はじめにかならずよんでください

Notes on George M. Foster and Barbara G. Anderson' Medical Anthropolpgy, 1978

解説:池田光穂

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医療人類学
第11章 医療における専門職:看護(Nursing)

看護における大変革

 看護という分野に人類学者が関心を示すのは、少なくとも二つの大きな理由からである。第一に、他のいかなる社会文化的体系とも同じように看護は、それ自 身いくつかの問題についての調査機会を提供する。その問題とは、専門的役割のための訓練、専門的役割間の相互作用、より高い地位とより大きな独立性を求め る専門職全体の力学、特定の専門職で成し遂げられた女性の解放などである。そのうちのいくつかは、多かれ少なかれ看護独自のものであり、他のいくつかは医 療や他の分野と共有するものである。第二に、看護は、人類学者によって研究される社会文化体系それ自体が人類学者を生み出しているという、珍しい実例の一 つとなっている。後者の人類学者は、自分の出身集団の文化に特別の洞察を示し、部外者によってなされた解釈を修正し、洗練する。また、最上の人類学的伝統 を用いて自分自身についての研究を行うことができる。このような方法論的な理由から、看護は人類学にとって例外的なまでに重要な分野なのである。
 しかし、以上のことは最近の展開である。看護についての最初の研究の一つは人類学者(Brown 1936)によって行われたけれども、看護婦と人類学者が互いに専門的関心を示し合うようになったのはごく最近のことである。1969年になっても、レイ ニンガーは人類学と看護に関して発表された論文を19しか見つけることができなかった(Leininger 1970:38)。彼女はまた、1968年に看護学校で教える専任の人類学者を8人しか見つけることができなかった(同書41)。しかしながら、状況は刻 々と変化しつつある。現在ますます多くの人類学者が看護という専門職に関連する職業を求めつつある。また、我々がすでに指摘したように、ますます多くの看 護婦が、伝統的な視野を拡大するために、人類学や他の行動科学の修士課程や博士課程に目を向けつつある。この急速な増加を表わしているものの一つが医療人 類学会(the Society for Medical Anthropology)の、人類学と看護についての部会である。それは学会で最も大きく、最も活動的な単位の一つである。かつては看護についてのほと んどの研究が社会学者と心理学者、それと医師によって行われたけれども、今日では行動科学の素養を持ち、その専門職についての続行中の研究の完全なパート ナーとして活動している看護婦を見出すことができる。行動科学の文献だけでなく、専門的な看護雑誌やその他の出版物も含めて考えると、確かにそうすべきな のだが、看護についての現代の研究の大部分は看護婦の調査者の手によるものである(1)。そのような研究のしっかりとした基礎となるがレイニンガーの最近 の論文で明かにされている。彼女は合衆国の看護学校についての調査で、1976年に14校が何らかの種類の哲学博士号(Ph.D.)を提供し、1980年 までにその予定の学校があと21校あることを見出した。1976年4月現在で、このような課程の看護教育者の中の437名の成員が博士号を保持していた (Leininger 1976)。
 看護という専門職は2、3年前には想像もできなかったほどの大変革を経験しつつある。今日の看護婦は一世代前の看護婦よりも教育程度が高く、 自分達の専門的役割についての関心が高く、健康ケアの提供の点で大きな独立性を積極的に求めている。さらに、今日の看護婦は伝統的役割の一部とは違う承認 と地位を獲得しつつある。これらの変化は、一つには教育程度の向上、医師の伝統的な課業の看護婦への委譲、そしてより高い経歴への志望の当然な帰結であ る。また一つには、あまりにも長い間自分達は男性の役割に従属した役割を果たしてきたという女性の感情、一言で言えば、女性解放の反映である。後者の見解 はマーティンによって雄弁に語られている。「私の考えでは、看護は今大きな戦いに巻き込まれている。第一の問題は権力である。その戦いの目的は健康サー ヴィスの性質と提供に対する看護の影響力と統制力を増大させることである。我々の敵は主に医学と保健設備行政である。看護のある部分は前線にあって戦闘を 行っている。他のいくつかの部分は補給線にあって戦いを支援している。さらに他の部分は敵の陣営にある。その戦いはいやおうなく性差別をめぐる戦いであ る。というのは、看護婦は主に女性であり、それに対して医師と保健設備行政官は主に男性だからである。看護の内部で敵対する部分は主に条件づけられた性差 別主義の女性である。彼女らは自分自身の劣位の地位へとうまく社会化された女性である」(Martin 1975:95-96)。
 看護における急速な変化のために、現代のその専門職について最新の描写を行うのは困難である。看護についての「古典的」行動科学的研究の多くは今や多か れ少なかれ時代遅れである。にもかかわらず、それらは専門職化についての研究の歴史の一部として興味深い。それらはまた、起こりつつある変化を測定するた めの貴重な基準点を提供し、現代の、あるいは将来の調査に対していくつかの問題を示唆する。我々はこのようなジレンマに直面していたので、まず行動科学の 調査を看護に向かわせた「古典的」問題のいくつかに注目し、それから、看護についての多くの文献にいまだに見出されるようなこの情況が現代の圧力によって どのように変化しつつあるのかを指摘しようと思う。
 行動科学の調査が注目した(そして今でもかなりの程度注目している)看護におけるテーマはある程度は医学におけるテーマと同じものである。例えば、それ らは人材補充の過程、学生の背景、動機づけ、教育と教育経験、経歴のパターン、専門的役割と専門科目などである。しかし、特に歴史的観点から眺めると、そ の他に看護婦の役割に特有なテーマもあるように思われる。例えば、看護婦が行うとされていることについての看護婦の抱くイメージ(病床でのケアを与えるこ と)と彼女らが結局は行うことになること(管理)との間の相違が原因となって起こる、看護婦によって頻繁に経験されるフラストレーション、看護婦と医師の 間の緊張した関係、ふつうは専門的地位と結び付いているような属性の中の主要なものを成員の多くが欠いているという、専門職の変則的位置などである。

看護教育

 看護教育にいて確認されている、専門職についての行動科学的問題を理解するには、看護教育が行われる場面の種類を知ることが重要である。歴史的に最初の 制度は、病院での3年の訓練過程であり、それを終えると看護資格を手に入れることができた。米国での最初の3つの資格認定課程(diploma program)は、1873年に現れた。その数は、その後の半世紀の間に急激に増え、1880年に15、1890年に35、1900年に432、そして 1910年に1023となった(Bullough 1975a:8)。これは以前の看護教育における大きな進歩ではあったけれども、時代の経過とともに、そして米国における教育レベルの上昇とともに、その 欠陥もだんだんと明らかになってきた。大病院におけるいくつかの資格認定課程は疑いもなく優れた養成を行った(そして行っている)けれども、資格認定課程 は、その仕事に十分なスタッフもその他の資源も持たない何百という病院にまで広がった。病院看護学校はしばしば患者ケアのための労働力の安価な供給源と評 価された。1910年から1920年までの間に、看護学校が大きな大学の中に設立され始めた。この4年生の課程は、大学課程(collegiate program)あるいは、学士課程(baccalaureate program)と呼ばれているが、その課程を修了すると、看護理学士号(Bachelor of Science       degree in nursing)を授与される。資格認定課程とは対照的に、大学課程は自然科学と行動科学を含む看護の科学的基礎を重視する。公式の大学への加入と大学レ ベルのの課程によって看護が、そのような課程が存在しなかった時に可能であったレベル以上の非常に高い専門的レベルに達したことは明らかである。教育のた めの訓練を受けた教育スタッフの多くが哲学博士号を含む高等学位を保持している。彼らは、病院での資格認定課程ではできないような基本的で理論的な知識を 重視する。
 3つ目のタイプの看護教育は准学士課程(associate degree program)として知られている。それは、2年生の地域短期大学で行われる。これは比較的最近の課程で、それが始まったのは1952年のことである。 この課程について行われた行動科学の調査は他の2つについての調査よりも少ない。けれども、それは、表1の数字の比較が示しているように(Knoph 1975:1)、現在最も数の多い課程のタイプである。
 表1からわかる通り、過去20年間に、資格認定課程の数は半減し、学士課程は倍増し、准学士課程は驚くべきことに30倍にも増加した。
 もちろん、教育制度の3つのタイプそれぞれの比率における以上のような変化は、表2の示すように入学者数と卒業者数の変化に反映されている (A.N.S. 1976:63,67)。
 明らかに、准学士課程は一世代もしないうちに看護教育の支配的なタイプとなったが、資格認定課程の減少とそれにかわるこの課程の増加は、将来も続くであ ろう。
 看護学生の補充に関して、数年前にコーウィンとティブスは、初年の看護学生について好ましい「プロフィール」を与えているいくつかの研究の結果を要約し ている。2人は学生の4分の1が農村出身であること、一つの集団としてみると、彼らは人口全体より宗教的であるらしいことを見出している。かなりの数の医 学生が医師の父親の後を継いでいるように、非常に多くの看護学生が看護婦の娘であった。しかしながら、看護学生は、医学生より、そして大学生一般よりも経 歴の決定を行う年齢が早いという点で医学生と異なっていた。彼女らはまた、医学生よりも社会経済的レベルの低い家族の出身であるように見えた。しかしなが ら、この証拠は誤解を招く。というのは、当時ですら、学士課程の学生の学生は(他の大学生と同じく)中・上層の階級の家族の出身であることが多かったから である。もちろん、集団として学士課程の学生より圧倒的に人数の多い資格認定課程の学生は、社会経済的に幾分低い層の出身であった(Corwin and Taves 1963:197-199)。
 社会経済的レベルは依然として、求められる看護教育のタイプとの正の相関を示しているけれども、より最近の分析によってこのプロフィールにおけるいくつ かの変化が明らかになっている。クノッフは(コーウィン/ティブスの研究では扱われていない)准学士課程の学生が「他の2つの課程の学生より、性、結婚、 年齢、そして民族の点でより異質で」あることを発見した。「これらの新入生は優秀な高校生であった場合が多く、准学士課程に入学する以前に何らかの看護学 校の経験のある者も非常に多かった。さらに、中産階級の家族の出身であった。資格認定課程の学生は、性、結婚、年齢、民族の点で相対的に同質的であった。 この課程の学生は、他の課程の学生よりローマ・カトリック教であることが多かった。また、高校時代の成績が良く、中産階級の家族の出身であった。学士課程 校の新入生は、若く、白人で、独身であった。また、高校時代の成績が非常に良かった場合が多かった。しかも、他の2つの課程の学生より父親の教育レベルが 高く、収入の多い家族の出身である場合も多かった」(Knoph 1975:9-10)。
 補充パターンにおける最も興味深い変化の一つは、看護課程に入学する男性の数の相対的な増加である。
 その絶対数は少ないけれども、そのような傾向は明白である。課程のタイプは男性の比率と相関している。准学士課程が男性にとっても最も魅力的であり(あ るいは開放的か)、学士課程が最も非開放的であった。クノッフの研究では、准学士課程の学生の4.2パーセントが男性であり、資格認定課程ではそれが1. 3パーセントに下がり、学士課程ではわずか0.7パーセントであるという(Knoph 1975:108図A-1)。

教育経験

 オリーゼンとウィッテイカーは、学士課程の看護学生についての最も完全で最も洞察に富んだ報告の一つを行っている。それは、サンフランシスコのカリフォ ルニア大学看護学校についての報告である。出身という点で、そこの学生は先ほど述べた学士課程への入学志願者のプロフィールと一致している。彼らは、中・ 上層階級の家族の出身であることがわかった。父親のほぼ半数が、専門職、管理職、あるいは他のホワイト・カラー職にあり、純粋にブルー・カラーの父親はご くわずかであった。学生のほとんどが白人で、プロテスタントであった。大多数が驚くほど早い年齢で看護という経歴について考え始めていた。28パーセント が10歳から14歳の間に、さらに27パーセントが14歳から16歳の間に考え始めていた。医学生と全く同じく、経歴の選択は家族員と医療専門家、特に現 役の看護婦から影響を受けていた。多くの者にとって、男友達が重要な役割を果たしていたが、それは、看護という経歴の選択においてではなく、「学生のプラ ンの立法者」(すなわち、最初の試案に続いて、看護への志望を持続させるべきか否かを決定する者)としてであった(Olesen and Whittaker 1968:95)。
 はっきりとした学生文化がサンフランシスコの学校で見い出されている。医学校の場合と同じく、その役割は適応的なものであり、学生が訓練上の問題に対処 することを可能にするような戦略を提供し、さらに全体としてのクラスの位置を強化するように計画された行動規範を提供していた。その学校の教師は医学部の ほとんどの教師より年齢が若かったけれども(3分の2以上は40歳未満である)、教師の意図についての非常に多くの疑惑が学生文化の形式の基盤になってい た。学生たちはしばしば、自分達に何が期待されているのか、そして自分達の成績を判断する時にどのような基準が用いられるのかについて確信がなかった。そ の結果、学生はそれぞれの教師の「心理分析をする」(すなわち、試験の時に一体何が尋ねられているのかを検討し、どんな形式の行動をとれば教師に承認され るのかを決定する)ように努力した。1年生の時すでに、学生の大多数が次のように考えるようになった。すなわち、操作の重要な領域はいつ教師からアドヴァ イスを求めるべきかを知ることであり、患者についての自分の感情を教師と一緒に理解し議論することができることであり、さらに教師に対して患者についての 新しく、興味深い資料を提示できることであると。看護学校における相互作用の緊密な場面で、学生は「舞台に上がっている時」だけでなく、「舞台から下りて いる時」も審査されているのではないか、すなわち、評価課程に適切であるとは通常定義されていないような場面での行動と行為が教師によって注目され、総合 的な成績を判断するのに用いられていはしないかと恐れていた。その結果、学生は、自分たちに不利な形で用いられるかもしれないようなパーソナリティや行動 の側面を表に出さないように常に警戒していなければならないと感じるようになった。
 ゴッフマンが、「印象操作」と呼んだものの重要性が、学生に明らかになった時、そして自分達がいろいろな場面で審査されていることに学生が気づいた時、 彼らは、「外面作り」(fronting)という技術を発展させ、それぞれの教官の目に可能な限り最上に映るように自己を提示した。「教官が何を望んでい るのかを決定した後、学生はアイデンティティの外見をつくろうように努力した。それは必ずしも自己の統合された部分ではないけれども、学生は教師がそうで あると信じるよう期待した」(同書、173)。基本的に成功した「外面」を獲得するために、学生は「独断、謙遜、不器用の正しい混合物を作らなければなら ない」(同書、177)。
 他の学生文化と同じく、そこには同僚と協力し、同僚との連帯を維持せよという個々人に対する強い圧力があった。おもしろいことに、農村社会と同じよう に、個々人に共通の圧力が成績を平準化するものとして作用した。それは、学業の標準以上になろうと努力して「相場破壊」を行うような学生に対する脅迫とな る社会的追放を伴っていた。けれども、特別に目立つようには期待しなかった学生はうまくやるようお互いに期待した。「他人より優れていることを示すこと、 良い成績を取るための不公正な手段やその他の類似の行為をとることは、ただ違反者を仲間から孤立させるだけであった」(同書 188)。学生の行う努力と成績は仲間から注意深く調べられた。それと同時に、人から遅れていて助けに値すると考えられる学生は、成績の良い同僚からの援 助を受けた。平準化という倫理が浸透しているにもかかわらず、何人かの学生はどうしても人より抜きん出たいと思うので、級友を脅かすことなくそうする方法 を探し求めた。ふつう、その方法は特別の努力を示唆するようないかなる報酬をも貶下することからなる。例えば、「驚いたわ、私がAを取るなんて」と言うこ とによって自分の成績の高さを知らせることなどである。病床での看護もまた、大多数の学生の学校における基本的な立場を脅かすことなく目立つための機会を 提供する。けれども、秘密裡での競争は盛んだが、学生文化は全体的に、「教師が甘い希望を抱いて学生達に望むような優秀さを育成するための教育を表面的に は妨害する」(同書、195)。

看護のジレンマ

 ベネとベニスは、行動科学の大きな注目を浴びた、看護における3つの「ジレンマ」の領域を指摘している。すなわち、(1)自分がすべきことについての看 護婦のイメージと実際にする事の間の相違が原因で起こる、看護婦のフラストレーション、(2)看護婦と医師の間の軋轢、(3)専門職化への動因に伴う多く の問題の3つである(Benne and Bennis 1959:380)。これらの3つの問題は以下にこの順序で考察される。

1 看護婦の役割:理想と現実

 シュールマンは、病床でサーヴィスする者という看護婦の役割についての理想的なステレオタイプを記述するために「母親の代理人」(mother and surrogate)という名文句を作った(Schulman 1958)。彼によれば、この役割は女性的であり、また愛情、親密、物理的近接、そして「病床」(すなわち、患者)との同一化とその保護的ケアによって特 徴づけられる。確かに看護婦の役割について一般の素人の持つ伝統的なイメージは、救いの天使のイメージである。彼女はシーツを延ばし、枕をふくらませる。 また、熱のある額に冷たい手を当てて人を安心させる。さらに、専門的に有能であるといった態度で患者を慰め、治療過程を促進させる。少なくとも歴史的に は、「真の看護婦」についての、このフローレンス・ナイチンゲールのイメージは、この経歴に進んだ若い女性のかなりの部分が心に抱いていたものである。
 看護婦はおそらく以前にはこの役割を実際に果たしただろう。しかし、全看護婦の5分の3を雇用している現代の病院というコンテクストでは、そのような時 代は過去のものである。シュールマンが次の論文で言っているように、「もはや疑いもなく、専門的看護は患者の病床から離れてしまった。専門的看護婦の大多 数が母親の代理人の役割と治療者の役割の間の葛藤を、看護婦の役割の母親的機能を放棄したり、回避したり、純化したりすることによって解決した」 (Schulman 1972:233)。
 現在、看護補助婦(aid)やその他のそれほど訓練を受けていない職員が現代の病院における「看護」ケアの大部分を実際に行っている。なぜなら、看護婦 の技能を監督職あるいは管理職で用いる方がより経済的であることがわかっているからである。けれども、患者ケアという神秘的雰囲気はいまだに残っている。 ストラウスの言うように、「病床での看護というイメージが強力なので、病床から離れて働く看護婦(とりわけ、管理職と教育者)も自分の活動を患者の究極の 利益という観点から正当化しなければならない」(Strauss1966:96)。
 多くの看護婦が病床でのケアを好んでおり、あるいは好んでいると信じているので、管理的な責任をしばしば回避しようとする。けれども「その専門職のアイ ロニーの一つは、管理者(と教育者)は非常に多くの威信と権力を獲得しているが、病床の看護婦はそのどちらもほとんど獲得していないということである」 (同書、97)。現代の病院の報酬体系は―後ほど手短に述べる特別の場合を除いて―看護婦から患者ケアの意欲を奪う。なぜなら、公式の報酬のほとんどが患 者との接触をほとんど伴わない技能に与えられるからである。ハットンが述べているように、「いかなる制度であれ、制度のヒエラルキーを上昇していくために は、彼女ら[看護婦]は、自分達を患者から引き離すような管理職に就かなければならなかった。この状況はしばしば患者を最適な看護ケアのない状態のままに 放置し、看護婦の方は、書類の提出と委員会への出席で欲求不満に陥った」(Hartton 1975:118]。

2 看護婦―医師関係

 確かに、看護婦と医師以外の医療従事者との間の葛藤と緊張も存在する。けれども、「看護婦とくつろいだ状態で話し合ったことのある人なら、看護婦―医師 関係が両方の側に最も緊張と誤解をはらんだ関係であることを否定する人はほとんどいないだろう」(Benne and Bennis 1959:381)。バーバラ・ベイツはこの原因を、医師は、「最後の独裁者」であるという事実に帰している。医師は、看護婦や他の類似の医療従事者を非 専門家と見なし、彼らの仕事は患者のためではなく、医師のために働くことだと考えている。たとえ医師がこれらの人々のことを考えることがあるとしても、医 師は彼らを自分の仲間や同僚としてではなく、自分の召使いとして考える(B.Bates1970:130)。
 以上のことは常に事実であったわけではないらしい。フローレンス・ナイチンゲールが看護婦の役割を医師に厳格なまでに従属するものと定義した時代には、 性的関係が非常に固定化されていたので、この定義はそれほど適切ではないのではないかというような考えなど看護婦には思いも寄らなかった。米国における性 的平等主義の浸透とともに、看護婦の以前の活動の仕方によって患者ケアへのティーム・アプローチが促進された。それでも、医師の役割が明らかに支配的で あった。1930年代まで、ほとんどの看護婦が家庭で「家庭付き添い」(private duty)看護婦として働いていた。家庭では、彼女らは1日24時間働いたが、それが一度に何週間も続くこともしばしばだった。医師が家庭を訪問している 間は、医師の目となり、耳となった。看護婦が医師の求めに応じて、前回の訪問からの患者の容態を全て詳細に報告することが大切なことだった。医師の方も看 護婦を信頼し、回復を助長させるのに頼もしい味方を得ていると感じた。「個人的例外を無視すれば、医師と看護婦の関係は一般に暖かく、友好的であったよう に思われる」(Brown 1966:178)。
 しかし、ほとんどの看護サーヴィスの病院への移転や分業の進展に伴い、看護婦は患者の環境に対する統制力を失い、ますます非人格的になる保健ケア・シス テムの中のいくつかの歯車の一つにしかすぎないものとなった。けれども、ブラウンの指摘するように、「衰退する以前の家庭付き添い看護は、今でも看護婦や 医師や患者が、看護とは何であり、何であるべきかについての自分の期待の善し悪しを―意識的にせよ無意識的にせよ―判断する時の規準となるモデルである」 (同書、181)。
 医師―看護婦間の厳格な支配―服従の関係はおそらく最も看護婦を悩ますものである。看護婦は技能と診断の点で医師の方が多くの訓練を受けていることは認 める。けれども、患者をもっと気持ちよくさせるために、医師の気づかない医療のニーズを医師に認知するために、そしてこれらのニーズを医師に伝達するため に、自分達ができることをしばしば法外に抑制されていると感じている。かつての看護婦は医師とどのように関係すべきかを教えられた。例えば、うやうやしく 振る舞い、医師の方が多くの知識を有していることを認め、医師の指示に従い、さらに医師が入室するときに起立するなどである。医師の方でも看護婦のこのよ うな服従を当然のことと受け取った。
 キャロル・テイラーは、看護婦が時々無理矢理に押しつけられる、しばしば融通性のない役割を記述している。彼女はそれを「接近儀礼」(the approach ritual)と呼んでいるが、それは患者が医師のために看護婦によって「準備」される過程である。彼女は、医師の診療室で耳垢を洗い落としてもらうこと になっていた一人の女性について報告している。その患者は(医師の指示に基づいて動いている)看護婦によって、体重、体温、脈拍、血圧と、次から次へと情 け容赦なく調べられた。その女性は何度も「私はただ耳垢を落としてもらうためだけにここに来ているんです」と抗議した。けれども、そのたびに看護婦は「医 師は全ての患者がこのように準備されていることを望んでいますから」という答えを繰り返すだけだった。とうとう衣服を腰までおろすように求められ、血圧計 の加圧帯が再び自分の腕に巻かれたときに、患者は激怒して叫んだ。「後生だから、もう一回測る必要などありませんよ。着物を腰までおろしたからといって私 の血圧は上がったりしませんよ」。これに対して看護婦は、「医師は自分が患者の血圧を測りたいと思う場合に血圧計の加圧帯が患者の腕に巻かれていることを 望んでいますから」と答えた(C.Taylor 1970:109)。
 しかしながら、全ての対人関係的状況に情報伝達のフォーマルな経路とインフォーマルな経路の両方が存在する。インフォーマルな経路が認知され、誠意と相 互の敬意を持って利用されるとき、医師―看護婦関係は非常に効果的なものになりうる。スタインは「医師と看護婦の間のゲーム」と、看護婦がそれとなく医師 に勧告することを可能にするような不文律について記述している。その勧告は公然となされることはめったにないような種類のものである。スタインによれば、 そのテクニックは看護婦が自分の提案をあたかも医師の発案であるかのように見せることである。彼はそのような過程の実例として次の小文を挙げている。ある 看護婦が午前一時に病院当直のレジデントを呼んで、ブラウン夫人について報告した。夫人は父親の死をつい先ほど知ったばかりで、眠れなかったのである。看 護婦は事実を示し、さらに夫人は悲嘆にくれているから鎮静剤を与えた方がいいとほのめかした。医師はその合図を認知し、以前ブラウン夫人には何が効いたか を尋ねた。看護婦は一昨夜ペンタバルビタール100mgが非常に効き目があったと答えた。この「偽装された」勧告は医師がずっと待っていたことであった。 「睡眠のために必要だから、就寝時間の前にペンタバルビタール100mg。わかったか」。医師は声に権威の調子を込めて要求した(L.Stein 1971:187)。
 スタインは言う。「うまくいったゲームは医師と看護婦の間の同盟を生み出す。この同盟によって、医師は看護サービスの尊敬と賞賛を獲得する。医師は看護 スタッフが自分の仕事の遂行を円滑にしてくれることを確信することができる。医師が到着したときには彼のやるべき事は組織化されて彼を待っていることだろ う。患者とその親類のいらだちもすでになだめられ、彼のお気に入りの日課は、喜んで守られることだろう。彼は他の無数の仕方で援助されることだろう」(同 書、188)。看護婦の方でも「すばらしくいい看護婦」という評判を獲得し、それに従って地位と威信も上昇する。しかし、医師―看護婦間のゲームの以上の ような可能性にもかかわらず、その競争は互角ではない。その規則は専門職へと動機づけられた看護婦が自分の願うような、自分自身と自分の学問の威信を獲得 することを許さない。

3.専門職化への推進力

 医学とともに、看護は「専門職」についての広範なテーマに関心を持つ行動科学者の注目を集めている。専門職についての研究者は、少なくとも最近まで、看 護の専門職地位への要求を変則的なものと見なしていた。前世紀には看護婦は自分自身を専門家と考えたが、現在でも素人一般からもそのように考えられてい る。けれども、ふつうの専門職と考えられている他の職業集団と比べると、看護婦は教育、独自の専門的知識、自律性、経歴への専念という点で大きな相違を示 している。例えば、学士号はふつう専門的地位の最低条件と考えられているが、ほとんどの登録看護婦がそれを持たない。また、専門職の特性と考えられてい る、行為の自律性を持たない。というのは、ほとんどの看護婦が医師の監督のもとに働いていたり、病院で、これらの施設の規則に従って働いているからであ る。看護婦はまた、看護婦の特徴となるような、医学からの借り物ではない一揃いの専門知識を確認しようと努力している。さらに、看護婦の大多数が専門職の 特徴である、経歴への専念を欠いているように思われることが示唆されている。女性の看護学生についてのいくつかの踏査から、彼女らのほとんどが経歴のかな り早期に結婚を希望し、期待すること、そして人生の選択において結婚と母親となることが看護より優先されやすいことが明らかになっている(例えば、 Glaser 1966:25)。経歴についての両義的感情はまた、中途退学者の率からも読みとれる。というのは、看護学生の約3分の1が教育の完了しないうちにやめる からである(Corwin and Taves 1963:201)。最後に、経歴への両価的感情は、他の「産業」よりもかなり高い、病院看護婦補充率の平均と、パート・タイムでのみ働く看護婦の割合の 高さからも明らかであると言われている。
 しかしながら、このような解釈の基になった看護の特徴の多くが近年劇的に変化していることを強調することが重要である。データの多くについて全く異なっ た積極的な解釈をすることも可能である。例えば、次のように主張することもできよう。複雑な社会には、人生についての多数の選択肢がある。また、女性が妻 と母としての伝統的な経歴と専門職のいずれかを選択しようとするとき、あるいはその両方を兼ねようとするとき、性役割の問題が生じてくる。このような社会 では、看護は著しく適応力のある職業であり、女性がいくつかの世界の中の最上のものを手に入れることを可能にするうまい妥協案となる。腕のいい看護婦は常 に要求されている。そして、診療室と病院での基本的な看護技能は十分に標準化されているので(しかし、集中治療室[ICU]で必要とされる技能はそうでは ない)、新しい仕事を始めるときに必要とされる学習の時間はごくわずかである。時間の点では融通性がきくので、妻であり母でもある看護婦には、家庭外でフ ル・タイムあるいはパート・タイムの仕事を求めるときにより多くの選択の自由がある。手短に言えば、看護は仕事の役割と家庭での役割の両方を果たしたいと 思っている多くの女性にみごとなまでに適した職業のように思われる。
 看護学生の従来の中途退学率もまた、経歴への専念の正確な反映ではない。というのは、一般に卒業した医学生に対する退学者率との比較が行われているから である。実際、そのデータは看護への強い専念を意味していると解釈することも可能である。クノッフは最近次のように書いている。「卒業以前の退学は看護学 校に特有の現象ではない。実際、その他の高校以上の教育と比較すると、看護は学生を引き留めておく点でプラスの方向にあるかもしれない」(Knopf 1975:15)。我々が挙げた数字が示しているように、今日ますます多くの看護婦が学士号を取得しつつある。さらに、修士号や博士号を取得するものの数 も増加しつつある。
 また、看護における補充率も、以前に看護の専門性の解釈に用いられた率よりかなり低くなっているように思われる。1972年に、登録看護婦の69パーセ ントが雇用され、65パーセントがフル・タイムとして雇用されていた。雇用された看護婦のうち、72パーセントが結婚していた。当然ながら、結婚していな い看護婦(84パーセント)の方が結婚している看護婦(66パーセント)よりも就労している者が多かった(A.N.S. 1976:2)。
 ある程度まで、看護という専門職は医師、法律家、聖職者などの他の専門職の分析に用いられたのと同じ変数を用いて分析することができる。けれども、看護 についての以前の分析において、気づかれてはいたがあまり触れられることがなかった一つの変数―性―がある。この変数は他のいかなる要因よりも看護婦、特 にその分野のリーダーがしばしば感じている欲求不満や怒りや当惑を説明する。看護はフローレンス・ナイチンゲールの時代以来ずっと性差別のある職業であっ たし、現在もまたそうである。それは、男性支配の社会において女性を従属的な地位に格下げする性役割のステレオ・タイプに基づいた職業である。アッシュレ イは、鋭く洞察力のある分析において、アメリカの前代の医師の抱いた恐れについて記述している。その恐れとは、看護婦の教育程度があまりに高くなって、医 療に対する自分たちの統制力を脅かしはしないかということであった。彼女は「看護に対する、性差別主義的で父権性的態度」の由来を調べている。その態度に よれば優れた看護婦とは生まれながらのものであって、作られるものではない。また看護婦は医師の援助者となるために存在する。さらに、教育の足りないこと ではなく教育の多すぎることが看護婦の仕事に対する最大の脅威になるという信条を表している。そのような態度は、過去3世代の間の、傑出した医学の権威者 の公式な表明を通して明らかにできる(Ashley 1976:Chap.5)。特に屈辱的なことは、医師という専門職が医師教育だけでなく看護教育も統制すべきであるという以前の仮定であった。現在、ます ます多くの看護界のリーダーと著述家とが、専門職化への動因とその専門職の地位を向上させようという努力を女性の権利拡張運動と分かち難く結びついている ものと見なしている(例えば、Cleland1971,Lamd1973,McBride 1976)。

看護の役割の拡大

 女性の権利拡張運動を含む非常に多くの環境が自律性と専門的責務の増大によって特徴づけられる看護の新しい役割と拡張された役割の発達を促進している。 これらの変化は病院の内部において、そして、地域における、いわば「拡大された役割」において明らかである。両方の場面において、患者ケアということが再 び強調されている。病院の内部における新しい役割の最上の実例は「臨床専門家(clinical specialist)である。バロウ夫妻はそれを「重体の患者に病床でのケアを与える、十分に訓練された(しばしば修士号を持つ)看護婦」 (Bullough and Bullough 1971:1)と述べている。臨床専門家は、集中治療室において病床でのケアを提供する。その部門では、新生児患者、肺疾患患者、冠状動脈疾患患者などが 常時の監視を必要としている。そこでは、患者の生死を分けるような行動方針について瞬時の決断を行う能力があり、またそうする権限を与えられている医療関 係者が付き添うことが不可欠である。この部門で要求される技能は資格を獲得するまでに6課月から1年の準備を必要としている。この特別の教育とこれらの看 護婦の発揮する自律性のために、臨床専門的家は高い専門的地位とそれに見合った金銭的報酬を得ている(Bullough 1975b:56)。
 集中治療室における―そして、特に冠状動脈疾患患者ケアにおける―医師―看護婦関係に固有の変化の大きさがバーヴィンドによって明らかにされている。 「看護婦が冠状動脈疾患患者ケア部門で不可欠の要員であることが認められると、医師はその部門の技術的な細部に関する事柄の点で看護婦に従い、さらに専門 的な技能と知識の点でも看護婦に従うことがますます多くなった。そして医師は最も患者のためになるように看護婦と協力するようになった。この医学と看護の 新しい協力と相互依存は、医師のいないところで活動するという権限を看護婦に委任することの増加へとつながっている。このため、どこで医師の職務が終わ り、看護婦の職務が始まるのかを決めることが困難になっている」(Berwind 1975:86)。
 患者ケアの改善のためのその他のシステムも考案されている。「プライマリ的看護」(primary nursing)として知られているシステムでは、看護婦が患者に対する、ふつう入院から退院に至るまでの責任を引き受ける。看護婦は勤務中は患者の世話 をし、病院にいないときは、他の者が従うべきケアのプランを残しておく。このアプローチは、例えば小児科の場合のように、集中治療室と結合させることがで きる(バーバラ・ケーニッグからの私信)。
 最近の発展の一つとして、医師の養成の参加者として通用するような特別の技能を持った看護婦が出現している。これは小児心臓科助手(アソシエート)にお ける医療上の新しい役割の考え方である。それは、テキサス・コーパス・クリスティのドゥリスコル財団児童病院で始められたもので、看護資格のほかにふつう 18ヶ月の訓練を必要とする。小児心臓科助手(アソシエート)は、多忙な心臓科助手(アソシエート)を、患者の検査とケアにおける機械的だけれども非常に 込み入った側面の多くから解放する点で重要な機能をはたしている。現在、その病院の小児心臓科のインターンとレジデントは心臓部門の実際のメンバーとして 基本的な心臓疾患ケアについて学んでいる。小児心臓学科助手(アソシエート)はその部門の尊重された重要なメンバーである。
 病院の外部では、看護婦の役割の拡張は、一つには一般医の数が患者の必要に答えるのに不十分なことによるものと考えられる(専門医の数は一般医の数の3 倍以上である)。また一つには、寿命の延長、慢性の病いの増加、精神衛生ケアの重要性の認識の増大などの結果である新しい保健ケアへの需要に対する反応と 考えることができる。今日、「看護診療員」(nurse practitioners)として働く看護婦の数が増えつつある。その役割は少なくとも一人の著者によって看護における 「過去30年間で最も重要な出来事」(Mauksch 1975:1835)と見なされている。看護診療員は小児科、その他の家族ケア、精神医学的ケアなどの、地域に基礎を置く多様なサーヴィスを提供してい る。看護診療員は自営のものもあり、学際的なグループの一員として働いているものもあり、施設の雇用者であるものもいる。以上の全てのケースの公分母は、 彼女らが、臨床家的看護婦(nurse clinicians)は別として、病院におけるほとんどの仕事に伴う責務をしのぐ、大きな責務を引き受けているということである。
 看護診療員は時々同じく新しい役割である「医師補助者」(physicians assistant)と間違われることがある。後者の動向に対する看護婦の見方は両義的である。バロウが指摘するように、「非常に目立つ医師補助者の動向 は実地診療看護婦の発展にとって重要である。それは、かなりの数の医療上の業務の委任が可能なことを実証した」(Bullough 1975b:57)。医師補助者として働く看護婦はふつう基本的看護教育に加えて、さらに少なくとも2年間の教育を受けており、それに見合った多くの専門 的業務を果たしている。しかし、それはいまだに伝統的な医師と看護婦の間の支配―服従関係を保持している役割である。そのような関係を好ましくないと考え る看護婦の数も増えつつある。このため、少数ながらますます多くの看護婦が、独立に医療を行う資格を与えられる地域に基礎を置く保健サーヴィスに目を向け つつある。このような看護婦は自分自身の活動に対して法的に報告する責任があり、個人営業に従事する権限が与えられている。(2)
 要約すると、看護という専門職はその歴史上類を見ないような速度で変化を遂げつつあるということである。長らく看護婦の仕事は病院に集中されていたため に、この傾向は阻止されていた。将来、病院の外部で提供される看護サーヴィスは多くなるだろう。病院にとどまる看護婦は、威信と地位が管理的役割にのみ依 存しないようにするためには、患者ケアの専門的技能をますます必要とするようになるだろう。さらに、巡回という場面での健康維持というサーヴィスに吸収さ れる看護婦の数が多くなるだろう。
 これらの傾向の全てが看護界のリーダーの努力に好意を示す。それらのリーダーは、看護が十分発達した専門職として完全に承認されるようにするために多年 にわたり巧みな活動を行っている。例えば、病院が与える資格認定課程が徐々に減り、それに変わって准学士課程と学士課程が増えたのは偶然の出来事ではな い。それは看護に完全な専門職的地位を与えるための広範な基盤を持つ意識的戦略の一部分である。特に、アメリカ看護教会の教育委員会が看護教育を徒弟制度 的でなく、専門学校によるようなタイプの教育にすることを推進している。
 専門職化への推進力のもう一つの側面も早くから明らかにされていた。グレイザーは「業務に志向した社会におけるあらゆる職業がそれについて一般の人々の 抱くイメージと自らが抱くイメージを高めようと努力するが、そのための共通の方法は、以前にはより尊重されていた職業から威信ある仕事を奪うことであると いう社会学的公準」(Glaser 1966:27)に言及している。威信の追及にそれほどの関心のないほとんどの看護婦は、威信を医師と医師の活動の枠内での看護婦の技術的役割から得られ ると期待する。しかし、看護界のリーダーは、医師の食卓から看護に分けてもらえるかもしれないパンくずでは、他とははっきり異なった専門職という地位を獲 得するためには不十分であることを認識している。その代わりに、彼女らは他の高い地位分野に目を向けてきた。それは、最近まで医療においては周辺的であっ た分野、すなわち行動科学である。
 数年前にベネとベニスは「看護婦は、自分の専門職を大学と学究生活に根付かせようとするときに、医療専門職一般よりもさらにいっそう社会科学や行動科学 と同盟を結びやすい」(Benne and Bennis 1959:381)と書いている。この同盟は、医療人類学と医療社会学の場合に特に明らかである。例えば、1976年にバークレー分校からカリフォルニア 大学の新設の医療人類学博士課程への入学志願者のうち、4分の1は登録看護婦であった。さらに、6人の合格者のうち3人が看護婦だったのである。これと対 照的に、医師で入学を希望した(そして合格した)のは一人だけだった。看護は、専門職という地位への権利主張が伝統的にその職業にとって中心的と考えられ ていなかったような理論とデータの修得と創造に大部分基づいている、唯一の職業である。
 我々が指摘したように、人類学者は、この章で議論された問題に対して、この本の他の部分で議論された問題に比して、相対的に少ない注意しか払ってこな かった。けれども、人類学者がそれに関連するような種類の調査に抜きんでて適していること、そして将来人類学者がその制度の分析において今より積極的な役 割を果たすことは明らかである。実際、第10章で指摘したように、印象的なことは、社会学者が医療制度(すなわち、部分間の相互関係が数個の変数間の関係 以上に重要だということはないにしても、それらの相互関係が等しく重要であるような全体の「システム」)を研究したとき、彼らが主に人類学的調査技法を用 いたことである。多くの者が率直に自分たちの「民族学的」志向について語っている。

原註
(1)もちろん、看護婦の人類学者の調査は看護婦に関するものだけに限られてはいない。それは、少数民族集団への保険ケアの提供、医療についての俗信や民 俗的な医療実践などの健康に関する幅広い問題を扱っている。
(2)現代の看護の役割の幅の広さに関する、より以上の情報については、David et al. 1975を見よ。



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