On the Football War
アウトライン(すべてウィキペディアによる)「サッカー戦争(サッカーせんそう、スペイン語: Guerra del Fútbol)は、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。両国間の国境線問題、ホンジュ ラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題が引き金となり戦争に発展した[5][6][7]。この戦争の根本的な原因は 両国の経済成長モデルと農地問題に起因した国内矛盾にあり、寡頭支配層が国際紛争を引き起こすことで政情不安の高まりを一時的に回避しようとする狙いが あったと考えられている[8]。一般的には同年6月に行われた1970 FIFAワールドカップ・予選における両国の対戦と関連付けた「サッカー戦争」の名称で知られているが、この戦争の性質を端的に捉えたものではない [8]。100時間戦争[6][9]、エルサルバドル・ホンジュラス戦争[10]、1969年戦争[7]とも呼ばれる。」脚注はすべてウィキペディア「サッカー戦争」によ る
●前史・コンテクスト
エルサルバドル |
ホンジュラス |
エルサルバドルは中米で最も国土面積が小さく、人口密度が最も高い国で
ある[11]。人口の約9割は、メスティーソと呼ばれるスペイン系などの白人とインディオの混血であり[11]、残りは純粋な白人とインディオで構成され
ていた[11]。山岳地帯が連なる狭い国土に居住しており、中米地域の中で特に工業が発展していることから「中米の日本」とも評された[12]。
その一方で19世紀後半頃から国内経済をコーヒーの生産と輸出に依存していたが[13]、これは政府が自給自足農業を行う先住民の土地所有を法律により禁
止し[13]、コーヒー生産者には税制上の優遇措置を付与するなどして、国を挙げてコーヒー生産を奨励したことの影響によるものだった[13]。国土の多
くは「14家族」(カトルセファミリア)と呼ばれる一部の白人富裕層の所有する農場で占められ、土地や財産を独占していたのに対し[12][13]、多く
の国民は低所得に抑えられ生活に困窮していた[12][13]。
土地を所有していないエルサルバドルの一部の国民は、約6倍の国土を持ち人口比もエルサルバドルの2分の1(250万人)に満たない隣国のホンジュラスへ
と移住し生活基盤を置いたが、こうした移民は1960年代当時、合法による者と非合法による者を含めて30万人[14]から50万人に上った[15]。 |
ホンジュラスでは古くからエルサルバドルからの移民を受け入れ、
1900年代には政府が辺境地を開拓する意思を持つ移民に対し無償で土地を提供し[16]、1932年にエルサルバドルで恐慌が発生した際には、数千人が
ホンジュラスへと移民し、農園や鉱山で働いた[16]。一方、ホンジュラスの国内情勢の変化や、地元民と移民との間での土地と仕事を巡る争いごとが表面化
すると[16]、ホンジュラス政府も次第に態度を硬化させるようになった[16]。
移民問題に対処するべく、両国政府は1962年と1965年に条約を締結し調整を図ってきたが[16]、ホンジュラス国内の人口増加、バナナ農園の近代化
に伴う労働需要の激減、牧畜や綿花農園の拡大による農地不足が問題となり、野党や富裕層から農地改革への圧力が高まっていた[7][17]。ホンジュラス
政府は1969年1月[18]に条約の更新を拒否し[17]、オスバルド・ロペス・アレジャーノ(スペイン語版)大統領は、1962年に制定された農地改
革法の実施に踏み切ることになった[19]。この改革法は土地の所有者をホンジュラス国内で出生した者に限定したもので[19]、それに該当しないエルサ
ルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求める内容となった[19]。ホンジュラス政府による発表は1969年4月に行われ[18]、同年5月下旬まで
にエルサルバドル移民の帰還が始まった[18]。 |
その中で、1950年代から工業化が進んだエルサルバドルは、国民の多
くが貧困層であり国内市場が狭いという事情が存在したものの[22]、一部の富裕層向けの生産と双務貿易協定に基づいた中米諸国への輸出向け生産により発
展を遂げていた[22]。同国は中米共同市場の発足の際には主導的役割を果たし、加盟国内で最も多くの恩恵を受けていた |
国の産業をコーヒーやバナナなどの農業生産と輸出に特化し、先進国から
は「近代化の遅れた国々」と見做されていた[20]エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、グアテマラ、コスタリカの5か国は、中米地域の経済統合を
目指して1961年に中米共同市場を発足させた[20]。中米共同市場の発足と、アメリカ合衆国の圧力による外資系企業の参入自由化により、1960年代
に5か国での工業化が進展した[20]。工業立地に関して当初は、各国間で公平に分配する取り決めとなっていたが[21]、加盟国間の対立と外資系企業の
圧力もあって緩和され、工業化の進んでいたエルサルバドル、グアテマラ、コスタリカの3か国に工業立地は集中するようになった[21]。ホンジュラスでは
工業化に立ち遅れ[22]、エルサルバドル製品により市場が圧迫を受けるなどの不均衡が生じたことから、ホンジュラス側は不満を抱くようになった
[22]。 |
両国の国境線は植民地時代以来、河川を基点とすることが多かったが
[15]、雨季と乾季で地形が大きく変動することから国境線が未確定の部分が存在した[15]。そのため、エルサルバドルのチャラテナンゴやモラサン北部
では、両国がたびたび衝突を繰り返しており[16]、1961年、アルベルト・チャベスに率いられた部隊がホンジュラス領内のドロレス(スペイン語版)と
ラパスに侵入して現地の市民警備隊と交戦し、指揮官のチャベスが死亡した[23]。6年後の1967年5月29日、エルサルバドル領内のモンテカ
(Monteca)
をパトロール中の国境警備隊が、ホンジュラス軍部隊の待ち伏せを受けて戦闘となった[24]。この戦闘によりエルサルバドル側は3人が死亡、2人が捕虜と
なり、ホンジュラス側も2人が死亡したが、その後しばらくは国境を挟んで両国の緊張が高まった[24]。 |
【国境紛争】左カラム参照 |
移民の国外退去は強制的なもので[14]、ホンジュラスの「ラ・マン
チャ・ブラバ」と呼ばれる極右組織や準軍事組織が関与し[25]、残虐行為が行われた事例が報告された[5][25]。これに対しエルサルバドルの新聞メ
ディアは、ホンジュラスに対して徹底的な報復を求める様に政府に要求した[25]。 |
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ホンジュラスのアレジャーノ大統領により実施された農業改革法は、主に
国境未確定地帯に居住しているエルサルバドル人を退去させ、ホンジュラス人を入植させることを企図するものだった[15]が、この政策により土地を失いエ
ルサルバドルへと帰国した移民の数は戦争開始前の数か月間に1万4千人[14]とも、2万人から5万人にのぼったものと推測されている[6]。この政策は
ワールドカップ予選とほぼ同時期に執り行われたもので[15]、偶然によるものなのか意図的なものなのかは定かではないが[15]、結果として両国間の国
民感情を刺激し、戦争へと発展する呼び水となった[15]。 |
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https://x.gd/DyV2aa |
1969年のエルサルバドルの日刊紙
「ラ・プレンサ」7月16日。ヘッダーは「ナカオメとヌエバ・オコテペケ陥落」と読める
★スペイン語版 wiki からの翻訳:ただし【注】Este artículo o sección tiene referencias, pero necesita más para complementar su verificabilidad.
●クロニクル
エルサルバドル |
1969年 |
ホンジュラス |
1970
FIFAワールドカップの北中米カリブ海予選は、史上最多となる12チームがエントリーして行われた[26]。同地域ではメキシコ代表がワールドカップ本
大会に連続出場するなど優勢を保っていたが1970年大会は地元開催ということで予選を免除されていた[26]ため、それ以外のチームにとっては本大会出
場の機会となった[26]。 |
W杯 |
エルサルバドル代表はスリナム代表とオラ
ンダ領アンティル代表を、ホンジュラス代表はコスタリカ代表とジャマイカ代表をそれぞれ下して1次ラウンドを突破し、準決勝ラウンドで対戦することになっ
た[27]。 |
6月8日 | 第1戦は1969年6月8日にホンジュラ
スの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やク
ラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた[28]。なお、こうしたサポー
ターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった[28]。一方、エルサルバドル
では熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生[28]。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス(スペイン語
版)大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し[29]葬儀の模様がテレビ中継をされるなど[28]、国家的イベントの様相を呈し
た[30]。 |
|
第2戦は1週間後の6月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで
行われたが、ホンジュラス代表が宿泊したホテルの周辺では第1戦と同様に群集が周囲を取り巻き[29]、自殺した女性の肖像を掲げ、相手チームを批難した
[29]。また、群集はホテルの窓ガラスを破壊し、腐敗した卵や鼠の死骸などの汚物を建物へと投げ入れた[29]。ホンジュラス代表選手の輸送はエルサル
バドル軍の装甲車によって行われていたため、暴徒による襲撃を直接に受けることはなかったが[29]、ホンジュラスから応援に駆けつけたホンジュラス代表
サポーターは暴徒から殴る蹴るの暴行を受けるなど2人が死亡し[31]、彼らの乗車していた自動車150台が放火される被害を受けた[31]。試合は3-
0でエルサルバドルが勝利し1勝1敗の成績で並び、プレーオフへと持ち込まれることになった[27]。 エルサルバドル政府の発表によると、6月15日に行われたワールドカップ予選後にホンジュラスに在住するエルサルバドル移民が襲撃を受け、身の危険を危ぶ んだ1万2千人近くの移民がエルサルバドル領内へと避難する事態となった[34]。 |
6月15日 | |
エルサルバドル国民の間でホンジュラスとの国交断絶を求める声が高まる
と、エルサルバドル政府は6月23日に国家非常事態を宣言して予備役軍人を召集[34]。3日後の6月26日夜にエルサルバドル政府は「ホンジュラスは同
国に在住するエルサルバドル人を迫害しようとしている」との声明を発表し、国交断絶を宣言した[34]。 |
6月23日 |
|
6月26日 |
ホンジュラス政府もこれを受けて6月27
日にエルサルバドルとの国交を断絶し、国防上の対処を行うことを発表した[35][注 2]。 |
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【メキシコシティ】 6月27日にメキシコの首都メキシコシティにあるエスタディオ・アステカで行われた最終戦は、会場となったエスタディオ・アステカの収容人数を10万人か ら2万人に制限[32][33]。試合の2日前から観戦のために訪れていた両国のサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離して入場させ [33]、緩衝地帯には催涙ガス銃を装備した機動隊員を配置させる、といった厳戒態勢の中で執り行われた[32][33]。試合は延長戦の末にエルサルバ ドル代表が3-2でホンジュラス代表を下し、ハイチ代表との最終ラウンドへと進出した[32]。 |
6月27日 |
【メキシコシティ】 |
エルサルバドル外務省の発表によると、7月3日11時45分にホンジュ
ラス空軍(英語版)の1機が、エルサルバドル北西部に位置するエルポイ (El Poy)
にある国境監視所を爆撃するなどして、同監視所の守備隊と交戦[36]。その後、先刻の爆撃機とは別のホンジュラス空軍の2機が同監視所を襲撃したが、エ
ルサルバドル空軍機が迎撃してこれを退けた[36]。また、両国陸軍が国境を挟んで約20分間に渡って銃撃戦を行った[36]。エルサルバドル外務省は米
州機構 (OAS) に対し、ホンジュラスの行為を非難する書簡を送った。 |
7月3日 |
|
両国の衝突を受けてOASは7月4日、理事会を招集し今後の対応を協議
した[37]。 |
7月4日 |
両国の衝突を受けてOASは7月4日、理
事会を招集し今後の対応を協議した[37]。 |
7月9日、ホンジュラス政府の発表によると、エルサルバドル陸軍がホン ジュラス領内のインティブカ県にある村を襲撃し、地元の警官隊と衝突。12戸の民家が焼き払われたが、死傷者はなかった[38]。両軍による戦闘は7月3 日に続いて2度目。 | 7月9日 |
7月9日、ホンジュラス政府の発表によると、エルサルバドル陸軍がホン
ジュラス領内のインティブカ県にある村を襲撃し、地元の警官隊と衝突。12戸の民家が焼き払われたが、死傷者はなかった[38]。両軍による戦闘は7月3
日に続いて2度目。 |
7月14日、OASを介して両国による外交交渉が行われる中、エルサル
バドル空軍はフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領からホンジュラスの主要都市を攻撃するための直接命令を受けた[43]。本作戦は1961年以来、
ホンジュラス侵攻を目的に進められてきた「ヘラルド・バリオス大将計画」を実行に移したもので、戦略目標は「ホンジュラスに在住する自国民の身分保証と、
緩衝地域の占領」にあった[23]。 同日18時10分、エルサルバドル空軍のC-47、F-51D、FG-1D(F4U コルセアのライセンス生産機)[44]で構成される少なくとも6機[43]の編隊が、テグシガルパ郊外のトンコンティン国際空港を爆撃。同空軍はこれと同 時にホンジュラス領内にあるサンタロサ・デ・コパン(スペイン語版)、アマパラ、チョルテカ(スペイン語版)など、ホンジュラスの主だった飛行場及び軍事 施設十数か所への爆撃を行った[43][44]。なお、このエルサルバドル空軍による空爆は、戦力で勝るホンジュラス空軍に対して先制攻撃を仕掛けること で、従来の軍事的バランスを覆す目的があったが[44]、作戦は失敗した[44]。 エルサルバドル空軍による爆撃後、エルサルバドル陸軍は西部、チャラテナンゴ県、東部の3方面から国境を越えてホンジュラス領内へと侵攻を開始した [45]。これらの空と陸からの奇襲作戦は、第二次世界大戦時のナチス・ドイツや第三次中東戦争時のイスラエルの事例が示すように双方の完璧な連携が行わ れた場合に効果を発揮するが[4]、本作戦ではエルサルバドル側の望むような効果を得ることが出来ず、その代償としてホンジュラス側に注意を喚起させる結 果となった[4]。 |
7月14日 |
|
7月15日 |
7月15日朝、ホンジュラス空軍のT-28、F4U、F-51Sなど数
機がエルサルバドル領内に侵入し[44]、サンサルバドル郊外にあるイロパンゴ国際空港(英語版)を爆撃[44]。軍民共用飛行場である同空港の滑走路や
格納庫、一般利用客用の駐車場などが損害を受けた[44]。 この他に、ホンジュラス空軍機はエルサルバドルの主要な港湾都市であるアカフトラ(スペイン語版)にあるコンビナートを攻撃。石油精製所は被害を受けな かったものの、貯蔵タンクが爆撃により損害を受けた[44]。また、ラ・ウニオン県にあるラ・クトゥコ港(スペイン語版)も爆撃され、17の貯蔵タンクの うち、5つが破壊されたが、港自体の損害はなかった[44]。 |
|
航空戦力では2.5対1とホンジュラスが開戦前から優位に立ち、戦争を
通じて制空権を維持していたが[44]、これに対して地上戦力の面では両国共におよそ5千人前後の兵員を有し[44]、アメリカ合衆国陸軍が第二次世界大
戦の際に使用していた旧式の装備を身に付け[44]、戦車や重火器といった大型装備を持ち合わせるなど、表面上の明確な差異は存在しなかった[44]。一
方で組織力や戦闘能力といった面でエルサルバドル陸軍が優位に立ち[44]、戦争末期ではホンジュラス最強の部隊とされる大統領防衛隊を撃破したと報じら
れるなど[44]、地上においてはエルサルバドル軍が攻勢を続けた[44]。エルサルバドルの新聞は「エルサルバドル軍の進撃は誰にも止めることは出来な
い」「ラテンアメリカのイスラエル」などと大見出しで報じるなど[44]、このまま進撃を続けてホンジュラス領内の都市を陥落させ首都テグシガルパに迫る
ものと考えられていた[44][注 1]。 |
ホンジュラス領内に侵攻していたエルサルバドル陸軍は、北部にあるエル
ポイから侵攻した部隊が、同日中にヌエバ・オコテペケ(英語版)を占領[18]。この他、東部から侵攻した部隊が太平洋岸にあるゴアスコラン(スペイン語
版)やカリダやアラメシナ(スペイン語版)を、チャラテナンゴ方面から侵攻した部隊が北中部の国境線に沿ってサン・フアン・ガリタ(スペイン語版)、バ
リャドリード(スペイン語版)、ラ・ビルトゥド(スペイン語版)といった町を占領するなど[44]、旧式のH&K
G3自動小銃を携帯する歩兵部隊が、開戦から1日でホンジュラス領内の40平方キロメートルの地域を占領した[45]。一方で、エルサルバドルの司令官が
兵站問題に理解がなかったこと[44]、ホンジュラス空軍により石油貯蔵タンクが攻撃された影響により国内の石油供給に支障を来たしたためエルサルバドル
陸軍でもガソリン不足に陥ったこと[44]により侵攻の停止を余儀なくされた[44]。 |
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エルサルバドル側は停戦に応じる様子はなく、ホンジュラス軍に対し「降
伏を選ぶか死を選ぶか」と要求するなど強硬な姿勢を見せた[46]。 |
7月16日 |
7月16日、OASが派遣した平和維持委員会は、ホンジュラス側が「エ
ルサルバドル軍がホンジュラス領内から撤退する」との条件付でエルサルバドルとの停戦に応じることを承諾したと発表した[46]。 |
ホンジュラス政府はラジオ放送を通じて「我が軍はエルサルバドルの戦略
拠点に対する空爆を継続中である」との声明を発表[46]。また、国民に対して「老若男女の区別なく、侵略者に対抗するために戦地に赴く準備をするよう
に」と義勇兵の参加を呼びかけた[46]。こうした両国間の情勢に対し国際連合のウ・タント事務総長は両国の外務大臣に、戦闘を中止し相互対話に応じるよ
うに要請した[47]。 |
||
7月17日、エルサルバドル政府は「ホンジュラスに在住するエルサルバ
ドル人に対する迫害行為を即座に停止させ、戦争前の原状に復帰させる」という条件付で停戦に応じることを承諾した[48]。一方、ホンジュラス政府は同陸
軍がエルサルバドルとの国境を越えて領内に侵攻し、北部にある都市に迫りつつある、と発表[48]。同時に政府は、エルサルバドル側の停戦に向けた非協力
的な姿勢を批難する声明を発表した[48]。これに応じてエルサルバドル軍もホンジュラス領内の三方面からの攻撃を再開させた[49]。 |
7月17日 |
地上目標に対する機銃掃射の任務に就いていたホンジュラス空軍のフェル
ナンド・ソト・エンリケス大尉が操縦するF4U-5が、味方機からの要請を受けてエルサルバドル空軍機と交戦[50]。エルサルバドル空軍のF-51D
1機とFG-1D
2機を撃墜した[50]。レシプロ戦闘機同士による世界史上最後の戦い[51]と呼ばれる戦闘での戦果によりソト大尉は少佐に昇進し[50]、ホンジュラ
スの国民的英雄として扱われただけでなく[50]、世界的な知名度を獲得した[51]。 |
7月18日朝、OASのガロ・ブラサ事務総長は両政府関係者とOAS平
和維持委員会との間で約24時間に渡って行われた三者会談により、戦争を終結させるための4項目からなる和平案について合意が成立したと発表した
[52]。この和平案は以下の通りとなっている。両国の即時停戦[52]。
両国軍が開戦前の地点にまで撤退する[52]。
両国に在住する相手国民の有する財産と保護を保障する[52]。
両国の停戦を監視するため、OASが派遣する軍民合同顧問団を受け入れる[52]。 |
7月18日 |
OASの発表によると両国は、中米時間の7月18日22時から停戦に入
り[53]、OASに加盟する3か国で構成される監視団の下で両国軍を96時間以内に撤退させる予定となっていた[54]。両国の停戦受託により、それぞ
れの戦線では平穏な情勢を取り戻したが[54]、一方でエルサルバドルのエルナンデス大統領は同日に国民に向けた放送において、占領地域からの撤退を拒絶
する声明を発表した[53]。 |
7月19日、エルサルバドル軍の広報官の発表によると、同国のエルナン
デス大統領がホンジュラス領内に17km入った前線地域を視察中にホンジュラス軍から狙撃される事件が発生した[55]。エルナンデス大統領に怪我はな
かったものの、同広報官はOASの停戦命令に反するものだとしてホンジュラス側を批難した[55]。また、OASの公式報告によりエルサルバドル軍が停戦
命令後も、ホンジュラス領内からの撤退を開始せず、同領内の陣地をさらに前進させていることが明らかとなった[56]。 |
7月19日 |
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7月21日朝、エルサルバドル軍による停戦命令違反の報告を受けて
OASは緊急会議を招集[56]。OASから現地に派遣されたニカラグアのセビラ・サカサ監視団長は「エルサルバドル軍がこのまま撤退を拒んでホンジュラ
ス領内に留まった場合、OASの規定に基づき同国に対する軍事的および経済的な制裁措置を採ることも辞さない」と警告した[57]。エルサルバドル陸軍は
同日夜までにホンジュラス南部にあるバジェ県の県都ナカオメを包囲し、首都テグシカルパと同地を結ぶ幹線道路を封鎖した[58]。 |
7月21日 |
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7月23日 |
7月23日、OASの定めた96時間の撤退期限が失効したことを受け、
ホンジュラス空軍の2機の爆撃機がエルサルバドル領内に侵入し、サンサルバドルにあるイロパンゴ国際空港と、同地の北方16kmに位置するネハバ
(nejaba) という村を爆撃[59]。エルサルバドル軍の発表によると爆撃による被害は確認されなかった[59]。 |
|
7月29日、OAS外相会議の席上においてエルサルバドルの外務大臣
は、紛争により占領した地域から撤兵することを発表[60]。これを受けてOASは、エルサルバドル軍の撤退期限を8月3日18時までと定めた[61] |
7月29日 |
|
8月3日13時15分、OAS顧問団の監視の下、ホンジュラス南部のレ
ンピーラ県にあるラ・ビルトゥドで最後の撤兵が確認され、撤退が完了した[61]。この戦争により両国あわせて2千人が死亡し[18][62][63]
[64](2千から3千人[2]、3千人[3]、6千人[65][66]とする資料もある)、4千人[63]または1万2千人[65][66]が負傷し
た。 |
8月3日 |
犠牲者の多くはホンジュラスの農民であり[18][64]、国境沿いに
在住する農民の多くが家や土地を失った[18]。 |
●池田の個人的なメモアール
この町(=ドローレス・コパン)は私が滞 在した 100 年を遡らない前くらいに、より南のエルサルバドル国境の県のオ コテペケから移住してきた数家族の末裔からなると述懐していた。その出自と言われるオコテ ペケに接するエルサルバドル西部のサンタ・アナ県およびチャラテナンゴ県先住民は、北方の メキシコ起源のピピル(ないしはナワト)先住民が多数に住む地域であり、伝統的にこの地域 の人口圧がホンジュラス領内へと北進する要因になっているのが人口学的な定説である。サッ カー戦争ないしは百時間戦争と呼ばれた、1969 年 7 月のエルサルバドル軍の国境侵犯とオコテ ペケ占領という事態は、サッカーにまつわる国民対立よりも、それに先立つホンジュラス領内 の大量のエルサルバドル移民の国外退去命令が背景にあると言われる。
リンク
文献
An extract from THE SOCCER WAR by Ryszard Kapuscinski(1969) (Leftist Polish journalist appointed in 1964 by the Polish Press Agency as its only foreign correspondent; for the next 10 years he was "responsible" for 50 countries.) * * * Luis ... had read a report on the soccer match between the Honduran and Salvadoran national teams. The two countries were playing for the right to take part in the 1970 World Cup in Mexico. The first match was held on Sunday 8 June 1969, in the Honduran capital, Tegucigalpa. Nobody in the world paid any attention. The Salvadoran team arrived in Tegucigalpa on Saturday and spent a sleepless night in their hotel. The team could not sleep because it was the target of psychological warfare waged by the Honduran fans. A swarm of people encircled the hotel. The crowd threw stones at the windows and beat sheets of tin and empty barrels with sticks. They set off one set of firecrackers after another. They leaned on the horn of cars parked in front of the hotel. The fans whistled, screamed and sent up hostile chants. This went on all night. The idea was that a sleepy, edgy, exhausted team would be bound to lose. In Latin America these are common practices. The next day Honduras defeated the sleepless El Salvador squad one-nil. Eighteen-year-old Amelia Bolanios was sitting in front of the television in El Salvador when the Honduran striker Roberto Cardona scored the winning goal in the final minute. She got up and ran to the desk which contained her father’s pistol in a drawer. She then shot herself in the heart. ‘The young girl could not bear to see her fatherland brought to its knees,’ wrote the Salvadoran newspaper El Nacional the next day. The whole capital took part in the televised funeral of Amelia Bolanios. An army honour guard marched with a flag at the head of the procession. The president of the republic and his ministers walked behind the flag-draped coffin. Behind the government came the Salvadoran soccer eleven who, booed, laughed at, and spat on at the Tegucigalpa airport, had returned to El Salvador on a special flight that morning. But the return match of the series took place in San Salvador, the beautifully named Flor Blanca stadium, a week later. This time it was the Honduran team that spent a sleepless night. The screaming crowd of fans broke all the windows in the hotel and threw rotten eggs, dead rats and stinking rags inside. The players were taken to the match in armoured cars of the First Salvadoran Mechanized Division - which saved them from revenge and bloodshed at the hands of the mob that lined the route, holding up portraits of the national heroine Amelia Bolanios. The army surrounded the ground. On the pitch stood a cordon of soldiers from a crack regiment of the Guardia Nacional, armed with sub-machine-guns. During the playing of the Honduran national anthem the crowd roared and whistled. Next, instead of the Honduran flag—which had been burnt before the eyes of the spectators, driving them mad with joy—the hosts ran a dirty, tattered dishrag up the flag-pole. Under such conditions the players from Tegucigalpa did not, understandably, have their minds on the game. They had their minds on getting out alive. ‘We’re awfully lucky that we lost,’ said the visiting coach, Mario Griffin, with relief. El Salvador prevailed, three-nil. The same armoured cars carried the Honduran team straight from the playing field to the airport. A worse fate awaited the visiting fans. Kicked and beaten, they fled towards the border. Two of them died. Scores landed in hospital. One hundred and fifty of the visitors’ cars were burned. The border between the two states was closed a few hours later. Luis read about all of this in the newspaper and said that there was going to be a war. He had been a reporter for a long time and he knew his beat. In Latin America, he said, the border between soccer and politics is vague. There is a long list of governments that have fallen or been overthrown after the defeat of the national team. Players on the losing team are denounced in the press as traitors. When Brazil won the World Cup in Mexico, an exiled Brazilian colleague of mine was heartbroken: ‘The military right wing,’ he said, ‘can be assured of at least five more years of peaceful rule.’ On the way to the title, Brazil beat England. In an article with the headline ‘Jesus Defends Brazil’, the Rio de Janeiro paper Jornal dos Sportes explained the victory thus: 'Whenever the ball flew towards our goal and a score seemed inevitable, Jesus reached his foot out of the clouds and cleared the ball.’ Drawings accompanied the article, illustrating the supernatural intervention. Anyone at the stadium can lose his life. Take the match Mexico lost to Peru, two-one. An embittered Mexican in an ironic tone, ‘Viva Mexico!’ A moment later be was dead, massacred by the crowd. But sometimes the heightened emotions find an outlet in other ways. After Mexico beat Belgium one-nil, Augusto Mariaga, the warden of a maximum-security prison in Chilpancingo (Guerrero State, Mexico), became delirious with joy and ran around firing a pistol into the air and shouting, ‘Viva Mexico!’ He opened all the cells, releasing 142 dangerous hardened criminals. A court acquitted him later, as, according to the verdict, he had ‘acted in patriotic exaltation.’ |
『サッカー戦争』より抜粋 リシャルト・カプシチンスキー(1969年 (1964年にポーランド報道機関から唯一の海外特派員に任命された左派ジャーナリスト。その後10年間、50カ国を担当した。 * * * ルイスは、ホンジュラスとエルサルバドルのサッカー代表チームの試合に関する記事を読んだ。両国は、1970年にメキシコで開催されるワールドカップ出場権を争っていた。最初の試合は、1969年6月8日(日曜日)にホンジュラスの首都テグシガルパで開催された。 世界中でこの試合に注目する者は誰もいなかった。 エルサルバドルのチームは土曜日、テグシガルパに到着し、ホテルで眠れない夜を過ごした。ホンジュラスファンによる心理的攻撃の標的となったため、選手た ちは眠れぬ夜を過ごした。ホテルには大勢の人々が押し寄せ、窓に石を投げつけ、トタンや空の樽を棒で叩いた。爆竹を次々と鳴らし、ホテル前に停車している 車のクラクションを鳴らし続けた。ファンたちは口笛を吹き、叫び、敵対的なチャントを唱えた。この騒ぎは一晩中続いた。眠く、神経質になり、疲れ果てた チームは必ず負けるだろうという狙いだった。ラテンアメリカでは、このようなことはよく行われている。 翌日、ホンジュラスは眠れないままのエルサルバドルを 1 対 0 で破った。 18 歳のアメリア・ボラニオスは、ホンジュラスのストライカー、ロベルト・カルドナが試合終了間際に決勝ゴールを決めた瞬間、エルサルバドルのテレビの前に 座っていた。彼女は立ち上がり、父親の拳銃が入った引き出しのある机へ駆け寄り、胸を撃った。エルサルバドルの新聞『エル・ナシオナル』は翌日の記事で、 「若い女性は祖国が屈服する姿を見ることができなかった」と報じた。首都全体がアメリア・ボラニオスのテレビ中継された葬儀に参加した。軍の名誉衛兵が旗 を先頭に列を成して行進した。共和国大統領と閣僚たちが、国旗で覆われた棺の後ろを歩いた。政府の後に続いたのは、テグシガルパ空港でブーイング、嘲笑、 唾を吐きかけられたエルサルバドルのサッカー代表チームだった。彼らはその朝、特別便でエルサルバドルに戻ってきた。 しかし、シリーズのリターンマッチは、1週間後にサンサルバドルの美しい名前のフロール・ブランカ・スタジアムで開催された。今回は、ホンジュラスチーム が眠れない夜を過ごした。 熱狂的なファンたちがホテルの窓をすべて割って、腐った卵や死んだネズミ、悪臭のするぼろきれを投げ込んだ。選手たちは、エルサルバドルの第一機械化師団 の装甲車で試合会場へと運ばれた。これにより、道に並び、国民的英雄アメリア・ボラニオスの肖像画を掲げた暴徒たちの報復や流血の惨事から救われた。 軍はグラウンドを包囲した。ピッチには、サブマシンガンで武装した、国家警備隊の精鋭部隊の兵士たちが立ちはだかった。ホンジュラス国歌の演奏中、群衆は 怒号とブーイングで騒然となった。次に、観客の目の前で燃やされ、彼らを狂喜させたホンジュラスの国旗の代わりに、ホスト側は汚れた破れた布を旗竿に掲げ た。このような状況下で、テグシガルパの選手たちは当然ながら試合に集中できなかった。彼らは生き延びることにしか頭がなかった。『負けて本当にラッキー だった』と、訪問チームのコーチ、マリオ・グリフィンは安堵の表情で語った。 エルサルバドルが3-0で勝利した。 同じ装甲車がホンジュラス代表チームを競技場から直接空港に運んだ。訪問チームのファンたちはさらに悲惨な運命が待っていた。蹴られ、殴られ、彼らは国境 方面へ逃げた。2人が死亡し、数十人が病院に搬送された。訪問チームの車150台が燃やされた。両国の国境は数時間後に閉鎖された。 ルイスは、この出来事を新聞で読み、戦争になるだろうと言った。彼は長年の記者であり、その分野に精通していた。 ラテンアメリカでは、サッカーと政治の境界は曖昧だ、と彼は言った。サッカーの代表チームが敗北した後、政権が崩壊したり、打倒されたりした例は数多くあ る。敗北したチームの選手は、新聞で「裏切り者」と非難される。ブラジルがメキシコでワールドカップを制した際、亡命中のブラジル人同僚は絶望した。「軍 事右派は、少なくとも5年間は平和な統治を確信できるだろう」と彼は言った。優勝への道中、ブラジルはイングランドを破った。リオデジャネイロのスポーツ 紙『ジョルナール・ドス・スポルテス』は、見出し「イエスがブラジルを守る」の記事で勝利を次のように説明した: 「ボールが私たちのゴールに向かって飛んできて、得点が決まりそうになると、イエスが雲から足を伸ばしてボールをクリアした」。記事には、超自然的な介入を表現したイラストが添えられていた。 スタジアムにいる人は誰でも命を落とす可能性がある。メキシコがペルーに 2 対 1 で敗れた試合を例に挙げよう。皮肉な口調で「ビバ・メキシコ!」と叫んだメキシコ人が、その瞬間、群衆に殺された。 しかし、高揚した感情は他の形で発散されることもある。メキシコがベルギーを1対0で破った後、チランパンゴ(グエロ州、メキシコ)の最高保安施設の長官 アウグスト・マリアガは喜びのあまり狂乱し、空に向かって拳銃を乱射しながら『ビバ・メキシコ!』と叫んだ。彼はすべての独房の扉を開け、142人の危険 な凶悪犯を解放した。裁判所は後に彼を無罪とした。判決では、彼は「愛国心の高揚から行動した」とされた。 |
‘Do you think it’s worth going to Honduras?’ I asked Luis, who was then editing the serious and influential weekly Siempre. ‘I think it’s worth it,’ he answered. ‘Something’s bound to happen.’ I was in Tegucigalpa the next morning. At dusk a plane flew over Tegucigalpa and dropped a bomb. Everybody heard it. The nearby mountains echoed its violent blast so that some said later that a whole series of bombs had been dropped. Panic swept the city. People fled home; merchants closed their shops. Cars were abandoned in the middle of the street. A woman ran along the pavement, crying, ‘My child! My child!’ Then silence fell and everything became still. It was as if the city had died. The lights went out and Tegucigalpa sank into darkness. I hurried to the hotel, burst into my room, fed a piece of paper into the typewriter and tried to write a dispatch to Warsaw. I was trying to move fast because I knew that at that moment I was the only foreign correspondent there and that I could be the first to inform the world about the outbreak of the war in Central America. But it was pitch dark in the room and I couldn’t see anything. I felt my way downstairs to the reception desk, where I was lent a candle. I went back upstairs, lit the candle and turned on my transistor radio. The announcer was reading a communiqué from the Honduran government about the commencement of hostilities with El Salvador. Then came the news that the Salvadoran army was attacking Honduras all along the front line. I began to write: TEGUCIGALPA (HONDURAS) PAP JULY 14 VIA TROPICAL RADIO RCA TODAY AT 6 PM WAR BEGAN BETWEEN EL SALVADOR AND HONDURAS SALVADORAN AIR FORCE BOMBARDED FOUR HONDURAN CITIES STOP AT SAME TIME SALVADORAN ARMY CROSSED HONDURAN BORDER ATTEMPTING TO PENETRATE DEEP INTO COUNTRY STOP IN RESPONSE TO AGGRESSION HONDURAN AIR FORCE BOMBARDED IMPORTANT SALVADORAN INDUSTRIAL AND STRATEGIC TARGETS AND GROUND FORCES BEGAN DEFENSIVE ACTION At this moment someone in the Street started shouting "Apaga la luz!’ (‘Turn off the light!’) over and over, more and more loudly with increasing agitation. I blew out the candle. I went on typing blind, by touch, striking a match over the keys every now and then. RADIO REPORTS FIGHTING UNDERWAY ALONG FULL LENGTH OF FRONT AND THAT HONDURAN ARMY IS INFLICTING HEAVY LOSSES ON SALVADORAN ARMY STOP GOVERNMENT HAS CALLED WHOLE POPULATION TO DEFENCE OF ENDANGERED NATION AND APPEALED TO UN FOR CONDEMNATION OF ATTACK .................... Since early morning people had been digging trenches, erecting barricades - preparing for a siege. Women were stocking up supplies and criss-crossing their windows with masking tape. People rushed through the streets directionless; an atmosphere of panic reigned. Student brigades were painting outsized slogans on walls and fences. A bubble full of graffiti had burst over Tegucigalpa, covering the walls with thousands of verses. ONLY AN IMBECILE WORRIES NOBODY BEATS HONDURAS or: PICK UP YOUR GUNS AND LET’S GO GUYS CUT THOSE SALVADORANS DOWN TO SIZE WE'LL AVENGE THREE-NIL PORFIRIO RAMOS SHOULD BE ASHAMED OF HIMSELF FOR LIVING WITH A SALVADORAN WOMAN ANYONE SEEING RAIMUNDO GRANADOS CALL THE POLICE HE’S A SALVADORAN SPY Latins are obsessed with spies, intelligence conspiracies and plots. In war, everyone is a fifth-columnist. I was not in a particularly comfortable situation: official propaganda on both sides blamed communists for every misfortune, and I was the only correspondent in the region from a socialist country. Even so, I wanted to see the war through to the end. I went to the post office and asked the telex operator to join me for a beer. He was terrified, because, although he had a Honduran father, his mother was a citizen of El Salvador. He was a mixed national and thus among the suspects. He did not know what would happen next. All morning the police had been herding Salvadorans into provisional camps, most often set up in stadiums. Throughout Latin America, stadiums play a double role: in peacetime they are sports venues; in war they turn into concentration camps. His name was José Malaga, and we had a drink in a restaurant near the post office. Our uncertain status had made brothers of us. Every so often José phoned his mother, who was sitting locked in her house, and said. ‘Mama, everything’s OK. They haven’t come for me; I’m still working.’ By the afternoon the other correspondents arrived from Mexico, forty of them, my colleagues. They had flown into Guatemala and then hired a bus, because the airport in Tegucigalpa was closed. They all wanted to drive to the front. We went to the Presidential Palace, an ugly, bright blue turn-of-the-century building in the centre of the town to arrange permission. There were machine-gun nests and sandbags around the palace, and anti-aircraft guns in the courtyard. In the corridors inside, soldiers were dozing or lolling around in full battledress. People have been making war for thousands of years, but each time it is as if it is the first war ever waged, as if everyone has started from scratch. A captain appeared and said he was the army press spokesman. He was asked to describe the situation and he stated that they were winning all along the front and that the enemy was suffering heavy casualties. ‘OK,’ said the AP correspondent. ‘Let’s see the front.’ The Americans, the captain explained, were already there. They always go first because of their influence - and because they commanded obedience and could arrange all sorts of things. The captain said we could go the next day, and that everyone should bring two photographs. We drove to a place where two artillery pieces stood under some trees. Cannons were firing and stacks of ordnance were lying around. Ahead of us we could see the road that led to El Salvador. Swamp stretched along both sides of the road, and dense green bush began past the belt of swamp. The sweaty, unshaven major charged with holding the mad said we could go no further. Beyond this point both armies were in action, and it was hard to tell who was who or what belonged to which side. The bush was too thick to see anything. Two opposing units often noticed each other only at the last moment, when, wandering through the overgrowth, they met face to face. In addition, since both armies wore the same uniforms, carried the same equipment, and spoke the same language, it was difficult to distinguish friend from foe. The major advised us to return to Tegucigalpa, because advancing might mean getting killed without even knowing who had done it. (As if that mattered, I thought.) But the television cameramen said they had to push forward, to the front line, to film soldiers in action, firing, dying. Gregor Straub of NBC said he had to have a close-up of a soldiery's face dripping sweat. Rodolfo Carillo of CBS said he had to catch a despondent commander sitting under a bush and weeping because he had lost his whole unit. A French cameraman wanted a panorama shot with a Salvadoran unit charging a Honduran unit from one side, or vice versa. Somebody else wanted to capture the image of a soldier carrying his dead comrade. The radio reporters sided with the cameramen. One wanted to record the cries of a casualty summoning help, growing weaker and weaker, until he breathed his last breath. Charles Meadows of Radio Canada wanted the voice of a soldier cursing war amid a hellish racket of gunfire. Naotake Mochida of Radio Japan wanted the bark of an officer shouting to his commander over the roar of artillery - using a Japanese field telephone. |
「ホンジュラスに行く価値はあると思う?」私は、当時、真面目で影響力のある週刊誌「シエンプレ」の編集者を務めていたルイスに尋ねた。 「行く価値はあると思う」と彼は答えた。「何かが起こるだろう」。 翌朝、私はテグシガルパにいた。 夕暮れ、飛行機がテグシガルパ上空を飛行し、爆弾を投下した。その音は皆に聞こえた。その激しい爆音は近くの山々に響き渡り、後で、一連の爆弾が投下され たとさえ言われた。街はパニックに陥った。人々は家から逃げ出し、商店は閉まった。車は道路の真ん中に放置された。ある女性は、歩道で「私の子供!私の子 供!」と泣きながら走っていた。そして、静寂が訪れ、すべてが静まり返った。まるで街が死んだかのようだった。街灯が消え、テグシガルパは暗闇に包まれ た。 私はホテルに駆け込み、部屋に飛び込み、タイプライターに紙を挟み、ワルシャワへの電報を書き始めた。私は急いでいた。なぜなら、その瞬間、私はその場に いた唯一の外国特派員であり、中央アメリカでの戦争の勃発を世界に最初に伝えることができるかもしれないと知っていたからだ。しかし、部屋は真っ暗で、何 も見えなかった。手探りでロビーの受付まで下り、ろうそくを借りた。部屋に戻り、ろうそくに火を灯し、トランジスタラジオをつけた。アナウンサーはホン ジュラス政府の声明を読み上げ、エルサルバドルとの戦闘開始を伝えた。続いて、エルサルバドル軍が前線全域でホンジュラスに攻撃を開始したというニュース が流れた。 私は書き始めた: テグシガルパ(ホンジュラス) PAP 7月14日 トロピカル経由 ラジオ RCA 本日午後6時 エル サルバドルとホンジュラス間で戦争開始 エル サルバドル空軍がホンジュラスの4都市を爆撃 同時に エルサルバドル軍がホンジュラス国境を越える 国境を越えて深く侵入しようとしている。 攻撃に対し、ホンジュラス空軍は エルサルバドルの重要な工業地帯と 戦略的目標を爆撃し、地上部隊は 防御行動を開始した。 その瞬間、街角で誰かが「アパガ・ラ・ルス!」と叫び始めた。(「電気を消せ!」)と叫び始めた。その声は次第に大きくなり、興奮が高まった。私はろうそくを消した。目隠しをしたまま、触りながらタイプを続け、時々鍵盤の上にマッチを擦った。 ラジオ報道によると、前線全域で戦闘が進行中 ホンジュラス軍がサルバドル軍に重大な損害を与えている 政府は国民全体に、危機に瀕している国家の防衛を呼びかけ、国連に対して攻撃の非難を要請した。 ................ 早朝から、人々は塹壕を掘り、バリケードを築き、包囲に備えていた。女性たちは物資を蓄え、窓にマスキングテープを縦横に貼っていた。人々は目的も定まら ず街を駆け回り、パニックに陥っていた。学生部隊は壁やフェンスに巨大なスローガンを塗っていた。テグシガルパは落書きで覆われ、何千もの詩が壁を覆って いた。 心配するのは愚か者だけ 誰もホンジュラスに勝てない または: 銃を拾って行こう、みんな サルバドール人を叩きのめせ 3-0の雪辱を晴らそう ポルフィリオ・ラモスは恥を知れ サルバドール人の女性と暮らしているんだから ライムンド・グラナドスを見かけた者は警察に連絡せよ 彼はエルサルバドルのスパイだ ラテンアメリカ人は、スパイ、諜報機関による陰謀や謀略に執着している。戦争では、誰もが第五列の工作員だ。私は特に快適な状況にはなかった。双方の公式 プロパガンダは、あらゆる不幸を共産主義者のせいにしており、私はこの地域唯一の社会主義国出身の特派員だったからだ。それでも、私は戦争の結末を見届け たいと思った。 私は郵便局に行き、テレックスオペレーターにビールを一緒に飲もうと誘った。彼は、父親はホンジュラス人だが、母親はエルサルバドルの国民だったため、恐 怖に震えていた。彼は混血の国民であり、容疑者の一人だったのだ。彼は、これから何が起こるのか分からなかった。その朝、警察はエルサルバドル人を仮設の 収容所、多くはスタジアムに群畜していた。ラテンアメリカでは、スタジアムは二重の役割を果たしている。平時はスポーツ会場であり、戦争中は強制収容所に なるのだ。 彼の名前はホセ・マラガで、私たちは郵便局近くのレストランで酒を飲んだ。不安定な立場にあることで、私たちは兄弟のような関係になった。ホセは、家に閉 じこもっている母親に頻繁に電話をかけ、「ママ、大丈夫だよ。彼らは私を捕まえに来なかった。私はまだ仕事をしている」と。 午後には、メキシコから40人の他の特派員たちが到着した。彼らはグアテマラに飛んだ後、テグシガルパの空港が閉鎖されていたため、バスをチャーターし た。彼らは皆、前線に向かおうとしていた。私たちは、町の中心にある醜い、鮮やかな青色の20世紀初頭の建物である大統領官邸に向かい、許可を取りに行っ た。宮殿の周囲には機関銃の陣地と土嚢が、中庭には対空砲が置かれていた。中の廊下では、兵士たちが戦闘服を着たままうたた寝をしたり、だらしなく座った りしていた。 人々は数千年にわたって戦争を続けてきたが、そのたびに、まるでそれが初めての戦争であるかのように、誰もがゼロから始めたかのように見える。 軍隊の報道官という大尉が現れ、状況を説明するように求められた。彼は、前線では全戦線において勝利しており、敵は大きな犠牲者を出し、苦悩に苦しんでいると述べた。 「OK、前線を見よう」と AP 通信の記者は言った。 大尉の説明によると、アメリカ人はすでにそこにいた。彼らは影響力があり、服従を命じ、あらゆることを手配できるため、常に先頭を切るのだ。大尉は、翌日行ってもいい、そして皆は 2 枚の写真を用意するように言った。 私たちは、2 門の大砲が木々の下に置かれている場所まで車で行った。大砲が砲撃しており、砲弾が山積みになっていた。私たちの前方には、エルサルバドルへと続く道路が見えた。道路の両側には沼地が広がり、沼地の帯を越えると、濃い緑色の茂みが始まっていた。 汗だくでひげを剃っていない、狂人を押さえていた大佐は、これ以上先には行けないと言った。この先では両軍が戦闘中で、誰が誰なのか、どちらの側なのか区 別がつかなかった。藪が厚すぎて何も見えなかった。対峙する両部隊は、藪の中をさまよいながら、最後の瞬間まで互いに気づかず、突然対面するケースが多 かった。さらに、両軍は同じ制服を着用し、同じ装備を携え、同じ言語を話していたため、味方と敵を区別するのが困難だった。大佐は、進軍すれば誰に殺され るか分からないため、テグシガルパに戻るよう勧めた。(そんなことが問題なのか、と私は思った。)しかし、テレビカメラマンたちは、前線まで進み、戦闘中 の兵士を撮影し、発砲する様子や死ぬ瞬間を映さなければならないと主張した。NBCのグレゴア・シュトラウブは、兵士の汗で濡れた顔をクローズアップする 必要があると述べた。CBSのロドルフォ・カリージョは、部隊を全滅させたため、灌木の下で泣き崩れる指揮官の姿を捉える必要があると述べた。フランスの カメラマンは、エルサルバドルの部隊がホンジュラスの部隊に側面から突撃する、またはその逆のパノラマショットを欲した。別の者は、死んだ仲間を運ぶ兵士 の姿を捉えたいと述べた。ラジオ記者たちはカメラマンたちの方についた。一人は、助けを呼ぶ負傷者の叫び声を、息が弱まっていくまで録音したいと述べた。 ラジオ・カナダのチャールズ・メドウズは、銃声の地獄のような騒音の中、戦争をののしる兵士の声を収録したいと述べた。ラジオ・ジャパンの望田直武は、砲 撃の轟音の中、指揮官に叫ぶ将校の声を、日本の野戦電話を使って収録したいと述べた。 |
Many others also decided to go
forward. Competition is a powerful incentive. Since American television
was going, the American wire services had to go as well. Since the
Americans were going, Reuters had to go. Excited by patriotic ambition,
I decided, as the only Pole on the scene, to attach myself to the group
that intended to make the desperate march. Those who said they had bad
hearts, or professed to be uninterested in particulars since they were
writing general commentaries, we left behind, under a tree.... The soccer war lasted one hundred hours. Its victims: 6,000 dead, more than 12,000 wounded. Fifty thousand people lost their homes and fields. Many villages were destroyed. The two countries ceased military action because Latin American states intervened, but to this day there are exchanges of gunfire along the Honduras - El Salvador border, and people die, and villages are burned. These are the real reasons for the war: El Salvador, the smallest country in Central America, has the greatest population density in the western hemisphere (over 160 people per square kilometre). Things are crowded, and all the more so because most of the land is in the hands of fourteen great landowning clans. People even say that El Salvador is the property of fourteen families. A thousand latjfundistas own exactly ten times as much land as their hundred thousand peasants. Two-thirds of the village population owns no land. For years a part of the landless poor has been emigrating to Honduras, where there are large tracts of unimproved land. Honduras (12,000 square kilometres) is almost six times as large as El Salvador, but has about half as many people (2,500,000). This was illegal emigration but was kept hushed-up, tolerated by the Honduran government for years. Salvadoran peasants settled in Honduras, established villages, and grew accustomed to a better life than the one they had left behind. They numbered about 300,000. In the l960s, unrest began among the Honduran peasantry, which was demanding land, and the Honduras government passed a decree on agricultural reform. But since this was an oligarchical government, dependent on the United States, the decree did not break up the land of either the oligarchy or the large banana plantations belonging to the United Fruit Company. The government wanted to re-distribute the land occupied by the Salvadoran squatters, meaning that the 300,000 Salvadorans would have to return to their own country, where they had nothing, and where, in any event, they would be refused by the Salvadoran government, fearing a peasant revolution. Relations between the two countries were tense. News on both sides waged a campaign of hate, slander calling each other Nazis, dwarfs, drunkards, sadists, spiders, aggressors and thieves. There were pogroms. Shops were burned. In these circumstances the match between Honduras and El Salvador had taken place. The war ended in a stalemate. The border remained the same. It is a border established by sight in the bush, in mountainous terrain that both sides claim. Some of the émigrés returned to El Salvador and some of them are still living in Honduras. And both governments are satisfied: for several days Honduras and El Salvador occupied the front pages of the world press and were the object of interest and concern. The only chance small countries from the Third World have of evoking a lively international interest is when they decide to shed blood. This is a sad truth, but so it is. The deciding game of the best-of-three series was held on neutral ground, in Mexico (El Salvador won, three-two). The Honduran fans were placed on one side of the stadium, the Salvadoran fans on the other side, and down the middle sat 5,000 Mexican police armed with thick clubs. |
他の多くの人々も前進を決意した。競争は強力な動機付けとなる。アメリ
カのテレビが参入したため、アメリカの通信社も参入せざるを得なかった。アメリカが参入したため、ロイターも参入せざるを得なかった。愛国心にあふれた私
は、その場にいた唯一のポーランド人として、絶望的な行進を決意したグループに加わることを決めた。心臓が悪い、あるいは、私は総合的な解説記事を書くの
で、詳細には興味がない、と口にした者たちは、木の下に残された...。 サッカー戦争は 100 時間に及んだ。その犠牲者は、6,000 人の死者と 12,000 人以上の負傷者。5 万人もの人々が家や畑を失った。多くの村が破壊された。 ラテンアメリカ諸国の介入により、両国は軍事行動を停止したが、今日でもホンジュラスとエルサルバドルの国境では銃撃戦が続き、人々が亡くなり、村が焼失している。 戦争の本当の理由は次のとおりだ。エルサルバドルは、中央アメリカで最も小さな国であり、西半球で最も人口密度の高い国(1平方キロメートルあたり160 人以上)だ。人口が密集している上に、その土地のほとんどが 14 の大地主一族によって所有されている。エルサルバドルは 14 家族によって所有されているとさえ言われている。1,000 人の大地主が、10 万人もの農民の 10 倍の土地を所有している。村の人口の 3 分の 2 は土地を所有していない。長年にわたり、土地のない貧しい人々の一部は、広大な未開の土地があるホンジュラスへ移住してきた。ホンジュラス(12,000 平方キロメートル)はエルサルバドルの6倍近くの面積があるが、人口は半分程度(250万人)だ。これは違法な移民だったが、ホンジュラス政府によって長 年にわたり黙認されていた。 エルサルバドルの農民たちはホンジュラスに定住し、村を築き、故郷よりも良い生活に慣れていった。その数は約30万人にも上った。 1960年代、ホンジュラス農民の間で土地の分配を求める動乱が起こり、ホンジュラス政府は農業改革に関する法令を制定した。しかし、この政府は米国に依 存する寡頭政治であったため、この法令は、寡頭政治者やユナイテッド・フルーツ・カンパニーが所有する大規模なバナナ農園の土地を分割するものではなかっ た。政府は、エルサルバドルの不法占拠者が占拠する土地の再分配を計画していた。つまり、30万人のエルサルバドル人は、何も持たない故郷に戻らなければ ならず、いずれにせよ、農民革命を恐れるエルサルバドル政府によって受け入れ拒否される運命にあった。 両国の関係は緊張していた。双方のメディアは憎悪と中傷のキャンペーンを展開し、相手をナチス、小人、酔っ払い、サディスト、蜘蛛、侵略者、泥棒などと呼び合った。ポグロムが発生し、商店が焼かれた。 このような状況下で、ホンジュラスとエルサルバドルの試合が行われた。 戦争は膠着状態で終わった。国境は変わらないままだった。これは、両国が主張する山岳地帯の茂みの中で目視で定められた国境だ。一部の移民はエルサルバド ルに戻り、一部は今もホンジュラスに住んでいる。両政府は満足している:数日間、ホンジュラスとエルサルバドルは世界中の新聞の一面を飾り、関心と懸念の 対象となった。第三世界の小国が活発な国際的な関心を引き起こす唯一のチャンスは、血を流すことを決めた時だけだ。これは悲しい真実だけど、それが現実 だ。 3試合制の決勝戦の中決戦は、中立のメキシコで開催された(エルサルバドルが3対2で勝利)。ホンジュラスのファンはスタジアムの片側に、エルサルバドルのファンは反対側に配置され、その真ん中には、分厚い棍棒を携えた5,000人のメキシコ警察が座っていた。 |
この部分的抽出には、サンタロサデコパンにおけるホンジュラス軍によって拷問されたエルサルバドル兵士の短い叙述がぬけている。 |
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その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099
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CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099