はじめにかならずよんでください

Bioethics;

Notes on George M. Foster and Barbara G. Anderson' Medical Anthropolpgy, 1978

解説:池田光穂

医療人類学

第16章 生命倫理:誕生、老年、死

はじめに

 先の3章では、保健従事者と関わりを持つ人類学者の役割、及び人類学者の知識と技量を健康のレベル向上に役立てる方法について述べた。この最終章におい ては、人類学者の別な役割について目を向けることにする。つまり、社会において長年の間、当然のこととされてきた医学的想定の妥当性について問題を投ずる 建設的な批評家としての役割である。これらの問題は、延命や生命維持など、科学の成果は個人の自律性の代価を支払うことなしではあり得ないという、極めて 人間的な価値と医学的な到達目標との間の分離が進みつつあるということについて、専門家であろうと否とを問わず、広く抱かれた確信に由来している。多くの 人々(神学者、法律家、哲学者その他倫理に関心のある一般市民)は、これまで医師と病院の神聖な特権と見られていた決断により素人が参画すべきだという要 求がある。つまり、誰が、どこで、いかに、誰によって、どれくらい長く治療されるかは患者も決定に参加すべきだという。

 行動科学者と社会科学者は、健康行動に関して新し い問題を探求しつつある。我々は、痛みに苦しむ女性にとって、家族から離れてしまった父親にとって、ま た、慢性疾患を患うことになってしまった子供にとって、「これが何を意味するのか」知りたい。我々は、我々の社会が、また、医療システムが人間の普遍的危 機について、どのような役目を果たし得るのかといった主体的な問いを発したい。人類学者がそのような疑問を検討する方法が彼らの回答の基盤となるものを探 求するために、今ますます重視されている特定のそして増大する批判の3つの領域に目を向けてみよう。それは国民として、誕生と老化と死の3つに関する「問 題」である。現代の医療実践には多くの批判があるが、非西洋的な病気を受容する方法の中に、内在する「叡知」はないであろうか。我々は、西洋と非西洋の医 療の相対的有効性の問題をしつこく問うているのではない。我々は、態度や価値や目標を問うているのであり、こうした領域において現代人が、より伝統的なも のから学び得るかどうかを問うているのである。

 この3つのトピックスは、これから述べるのには適 切である。つまり、現代の研究の多くは、西洋、非西洋社会を問わずに行われている。したがって、それら は比較的な手法には特に非常に有用である。それらは、右の3つだけでなく、例えば、アルコール中毒、薬物乱用、精神異常、精神病などに関する研究にも同様 である。しかし、誕生、老化、死は、それらが万人共通のものであること、つまり我々の全てが経験した、あるいはするであろうという点で、特に訴えかける面 を持っている。その他の問題は、人類学者が幅広く研究してはきたが、全ての人にとっての生命については、必ずしも直接的に触れるものではない。

生命の重大事の制度化

 我々が、非西洋的社会の出産や老人の世話、または死んでいく人々に関わる活動を見て、またそれらを現在の米国のそれと比較するとき、大変大きな違いに気 づく。米国では、これら生命の重大事は全面的に—正しく言えば—制度化されているが、非工業化社会ではこれらは家族的な経験の親密な部分である。そこで、 根本的な疑問が生じる。つまり、社会的人間的問題に対する制度化されたアプローチと家族志向型アプローチのどちらにメリットがあるのかということである。 社会の複雑化の特徴は、歴史的に拡大していく人間的な活動の制度化である。これは避けられないものであろうか。避けられぬとしたら望ましいものだろうか。 我々は人間の価値の中で、ケアの能率や質を獲得したと思っているが、実は多くのものを失いつつあるのではなかろうか。そこで、西洋と非西洋の出産における 対照を見ることから始めよう。

 伝統的社会では、出産は友人や隣人よりも助産婦の 援助が得られる家の中か、近くで行われるのが普通である。老いていくこともまた、次のようなことを意味 する。つまり、集団の現在進行中の生活スタイルに、個人を統合することであって、役割の責任というものを移動したり、当該問題にしている人々の精神的身体 的能力に合わせた義務というものをどんどん減らしていく統合である。たいていの場合、老人がなし得る有用な仕事がいくつかある。それは価値についての感覚 を維持するのに役立ち、稀な場合を除いて厳しい生態学的条件に常に左右されはするが、老人は死ぬ間際までケアを期待する。死ぬ瞬間がやってくると、死は誰 からも幼い子供達さえにも隠されずに家の中その近くで迎えられるのである。

 20世紀に入ってからも、このパターンは米国にお いてもごく普通のあり方であった。やがて精巧な生命維持延命装置といった医療技術の急速な進歩ととも に、家はもはや誕生や死を迎えるのにますますふさわしくない場となってきたように見える。また、住む街を変え、仕事のもらえる場所を探し求めるために、人 々の稼動性や都市への移住がますます増加するにつれ、家庭の安定や家庭への定着も弱まり始めた。家庭内での老人の世話は、嫌な仕事になり、時に忌避されも する。結局のところ、誕生、老化、死に関しては、ますます家庭の基盤から遠ざけられ、制度化の枠組みにはめ込まれてきている。これは、一般的な転換の形で あり、それらを相互につなぎ合わせていた伝統的様式が失われてきた過程である。そして、それは我々があまりにも遠くへ行き過ぎたのではないかとますます問 いかけている制度化現象なのである。

 特に伝統的社会と現代的社会とでは、誕生や死の儀 式や老化についての子供達の知識において、際だった対照性がある。人間にまつわる出来事の全般的な経験 から子供達を排除するような機会と誘因の少ない共同体では、人生の内奥に対して、懸念や動揺がつきまとうことは少ない。健康で暮らしている時や、痛みに苦 しむ時の両親や老人の姿は、自分自身の振るまい方について、適切な手がかりを与え、誕生や死についての理解に役立つモデルとなる。生命の不思議さや神秘、 人間の身分にまつわる代償や報酬、それに人間が生命や健康をコントロールするのには限界のあることを知ることなどは、隠すべきことでなく、皆が知っている ことなのである。これまで見てきたように非西洋社会にも精神疾患はある。しかしこうした社会では、人生の重大事を隠し立てない開放的なやり方がなされてお り、それがほとんどの人々の心理的安定のために役に立たないとは信じがたい。

 これと対照的に我々の社会の子供達は、伝統的社会 における、共同体としての、あるいは日常的相互作用からさえも隔離されてきている。誕生や死が閉ざされ た、衛生的な、異種の空間で生ずるところでは、我々はそれらを人間生活の必然的側面であり、予期でき、避け難いものであるとして、受け入れることを学ぶ機 会を全て否定される。妊娠や老化が、入院を正当化する病理的な状態と見なされるようになると、このような生命の根本的な性質に対する不安や否定感情が容易 に起こる。

 我々は、家族や家庭が常にどこでもいたわり合い、 温かく、感情のこもった人々の集団であると仮定してはならない。そうでないこともしばしばある。しか し、そのようにはなり得るし、また、伝統的な場面ではしばしばそうである。我々は、病院や診療所、病後療養所が扶助的なものでないと考えてはならない。時 に扶助的なものもあるが、一般的に言って、官僚的な構造の性格がそれに作用する。誕生、老化、死に対する人間の行動は、制度や資源よりも個人的な資質がは るかに重要である。医療の分野では、他の領域も同じであろうが、効率性を崇拝するがゆえに、非人格的な要求が、個人的信頼関係や心理的欲求よりも優先する 傾向がある。

 人類学者や意識の高い市民たちが次のような質問を するのは、こうした背景に抗してである。つまり、現代の出産のやり方は、我々にとって新しい生命の創造 の部分である、基本的な価値や体験を見失わせているのではないか。老人を施設に閉じこめること、また、彼らはもはや人生の建設的役割を持たないと主張する ことは、彼らを—そして宗教的には自分達自身を—人間的体験の重要な部分から引き離すことになっていないだろうか。また、人間の生命は神聖であり、それを 救助・延長するためには、いささかも努力を惜しんではならないと主張することによって、我々自身が自らの知能や技術的能力の犠牲になっているのではない か。我々は生命の—および、死の—尊厳と生命操作の技術的目標を混同してはいないだろうか?このような疑問は検討しても良いことである。誰もが一つの答え に一致することはないにしても、検討することで、何が起こりつつあるかについてより深い理解を与えてくれるし、我々自身の見解を作り、こうした問題に対す る決断を固めるのに役立つことが出来る。

誕生

 生命の神秘は畏怖と関心とを引き起こす。それは人間にとってその生命力を通じて死の運命を償う、吉兆の時期である。誕生は核家族を満たし、より大きな家 庭を形成する重要な「支え」となり、人間の連続性を保証する。伝統的な社会では、子供は昔からのやり方を継承し、自分達の土地を維持し、自活できなくなっ た両親の面倒を見ることを約束するものである。しかし、よく言われるように、誕生はごく平凡な恐ろしいことなどない出来事と見られているのではない。もち ろん、誕生が全く興奮を起こさない社会もある。チャンスは、エスキモー女性の次のような例の報告している。「ホープ岬までボートで行くうち、彼女は『トイ レに行きたい』と上陸した。ボートが彼女を置いて出発した後、彼女は子供を産み、へその緒を切り、砂を掘って後産にかけた。生まれた子供はパーカーで包ん で、彼女は岸辺を走りボートで追いかけてきた」という(Chance 1966:42)。しかし、こうした話は例外であり一般的ではない。ダウンズは、アメリカ・インディアンのライフ・サイクルを分析し、ジャングルの中に消 えて、しばらくすると子供と共に戻ってきて何事もなかったのように自分の仕事を続けるという未開の母親像のステレオタイプを疑問視している。「これは世界 のある地域では本当かもしれないが、ワショ族やその近隣の部族では見られない。子供の誕生は非常に重要な事柄として儀式で包まれる」と彼は記している (Downs 1966:42)。ミードとニュートンは、およそ200ほどの伝統的村落の社会における出産を分析し、介助なしの出産は、なくはないが「それは米国人がタ クシーの中で子供を産んで噂話になるほどのごく稀なことである」という(Mead and Newton 1967:169)。

 多くの非西洋社会では、子供が誕生したとき、女性 の陣痛や誕生などが引き寄せた精霊との長い闘いが始まる。胎児はまだ十分な人間になっていないので、た やすく超自然的世界におびき寄せられる。つまりそこからまだ解放されていないと見なされているのである。出産は痛みや苦しみの時で、出血や体液の減少な ど、常に死に脅かされるが、これらは病の特徴である。多くの社会において妊娠や出産は病と語義的に結びついているが、このことは別に驚くまでもない。チン ツンツァンでは、妊娠中の女をエスタ・エンフェルマ(esta anferma)というが、これは「病気である」ということである。そして子供が生まれるとき、つまり、セ・アリビア(se alivia)で、母親は「回復する」のである。この表現は2つとも、他のタイプの病からの回復の場合の使い方と同じである。同様に、南アメリカのアラウ カ・インディアンは、出産の場合には部外者を厳しく排除する一方、「子供達は皆その場に居合わせるべきである。なぜならお母さんは今病気なのだから」と考 えている(Hilger 1957:14)。無菌法が知られておらず、懐胎を含めて人体機能のシステムの知識がわずかしかない社会では、妊娠や出産は不安に満ちたものであろう。非 西洋社会における母親と幼児の高死亡率は、そうした恐怖の論理を裏書きすると共に実際的な危険性に対する魔術的な配慮が無効であることを証明する。

 出産の実践についてアメリカで多くの批判がある中 で、我々が、部族社会や農民社会の出産を理想的なモデル、つまり、標準的な出産の手順として再構築する のを緊急に求めているのではないことは明らかである。つまり、我々が犯して捨てた楽で安全なアプローチとして支持しているわけではない。我々の見るとこ ろ、問題はむしろ出産の営みを非人間化することなしに必要な部分は進歩した産婦人科技術を利用して出産のより満足なパターンをいかに確立するかなのであ る。

 大多数のアメリカ人にとって、医療は死について も、出産においても、生命の最終裁定者である。「正常な」出産に対する処方は、そのパターンにおいても、 入院手続きの署名から、(陣痛が何分おきに起こるかや「破水」したとき)参加チームの気を合わせた動きまでほとんど違わない。アメリカにおける病院指導方 の出産についての抵抗の多くは、人間としての基本的な要求が医療システムによって、非人間的で機械的な処理をされていることに由来する。ライフ・サイクル は、医学的な現象ではなく基本的に社会的なものであり、また医学が支配性を示威してきた場所では、我々は心理的な、時には肉体的な健康において高い代償を 支払ってきたと、多くの人々は考えるようになってきている。

 問題の一部は、医療が近代化され、都市化されると 共に、家族のケアの機能のみでなく(Parsons and Fox 1952)、家族の権威や「両親」の機能まで次第に引き継がされてきたことにある。とりわけ病院は、社会から昔なじみの家族の危機の取り扱いを切り放して きた。伝統的世界ではモラルや宗教の分野であり、また社会的領域のものとされてきた生と死に関する決定が西洋文化の中では、医療の領域にはめ込まれてきた のである。メカニックは次のように述べている。「実際我々は、医療ケアを求めることが全く合理的でかつ自然なこととしてきたため・・・・・我々が医療の分 野だと見ているものの中に民俗的、宗教的概念が残っているのに、正直なところ驚かされる」(Mechanic 1975:50)。

 誕生、老化、死といった最も予測しうる人間の状態 に関して、人間の状況に特別の意味を与え、喜びや絶望の根拠とさせ、それらの順序正しい進行を助長した り、阻止しようとすることなどに、科学的な解釈と文化的解釈とでは確かに大きな隔たりがあるといえる。つまり、しばしば存在するそれらの認識と願望との隔 たりや個人とその家族との隔たりを認識していないために医療従事者は古くからの危機を解決するのに、新しい危機を無意識に生み出しているのである。
 病院での出産という普通の形態に満足できないアメリカ人にとって、それに代わり得る形態を探し求めたいとするのは次の3つの信念に基づいている。それを 順次に検討しよう。

(1)西洋医療は正常な分娩過程を複雑化し、かつ機械化した。

 今日。生きている人々の圧倒的大多数が家庭で産まれていたのに、米国においては90パーセントもの分娩が病院で行われているのはどうしてだろう。なぜ、 母親達は通常家庭では分娩しないのだろうか?

 本質的には医師にとっては不便なことになるためだ と批判者達が言っている。医師が参加の患者に病院に行くように説得できれば、彼はそれ以外の仕事には支 障なく、患者をその場所で診られるわけである。

「病院では産科医は赤ん坊が産まれるときでもそこに いる必要はない。彼が何とかしてその場に居合わすことが出来るなら、それで十分結構だが、もし赤ん坊が 産まれるときでも、たまたまよそへ言っており、居合わせないにしても、インターンや看護婦がうまく処置を行ってくれるであろう」(Hazell 1969:139-140)。しかし、こうした行為は医療上の強いタブー、つまり医師以外の者が出産を扱う能力はないと言うことに背くことになり、した がって滅多に暴露されることはなく、また病院での全ての出産が医師の立ち会いの元に行われるというのが公的な前提(合衆国統計索引、合衆国国勢調査局)で ある(Mead and Newton 1967:195)。出産証明書は医師がサインするため、そうした虚構は容易に支持される(同書)。

 では、病院での分娩が母親と赤ん坊のためにより安 全ではないというのか、実際には多忙である医者の時間について考慮されるべきではないのか、と現システ ムの擁護者は尋ねる。迷路のような病院の冷たさ、病人や死に行く人々向けに作られている痛み指向性の設備機器、ライトや医療器具がズラッと設備され、不安 をかき立てる分娩室、夫や家族は(たとえ許された時でも)ほんの短時間しか付き添えない、さらに、強者の特権的な世界に突然紛れ込んだような心許ない気持 ち—こうしたものが母親の心理的な不快感に関係しているばかりか、神によって定められた手順で進められるべき事柄に対して、実際には、害になるものとして これらが作用していると多くの人々に思われているのである。

 医療活動家アームズは、結果的に難産になった分娩 の初期には(しばしば母親の希望に反して)時期尚早で過度の薬物使用がよく行われること、またこれが効 果的陣痛を妨げたり、不必要に鉗子分娩を助長したりして、母親と子供を危険に落ち入れると主張している(Arms 1975:54-58)。

 全ての批判が医療に従事しない人間からのものとい うわけではない。産科医であるウイリアム・J・スウィーニィは、「アメリカで行われている病院分娩とい う立場がベストだと確信しているのではない」と言っている。もし母親が自分のベッドで子供を産むなら、規定されている分娩体位—あぶみに足をのせるような —で分娩するより、全てがリラックスして行われ、より裂傷も少ないようだ、と彼は指摘している。「未開の人々のほとんどは、重力の作用を利用してしゃがむ 格好や分娩用椅子で分娩する。また、彼らは好きな向きで横たわっている。例えば陣痛のきている一人の婦人は、もし陣痛が弱くなったからと言って、一人にさ れたらすきなように向きを変えるのである」。イギリスでは患者はそのようにして分娩している。「だが」と彼は結論する。「アメリカの病院のやり方には、そ れは適さない。患者の足が上げられていると、彼女に対して処理しやすいのはもちろんである」(Sweeney 1973:304-305)。要するに、現システムの理論的根拠は、母親と子供の安全のためにあり、それを維持する決定要因は医者の都合にあるということ らしい。メキシコ北部で広く行われるようになった変化の一つとして、「仰臥位やそういう横たわった体位が増えてきたことは、医師の強要のためなのです」と コミンスキーは述べている(Cosminsky 1974:12 傍点筆者)。助産婦達はインディアンのひざまずいた分娩姿勢が今後とられることはないと教えられているのである(同書)。

(2)出産は病院から家庭へ戻されるべきである。

 母親と新生児に対するケアがより科学的に進んだレベルのものになればなるほど、死亡率や出生時損傷、奇形をより効果的に予防することが出来るという医療 上の強い確信があるが、ある著名な医療社会学者は文献を再調査する中で「こうした例に当たる、いかなる証拠も」発見していないという(Mechanic 1975:56)。アメリカでは他のどの国よりも高い比率で出産が病院で行われているが、一般に信じられていることとは反対に、この国が出産するのに最も 安全な国であるとは決して言えない。現に我々はスウェーデン、フランス、オランダ、日本、ニュージーランド、オーストラリアなどの国々に続いてこの方面で は、15番目の位置にいるのである。

 状況によっては、家庭分娩が病院分娩より安全であ るとわかってきた。大部分がイギリス生まれの看護婦—助産婦から編成されていた「アパラチア開拓看護 サーヴィス」は、時には馬の背に揺られて険しい丘をめぐり、人里離れた家々で、長年の間、極悪の条件で出産を扱った。ケンタッキーでは、12年間に一人の 母親も死なさなかった。「残念なことに交通手段が発達し、ケンタッキー山脈を越えることが出来るようになり、そして患者の入院化を進める政策が始まって、 彼女達への支払いを止めてしまったため、開拓者看護サーヴィスによる家庭分娩は中止されてしまった」とモンタグは書いている。「こうして今では、妊婦は厳 しい山々の道のりを超えて、何マイルもがたぴしと車を運転して病院に行かねばならず、さもなくば彼らは子供を持てないのである」(Montagu 1962:113-115)。都市のスラム街という条件下にあって、シカゴ母性センターは30ヶ月の間に8000件を越える出産を扱ったが、一人も母親を 死亡させなかった。これもモンタグが指摘していることだが、この数字は合衆国の平均である出産1000件につき一件の母体死亡ということに比較しても見事 なものである(同書)。

 しかしながら、家庭分娩の提唱者は、数字の問題よ りも病院ではなく家庭で子供を産むことでもたらされるより豊かな内容に基づいて、家庭分娩を勧めてい る。ヘイゼルは「子供の誕生は家庭内で重大時であり、誰もがその結果に影響されると私は確信する」と書いている(1969)。こうした態度は、ウィリーが フランスのピレネーの村人達に印象づけられた物事を強く思い出させる。村人は、そこには「新しく美しい妊婦のための病院がある」のを知ってはいるが、その 病院のケアは「家族のものが自分にしてくれるような親身な世話を《他人》には出来ないために、どうしても家庭内ケアより劣る。・・・・・子供の誕生は家庭 内での最も重要な出来事である。母親も赤ん坊も共に、家族が与えることが出来る最大のケアを受けるに値する」と強く感じたのである(Wylie 1957:37)。

 家庭で出産の準備や手はずを整えることで、産科医 中心ではなく母親を中心とした出産が行われるという感覚を強く持つことが出来るということもまたある。 出産における医師の優越を反映するのはその医学的な口調である。「私がジョーンズ婦人を分娩させた」と能動態を使って産科医は話す、とミードとニュートン は指摘する。お返しに、ジョーンズ婦人も「スミス医師が分娩させてくれた」と受動態を使ってそれを認める(Mead and Newton 1967:174)。分娩が無事うまくいって、感謝されるのは普通、医師であって母親の方ではない。

 家庭での出産はまた、夫にお産の時の治療的役割す ら与え、時には彼はさらに、積極的に分娩に参加する。それで陣痛は軽減され得ると多くの人は考えてお り、伝統的社会で広く行われているように、分娩の直前まで、またしばしば陣痛の合間でも通常の身体的活動を行っている、慣れ親しんだ家庭的状況の下では、 分娩はより楽に行われるのである。

(3)医師ではなく助産婦の方が分娩の援助者としては理にかなっている。

 スザンヌ・アームズはアメリカにおいて、助産術の法令化をおそらく最もやかましく提唱している人物である。彼女は「出産文化」の分野で研究を行った多く の医療人類学者から強い支援を受けており、過度に規制された病院の持つ悪影響を強調している(Mead and Newton 1967, Scheper-Hughes 1974, Hazell 1969, Newman 1965)。文明は出産を複雑化する状況や態度をもたらし、そして医師がこれらの問題を扱い、そしてまた「最初関係した医師が原因で起こった問題を」より 多くの医師と「病院化」が取り扱うことになるとアームズは主張している。人工の手が加わらない出産は「ちっとも厄介なものでなく、それ自身安全なものであ る」というアームズの仮説は、我々が見てきたように強い疑問を引き起こすが、多くの人々が信じたがっている一つの論拠であり、それ故強い影響力を持つ。 「今日、分娩が危険で痛く、恐ろしいものと我々が信じているとすれば、それはある一民族として出産をそのようなものにしてきたからというだけのことであ る。もし我々が、分娩の際に役立つ唯一の権威として、医者や病院を頼るとすれば、それは我々が自分の身体は自分がよく知っている、ということから目をそら してきたせいである」(Arms 1975:23)。

 理想的には助産婦の仕事は、家庭の寝室で家族を出 産に向けて準備させるよう手伝うことである。帝王切開や難しい体位異常の場合など緊急の事態には、援助 してくれる良心的な産科医と協力して働く助産婦もいる。またあくまでも病院内で家庭的な出産のやり方をまねた形式を取り上げながら病院スタッフに協力する 形で彼女達が統合されていく場合もある。しかしながらヨーロッパの多くの国々とは違って、アメリカでは助産婦職はコミュニティの必要不可欠な医療的、社会 的構造の一部分となるには到っていない。

 助産婦が現在、営業免許を与えられているのは、コ ロンビア地区内と14州だけで、それも産科チームの一員としてのみである。法律的には許可されてはいる のだが、法律の実際的施行は保留されたままである州では、独立して働く助産婦は訴えられないような機会をとらえてやるしかない。家庭分娩が珍しくなくなっ てきたカリフォルニア州では、法律は証明書を所持しているならば、助産婦は活動してもよい、と曖昧に規定しているが、それは実際には、一度も州立医療審査 委員会から出されたことがないのである!法的な取り締まりがますます頻繁に起こるにつれ、「隠れて行われている」家庭分娩が明るみに出されてゆき、産科医 による制限は親や実践者達から一考を養成されてきている。

 自然分娩法とその分派であるラマーズ法は、この数 十年の間に普及した病院分娩を修正しようとする穏当な試みの中で最もよく知られ、またよく行われている 方法である。それらは産科学と分娩それ自身を、神秘的なものから脱皮させた活発な試みとして抬頭した。しかしながら、基本的にはそれらは病院という環境と 両立し得るものであって、それを否定するものではない。産科医のフレドリック・レボヤーは、分娩室でなされる因習的な多くの手続きを否定してきた。そして 彼は「暴力なき出産」、母子両方にとって出産という経験をやわらげ高揚することを提唱した(Leboyer 1975)。概念の上でよりラジカルなのが、出産を畏敬の念を起こさせる奥深い神聖な体験として「再神秘化」する事を探求する「対抗文化 (counterculture)」のメンバー達の考え方と実践である。人類学者のナンシー・シェパー・ヒューズは、サンフランシスコ湾岸地区におけるこ の出産の対抗文化について記述している。その支持者の中には、あからさまには病院分娩を拒否しないものもおり、彼らは出産についての条件が合えばそれを受 け入れることもある。例えば、マリン・カントリーというある小さな病院では、妊産婦病棟と分娩における治療行為を大幅に改善して、かなり多数に登る「風変 わり出産」への期待と儀式に対応できるようにした(シェバー・ヒューズ医師による私信)。今では、父親と母親が自分達の好きなように飾りたてた分娩室で出 産されることが許されている。静かな音楽、聖歌、色とりどりの照明などが許可されてていて、長時間にわたる陣痛の間、適度の飲食もしてよいとされている。 陣痛のきている女性がベッドにくくりつけられることはなく、医者や看護婦も出来るだけ彼女の意に添うことになっている。最終的に新生児は両親から引き離さ れることはなく、短い観察期間の後は、彼らが希望するときに家につれて帰ると決定することも出来るのである。これらの改革によって、実際に分娩が楽にな り、人と人のつながりが改善されたりしており、病院スタッフはそれを有意義だと受け取っている。

 出産対抗文化の他のメンバー達は、異常な状況下以 外では、出産は病院で行われるべきでないと考えている。そこでは、新生児がもろいが、しかし卓越した新 しい生命であることとは対照的に、非人格化した対応がなされているというのである。ところが、自然出産の熱心な支援者は、自然の過程を機械化すること、 「風変わり出産」の恐れ、彼らの言葉で言うと、精神的資源が「毒される」こと、それに「下手な医療者の手による身体の冒涜」について疑念と恐れを抱いてい る。ちょっと行きすぎのところはあっても、自然派と対抗文化派の2つのグループは、産科医によるケアと妊娠から分娩までの医学による身体の管理の容認を支 えている仮説を再検討するよう強いてきたのである。

 助産婦と家庭分娩の支持者達は、伝統的な病院での ケアに対するこういった選択を、心理的社会的そして医学的に有益なものと考えている。しかし反対者達 は、それらを気紛れで、ルソー的で、非現実的な、本質的に危険な試みであると見なしている。前者は助産術を医学的ケアの質を向上させるものと考え、後者は それを低下させるものと考える。患者や、そしてますます数が増えている医師と社会学者達は、自分達がこの2つの陣営の中間にいると考えている。つまり彼ら は医療の行き過ぎの是正を求めつつも、伝統的な防衛手段を放棄することについては慎重である。

 「重要なのは」、とアームズによって報告された テープ録音の中で、ウイリアム・シルバーマンは述べている。「我々は包括的なルールを必要としないこと だ。我々の多様化した社会では異なった価値体系があり、生と死における危険と利益の基準は全ての人にとって同一ではない。この多様性が受け入れられなけれ ばならない」(Arms 1975:114)。家庭分娩を行いたいと思い実行している人々に対しても、妊娠検診の機会とそのサーヴィスは提供されるべきである。「誕生と死、このど ちらについても、我々はまさに危険から身を守るために、自然の過程からどこまで遠ざかろうとしているか、という疑問に直面する。難しい決断をしなければな らないという苦しみに満ちた経験も、人生の一部なのである。我々が人生のある部分を経験することを避けて、何が受容でき、何が受容できない危険性であるか についての包括的なルールを立てようとするゆえに、今日、人生を十全に生きることが妨げられている」(同書)。

老年

 今多くのアメリカ人が経験している一生の段階は老年である。しかしながら人生のこの段階を価値あるものと考える男女は少なくない。多くの人は「青年期の 生活」との不愉快な比較の中で、晩年の生活をとらえようとしてきた。人類学者と他の社会科学者達は、なぜこうしたことになるのか疑問を発している。今日の アメリカではなぜ、早期がんの宣告を喜んで受け入れるのと同じくらいに、年を取りつつあるという考えを喜んで受け入れることができるのであろうか。多くの 非西洋の社会では、そこが異なっている。オノンはモンゴルでの自分の子供時代のことを書きながら、「我々の民族の考えでは、名誉や富は単なる人間から与え られているものだが、円熟した老年というものは神からの贈り物である」(Onon 1972:9)と書いている。こうした理由で、年とっていくことを隠すものは誰もいない、と彼は言う。「それどころか、誰もがこの人生における円熟期を待 ち望んでいる。それは、歳月と豊かな人生経験で満たされた時期であり、特別な敬意と思いやりという何よりも素晴らしい贈り物を受けとることのできる季節で ある」(同書)。もちろんそうした期待をもった者のうち、その輝かしい年代まで生きた者はほとんどなかったということは、あまり強調されていないが。

 人類学者が伝統的なコミュニティの研究において、 老人に向けられる尊敬を誇張して記述してきたかどうかを判断するのは難しい。確かに多くのコミュニ ティ、スペイン語圏アメリカのインディアンの村や小規模農業を営む村のような「閉鎖的共同体的」な村では、年ごとの主な慣習活動が「はしご段」、あるいは 一つの道すじとも言うべきものを示し、それによって人はコミュニティに対する不断の貢献を通じて、徐々に「長」の地位やあるいは名高い古老としての地位を 獲得し、功労と威信に富み、もはや世俗的な報いなどに野心を抱かない人物となっていく。しかし、これらのコミュニティの一つであるチンツンツァンで、フォ スターは老人に対する態度はアメリカにおけるそれときわめて似たものであると発見した。コミュニティの出来事に参加したり興味を示し続ける年老いた人々— 村に対し不断の忠誠を示す人々—は、若い頃の彼らの活動のためではなくその関心ゆえに尊敬される。つまりいったん緊張がとければ、尊敬はただちにはがれ落 ちてしまうのである。

 別の文化的形態は、伝統的社会において長老者の役 割は全く申し分ないと言い切れるかどうか疑問を起こさせる。例えば朝鮮では、神は人に60年の寿命を割 り当てると信じられている。この齢を過ぎて生き続ける者は他人の犠牲の上でそうしているのである。つまり、本当の「限定された望ましい」人生があるとする 風習のもとでは、それ以上の余分な年数というのは他の誰か、すなわち60歳を越えて生きた者のその年数分だけ早死にする者からの割り当てを受けるとされて いる。そうした状況では、老人達にまとわりつく罪の意識はどのようなものであろう。

 非西洋社会での老年に対する態度の性質や、その幅 がどのようなものであれ、アメリカでは、晩年に対する価値が質的に違っているように思われる。「老年」 は多くの者があこがれるような役割ではなく、しばしば、家族やコミュニティの関心の欠如のほうが、受けてもよい名誉や尊敬よりも上回っている。年とった女 も男もしばしば「全てが空虚で、彼らは無価値で死すらも無意味である、としか感じられず、絶望の中で」生き、そして死んでゆく(Curtin 1972:228)。

 青年期や壮年期と比較して晩年は相対的に価値がな いとする倫理は、アメリカでは最近の文化的現象であり、それはこの半世紀あまりで寿命を47歳から70 歳まで引き上げた医学の成功と関連している。1900年当時には、25人のうちたった一人が65歳に達することができた。今日ではそれは10人に一人と なっている。さらに65歳に達した男性は、今日では78歳まで生きることが期待できるし、女性の方は平均して80歳までが期待できる。他の年齢層に比して 老人がほんのわずかであった頃には、彼らに社会的便宜を与えることができた。我々は特別な敬意を払って、例外的な少数の人達を受け入れられた—元老、円熟 した芸術家、商業界の大物、優れた裁判官、神学者、教授といったような。これらの人々は今も活躍し、生産的な人々であり、それゆえに業績志向型の社会では 高く評価された。しかし、1970年代までに、我々は2100万もの恐るべき人数の老年の人々を生み出し、それらの人々の大部分は、大部分のアメリカ人と 同じように天賦の才に満ちた人々ではない。しかし若者志向型の社会で彼らがともに生活できるための対策は講じられなかった。

 まさに老化と老人の概念は、それが健全な長寿と、 しばしば死を間近に控えた希望のない、瀕死の状態との区別(ほとんどの文化で設けられた)を消し去って しまったので、曖昧で人にいやがられるものになっている。その結果は奇妙な時代錯誤、すなわち死につつある人にとってのみふさわしいような社会的態度を伴 う長い人生である。要するに我々は、老化を機能的に定義する代わりに形式的なそれで代用し、老人が実際にできることは何か、という論理的な評価の必要性を 除去することに成功してきたのである。

 アメリカのみならず、どのような伝統的社会システ ムでも西欧文化が侵入していっている社会では、我々の文化的態度が、老人の精神的、身体的福利や彼らへ の医療の内に深く示唆されている。病気にかかっている、または死につつある少数者として見られ(Clark 1973:80-81)、彼らのケアはますます機械的に「安息の家」や「病後」療養所に任せられてしまった。現実に精神的または身体的病気にかかった時、 老人は治療的ニヒリズムという医学的原理にしばしば直面する。すなわち、精神力学的な治療は時間の無駄と考えられており、サドナウらが報告したように、老 人は重篤な状態になって病院に担ぎ込まれた時、救い得るものと見なされそうもないのである(Sudnow 1967, Knutson 1970:51)。他方、コーカサスでは、病気は非常に高齢な時でさえも正常あるいは自然なこととは考えられておらず、それは阻止されなければならないと 考えられている。患者を含め全ての者が回復を期待するのである。「『おい、その年で何を望むっていうんだ?』といったような宿命論的考えを表すような言葉 は、聞かれたためしがない」(Benet 1974:14)。

 老化に関する我々の評定の帰結は、健康の研究に とってもまた不運なものであった。というのは、老人をこのように安易に病人の役割の内に閉じ込める限り、 多くの疾病の経過と、まだよくはわかっていないし、ほとんど研究されていない老化のプロセスとを、区別する契機がほとんどないからである。しかしクラーク が指摘しているように、「アメリカでは、我々が老人として避けられない生物的な特徴である、と考えてきた事柄—知覚鈍麻、記名力障害、意識の混乱、記憶喪 失、失禁等—が《通常の老化》とは区別しうる疾病の症状なのであり、それは回復可能でまたコントロールできるものなのかもしれないことがわかってきつつあ る」(Clark 1973:81)。

1 老化の社会的な解釈

 正常かつ「健康な」老化の性質を探求する必要性は、まず社会学者達によって認識された。「離脱解放説」(Cumming and Henry 1961)、「準少数者説」(Barron 1961, Kiefer 1971)、「下位文化説」(Rose 1965)といった仮説は、精神的身体的な健康の基準を粗描し加齢の「進行」につれて適切なケアを行うに際して、示唆するところがある(Cowgill and Holmes 1972)。このうちもっとも有力なのが、離脱解放説—健康な中流階級のカンサス人に対する研究から引き出された—である。この説は老いた人々と社会の双 方が、相互に退きあうことが規範となっているだけでなく、この両者が互いに遠ざかった後ではその両者ともよりうまく適応すると仮定している。アメリカで社 会学者や心理学者により、非常に限られた範囲で通文化的なこの説の検証が引き続き行われた(Havighurst, Neugarten and Tobin 1968)。その検証は、晩年におけるこの種の社会的な磨滅を、「常態」とすることに疑問を投げかけ、また離脱解放ではなく行動こそが、彼らの心理的な安 寧に関係していると示唆している。

 1960年代の終わりの頃まで、人類学者達は社会 老人学(およびその姉妹というべき老人病学)という新しく登場した分野に対し、ほんのちょっと注意を向 けただけであった。カウギルとホームズが指摘したように、「これは人類学者がその領域を無視したということではない。ただ単に、彼らのフィールドワークが 出版物の中では、老化の過程と老人の状況が研究された文化の他の多くの側面とともに扱われてきたというだけである。年輩の人々がしばしば重要な情報源に なってくれたにもかかわらず、そういう研究で老化ということに焦点が置かれるのはまれであった」(1972:■■)。状況は変わり、この10年間に、老化 とそれに伴う文化的ジレンマという現象について、刺激的な人類学的探求がいくつか見られた。ヤコブズ(1974)、ビルネ(1974)、ジョンソン (1971)は、アメリカ内において、老人の「コミュニティ」や、これらと取って代わった生活様式の精神社会的な利益と信頼性を分析するのに、伝統的な フィールド・テクニックを活用してきた。ベネット(1974)は、年齢による差別を拒否したり緩和しようとすることで、ソ連のアブカジアン族はストレスの ない身体的社会的適応の一つのモデルであるとして支持している。カウギルとホームズ(1972)は通文化的データに基づいて、近代化に伴う自我の弱体化と か疎外感の不可避性について、既存の主張に異議を唱えている。そしてクラークは画期的な論文の中で、アメリカにおける老化の概念を定義した。その定義によ れば我々の社会における老人とは「依存的で、彼らの多くは病者の役割にはめ込まれる。これは彼らが演じることを許された、唯一の社会的に承認された役割な のである」(Clark 1973:81)。

2 対処の仕方:2つの基本的戦略

 前述の説明の大部分は、現存する不公平とどう対処するかについて、少なくともある程度までの提案を含んでいる。本質的には、この2つの基本的戦略、ある いはモデルは、人類学者と他の行動学者により提出されたものである。

a  「システムに立ち向かう」モデル

 クラークとアンダーソンは、老化に適応させるような5つの課題のモデルでもって「システムに立ち向かう」アプローチを支持している。そのモデルは 1200人のサンフランシスコの老人を対象にした、3年にわたる長期的な研究から生まれたもので、彼らの半数は、入院が必要なほど重篤な、年齢にまつわる 精神的病いを患っていた。「課題」は、サンプルのうち正常な残り半数の人々を、60歳以後精神科病棟に赴かせない点で、有効と判明した戦略の評価から生ま れてきた(Clark and Anderson 1967:398-414)。これらの課題とは—「うまく年をとっていく」ことができるためには、これらの全てが「やり通される」必要がある—老化それ自 身を受け入れること、コントロールを最適なレベルに維持するため「自己の生命のスペース」を改革すること、満足のよりどころを新しく見つけること—という のは、昔のそれは不適当になったり、消え失せたりするので—、また、自己評価の基本となっているものを修正すること、そして最後に、新しいライフスタイル を展開するために、価値観の再統合を行うことである。後者はしばしば、社会において、正当な位置を勝ち取るために、攻撃的な対人訴訟を要求する。著者は次 のように結論づけている。「アメリカ的生活からの老人の疎外は、どのような創造的解決策によっても全くなくなってしまうことはない、というのは我々には明 らかである」(同書、429)。晩年をもっとも良く生きることのできる者とは「実に、価値観の追求をやめて(彼らの文化はそうすることを要求してきたのだ が)、身近にある他の価値観をやりとげ得る代替物として取り上げてみることのできた人々なのである。それは、獲得や開拓のかわりに維持することであり、自 己向上のための絶え間ない努力に代えて自己を受け入れることであり、なすことよりも生きることであり、他人を制する代わりに、他人に共鳴し、協力し、愛 し、そして関心を持つことである」(同書、429)。

 確かに、ある一定の価値観から他のそれへの転換 は、ある人には重大で緊張に満ちた断絶を負わせることになる。しかし、人生という競争の場の内側にとどま ることを代用しうる能力は、「至難の技」なのである。(今日ある姿の)アメリカ文化が老人にとって正常であると見なしているにもかかわらず社会的引退は、 身体的・情緒的不適応を意味する、と彼らは強調する。このことを、社会からの個人の「離脱解放」が「正常」で、健全な老化の不可欠な部分である、という社 会学者の説に、彼らは反対する。最近アンダーソンは、老人を文化的に再統合することを推進するため、5つの課題モデルを一連の行動定式へと緻密な理論を提 出している(Anderson 1978)。

b  「システム逃避」モデル

 アメリカの老人達は「大人が住む町」と婉曲に呼ばれる地域内のような、彼らのために排他的に設計されたコミュニティか、あるいは、あまり裕福でない引退 した人々が集まるトレーラー住宅公園のような環境に住むことにますます惹かれつつある。どちらのタイプの環境にせよ、退職した人々は仕事よりもレジャーの 追求を中心としたライフスタイルを作り上げている。人類学者は、その両方を研究し、より大きな共同体に住むことが拒否された彼らを、心理的、身体的に支え ることにある程度成功している、と報告した。

 コミュニティ内部で作り出される擬似的活動の流行 を強調することによって、老齢を「無視する」のは、人によっては、有効な手だてであろう。つまりそれ は、より健全な自己イメージを持つための基盤を提供し、「外部の」人を不安にさせる諸々の変化から彼らを隔離してくれる。しかしながらアーデン—ある裕福 なカリフォルニアの退職者のコミュニティの仮の名—のスーザン・ビルネが書いているところによると、基本的な魅力の源は「居住者が、依然と同じように暮ら すことの出できる環境を用意しているところにある」(1974:151)。ある人々にとって、このような人口密度の高い、年齢別のコミュニティに適応する ほうが、彼らの出身である都市や郊外で年老いていくよりも、行動を劇的に修正しなくてもよいのは明らかである。しかし、老人の世界は、せいぜい彼らを無視 する社会からの妥協的逃避にすぎないのだ、という潜在的な思いから男も女もどうしても逃れられない。「都市化された農民が、社会の大きな流れに飛び込ん で、新しいやり方を心から受け入れてゆくのとは違って、退職者のコミュニティに移住してくる者は、ある意味で、より広い社会とのきずなを弱めつつあるのだ が、そのことを認めたがらない」(Byrne 1974:139)。老人にトレーラー公園が非常に魅力的なのはまさに、トレーラー公園のどちらかと言えば小規模でかつ似た者同志が集まるという構造が、 多大な心理的強化をもたらし、彼らに「我々は皆、一つの大家族みたいなものだ」と感じさせるからである(Johnson 1971:173)。

 そのような全てのコミュニティのために起こる再発 するストレスで最も多いのは、地域内での病いや死に対する恐れだと予測できる。「そうした死は彼らを滅 入らせるもののようであり、彼らは葬式に出席するのも一般に避けていた」と、カリフォルニア州バークレーにある労働者階級のトレーラー住宅コミュニティの ジョンソンは著述している。アーデンのより高級なコミュニティで、ある引退した公衆衛生の教授がこう書いている。「それ(死)について話してはいけないと いうのは不文律であり、もし誰かがそうなっても、話すのはごく内輪の人間の中だけである。それで、半年位過ぎた後に『誰それはどこに行っているのか』たず ねると、誰かが、彼は死んだよと答える」(Byrne 1974:148)。ある大きなクラブハウスの会合で、ある男が誰の目にも明らかな心臓発作で死んだ出来事をビルネは報告している。「電話をかけて5分も せずに救急車が静かに到着し、司会者は病人が車に運び込まれるとスピーチを再開した」。テラスにいた大勢の人々は、「全く関係ない、というように振る舞っ た。私のそばに立っていた4人グループの中の一人の女性は、彼は部屋の中の蒸し暑い空気で気を失ったのに違いないと言い、次の女性は、遅れて来たおかげ で、中に席がなくて良かったわ、と受け答え、皆は口々に良かったと言い、そして笑った。そうして、彼らは園芸の話を始めた」(Byrne 1974:149)。



 死に向けて準備を整えることは、自分の経験の中で先例のない状況の予想を必要とする。特にアメリカ人は幼い頃から、あたかも彼らは不死身であるかのよう に、生きることに慣らされており、実はそういう考え方は筋が通らないと言う証拠からも守られている。

 大部分の伝統的社会では、このような虚構は維持さ れるはずもない。カルカッタの通りでは死が群がっているのが嫌でも目につき、それはアフリカのサヘルの みすぼらしい村々でも同様である。子供達は栄養失調と病気という究極のかせを負って生きており、母親は、成年に達するまで生き延びるのと同じ数の赤ん坊を 失い、長年にわたって、数がそのままの家族はまれである。生活がもっと豊かで、健康と成年に達することが当然のこととして期待できる農村地区でさえ、家の 中で死んでいく人を目の当たりにしたり、葬式における多くの参列者、また老いていく人々との日常的なふれ合いなどが、死という事実について若い者に心構え を与え、どのようにして死んでいくのかを教えているのである。

 他方アメリカでは、それまで誰かが死ぬところを見 ないで大人になってしまうことが多い。暴力や事故、自殺などを通して、たまに、偶然死に出くわすことが あっても、いきあたりばったりの破壊的な出来事として、我々の恐怖を強めるぐらいであり、運が良ければ、自分はどうにかこうにか免れることができるだろう と考える。無意識に、我々は死ぬはずはないと思っている。ただ殺されることはあり得る。「それゆえ、死それ自身が悪い行いや恐ろしい出来事を連想させる」 (Kubler-Ross 1969:2)。

 死に関して、誕生の時以上に、アメリカ人はケア や、決断を回避し、病院や医師に任せてきた。我々の病院の中で、過度の延命に関する議論が何かしらの意味 を持っているにもかかわらず、新しい出産の文化における明白な医療の取り組み方から遠ざかっていく傾向は、死にたいする補足的アプローチを明らかにはして こなかった。病院は、依然死に対処する難行から、家庭や家族を離し続けている。死は「白衣地帯」の無名性の中で起こり、ある批評家の判断するところによる と、その無名性は患者を「部屋番号」に、そしてその両親や子供達を「訪問者」の位置にしばしばおとしめる。我々は別の死に方など思いつくこともできない。

1 死にゆく技術

 今日、死にゆくことの技術(中世の作家の表現ではars moriendi)に最も接近することができたのは、生命と健康に関する自然主義的解釈が、いやいや受け入れられたものではあるが、死の正当な評価に関す る理解を育んできた農民の世界である。村の暮らしという相対的無時間性のなかで成長する過程、安定し、しばしば三世代家庭で、老人と若者とが、病者と健康 な若者とが日常的に触れ合い、通夜や葬式などもありふれた出来事となっている中で成長すること—これらの経験が、他の場所では根本的に欠けている老化や死 にゆくためのモデルを提供する。そこでは、あらかじめ定められた正当な生命という観念と、一つのドラマの成就という観念とが発達しており、そしてそのドラ マの非常な結末は以前に何度となく証明されてきたので、驚くことはない。

 フランシス・アダムスは、メキシコのサント・トマ ス・マザルテペクの村で、老いてやがて死んでいく過程を子供達が幼い頃からいかにして気づくかを語って いる。「彼らは弱ったり疲れたりした老人の使い走りをしたり、年をとった親戚の者が病気になったときは看護につとめる」(F.Adams 1972:112)。一部屋しかない家の中で、家族全員による支援の輪に囲まれ、死がやってくること、そして人の連続性の目に見える証拠として、その部屋 の中では子や孫が生き続けることを、子供達は学ぶ。その村の13歳の子供のインディアンの目を通して見たところでは、死は否定されるものでもなければ、報 いや死後の世界の確かな展望でもない。「老人が家で死にかかっています。家族全員が家の中にいますし、子供達もいます。両親は子供達に、もう二度と会えな くなるので老人にお別れを言うのだと教えます。彼は来世に赴こうとしています。泣き声がもれます。誰かが・・・・・『あなたにもう会えないんだね』と言っ て泣き出します。近所の人が訪ねて来て、友人もやって来ます。・・・・・子供達は老人に『私達を放らないで面倒見てくれてありがとう』と言います。老人は 家族にお別れを言います」(同書)。

 他方、アメリカでは死への対処はあまり率直なもの ではない。死がさし迫ると、ドラマの回りにはカーテンが引かれ医療従事者によって仰々しい看護がなされ る。病人は(すでに入院している人でさえ)個室の「死にゆく部屋」に移され、そこで頼りになる縁者が死を見守るという重荷を担う。

 こうした予防策は、患者の不安を軽減するとともに 医療スタッフや親類縁者の不安を緩和するために考え出されたと思われ、患者にとってはこのような戦術 は、治療的なものとはほど遠いものに映ってきた。キャロル・テイラーは、病院文化の研究の中で、死につつある人は、生きることや死ぬことの関心を語りつく すような機会を歓迎していること、多くの人が自分達が死にかかっていることをできるだけ早く知りたいと思っていること、そして家族や友人達に適切な別れを 告げたい、という望みをくじかれていることを思い出した。ある入院していた若い女性はこう抗議した。「彼女達(看護婦)は車椅子で私を外に連れ出し、そし て私はさよならと言った。私は子供達に部屋に入ってきて欲しかったのに。彼女達にとっては、見知らぬ者が回りにいて見守って聞き耳を立てているのは嫌なこ とだったのです」(C.Taylor 1970:187)。また同じ施設で、一人の南部出身(Cracker)の女性が南部の田舎についてせつなそうに話し、そして我々の文化の内にある、違う 別れの仕方を容認してきただろう古い伝統について語った。「もし私が家にいたら、親類の者がずっと起きて私を見守ってくれるだろうに」(同書、186)。

 伝統的世界の多くでは、死の迫った入院患者は家に 帰される。この決定がすぐになされないと親類の者達はしばしば非常に困ってしまう。インディアンのある 情報提供者(informant)はテイラーにこう説明した。「家族の一員が他人の中で死ぬようなことになると、我々は心が乱れる」(C.Taylor 1970:187)。フランスのウィッスーでは、村人達は、死につつある親類の者を、遠い病院から彼らの家で死ぬのに間に合うように進んで連れ帰るが、そ れは必ずしも全く感傷的なそぶりでもない、という事実を別に隠そうとはしない。もし病院で死んだ場合、その病院が位置する行政区の外から来た患者の家族に は、かなりの「死税」が課せられる。またある情報提供者が説明したように、家族は、最後のお別れのために、散り散りになった親類を家に呼び集め、葬式の期 間中彼らを泊めて食べさせてやるためにお金を使うことを好むという。ごく少数の者だけが「羽飾りの葬式」を楽しむ。これは余分に30ドル支払って、死者の 家を覆う黒のベルベットの掛け布と、家族の埋葬地—その壁で、春には子供達がタコを揚げる—まで、柩を引いてゆく馬のため、たっぷりと羽飾りをしたかぶり 布とを用意する。大部分の者は、店のウインドー内に貼られた黒枠の告示を見てやって来た友人とともに、質素な柩の後について歩くことで満足し、またその友 人達は家族と一緒に戻り、残された家族を手伝うのであった。

2 死にゆく患者の取り扱い

 キュブラー‐ロスが我々に語るところでは、医療共同体は、死にゆく患者とその家族に対する社会が放棄した道徳的責任を負うことを、望んでこなかった。実 際、医者達はしばしば死に直面すると急に不愉快になり、死にゆく人やその近親者と親しくなることからできるだけ遠ざかろうとする。施設で死ぬアメリカ人は 避けがたい死を目前に控えて、彼ら自身の気持ちの整理を、一人ぼっちでしなくてはいけない。死と死にゆくことの鋭い分析の中で、キュブラー‐ロスは患者の 葛藤を特徴づける連続した5つの段階を記述している。最初の段階は死の否定である。人は自分自身の終末がさし迫っている、という高まっていく証拠を単に信 じようとしない。第2の段階では、それが全く不当で不公平である、という怒りと憤りが否定にとって代わる。第3は、取り引きの段階であり、その間は神また は運命に、彼の命の返礼に取り引きしようと試みる(もっと良い人間になりますからとか、他人をもっと大事にしますとか約束する)。これが無駄なことがわか ると、彼は抑うつと、生命や愛する人々を失うことに対する予備的な悲しみの期間にはいる。ついに最後の段階では、受容のレベルに達する—死を静かに予期 し、愛する人々をも含めて下界への関心を少なくしていく(Kubler‐Ross 1969)。

 死にゆくことについて率直に語るのに大きな障害と なっているのは、死についての病院の対話を特徴づけている、辻褄の合わない話し方である。キャロル・テ イラーはこう言っている。「このように、死のドラマの中心人物は、あなたは死ぬだろうけれども、また別の機会まで死ぬために生きるかもしれない、という可 能性もあると言われる。死にゆく人と最も近しい人々は、彼はきっと死ぬでしょうと告げられる・・・・・看護婦は、奇跡は阻まれ死は避けられないと言われ る」。看護婦達は時おり奇跡を見たことがあるが、最も期待される奇跡は「死の場面を次の勤務帯へと押し出す奇跡」である(C.Taylor 1970:186-187)。

 多くの医師や社会学者達は「死に行く者の取り扱 い」や、医療的に作り出された死の状況に関して批判的である(Krant 1972)。病院では静かに鎮静とともに訪れる。あまりにも静かにやってるので、死を判定するのは「微妙な事柄」となってきている (M.Richardson n.d:2)。無経験の看護婦はしばしば困難な問題である。サダナウが描写しているある例では、看護されていた男は「ひどい火傷を負っていて、目の回りを 除いて全身をガーゼで巻かれていた。看護学生が彼にストローを使ってジュースを飲ませようとするのに、何分もかかっていた」。いいかげんじりじりした彼女 は、教官に報告し援助を求めた。「その教官はこう言った。『うん、君、もちろん彼は反応しないよ。彼は20分前に死んでいるよ』と」(Sudnow 1967:87)。

 シュピーゲル(1964:297)は、アメリカ人 が死を技術上の失敗として見なす傾向が強まってきたことを説明してきた。「それは誰かがミスしたとか、 研究が単にこの種の事柄を解決するに到らなかった、ということを意味している」。このように、死にゆく過程を長びかせつつあるにもかかわらず[ダフとホリ ングシェッド(1968)は、現在その中央値を29ヶ月と概算している]、「死に行くという事実は、楽観的もしくは安心させる言葉で覆われており、その死 にゆく人間は、自分の立場を最大限に活用する機会がほとんど与えられていない」(Spiegel 1964:297)。状態の悪い、末期の患者を死の淵から救い出すような医療の奇跡は、医療従事者によりしばしば奨励されているが、彼らは実はひそかに、 それを生み出すことのできない無力さにいらだっているのだ。

 医師ほど、「治療者」としての役割の中で、一体自 分の務めはどこまでなのだろう、というジレンマに捕らわれている者はいない。死に直面して、彼は自分が その専門的技術を擁護する必要にあることを見出すかもしれない。「できることは全て尽くしました。今は待つだけです」という言葉は、もし死が予告なしに やってきたとしても医師はその到来を知っていたのだ、ということを確信させる。一方、もし患者がなかなか死ななければ、医師は「不屈の魂だ」と言うことが できる(Richardson n.d:2)。

 非常に感情移入の強い医師は、死に直面するとき、 問題を抱える。我々のうちの一人(アンダーソン)は、死にゆく子供達の傍で働き、小児科医や外科医のい らだちを観察する機会があった。彼らは、子供の側からの信頼や依存により特徴づけられる、しばしば長びく関係を続けることができず、またどのようにして終 わりにしたらよいかもわからないのである。時々、医師は徐々に(あるいは突然に)手を引くほか仕方がないことを悟り、援護的な友情を終わらせ、子供の中に 放棄される気持ちを、また両親には混乱と怒りを生み出してしまう。

3 死の定義

 死が近づくと、家族は医師や看護婦、スタッフから暗示を受け取る。それは、人を患者のように扱うことから死体のようにそうすることへと、ごくわずかでは あるが変化する彼らの態度から得られる。しかしながら、この移行が実際に起こるのは一体いつなのかという点に関する一致した見解は著しく欠けている。ナッ トソンが死にゆく患者の文化的な評価の中で指摘したように、「正式の普通法や職業的倫理基準により、生きている者にふさわしい扱いと、死ぬと定められた者 へのそれとは明らかに違う」ゆえに、それは重要な判定なのである(Knutson 1970:44)。

 「脳死」は検討中であり、この目的にかなうかもし れないが、評価尺度としての妥当性は曖昧なものである。なぜなら、特に近代の技術的進歩とともに、「コ ンセントでつながられた」患者が、表面上の脳死の後でさえ、呼吸をし続け、識別できる心拍動を打ち続けることが明らかに可能であるからである。サダナウは 死を次のように区別している。「臨床的死」、つまり診察上死の徴候が出現すること。「生物学的死」、つまり細胞活動の停止であり、これは簡単には立証され ない。「社会的死」、これは診断の上の手がかりではなく、生きている人間が死体にふさわしいような扱いをされる時点である。カリッシュの「人類学的死」 (人がその社会的世界から、拒絶されるか切り離される時点)は、身体的死を鑑定するのに役立つものではないが、全ての定義は、個人が人間として定義される のを終えるのはいつかという重要な医学的鑑定に対抗しようと試みている(Knutson 1970:44)。

4 変化への提案

 将来はどんなものなのだろう。死にゆく患者に対するケアの組織化、および死を家族、良心、そして神の範疇から医療のそれへと運び去ってしまう技術的進歩 に伴い、不満はますます高まってきている。「あるレベルでは」、議論好きの医師—哲学者であるアヴォーンは、こう言っている。「我々医療専門家は、先達よ りももっと優れた結果を主張することができる。どんな司祭がうまく作動された除細動器にかなうことが出来るというのか、またどんな神なる者が、バードマー ク・呼吸器の効力で生命の息吹を吹き込めるというのか。我々はもし充分早くそこに駆けつけるなら、死者を蘇らせることだってできるのだ」。他方、彼は医療 がその過程の中で幾分、「死を、消費者よりもむしろ熟練した供給者によりコントロールされる、大量生産される非人間的商品にしてしまった」と論じている。 生命の徴候を維持することに狭い関心を注ぐだけでは十分ではない、と彼は結論している(Avorn 1973:58)。

 クラントと彼の協力者達は「人をうまく死なせてあ げるように援助することは、ヘルス・ケアの積極的な部分として理解されるべきである」と信じており、ま た彼らは、新しい血の通った病院環境につけ加えて、死にゆく者のケアや残される者達の必要からカムフラージュを取り去り、家族や友人達と共に進めるよう、 病院の部屋という壁を越えて行動することを提案している(Krant 1972:101-108)。死との対面や、手に負えない痛みや不安というその重荷に、個人的な相談助言をするとともに、薬物や一般的な医学的治療手段を 増やしていくという、一つのより治療的なアプローチが、200人以上にものぼる死にゆく患者達の研究を基にして、キュブラー‐ロスによって主張されてき た。彼女は問題を文化的土俵の上にきちんと置く。死に関する社会的倫理の進歩は、医療的なそれの進歩に先んじなければならない。「もし我々が物質的な物事 をますます追求していくことをやめ、何が本当に重要なことなのかしばし考え、また生および死についてよく考えてみる勇気を持っていたなら、我々は自分の子 供達を、もっと違ったふうに育てられるだろう。アメリカで人口の80パーセントもの人達が、施設で死ぬようなことはさせなかったであろう。また、病院の中 で病んだり死にそうになっている患者を訪れることから、子供達を締め出したりはしなかっただろう。我々は、死および死すことを再び生の一部分となしただろ う。そうして我々は、『私は生きてきました。だから死んでいくことができます』と穏やかな表情で言える世代を育てることができただろうに」 (Kubler‐Ross 1972:159)。

 アヴォーンは、医療従事者と死にゆく人々との間の 信頼のための新しい基盤を主張しており、また彼は、それを完成させるために使われる、心を広げる薬物と いうものを理解したいと思っている。「これらの薬物が・・・・・なそうとしていることは、西洋文化の基本的な思い込み、つまり、人の本質や人生の目的につ いての思い込み—今のアメリカにおいて、しばしばグロテスクなほど行き過ぎている—を変え得る現実の一形態に迫ろうとすることである」(Avorn 1973:59)。しかしながら、たとえそれが可能だとしても、そのような病院治療の実行を考慮しようとする医師はほとんどいないであろう。ほとんどの者 が、安全とされてきた方法を刷新することに警戒と保守の態度を示してきた。同時に、しかしながら、医療テクノロジー—ほとんど独立した科学としての—は、 死のコントロールにおける新しい選択の余地を開発し続けるので、医師、患者、それにその家族達は、かつてなかったような決断をするという難しい領域に入る ことを余儀なくさせられている。これらの事柄の複雑さや、その生および死への影響力はやっと感じ始められたばかりであり、(もし医療や人間が死のコント ロールを放棄するならば)いつ、どのようにしてアメリカ人は死ぬことを許されるべきかについて、法廷からの解答が要請されるかもしれないのである。

要約と結論

 大部分のアメリカ人が病院の中で生まれ、そして死んでゆき続けているにもかかわらず、自分達がどのようにこの世界に登場し、またどのようにそこを離れて いくかについて疑問を持つ人間はますます増えている。重大なところでは、医師や病院は、誕生や老化や死といった、基本的に非医療的であると多くの人が見な している現象における「患者」とその家族の要求を満たしていない。誕生や老化や死が、その「正常な」成り行きでは進行しない場合でさえ、医療的に指示され た管理やケアにこれらが帰属するという結果について、多くの疑問が挙げられている。特に起こってはすぐ消える倫理的問題は、我々の文化において生命(およ び誕生の経験)に異常に高い価値が置かれていること、また老人の扱いの曖昧さや、どんなに費用をかけても生命を延長しようとすることの結果が曖昧なために 生じている。限られてはいるが活発な一連の研究は、これらの問題に対する伝統的アプローチは、恐らく我々が誇りをもってさし示す技術的・臨床的進歩と同じ ぐらい健康にとって重要なものとして、有力な感情的、社会的支えをしばしばもたらすことがわかってきた。家庭での出産、老人に対する公共体の支援、そして 死に対するより開放的なアプローチが提案されてきた。

 我々の文化における誕生、老化、死をめぐる諸問題 が、善意やちょっとした新しい社会化によって簡単に解決されうる、と安易に結論づけるのは間違っている だろうが、ガルソーが、「医療は、まさにその効能において不満の原因を招く」というのももっともである(1966:61)。

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医療人類学
第16章 生命倫理:誕生、老年、死

はじめに

 先の3章では、保健従事者と関わりを持つ人類学者の役割、及び人類学者の知識と技量を健康のレベル向上に役立てる方法について述べた。この最終章におい ては、人類学者の別な役割について目を向けることにする。つまり、社会において長年の間、当然のこととされてきた医学的想定の妥当性について問題を投ずる 建設的な批評家としての役割である。これらの問題は、延命や生命維持など、科学の成果は個人の自律性の代価を支払うことなしではあり得ないという、極めて 人間的な価値と医学的な到達目標との間の分離が進みつつあるということについて、専門家であろうと否とを問わず、広く抱かれた確信に由来している。多くの 人々(神学者、法律家、哲学者その他倫理に関心のある一般市民)は、これまで医師と病院の神聖な特権と見られていた決断により素人が参画すべきだという要 求がある。つまり、誰が、どこで、いかに、誰によって、どれくらい長く治療されるかは患者も決定に参加すべきだという。
 行動科学者と社会科学者は、健康行動に関して新しい問題を探求しつつある。我々は、痛みに苦しむ女性にとって、家族から離れてしまった父親にとって、ま た、慢性疾患を患うことになってしまった子供にとって、「これが何を意味するのか」知りたい。我々は、我々の社会が、また、医療システムが人間の普遍的危 機について、どのような役目を果たし得るのかといった主体的な問いを発したい。人類学者がそのような疑問を検討する方法が彼らの回答の基盤となるものを探 求するために、今ますます重視されている特定のそして増大する批判の3つの領域に目を向けてみよう。それは国民として、誕生と老化と死の3つに関する「問 題」である。現代の医療実践には多くの批判があるが、非西洋的な病気を受容する方法の中に、内在する「叡知」はないであろうか。我々は、西洋と非西洋の医 療の相対的有効性の問題をしつこく問うているのではない。我々は、態度や価値や目標を問うているのであり、こうした領域において現代人が、より伝統的なも のから学び得るかどうかを問うているのである。
 この3つのトピックスは、これから述べるのには適切である。つまり、現代の研究の多くは、西洋、非西洋社会を問わずに行われている。したがって、それら は比較的な手法には特に非常に有用である。それらは、右の3つだけでなく、例えば、アルコール中毒、薬物乱用、精神異常、精神病などに関する研究にも同様 である。しかし、誕生、老化、死は、それらが万人共通のものであること、つまり我々の全てが経験した、あるいはするであろうという点で、特に訴えかける面 を持っている。その他の問題は、人類学者が幅広く研究してはきたが、全ての人にとっての生命については、必ずしも直接的に触れるものではない。

生命の重大事の制度化

 我々が、非西洋的社会の出産や老人の世話、または死んでいく人々に関わる活動を見て、またそれらを現在の米国のそれと比較するとき、大変大きな違いに気 づく。米国では、これら生命の重大事は全面的に—正しく言えば—制度化されているが、非工業化社会ではこれらは家族的な経験の親密な部分である。そこで、 根本的な疑問が生じる。つまり、社会的人間的問題に対する制度化されたアプローチと家族志向型アプローチのどちらにメリットがあるのかということである。 社会の複雑化の特徴は、歴史的に拡大していく人間的な活動の制度化である。これは避けられないものであろうか。避けられぬとしたら望ましいものだろうか。 我々は人間の価値の中で、ケアの能率や質を獲得したと思っているが、実は多くのものを失いつつあるのではなかろうか。そこで、西洋と非西洋の出産における 対照を見ることから始めよう。
 伝統的社会では、出産は友人や隣人よりも助産婦の援助が得られる家の中か、近くで行われるのが普通である。老いていくこともまた、次のようなことを意味 する。つまり、集団の現在進行中の生活スタイルに、個人を統合することであって、役割の責任というものを移動したり、当該問題にしている人々の精神的身体 的能力に合わせた義務というものをどんどん減らしていく統合である。たいていの場合、老人がなし得る有用な仕事がいくつかある。それは価値についての感覚 を維持するのに役立ち、稀な場合を除いて厳しい生態学的条件に常に左右されはするが、老人は死ぬ間際までケアを期待する。死ぬ瞬間がやってくると、死は誰 からも幼い子供達さえにも隠されずに家の中その近くで迎えられるのである。
 20世紀に入ってからも、このパターンは米国においてもごく普通のあり方であった。やがて精巧な生命維持延命装置といった医療技術の急速な進歩ととも に、家はもはや誕生や死を迎えるのにますますふさわしくない場となってきたように見える。また、住む街を変え、仕事のもらえる場所を探し求めるために、人 々の稼動性や都市への移住がますます増加するにつれ、家庭の安定や家庭への定着も弱まり始めた。家庭内での老人の世話は、嫌な仕事になり、時に忌避されも する。結局のところ、誕生、老化、死に関しては、ますます家庭の基盤から遠ざけられ、制度化の枠組みにはめ込まれてきている。これは、一般的な転換の形で あり、それらを相互につなぎ合わせていた伝統的様式が失われてきた過程である。そして、それは我々があまりにも遠くへ行き過ぎたのではないかとますます問 いかけている制度化現象なのである。
 特に伝統的社会と現代的社会とでは、誕生や死の儀式や老化についての子供達の知識において、際だった対照性がある。人間にまつわる出来事の全般的な経験 から子供達を排除するような機会と誘因の少ない共同体では、人生の内奥に対して、懸念や動揺がつきまとうことは少ない。健康で暮らしている時や、痛みに苦 しむ時の両親や老人の姿は、自分自身の振るまい方について、適切な手がかりを与え、誕生や死についての理解に役立つモデルとなる。生命の不思議さや神秘、 人間の身分にまつわる代償や報酬、それに人間が生命や健康をコントロールするのには限界のあることを知ることなどは、隠すべきことでなく、皆が知っている ことなのである。これまで見てきたように非西洋社会にも精神疾患はある。しかしこうした社会では、人生の重大事を隠し立てない開放的なやり方がなされてお り、それがほとんどの人々の心理的安定のために役に立たないとは信じがたい。
 これと対照的に我々の社会の子供達は、伝統的社会における、共同体としての、あるいは日常的相互作用からさえも隔離されてきている。誕生や死が閉ざされ た、衛生的な、異種の空間で生ずるところでは、我々はそれらを人間生活の必然的側面であり、予期でき、避け難いものであるとして、受け入れることを学ぶ機 会を全て否定される。妊娠や老化が、入院を正当化する病理的な状態と見なされるようになると、このような生命の根本的な性質に対する不安や否定感情が容易 に起こる。
 我々は、家族や家庭が常にどこでもいたわり合い、温かく、感情のこもった人々の集団であると仮定してはならない。そうでないこともしばしばある。しか し、そのようにはなり得るし、また、伝統的な場面ではしばしばそうである。我々は、病院や診療所、病後療養所が扶助的なものでないと考えてはならない。時 に扶助的なものもあるが、一般的に言って、官僚的な構造の性格がそれに作用する。誕生、老化、死に対する人間の行動は、制度や資源よりも個人的な資質がは るかに重要である。医療の分野では、他の領域も同じであろうが、効率性を崇拝するがゆえに、非人格的な要求が、個人的信頼関係や心理的欲求よりも優先する 傾向がある。
 人類学者や意識の高い市民たちが次のような質問をするのは、こうした背景に抗してである。つまり、現代の出産のやり方は、我々にとって新しい生命の創造 の部分である、基本的な価値や体験を見失わせているのではないか。老人を施設に閉じこめること、また、彼らはもはや人生の建設的役割を持たないと主張する ことは、彼らを—そして宗教的には自分達自身を—人間的体験の重要な部分から引き離すことになっていないだろうか。また、人間の生命は神聖であり、それを 救助・延長するためには、いささかも努力を惜しんではならないと主張することによって、我々自身が自らの知能や技術的能力の犠牲になっているのではない か。我々は生命の—および、死の—尊厳と生命操作の技術的目標を混同してはいないだろうか?このような疑問は検討しても良いことである。誰もが一つの答え に一致することはないにしても、検討することで、何が起こりつつあるかについてより深い理解を与えてくれるし、我々自身の見解を作り、こうした問題に対す る決断を固めるのに役立つことが出来る。

誕生

 生命の神秘は畏怖と関心とを引き起こす。それは人間にとってその生命力を通じて死の運命を償う、吉兆の時期である。誕生は核家族を満たし、より大きな家 庭を形成する重要な「支え」となり、人間の連続性を保証する。伝統的な社会では、子供は昔からのやり方を継承し、自分達の土地を維持し、自活できなくなっ た両親の面倒を見ることを約束するものである。しかし、よく言われるように、誕生はごく平凡な恐ろしいことなどない出来事と見られているのではない。もち ろん、誕生が全く興奮を起こさない社会もある。チャンスは、エスキモー女性の次のような例の報告している。「ホープ岬までボートで行くうち、彼女は『トイ レに行きたい』と上陸した。ボートが彼女を置いて出発した後、彼女は子供を産み、へその緒を切り、砂を掘って後産にかけた。生まれた子供はパーカーで包ん で、彼女は岸辺を走りボートで追いかけてきた」という(Chance 1966:42)。しかし、こうした話は例外であり一般的ではない。ダウンズは、アメリカ・インディアンのライフ・サイクルを分析し、ジャングルの中に消 えて、しばらくすると子供と共に戻ってきて何事もなかったのように自分の仕事を続けるという未開の母親像のステレオタイプを疑問視している。「これは世界 のある地域では本当かもしれないが、ワショ族やその近隣の部族では見られない。子供の誕生は非常に重要な事柄として儀式で包まれる」と彼は記している (Downs 1966:42)。ミードとニュートンは、およそ200ほどの伝統的村落の社会における出産を分析し、介助なしの出産は、なくはないが「それは米国人がタ クシーの中で子供を産んで噂話になるほどのごく稀なことである」という(Mead and Newton 1967:169)。
 多くの非西洋社会では、子供が誕生したとき、女性の陣痛や誕生などが引き寄せた精霊との長い闘いが始まる。胎児はまだ十分な人間になっていないので、た やすく超自然的世界におびき寄せられる。つまりそこからまだ解放されていないと見なされているのである。出産は痛みや苦しみの時で、出血や体液の減少な ど、常に死に脅かされるが、これらは病の特徴である。多くの社会において妊娠や出産は病と語義的に結びついているが、このことは別に驚くまでもない。チン ツンツァンでは、妊娠中の女をエスタ・エンフェルマ(esta anferma)というが、これは「病気である」ということである。そして子供が生まれるとき、つまり、セ・アリビア(se alivia)で、母親は「回復する」のである。この表現は2つとも、他のタイプの病からの回復の場合の使い方と同じである。同様に、南アメリカのアラウ カ・インディアンは、出産の場合には部外者を厳しく排除する一方、「子供達は皆その場に居合わせるべきである。なぜならお母さんは今病気なのだから」と考 えている(Hilger 1957:14)。無菌法が知られておらず、懐胎を含めて人体機能のシステムの知識がわずかしかない社会では、妊娠や出産は不安に満ちたものであろう。非 西洋社会における母親と幼児の高死亡率は、そうした恐怖の論理を裏書きすると共に実際的な危険性に対する魔術的な配慮が無効であることを証明する。
 出産の実践についてアメリカで多くの批判がある中で、我々が、部族社会や農民社会の出産を理想的なモデル、つまり、標準的な出産の手順として再構築する のを緊急に求めているのではないことは明らかである。つまり、我々が犯して捨てた楽で安全なアプローチとして支持しているわけではない。我々の見るとこ ろ、問題はむしろ出産の営みを非人間化することなしに必要な部分は進歩した産婦人科技術を利用して出産のより満足なパターンをいかに確立するかなのであ る。
 大多数のアメリカ人にとって、医療は死についても、出産においても、生命の最終裁定者である。「正常な」出産に対する処方は、そのパターンにおいても、 入院手続きの署名から、(陣痛が何分おきに起こるかや「破水」したとき)参加チームの気を合わせた動きまでほとんど違わない。アメリカにおける病院指導方 の出産についての抵抗の多くは、人間としての基本的な要求が医療システムによって、非人間的で機械的な処理をされていることに由来する。ライフ・サイクル は、医学的な現象ではなく基本的に社会的なものであり、また医学が支配性を示威してきた場所では、我々は心理的な、時には肉体的な健康において高い代償を 支払ってきたと、多くの人々は考えるようになってきている。
 問題の一部は、医療が近代化され、都市化されると共に、家族のケアの機能のみでなく(Parsons and Fox 1952)、家族の権威や「両親」の機能まで次第に引き継がされてきたことにある。とりわけ病院は、社会から昔なじみの家族の危機の取り扱いを切り放して きた。伝統的世界ではモラルや宗教の分野であり、また社会的領域のものとされてきた生と死に関する決定が西洋文化の中では、医療の領域にはめ込まれてきた のである。メカニックは次のように述べている。「実際我々は、医療ケアを求めることが全く合理的でかつ自然なこととしてきたため・・・・・我々が医療の分 野だと見ているものの中に民俗的、宗教的概念が残っているのに、正直なところ驚かされる」(Mechanic 1975:50)。
 誕生、老化、死といった最も予測しうる人間の状態に関して、人間の状況に特別の意味を与え、喜びや絶望の根拠とさせ、それらの順序正しい進行を助長した り、阻止しようとすることなどに、科学的な解釈と文化的解釈とでは確かに大きな隔たりがあるといえる。つまり、しばしば存在するそれらの認識と願望との隔 たりや個人とその家族との隔たりを認識していないために医療従事者は古くからの危機を解決するのに、新しい危機を無意識に生み出しているのである。
 病院での出産という普通の形態に満足できないアメリカ人にとって、それに代わり得る形態を探し求めたいとするのは次の3つの信念に基づいている。それを 順次に検討しよう。

(1)西洋医療は正常な分娩過程を複雑化し、かつ機械化した。

 今日。生きている人々の圧倒的大多数が家庭で産まれていたのに、米国においては90パーセントもの分娩が病院で行われているのはどうしてだろう。なぜ、 母親達は通常家庭では分娩しないのだろうか?
 本質的には医師にとっては不便なことになるためだと批判者達が言っている。医師が参加の患者に病院に行くように説得できれば、彼はそれ以外の仕事には支 障なく、患者をその場所で診られるわけである。
「病院では産科医は赤ん坊が産まれるときでもそこにいる必要はない。彼が何とかしてその場に居合わすことが出来るなら、それで十分結構だが、もし赤ん坊が 産まれるときでも、たまたまよそへ言っており、居合わせないにしても、インターンや看護婦がうまく処置を行ってくれるであろう」(Hazell 1969:139-140)。しかし、こうした行為は医療上の強いタブー、つまり医師以外の者が出産を扱う能力はないと言うことに背くことになり、した がって滅多に暴露されることはなく、また病院での全ての出産が医師の立ち会いの元に行われるというのが公的な前提(合衆国統計索引、合衆国国勢調査局)で ある(Mead and Newton 1967:195)。出産証明書は医師がサインするため、そうした虚構は容易に支持される(同書)。
 では、病院での分娩が母親と赤ん坊のためにより安全ではないというのか、実際には多忙である医者の時間について考慮されるべきではないのか、と現システ ムの擁護者は尋ねる。迷路のような病院の冷たさ、病人や死に行く人々向けに作られている痛み指向性の設備機器、ライトや医療器具がズラッと設備され、不安 をかき立てる分娩室、夫や家族は(たとえ許された時でも)ほんの短時間しか付き添えない、さらに、強者の特権的な世界に突然紛れ込んだような心許ない気持 ち—こうしたものが母親の心理的な不快感に関係しているばかりか、神によって定められた手順で進められるべき事柄に対して、実際には、害になるものとして これらが作用していると多くの人々に思われているのである。
 医療活動家アームズは、結果的に難産になった分娩の初期には(しばしば母親の希望に反して)時期尚早で過度の薬物使用がよく行われること、またこれが効 果的陣痛を妨げたり、不必要に鉗子分娩を助長したりして、母親と子供を危険に落ち入れると主張している(Arms 1975:54-58)。
 全ての批判が医療に従事しない人間からのものというわけではない。産科医であるウイリアム・J・スウィーニィは、「アメリカで行われている病院分娩とい う立場がベストだと確信しているのではない」と言っている。もし母親が自分のベッドで子供を産むなら、規定されている分娩体位—あぶみに足をのせるような —で分娩するより、全てがリラックスして行われ、より裂傷も少ないようだ、と彼は指摘している。「未開の人々のほとんどは、重力の作用を利用してしゃがむ 格好や分娩用椅子で分娩する。また、彼らは好きな向きで横たわっている。例えば陣痛のきている一人の婦人は、もし陣痛が弱くなったからと言って、一人にさ れたらすきなように向きを変えるのである」。イギリスでは患者はそのようにして分娩している。「だが」と彼は結論する。「アメリカの病院のやり方には、そ れは適さない。患者の足が上げられていると、彼女に対して処理しやすいのはもちろんである」(Sweeney 1973:304-305)。要するに、現システムの理論的根拠は、母親と子供の安全のためにあり、それを維持する決定要因は医者の都合にあるということ らしい。メキシコ北部で広く行われるようになった変化の一つとして、「仰臥位やそういう横たわった体位が増えてきたことは、医師の強要のためなのです」と コミンスキーは述べている(Cosminsky 1974:12 傍点筆者)。助産婦達はインディアンのひざまずいた分娩姿勢が今後とられることはないと教えられているのである(同書)。

(2)出産は病院から家庭へ戻されるべきである。

 母親と新生児に対するケアがより科学的に進んだレベルのものになればなるほど、死亡率や出生時損傷、奇形をより効果的に予防することが出来るという医療 上の強い確信があるが、ある著名な医療社会学者は文献を再調査する中で「こうした例に当たる、いかなる証拠も」発見していないという(Mechanic 1975:56)。アメリカでは他のどの国よりも高い比率で出産が病院で行われているが、一般に信じられていることとは反対に、この国が出産するのに最も 安全な国であるとは決して言えない。現に我々はスウェーデン、フランス、オランダ、日本、ニュージーランド、オーストラリアなどの国々に続いてこの方面で は、15番目の位置にいるのである。
 状況によっては、家庭分娩が病院分娩より安全であるとわかってきた。大部分がイギリス生まれの看護婦—助産婦から編成されていた「アパラチア開拓看護 サーヴィス」は、時には馬の背に揺られて険しい丘をめぐり、人里離れた家々で、長年の間、極悪の条件で出産を扱った。ケンタッキーでは、12年間に一人の 母親も死なさなかった。「残念なことに交通手段が発達し、ケンタッキー山脈を越えることが出来るようになり、そして患者の入院化を進める政策が始まって、 彼女達への支払いを止めてしまったため、開拓者看護サーヴィスによる家庭分娩は中止されてしまった」とモンタグは書いている。「こうして今では、妊婦は厳 しい山々の道のりを超えて、何マイルもがたぴしと車を運転して病院に行かねばならず、さもなくば彼らは子供を持てないのである」(Montagu 1962:113-115)。都市のスラム街という条件下にあって、シカゴ母性センターは30ヶ月の間に8000件を越える出産を扱ったが、一人も母親を 死亡させなかった。これもモンタグが指摘していることだが、この数字は合衆国の平均である出産1000件につき一件の母体死亡ということに比較しても見事 なものである(同書)。
 しかしながら、家庭分娩の提唱者は、数字の問題よりも病院ではなく家庭で子供を産むことでもたらされるより豊かな内容に基づいて、家庭分娩を勧めてい る。ヘイゼルは「子供の誕生は家庭内で重大時であり、誰もがその結果に影響されると私は確信する」と書いている(1969)。こうした態度は、ウィリーが フランスのピレネーの村人達に印象づけられた物事を強く思い出させる。村人は、そこには「新しく美しい妊婦のための病院がある」のを知ってはいるが、その 病院のケアは「家族のものが自分にしてくれるような親身な世話を《他人》には出来ないために、どうしても家庭内ケアより劣る。・・・・・子供の誕生は家庭 内での最も重要な出来事である。母親も赤ん坊も共に、家族が与えることが出来る最大のケアを受けるに値する」と強く感じたのである(Wylie 1957:37)。
 家庭で出産の準備や手はずを整えることで、産科医中心ではなく母親を中心とした出産が行われるという感覚を強く持つことが出来るということもまたある。 出産における医師の優越を反映するのはその医学的な口調である。「私がジョーンズ婦人を分娩させた」と能動態を使って産科医は話す、とミードとニュートン は指摘する。お返しに、ジョーンズ婦人も「スミス医師が分娩させてくれた」と受動態を使ってそれを認める(Mead and Newton 1967:174)。分娩が無事うまくいって、感謝されるのは普通、医師であって母親の方ではない。
 家庭での出産はまた、夫にお産の時の治療的役割すら与え、時には彼はさらに、積極的に分娩に参加する。それで陣痛は軽減され得ると多くの人は考えてお り、伝統的社会で広く行われているように、分娩の直前まで、またしばしば陣痛の合間でも通常の身体的活動を行っている、慣れ親しんだ家庭的状況の下では、 分娩はより楽に行われるのである。

(3)医師ではなく助産婦の方が分娩の援助者としては理にかなっている。

 スザンヌ・アームズはアメリカにおいて、助産術の法令化をおそらく最もやかましく提唱している人物である。彼女は「出産文化」の分野で研究を行った多く の医療人類学者から強い支援を受けており、過度に規制された病院の持つ悪影響を強調している(Mead and Newton 1967, Scheper-Hughes 1974, Hazell 1969, Newman 1965)。文明は出産を複雑化する状況や態度をもたらし、そして医師がこれらの問題を扱い、そしてまた「最初関係した医師が原因で起こった問題を」より 多くの医師と「病院化」が取り扱うことになるとアームズは主張している。人工の手が加わらない出産は「ちっとも厄介なものでなく、それ自身安全なものであ る」というアームズの仮説は、我々が見てきたように強い疑問を引き起こすが、多くの人々が信じたがっている一つの論拠であり、それ故強い影響力を持つ。 「今日、分娩が危険で痛く、恐ろしいものと我々が信じているとすれば、それはある一民族として出産をそのようなものにしてきたからというだけのことであ る。もし我々が、分娩の際に役立つ唯一の権威として、医者や病院を頼るとすれば、それは我々が自分の身体は自分がよく知っている、ということから目をそら してきたせいである」(Arms 1975:23)。
 理想的には助産婦の仕事は、家庭の寝室で家族を出産に向けて準備させるよう手伝うことである。帝王切開や難しい体位異常の場合など緊急の事態には、援助 してくれる良心的な産科医と協力して働く助産婦もいる。またあくまでも病院内で家庭的な出産のやり方をまねた形式を取り上げながら病院スタッフに協力する 形で彼女達が統合されていく場合もある。しかしながらヨーロッパの多くの国々とは違って、アメリカでは助産婦職はコミュニティの必要不可欠な医療的、社会 的構造の一部分となるには到っていない。
 助産婦が現在、営業免許を与えられているのは、コロンビア地区内と14州だけで、それも産科チームの一員としてのみである。法律的には許可されてはいる のだが、法律の実際的施行は保留されたままである州では、独立して働く助産婦は訴えられないような機会をとらえてやるしかない。家庭分娩が珍しくなくなっ てきたカリフォルニア州では、法律は証明書を所持しているならば、助産婦は活動してもよい、と曖昧に規定しているが、それは実際には、一度も州立医療審査 委員会から出されたことがないのである!法的な取り締まりがますます頻繁に起こるにつれ、「隠れて行われている」家庭分娩が明るみに出されてゆき、産科医 による制限は親や実践者達から一考を養成されてきている。
 自然分娩法とその分派であるラマーズ法は、この数十年の間に普及した病院分娩を修正しようとする穏当な試みの中で最もよく知られ、またよく行われている 方法である。それらは産科学と分娩それ自身を、神秘的なものから脱皮させた活発な試みとして抬頭した。しかしながら、基本的にはそれらは病院という環境と 両立し得るものであって、それを否定するものではない。産科医のフレドリック・レボヤーは、分娩室でなされる因習的な多くの手続きを否定してきた。そして 彼は「暴力なき出産」、母子両方にとって出産という経験をやわらげ高揚することを提唱した(Leboyer 1975)。概念の上でよりラジカルなのが、出産を畏敬の念を起こさせる奥深い神聖な体験として「再神秘化」する事を探求する「対抗文化 (counterculture)」のメンバー達の考え方と実践である。人類学者のナンシー・シェパー・ヒューズは、サンフランシスコ湾岸地区におけるこ の出産の対抗文化について記述している。その支持者の中には、あからさまには病院分娩を拒否しないものもおり、彼らは出産についての条件が合えばそれを受 け入れることもある。例えば、マリン・カントリーというある小さな病院では、妊産婦病棟と分娩における治療行為を大幅に改善して、かなり多数に登る「風変 わり出産」への期待と儀式に対応できるようにした(シェバー・ヒューズ医師による私信)。今では、父親と母親が自分達の好きなように飾りたてた分娩室で出 産されることが許されている。静かな音楽、聖歌、色とりどりの照明などが許可されてていて、長時間にわたる陣痛の間、適度の飲食もしてよいとされている。 陣痛のきている女性がベッドにくくりつけられることはなく、医者や看護婦も出来るだけ彼女の意に添うことになっている。最終的に新生児は両親から引き離さ れることはなく、短い観察期間の後は、彼らが希望するときに家につれて帰ると決定することも出来るのである。これらの改革によって、実際に分娩が楽にな り、人と人のつながりが改善されたりしており、病院スタッフはそれを有意義だと受け取っている。
 出産対抗文化の他のメンバー達は、異常な状況下以外では、出産は病院で行われるべきでないと考えている。そこでは、新生児がもろいが、しかし卓越した新 しい生命であることとは対照的に、非人格化した対応がなされているというのである。ところが、自然出産の熱心な支援者は、自然の過程を機械化すること、 「風変わり出産」の恐れ、彼らの言葉で言うと、精神的資源が「毒される」こと、それに「下手な医療者の手による身体の冒涜」について疑念と恐れを抱いてい る。ちょっと行きすぎのところはあっても、自然派と対抗文化派の2つのグループは、産科医によるケアと妊娠から分娩までの医学による身体の管理の容認を支 えている仮説を再検討するよう強いてきたのである。
 助産婦と家庭分娩の支持者達は、伝統的な病院でのケアに対するこういった選択を、心理的社会的そして医学的に有益なものと考えている。しかし反対者達 は、それらを気紛れで、ルソー的で、非現実的な、本質的に危険な試みであると見なしている。前者は助産術を医学的ケアの質を向上させるものと考え、後者は それを低下させるものと考える。患者や、そしてますます数が増えている医師と社会学者達は、自分達がこの2つの陣営の中間にいると考えている。つまり彼ら は医療の行き過ぎの是正を求めつつも、伝統的な防衛手段を放棄することについては慎重である。
 「重要なのは」、とアームズによって報告されたテープ録音の中で、ウイリアム・シルバーマンは述べている。「我々は包括的なルールを必要としないこと だ。我々の多様化した社会では異なった価値体系があり、生と死における危険と利益の基準は全ての人にとって同一ではない。この多様性が受け入れられなけれ ばならない」(Arms 1975:114)。家庭分娩を行いたいと思い実行している人々に対しても、妊娠検診の機会とそのサーヴィスは提供されるべきである。「誕生と死、このど ちらについても、我々はまさに危険から身を守るために、自然の過程からどこまで遠ざかろうとしているか、という疑問に直面する。難しい決断をしなければな らないという苦しみに満ちた経験も、人生の一部なのである。我々が人生のある部分を経験することを避けて、何が受容でき、何が受容できない危険性であるか についての包括的なルールを立てようとするゆえに、今日、人生を十全に生きることが妨げられている」(同書)。

老年

 今多くのアメリカ人が経験している一生の段階は老年である。しかしながら人生のこの段階を価値あるものと考える男女は少なくない。多くの人は「青年期の 生活」との不愉快な比較の中で、晩年の生活をとらえようとしてきた。人類学者と他の社会科学者達は、なぜこうしたことになるのか疑問を発している。今日の アメリカではなぜ、早期がんの宣告を喜んで受け入れるのと同じくらいに、年を取りつつあるという考えを喜んで受け入れることができるのであろうか。多くの 非西洋の社会では、そこが異なっている。オノンはモンゴルでの自分の子供時代のことを書きながら、「我々の民族の考えでは、名誉や富は単なる人間から与え られているものだが、円熟した老年というものは神からの贈り物である」(Onon 1972:9)と書いている。こうした理由で、年とっていくことを隠すものは誰もいない、と彼は言う。「それどころか、誰もがこの人生における円熟期を待 ち望んでいる。それは、歳月と豊かな人生経験で満たされた時期であり、特別な敬意と思いやりという何よりも素晴らしい贈り物を受けとることのできる季節で ある」(同書)。もちろんそうした期待をもった者のうち、その輝かしい年代まで生きた者はほとんどなかったということは、あまり強調されていないが。
 人類学者が伝統的なコミュニティの研究において、老人に向けられる尊敬を誇張して記述してきたかどうかを判断するのは難しい。確かに多くのコミュニ ティ、スペイン語圏アメリカのインディアンの村や小規模農業を営む村のような「閉鎖的共同体的」な村では、年ごとの主な慣習活動が「はしご段」、あるいは 一つの道すじとも言うべきものを示し、それによって人はコミュニティに対する不断の貢献を通じて、徐々に「長」の地位やあるいは名高い古老としての地位を 獲得し、功労と威信に富み、もはや世俗的な報いなどに野心を抱かない人物となっていく。しかし、これらのコミュニティの一つであるチンツンツァンで、フォ スターは老人に対する態度はアメリカにおけるそれときわめて似たものであると発見した。コミュニティの出来事に参加したり興味を示し続ける年老いた人々— 村に対し不断の忠誠を示す人々—は、若い頃の彼らの活動のためではなくその関心ゆえに尊敬される。つまりいったん緊張がとければ、尊敬はただちにはがれ落 ちてしまうのである。
 別の文化的形態は、伝統的社会において長老者の役割は全く申し分ないと言い切れるかどうか疑問を起こさせる。例えば朝鮮では、神は人に60年の寿命を割 り当てると信じられている。この齢を過ぎて生き続ける者は他人の犠牲の上でそうしているのである。つまり、本当の「限定された望ましい」人生があるとする 風習のもとでは、それ以上の余分な年数というのは他の誰か、すなわち60歳を越えて生きた者のその年数分だけ早死にする者からの割り当てを受けるとされて いる。そうした状況では、老人達にまとわりつく罪の意識はどのようなものであろう。
 非西洋社会での老年に対する態度の性質や、その幅がどのようなものであれ、アメリカでは、晩年に対する価値が質的に違っているように思われる。「老年」 は多くの者があこがれるような役割ではなく、しばしば、家族やコミュニティの関心の欠如のほうが、受けてもよい名誉や尊敬よりも上回っている。年とった女 も男もしばしば「全てが空虚で、彼らは無価値で死すらも無意味である、としか感じられず、絶望の中で」生き、そして死んでゆく(Curtin 1972:228)。
 青年期や壮年期と比較して晩年は相対的に価値がないとする倫理は、アメリカでは最近の文化的現象であり、それはこの半世紀あまりで寿命を47歳から70 歳まで引き上げた医学の成功と関連している。1900年当時には、25人のうちたった一人が65歳に達することができた。今日ではそれは10人に一人と なっている。さらに65歳に達した男性は、今日では78歳まで生きることが期待できるし、女性の方は平均して80歳までが期待できる。他の年齢層に比して 老人がほんのわずかであった頃には、彼らに社会的便宜を与えることができた。我々は特別な敬意を払って、例外的な少数の人達を受け入れられた—元老、円熟 した芸術家、商業界の大物、優れた裁判官、神学者、教授といったような。これらの人々は今も活躍し、生産的な人々であり、それゆえに業績志向型の社会では 高く評価された。しかし、1970年代までに、我々は2100万もの恐るべき人数の老年の人々を生み出し、それらの人々の大部分は、大部分のアメリカ人と 同じように天賦の才に満ちた人々ではない。しかし若者志向型の社会で彼らがともに生活できるための対策は講じられなかった。
 まさに老化と老人の概念は、それが健全な長寿と、しばしば死を間近に控えた希望のない、瀕死の状態との区別(ほとんどの文化で設けられた)を消し去って しまったので、曖昧で人にいやがられるものになっている。その結果は奇妙な時代錯誤、すなわち死につつある人にとってのみふさわしいような社会的態度を伴 う長い人生である。要するに我々は、老化を機能的に定義する代わりに形式的なそれで代用し、老人が実際にできることは何か、という論理的な評価の必要性を 除去することに成功してきたのである。
 アメリカのみならず、どのような伝統的社会システムでも西欧文化が侵入していっている社会では、我々の文化的態度が、老人の精神的、身体的福利や彼らへ の医療の内に深く示唆されている。病気にかかっている、または死につつある少数者として見られ(Clark 1973:80-81)、彼らのケアはますます機械的に「安息の家」や「病後」療養所に任せられてしまった。現実に精神的または身体的病気にかかった時、 老人は治療的ニヒリズムという医学的原理にしばしば直面する。すなわち、精神力学的な治療は時間の無駄と考えられており、サドナウらが報告したように、老 人は重篤な状態になって病院に担ぎ込まれた時、救い得るものと見なされそうもないのである(Sudnow 1967, Knutson 1970:51)。他方、コーカサスでは、病気は非常に高齢な時でさえも正常あるいは自然なこととは考えられておらず、それは阻止されなければならないと 考えられている。患者を含め全ての者が回復を期待するのである。「『おい、その年で何を望むっていうんだ?』といったような宿命論的考えを表すような言葉 は、聞かれたためしがない」(Benet 1974:14)。
 老化に関する我々の評定の帰結は、健康の研究にとってもまた不運なものであった。というのは、老人をこのように安易に病人の役割の内に閉じ込める限り、 多くの疾病の経過と、まだよくはわかっていないし、ほとんど研究されていない老化のプロセスとを、区別する契機がほとんどないからである。しかしクラーク が指摘しているように、「アメリカでは、我々が老人として避けられない生物的な特徴である、と考えてきた事柄—知覚鈍麻、記名力障害、意識の混乱、記憶喪 失、失禁等—が《通常の老化》とは区別しうる疾病の症状なのであり、それは回復可能でまたコントロールできるものなのかもしれないことがわかってきつつあ る」(Clark 1973:81)。

1 老化の社会的な解釈

 正常かつ「健康な」老化の性質を探求する必要性は、まず社会学者達によって認識された。「離脱解放説」(Cumming and Henry 1961)、「準少数者説」(Barron 1961, Kiefer 1971)、「下位文化説」(Rose 1965)といった仮説は、精神的身体的な健康の基準を粗描し加齢の「進行」につれて適切なケアを行うに際して、示唆するところがある(Cowgill and Holmes 1972)。このうちもっとも有力なのが、離脱解放説—健康な中流階級のカンサス人に対する研究から引き出された—である。この説は老いた人々と社会の双 方が、相互に退きあうことが規範となっているだけでなく、この両者が互いに遠ざかった後ではその両者ともよりうまく適応すると仮定している。アメリカで社 会学者や心理学者により、非常に限られた範囲で通文化的なこの説の検証が引き続き行われた(Havighurst, Neugarten and Tobin 1968)。その検証は、晩年におけるこの種の社会的な磨滅を、「常態」とすることに疑問を投げかけ、また離脱解放ではなく行動こそが、彼らの心理的な安 寧に関係していると示唆している。
 1960年代の終わりの頃まで、人類学者達は社会老人学(およびその姉妹というべき老人病学)という新しく登場した分野に対し、ほんのちょっと注意を向 けただけであった。カウギルとホームズが指摘したように、「これは人類学者がその領域を無視したということではない。ただ単に、彼らのフィールドワークが 出版物の中では、老化の過程と老人の状況が研究された文化の他の多くの側面とともに扱われてきたというだけである。年輩の人々がしばしば重要な情報源に なってくれたにもかかわらず、そういう研究で老化ということに焦点が置かれるのはまれであった」(1972:■■)。状況は変わり、この10年間に、老化 とそれに伴う文化的ジレンマという現象について、刺激的な人類学的探求がいくつか見られた。ヤコブズ(1974)、ビルネ(1974)、ジョンソン (1971)は、アメリカ内において、老人の「コミュニティ」や、これらと取って代わった生活様式の精神社会的な利益と信頼性を分析するのに、伝統的な フィールド・テクニックを活用してきた。ベネット(1974)は、年齢による差別を拒否したり緩和しようとすることで、ソ連のアブカジアン族はストレスの ない身体的社会的適応の一つのモデルであるとして支持している。カウギルとホームズ(1972)は通文化的データに基づいて、近代化に伴う自我の弱体化と か疎外感の不可避性について、既存の主張に異議を唱えている。そしてクラークは画期的な論文の中で、アメリカにおける老化の概念を定義した。その定義によ れば我々の社会における老人とは「依存的で、彼らの多くは病者の役割にはめ込まれる。これは彼らが演じることを許された、唯一の社会的に承認された役割な のである」(Clark 1973:81)。

2 対処の仕方:2つの基本的戦略

 前述の説明の大部分は、現存する不公平とどう対処するかについて、少なくともある程度までの提案を含んでいる。本質的には、この2つの基本的戦略、ある いはモデルは、人類学者と他の行動学者により提出されたものである。

a  「システムに立ち向かう」モデル

 クラークとアンダーソンは、老化に適応させるような5つの課題のモデルでもって「システムに立ち向かう」アプローチを支持している。そのモデルは 1200人のサンフランシスコの老人を対象にした、3年にわたる長期的な研究から生まれたもので、彼らの半数は、入院が必要なほど重篤な、年齢にまつわる 精神的病いを患っていた。「課題」は、サンプルのうち正常な残り半数の人々を、60歳以後精神科病棟に赴かせない点で、有効と判明した戦略の評価から生ま れてきた(Clark and Anderson 1967:398-414)。これらの課題とは—「うまく年をとっていく」ことができるためには、これらの全てが「やり通される」必要がある—老化それ自 身を受け入れること、コントロールを最適なレベルに維持するため「自己の生命のスペース」を改革すること、満足のよりどころを新しく見つけること—という のは、昔のそれは不適当になったり、消え失せたりするので—、また、自己評価の基本となっているものを修正すること、そして最後に、新しいライフスタイル を展開するために、価値観の再統合を行うことである。後者はしばしば、社会において、正当な位置を勝ち取るために、攻撃的な対人訴訟を要求する。著者は次 のように結論づけている。「アメリカ的生活からの老人の疎外は、どのような創造的解決策によっても全くなくなってしまうことはない、というのは我々には明 らかである」(同書、429)。晩年をもっとも良く生きることのできる者とは「実に、価値観の追求をやめて(彼らの文化はそうすることを要求してきたのだ が)、身近にある他の価値観をやりとげ得る代替物として取り上げてみることのできた人々なのである。それは、獲得や開拓のかわりに維持することであり、自 己向上のための絶え間ない努力に代えて自己を受け入れることであり、なすことよりも生きることであり、他人を制する代わりに、他人に共鳴し、協力し、愛 し、そして関心を持つことである」(同書、429)。
 確かに、ある一定の価値観から他のそれへの転換は、ある人には重大で緊張に満ちた断絶を負わせることになる。しかし、人生という競争の場の内側にとどま ることを代用しうる能力は、「至難の技」なのである。(今日ある姿の)アメリカ文化が老人にとって正常であると見なしているにもかかわらず社会的引退は、 身体的・情緒的不適応を意味する、と彼らは強調する。このことを、社会からの個人の「離脱解放」が「正常」で、健全な老化の不可欠な部分である、という社 会学者の説に、彼らは反対する。最近アンダーソンは、老人を文化的に再統合することを推進するため、5つの課題モデルを一連の行動定式へと緻密な理論を提 出している(Anderson 1978)。

b  「システム逃避」モデル

 アメリカの老人達は「大人が住む町」と婉曲に呼ばれる地域内のような、彼らのために排他的に設計されたコミュニティか、あるいは、あまり裕福でない引退 した人々が集まるトレーラー住宅公園のような環境に住むことにますます惹かれつつある。どちらのタイプの環境にせよ、退職した人々は仕事よりもレジャーの 追求を中心としたライフスタイルを作り上げている。人類学者は、その両方を研究し、より大きな共同体に住むことが拒否された彼らを、心理的、身体的に支え ることにある程度成功している、と報告した。
 コミュニティ内部で作り出される擬似的活動の流行を強調することによって、老齢を「無視する」のは、人によっては、有効な手だてであろう。つまりそれ は、より健全な自己イメージを持つための基盤を提供し、「外部の」人を不安にさせる諸々の変化から彼らを隔離してくれる。しかしながらアーデン—ある裕福 なカリフォルニアの退職者のコミュニティの仮の名—のスーザン・ビルネが書いているところによると、基本的な魅力の源は「居住者が、依然と同じように暮ら すことの出できる環境を用意しているところにある」(1974:151)。ある人々にとって、このような人口密度の高い、年齢別のコミュニティに適応する ほうが、彼らの出身である都市や郊外で年老いていくよりも、行動を劇的に修正しなくてもよいのは明らかである。しかし、老人の世界は、せいぜい彼らを無視 する社会からの妥協的逃避にすぎないのだ、という潜在的な思いから男も女もどうしても逃れられない。「都市化された農民が、社会の大きな流れに飛び込ん で、新しいやり方を心から受け入れてゆくのとは違って、退職者のコミュニティに移住してくる者は、ある意味で、より広い社会とのきずなを弱めつつあるのだ が、そのことを認めたがらない」(Byrne 1974:139)。老人にトレーラー公園が非常に魅力的なのはまさに、トレーラー公園のどちらかと言えば小規模でかつ似た者同志が集まるという構造が、 多大な心理的強化をもたらし、彼らに「我々は皆、一つの大家族みたいなものだ」と感じさせるからである(Johnson 1971:173)。
 そのような全てのコミュニティのために起こる再発するストレスで最も多いのは、地域内での病いや死に対する恐れだと予測できる。「そうした死は彼らを滅 入らせるもののようであり、彼らは葬式に出席するのも一般に避けていた」と、カリフォルニア州バークレーにある労働者階級のトレーラー住宅コミュニティの ジョンソンは著述している。アーデンのより高級なコミュニティで、ある引退した公衆衛生の教授がこう書いている。「それ(死)について話してはいけないと いうのは不文律であり、もし誰かがそうなっても、話すのはごく内輪の人間の中だけである。それで、半年位過ぎた後に『誰それはどこに行っているのか』たず ねると、誰かが、彼は死んだよと答える」(Byrne 1974:148)。ある大きなクラブハウスの会合で、ある男が誰の目にも明らかな心臓発作で死んだ出来事をビルネは報告している。「電話をかけて5分も せずに救急車が静かに到着し、司会者は病人が車に運び込まれるとスピーチを再開した」。テラスにいた大勢の人々は、「全く関係ない、というように振る舞っ た。私のそばに立っていた4人グループの中の一人の女性は、彼は部屋の中の蒸し暑い空気で気を失ったのに違いないと言い、次の女性は、遅れて来たおかげ で、中に席がなくて良かったわ、と受け答え、皆は口々に良かったと言い、そして笑った。そうして、彼らは園芸の話を始めた」(Byrne 1974:149)。



 死に向けて準備を整えることは、自分の経験の中で先例のない状況の予想を必要とする。特にアメリカ人は幼い頃から、あたかも彼らは不死身であるかのよう に、生きることに慣らされており、実はそういう考え方は筋が通らないと言う証拠からも守られている。
 大部分の伝統的社会では、このような虚構は維持されるはずもない。カルカッタの通りでは死が群がっているのが嫌でも目につき、それはアフリカのサヘルの みすぼらしい村々でも同様である。子供達は栄養失調と病気という究極のかせを負って生きており、母親は、成年に達するまで生き延びるのと同じ数の赤ん坊を 失い、長年にわたって、数がそのままの家族はまれである。生活がもっと豊かで、健康と成年に達することが当然のこととして期待できる農村地区でさえ、家の 中で死んでいく人を目の当たりにしたり、葬式における多くの参列者、また老いていく人々との日常的なふれ合いなどが、死という事実について若い者に心構え を与え、どのようにして死んでいくのかを教えているのである。
 他方アメリカでは、それまで誰かが死ぬところを見ないで大人になってしまうことが多い。暴力や事故、自殺などを通して、たまに、偶然死に出くわすことが あっても、いきあたりばったりの破壊的な出来事として、我々の恐怖を強めるぐらいであり、運が良ければ、自分はどうにかこうにか免れることができるだろう と考える。無意識に、我々は死ぬはずはないと思っている。ただ殺されることはあり得る。「それゆえ、死それ自身が悪い行いや恐ろしい出来事を連想させる」 (Kubler-Ross 1969:2)。
 死に関して、誕生の時以上に、アメリカ人はケアや、決断を回避し、病院や医師に任せてきた。我々の病院の中で、過度の延命に関する議論が何かしらの意味 を持っているにもかかわらず、新しい出産の文化における明白な医療の取り組み方から遠ざかっていく傾向は、死にたいする補足的アプローチを明らかにはして こなかった。病院は、依然死に対処する難行から、家庭や家族を離し続けている。死は「白衣地帯」の無名性の中で起こり、ある批評家の判断するところによる と、その無名性は患者を「部屋番号」に、そしてその両親や子供達を「訪問者」の位置にしばしばおとしめる。我々は別の死に方など思いつくこともできない。

1 死にゆく技術

 今日、死にゆくことの技術(中世の作家の表現ではars moriendi)に最も接近することができたのは、生命と健康に関する自然主義的解釈が、いやいや受け入れられたものではあるが、死の正当な評価に関す る理解を育んできた農民の世界である。村の暮らしという相対的無時間性のなかで成長する過程、安定し、しばしば三世代家庭で、老人と若者とが、病者と健康 な若者とが日常的に触れ合い、通夜や葬式などもありふれた出来事となっている中で成長すること—これらの経験が、他の場所では根本的に欠けている老化や死 にゆくためのモデルを提供する。そこでは、あらかじめ定められた正当な生命という観念と、一つのドラマの成就という観念とが発達しており、そしてそのドラ マの非常な結末は以前に何度となく証明されてきたので、驚くことはない。
 フランシス・アダムスは、メキシコのサント・トマス・マザルテペクの村で、老いてやがて死んでいく過程を子供達が幼い頃からいかにして気づくかを語って いる。「彼らは弱ったり疲れたりした老人の使い走りをしたり、年をとった親戚の者が病気になったときは看護につとめる」(F.Adams 1972:112)。一部屋しかない家の中で、家族全員による支援の輪に囲まれ、死がやってくること、そして人の連続性の目に見える証拠として、その部屋 の中では子や孫が生き続けることを、子供達は学ぶ。その村の13歳の子供のインディアンの目を通して見たところでは、死は否定されるものでもなければ、報 いや死後の世界の確かな展望でもない。「老人が家で死にかかっています。家族全員が家の中にいますし、子供達もいます。両親は子供達に、もう二度と会えな くなるので老人にお別れを言うのだと教えます。彼は来世に赴こうとしています。泣き声がもれます。誰かが・・・・・『あなたにもう会えないんだね』と言っ て泣き出します。近所の人が訪ねて来て、友人もやって来ます。・・・・・子供達は老人に『私達を放らないで面倒見てくれてありがとう』と言います。老人は 家族にお別れを言います」(同書)。
 他方、アメリカでは死への対処はあまり率直なものではない。死がさし迫ると、ドラマの回りにはカーテンが引かれ医療従事者によって仰々しい看護がなされ る。病人は(すでに入院している人でさえ)個室の「死にゆく部屋」に移され、そこで頼りになる縁者が死を見守るという重荷を担う。
 こうした予防策は、患者の不安を軽減するとともに医療スタッフや親類縁者の不安を緩和するために考え出されたと思われ、患者にとってはこのような戦術 は、治療的なものとはほど遠いものに映ってきた。キャロル・テイラーは、病院文化の研究の中で、死につつある人は、生きることや死ぬことの関心を語りつく すような機会を歓迎していること、多くの人が自分達が死にかかっていることをできるだけ早く知りたいと思っていること、そして家族や友人達に適切な別れを 告げたい、という望みをくじかれていることを思い出した。ある入院していた若い女性はこう抗議した。「彼女達(看護婦)は車椅子で私を外に連れ出し、そし て私はさよならと言った。私は子供達に部屋に入ってきて欲しかったのに。彼女達にとっては、見知らぬ者が回りにいて見守って聞き耳を立てているのは嫌なこ とだったのです」(C.Taylor 1970:187)。また同じ施設で、一人の南部出身(Cracker)の女性が南部の田舎についてせつなそうに話し、そして我々の文化の内にある、違う 別れの仕方を容認してきただろう古い伝統について語った。「もし私が家にいたら、親類の者がずっと起きて私を見守ってくれるだろうに」(同書、186)。
 伝統的世界の多くでは、死の迫った入院患者は家に帰される。この決定がすぐになされないと親類の者達はしばしば非常に困ってしまう。インディアンのある 情報提供者(informant)はテイラーにこう説明した。「家族の一員が他人の中で死ぬようなことになると、我々は心が乱れる」(C.Taylor 1970:187)。フランスのウィッスーでは、村人達は、死につつある親類の者を、遠い病院から彼らの家で死ぬのに間に合うように進んで連れ帰るが、そ れは必ずしも全く感傷的なそぶりでもない、という事実を別に隠そうとはしない。もし病院で死んだ場合、その病院が位置する行政区の外から来た患者の家族に は、かなりの「死税」が課せられる。またある情報提供者が説明したように、家族は、最後のお別れのために、散り散りになった親類を家に呼び集め、葬式の期 間中彼らを泊めて食べさせてやるためにお金を使うことを好むという。ごく少数の者だけが「羽飾りの葬式」を楽しむ。これは余分に30ドル支払って、死者の 家を覆う黒のベルベットの掛け布と、家族の埋葬地—その壁で、春には子供達がタコを揚げる—まで、柩を引いてゆく馬のため、たっぷりと羽飾りをしたかぶり 布とを用意する。大部分の者は、店のウインドー内に貼られた黒枠の告示を見てやって来た友人とともに、質素な柩の後について歩くことで満足し、またその友 人達は家族と一緒に戻り、残された家族を手伝うのであった。

2 死にゆく患者の取り扱い

 キュブラー‐ロスが我々に語るところでは、医療共同体は、死にゆく患者とその家族に対する社会が放棄した道徳的責任を負うことを、望んでこなかった。実 際、医者達はしばしば死に直面すると急に不愉快になり、死にゆく人やその近親者と親しくなることからできるだけ遠ざかろうとする。施設で死ぬアメリカ人は 避けがたい死を目前に控えて、彼ら自身の気持ちの整理を、一人ぼっちでしなくてはいけない。死と死にゆくことの鋭い分析の中で、キュブラー‐ロスは患者の 葛藤を特徴づける連続した5つの段階を記述している。最初の段階は死の否定である。人は自分自身の終末がさし迫っている、という高まっていく証拠を単に信 じようとしない。第2の段階では、それが全く不当で不公平である、という怒りと憤りが否定にとって代わる。第3は、取り引きの段階であり、その間は神また は運命に、彼の命の返礼に取り引きしようと試みる(もっと良い人間になりますからとか、他人をもっと大事にしますとか約束する)。これが無駄なことがわか ると、彼は抑うつと、生命や愛する人々を失うことに対する予備的な悲しみの期間にはいる。ついに最後の段階では、受容のレベルに達する—死を静かに予期 し、愛する人々をも含めて下界への関心を少なくしていく(Kubler‐Ross 1969)。
 死にゆくことについて率直に語るのに大きな障害となっているのは、死についての病院の対話を特徴づけている、辻褄の合わない話し方である。キャロル・テ イラーはこう言っている。「このように、死のドラマの中心人物は、あなたは死ぬだろうけれども、また別の機会まで死ぬために生きるかもしれない、という可 能性もあると言われる。死にゆく人と最も近しい人々は、彼はきっと死ぬでしょうと告げられる・・・・・看護婦は、奇跡は阻まれ死は避けられないと言われ る」。看護婦達は時おり奇跡を見たことがあるが、最も期待される奇跡は「死の場面を次の勤務帯へと押し出す奇跡」である(C.Taylor 1970:186-187)。
 多くの医師や社会学者達は「死に行く者の取り扱い」や、医療的に作り出された死の状況に関して批判的である(Krant 1972)。病院では静かに鎮静とともに訪れる。あまりにも静かにやってるので、死を判定するのは「微妙な事柄」となってきている (M.Richardson n.d:2)。無経験の看護婦はしばしば困難な問題である。サダナウが描写しているある例では、看護されていた男は「ひどい火傷を負っていて、目の回りを 除いて全身をガーゼで巻かれていた。看護学生が彼にストローを使ってジュースを飲ませようとするのに、何分もかかっていた」。いいかげんじりじりした彼女 は、教官に報告し援助を求めた。「その教官はこう言った。『うん、君、もちろん彼は反応しないよ。彼は20分前に死んでいるよ』と」(Sudnow 1967:87)。
 シュピーゲル(1964:297)は、アメリカ人が死を技術上の失敗として見なす傾向が強まってきたことを説明してきた。「それは誰かがミスしたとか、 研究が単にこの種の事柄を解決するに到らなかった、ということを意味している」。このように、死にゆく過程を長びかせつつあるにもかかわらず[ダフとホリ ングシェッド(1968)は、現在その中央値を29ヶ月と概算している]、「死に行くという事実は、楽観的もしくは安心させる言葉で覆われており、その死 にゆく人間は、自分の立場を最大限に活用する機会がほとんど与えられていない」(Spiegel 1964:297)。状態の悪い、末期の患者を死の淵から救い出すような医療の奇跡は、医療従事者によりしばしば奨励されているが、彼らは実はひそかに、 それを生み出すことのできない無力さにいらだっているのだ。
 医師ほど、「治療者」としての役割の中で、一体自分の務めはどこまでなのだろう、というジレンマに捕らわれている者はいない。死に直面して、彼は自分が その専門的技術を擁護する必要にあることを見出すかもしれない。「できることは全て尽くしました。今は待つだけです」という言葉は、もし死が予告なしに やってきたとしても医師はその到来を知っていたのだ、ということを確信させる。一方、もし患者がなかなか死ななければ、医師は「不屈の魂だ」と言うことが できる(Richardson n.d:2)。
 非常に感情移入の強い医師は、死に直面するとき、問題を抱える。我々のうちの一人(アンダーソン)は、死にゆく子供達の傍で働き、小児科医や外科医のい らだちを観察する機会があった。彼らは、子供の側からの信頼や依存により特徴づけられる、しばしば長びく関係を続けることができず、またどのようにして終 わりにしたらよいかもわからないのである。時々、医師は徐々に(あるいは突然に)手を引くほか仕方がないことを悟り、援護的な友情を終わらせ、子供の中に 放棄される気持ちを、また両親には混乱と怒りを生み出してしまう。

3 死の定義

 死が近づくと、家族は医師や看護婦、スタッフから暗示を受け取る。それは、人を患者のように扱うことから死体のようにそうすることへと、ごくわずかでは あるが変化する彼らの態度から得られる。しかしながら、この移行が実際に起こるのは一体いつなのかという点に関する一致した見解は著しく欠けている。ナッ トソンが死にゆく患者の文化的な評価の中で指摘したように、「正式の普通法や職業的倫理基準により、生きている者にふさわしい扱いと、死ぬと定められた者 へのそれとは明らかに違う」ゆえに、それは重要な判定なのである(Knutson 1970:44)。
 「脳死」は検討中であり、この目的にかなうかもしれないが、評価尺度としての妥当性は曖昧なものである。なぜなら、特に近代の技術的進歩とともに、「コ ンセントでつながられた」患者が、表面上の脳死の後でさえ、呼吸をし続け、識別できる心拍動を打ち続けることが明らかに可能であるからである。サダナウは 死を次のように区別している。「臨床的死」、つまり診察上死の徴候が出現すること。「生物学的死」、つまり細胞活動の停止であり、これは簡単には立証され ない。「社会的死」、これは診断の上の手がかりではなく、生きている人間が死体にふさわしいような扱いをされる時点である。カリッシュの「人類学的死」 (人がその社会的世界から、拒絶されるか切り離される時点)は、身体的死を鑑定するのに役立つものではないが、全ての定義は、個人が人間として定義される のを終えるのはいつかという重要な医学的鑑定に対抗しようと試みている(Knutson 1970:44)。

4 変化への提案

 将来はどんなものなのだろう。死にゆく患者に対するケアの組織化、および死を家族、良心、そして神の範疇から医療のそれへと運び去ってしまう技術的進歩 に伴い、不満はますます高まってきている。「あるレベルでは」、議論好きの医師—哲学者であるアヴォーンは、こう言っている。「我々医療専門家は、先達よ りももっと優れた結果を主張することができる。どんな司祭がうまく作動された除細動器にかなうことが出来るというのか、またどんな神なる者が、バードマー ク・呼吸器の効力で生命の息吹を吹き込めるというのか。我々はもし充分早くそこに駆けつけるなら、死者を蘇らせることだってできるのだ」。他方、彼は医療 がその過程の中で幾分、「死を、消費者よりもむしろ熟練した供給者によりコントロールされる、大量生産される非人間的商品にしてしまった」と論じている。 生命の徴候を維持することに狭い関心を注ぐだけでは十分ではない、と彼は結論している(Avorn 1973:58)。
 クラントと彼の協力者達は「人をうまく死なせてあげるように援助することは、ヘルス・ケアの積極的な部分として理解されるべきである」と信じており、ま た彼らは、新しい血の通った病院環境につけ加えて、死にゆく者のケアや残される者達の必要からカムフラージュを取り去り、家族や友人達と共に進めるよう、 病院の部屋という壁を越えて行動することを提案している(Krant 1972:101-108)。死との対面や、手に負えない痛みや不安というその重荷に、個人的な相談助言をするとともに、薬物や一般的な医学的治療手段を 増やしていくという、一つのより治療的なアプローチが、200人以上にものぼる死にゆく患者達の研究を基にして、キュブラー‐ロスによって主張されてき た。彼女は問題を文化的土俵の上にきちんと置く。死に関する社会的倫理の進歩は、医療的なそれの進歩に先んじなければならない。「もし我々が物質的な物事 をますます追求していくことをやめ、何が本当に重要なことなのかしばし考え、また生および死についてよく考えてみる勇気を持っていたなら、我々は自分の子 供達を、もっと違ったふうに育てられるだろう。アメリカで人口の80パーセントもの人達が、施設で死ぬようなことはさせなかったであろう。また、病院の中 で病んだり死にそうになっている患者を訪れることから、子供達を締め出したりはしなかっただろう。我々は、死および死すことを再び生の一部分となしただろ う。そうして我々は、『私は生きてきました。だから死んでいくことができます』と穏やかな表情で言える世代を育てることができただろうに」 (Kubler‐Ross 1972:159)。
 アヴォーンは、医療従事者と死にゆく人々との間の信頼のための新しい基盤を主張しており、また彼は、それを完成させるために使われる、心を広げる薬物と いうものを理解したいと思っている。「これらの薬物が・・・・・なそうとしていることは、西洋文化の基本的な思い込み、つまり、人の本質や人生の目的につ いての思い込み—今のアメリカにおいて、しばしばグロテスクなほど行き過ぎている—を変え得る現実の一形態に迫ろうとすることである」(Avorn 1973:59)。しかしながら、たとえそれが可能だとしても、そのような病院治療の実行を考慮しようとする医師はほとんどいないであろう。ほとんどの者 が、安全とされてきた方法を刷新することに警戒と保守の態度を示してきた。同時に、しかしながら、医療テクノロジー—ほとんど独立した科学としての—は、 死のコントロールにおける新しい選択の余地を開発し続けるので、医師、患者、それにその家族達は、かつてなかったような決断をするという難しい領域に入る ことを余儀なくさせられている。これらの事柄の複雑さや、その生および死への影響力はやっと感じ始められたばかりであり、(もし医療や人間が死のコント ロールを放棄するならば)いつ、どのようにしてアメリカ人は死ぬことを許されるべきかについて、法廷からの解答が要請されるかもしれないのである。

要約と結論

 大部分のアメリカ人が病院の中で生まれ、そして死んでゆき続けているにもかかわらず、自分達がどのようにこの世界に登場し、またどのようにそこを離れて いくかについて疑問を持つ人間はますます増えている。重大なところでは、医師や病院は、誕生や老化や死といった、基本的に非医療的であると多くの人が見な している現象における「患者」とその家族の要求を満たしていない。誕生や老化や死が、その「正常な」成り行きでは進行しない場合でさえ、医療的に指示され た管理やケアにこれらが帰属するという結果について、多くの疑問が挙げられている。特に起こってはすぐ消える倫理的問題は、我々の文化において生命(およ び誕生の経験)に異常に高い価値が置かれていること、また老人の扱いの曖昧さや、どんなに費用をかけても生命を延長しようとすることの結果が曖昧なために 生じている。限られてはいるが活発な一連の研究は、これらの問題に対する伝統的アプローチは、恐らく我々が誇りをもってさし示す技術的・臨床的進歩と同じ ぐらい健康にとって重要なものとして、有力な感情的、社会的支えをしばしばもたらすことがわかってきた。家庭での出産、老人に対する公共体の支援、そして 死に対するより開放的なアプローチが提案されてきた。
 我々の文化における誕生、老化、死をめぐる諸問題が、善意やちょっとした新しい社会化によって簡単に解決されうる、と安易に結論づけるのは間違っている だろうが、ガルソーが、「医療は、まさにその効能において不満の原因を招く」というのももっともである(1966:61)。



このページは、かつてリブロポートから出版されました、フォスターとアンダーソン『医療人類学』の改訳と校訂として、ウェブ上においてその中途作業を公開 するものです。

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他山の石(=ターザンの新石器)

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