生動物の中にも多数の感染した動物が おり、これが自然の病原貯蔵庫となっているのである。このハエの好適地は、水路や藪に覆われた場所である。新しい道路ができ、河川の合流点は旅行者にとっ て足を止め、飲食や水浴やその他の一息をつく格好な場所となった。そしてここで、彼らはツェツェバエに刺され、睡眠病に感染する危険にさらされるのであっ た。道路の完成によって出稼ぎできるようになった移住労働者は、この病気の蔓延の中心的役割を演じている。ガーナでは、北部からの移住労働者が、南部のア ジャンティ地方に働きに行く途中でツェツェバエ地帯を通過するのでアジャンティ地方の隅々までこの疾病を広めることになり、アジャンティ地方は、もともと この疾病が国土病として存在していた北部地方に比べて、はるかに高い感染率を持つようになったのである(Hughes and Hunter 1970 : 452-453)。「このような道路は、流行地から新しい土地への直線的な伝播の仕掛けになるが、また経済開発のために作られた近代的道路は、もともと風 土病が流行している地域にも、結果としてはさらに重大な健康被害を与えるものであるかもしれない。なぜなら、近代的道路の本来の目的は、人と物資の移動や 交換を促進することであり、このことが、いくつかの種類の昆虫媒介性伝染病に関して人間−媒介動物間の接触を容易にし、感染の機会を増加させる効果がある からである」(同書、453)。

4 都市化

 村落の人々が過密な都市スラムに移住することは、様々な健康問題を引き起こしている。ほとんどの第三世界の国々に見られる、都市中心部を取り囲む掘っ建 て小屋の町並みの生活条件は、過密で、汚なくて、不衛生である。多くの場合、飲用水道施設は不備で、水を媒介とする疾病、特に赤痢が蔓延している。産業化 初期のイギリスでも、結核の比率は非常に高かった。栄養失調もまた、多くの疾病に対する抵抗性を低めるものである。同じ環境に長く住み続けて伝統的生活を 営んでいる人々は、その土地で手に入る栄養資源を利用することに関して、無自覚ではあるが役に立つ民俗的知恵を身につけている。しかし、ソフトドリンク、 菓子、高炭水化物のパック入り食品などの都市生活の文脈の中では、民俗的知恵など何の意味も持たない。栄養的に正しく、食費を分配する知恵は、そう簡単に 身につくものではない。その結果、新しい都市居住者は、しばしば重大な栄養欠乏症に陥るのである。
 都市の健康問題で栄養に関係したもう一つの事例は、発展途上国での乳児の人工栄養の利用が、広範囲に広がり、増加していることであり、公衆衛生関係者の 関心を集めている。ある場合は、母親が工場で働いており、乳児を祖母や他の女性に預けて、粉ミルクで育てる以外に方法がないような例もあろう。またある場 合は、母親の栄養状態が悪く、赤ん坊に与える母乳が出ない例も、もちろんあるだろう。しかし、それ以上に、数多くの例の場合、母親達が執拗なコマーシャル の犠牲者となっているように見える。人工栄養は、「近代的」で「進歩的」なことであり、市販の粉ミルクは、栄養的に母乳より優れていると、母親達はコマー シャルによって思い込まされているのである。人工栄養を利用する契機は何であれ、結果として来るのは、多くの場合、子供達の健康への被害である。無教育の 子育て役は、粉ミルクを調合する際に、濃くしすぎたり薄くしすぎたりするかもしれないし、また溶かす水も汚染されているものを使うかもしれないのだ。これ らの全ての被害を被るのは乳児なのである(3)。

5 公衆衛生計画

 すでに述べてきたように、逆説的に見えるかもしれないが、環境の衛生改善や疾病コントロールを目的とする計画は、実際には状況を悪化させたり、問題を単 にある疾病から他の疾病に移したりするにすぎないのかもしれない。北マラヤにおいて、家屋内部での殺虫剤の残留噴霧は、家の内部や壁の上やわらぶき屋根の 中に生息していた媒介蚊をほとんど駆除してしまった。ところが、これによって森林内部に生息していたハマダラカの一種に、人家まで来て壁に止まることなく 人間を刺し、そして噴霧剤の届かないジャングルに戻って行くという、新たに人間の血液を資源とする生活を作ったことになった。その結果、制圧不可能だった 感染症の避難所に、新たにマラリアが発生するようになった(Heyneman 1971 : 305)。砂漠居住民に対して、「衛生的な」便所を作れと説得した試みは、逆効果として有名な例である。1950年代の初めに、イランにおいてアメリカ人 の公衆衛生顧問は、全く逆の明白な証拠があるにもかかわらず、外気にさらされたところで排便するとハエが発生すると主張した。実際は、乾ききった空気は、 直ちに糞便を乾燥してしまい、ハエなどは発育しないのである。しかし、顧問達は、便所を作らなければならないと主張し続け、そして多くの便所が設置された のである。しかしこの便所がうまく管理されず放置されたものだから、この便所からハエが多く発生したのである(Foster 1962 : 180)。1959年に、黄色のキューバ・トウモロコシがボリビアの東部低地に導入された。このトウモロコシは、在来種に比べて栄養的に優秀だったので、 人間と家畜の食生活改善に卓越した試みになるかに見えた。ところが不幸にも、保存する立場からは理想的なこのトウモロコシの硬さが、ボリビアの人達には自 分で粉びきするには硬すぎ、そして彼らはこのトウモロコシを町の商売の製粉屋まで運搬する手間を嫌がったのである。しかしながら、このトウモロコシから、 家庭内の蒸留器で優秀なアルコールができることにより、見かけ上の理想的改新は、栄養状態の改善の代わりに、アルコール症を促進させたのである (Kelly 1959 : 9-10)。
 最後の例は、琉球列島の例であるが、巧妙に意図された事業が、実際には歪んだ方向へ行く場合である。トラコーマは失明まで達する感染性の眼病で、ウィル スによって引き起こされるものだが*3、その感染経路は、人間から人間に直接的接触や、または水やタオルや衣服を介しての間接的接触によって広がるものと 考えられている。衛生的な環境条件と、清潔な水が備わっているところでは、トラコーマの発生は、非常に低いか、全く見られないかである。琉球地域において は、清潔な水と衛生的環境条件は備わっていたのも事実である。にもかかわらず、トラコーマの罹患率は40パーセントにも達し、これらの条件が備わっていな い地域と同じほどの高さであった。水不足のような特別な状態の場合、たくさんの人々が同じ洗面器の水を使って顔を洗うこともあり、これがウィルス伝染に容 易な状況を作り出すのである。水が豊富な地区の子供達は、トラコーマを制圧する努力の一つとして、食事前には手と顔を洗うことが義務づけられていた。しか し学校側には、児童一人一人にペーパータオルを用意する予算がなかったので、ハンカチがその目的で用意されることになった。そして、一枚のハンカチが10 人もの子供達の手や顔を拭くのに使われることになったのであった。「このやり方により、トラコーマが子供から子供へと伝染するのは、間違いないであろう」 (Marshall 1972 : 11)(4)。
 この他にも、開発に伴って生じる重大な生態学的論題や健康問題が存在するが、これらは、この分野のより包括的な再検討の対象として適切に扱われなければ ならないだろう。このような論題の一つが、急激な都市化の波の中にいる人達に特徴的なストレスの増加が持つ意味についてである。例えば、ズール族 (Scotch 1963)と、ノースカロライナの西部地区(Tryoler and Cassel 1964)のように、文化は全く異なるが、同じように急激な都市化の中にある人々の間で、高血圧と心血管疾患の増加が両方の地域の人々に見られるのであ る。急激な変化の状況における心理社会的障害についての疫学もまた、検討に値するものである。この種の障害の増加は、ストレスの多い生活条件の結果である ことを指し示すたくさんの証拠が挙がっているのである(例えば、Hughes and Hunter 1970 : 474-479)。このような論点は理想的には医学生態学の討論の中で検討されなければならないものであり、我々がここで全ての論点についてカバーできる わけではない。だが、田舎から都市への移住民の栄養的変化や、開発に伴う健康問題で追加する部分など、関連してくるテーマについては、14章と15章で扱 いたいと思う。

原註

(1) サラセミア、つまり地中海貧血も、同じようにマラリア抵抗性を持っている遺伝的疾病である。これは、ヨーロッパや近東のマラリアの風土病的流行地 域に多く見られるが、インド−インドネシア−日本と、アジアを横切るベルト状地域にも見られる。古病理学の骨標本からの研究によると、この疾病は、地中海 沿岸東部の青銅器時代の農民まで遡ることができる。この研究結果から、エンゼルはマラリアは紀元前二〇〇〇年の以前から、この地域で風土病的に流行してお り、サラセミアの遺伝的素因を持つ人は、他の人達よりはるかに強いマラリア抵抗性を持つことになるので、このような状況下では自然選択的に有利な立場に あったと考えた(Angel 1964)。
(2) クールーに関しては広範囲な文献がある。この概説は以下の文献を参考にした。Alpers (1970), Alpers and Gajdusek (1965), Burnet and White (1972 : 256-261), Fischer and Fischer (1961), Gajdusek (1963,1973), Gajdusek and Gibbs (1975), Gibbs and Gajdusek (1970), Zigas (1970)
 ハントは最近、生態学的−疫学的アプローチが、疾病の原因を追求するのに有効である例として、クールーの場合を挙げて検討している。彼はカスケードモデ ル(階段状モデル)を使って、「可能な説明仮説を連続的に除外していくことを通して健康問題を分析する」。彼は、クールー研究において、邪術や、栄養失調 や、環境毒物や、遺伝などの説明仮説が、どのように次々と棄却されていって、現在一般に受け入られているスローウィルス仮説のための研究分野が明らかに なってきたかを、述べている(Hunt 1978)。
(3) 急速な都市化に伴う栄養的問題に関しては、この例も含めて15章でもっと深く論及する。
(4) トラコーマの治療における同じような難問がメニーファームズという名のナバホ族のコミュニティの保健管理の試みの中で報告されている。顕在化した 症例に治療を行っても、疾病の流行に対しては何らの影響をも与えることができなかったのである。疾病の感染は、特に子供達の間では、汚染された指を介して 広がっているのは容易に確認できた。しかし、「汚染された手指、共同のタオル、桶などを消毒するには、手や顔を洗うこと、石鹸や個人用タオルの使用、手を 使う時の心掛け・・・・・等々の日常的習慣を永久に変えてしまわなければならないだろう」(McDermott et al. 1972 : 28)。

訳註

*1 この事件とは、1854年ロンドンのブロードストリートの公衆用水ポンプから飲用水を得ている地区でコレラが大発生し、ジョン・スノーの提言でその ポンプのハンドルを取りはずし給水を断ったら、流行の勢いが弱まったというものである。これは医学史的には、コレラ菌の発見の30年以上前の事件であり、 初期の疫学の有効事例として有名である。原著ではこの病名がチフスとなっているが、コレラの間違いである。なお、この章に頻繁に出てくる感染症、寄生虫病 などの医学的記述の中には、現在の医学的知見と若干異なるものも見られるが、原著の大意と文脈に沿って適宜に訳出した。
*2 クールーで有名となったスローウィルス感染症の研究は、クロエッツル・ヤコブ症候群などを対象にして、病原体の構造や遺伝形式の探究が行われてお り、現在的な医学のトピックスの一つである。著者は、このクールーの事例を、医学と人類学のドッキングの成果のように記述しているが、医学的にも人類学的 にも定まった評価はまだである。このクールーにおける医学と人類学のドッキングに対しての人類学の立場からの疑問は、W・アレンズ(『人喰いの神話』岩波 書店)によって提出されている。
*3 トラコーマの病原体はウィルスでなくクラミジア(chlamydia trachomatis)である。

ch02-FosterAnderson_MA_All1978-2.pdf
このページは、かつてリブロポートから出版されました、フォスターとアンダーソン『医療人類学』の改訳と校訂として、ウェブ上においてその中途作業を公開 するものです。

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