On Football War
アウトライン(すべてウィキペディアによる)「サッカー戦争(サッカーせんそう、スペイン語: Guerra del Fútbol)は、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。両国間の国境線問題、ホンジュ ラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題が引き金となり戦争に発展した[5][6][7]。この戦争の根本的な原因は 両国の経済成長モデルと農地問題に起因した国内矛盾にあり、寡頭支配層が国際紛争を引き起こすことで政情不安の高まりを一時的に回避しようとする狙いが あったと考えられている[8]。一般的には同年6月に行われた1970 FIFAワールドカップ・予選における両国の対戦と関連付けた「サッカー戦争」の名称で知られているが、この戦争の性質を端的に捉えたものではない [8]。100時間戦争[6][9]、エルサルバドル・ホンジュラス戦争[10]、1969年戦争[7]とも呼ばれる。」脚注はすべてウィキペディアによる
●前史・コンテクスト
エルサルバドル |
ホンジュラス |
エルサルバドルは中米で最も国土面積が小さく、人口密度が最も高い国で
ある[11]。人口の約9割は、メスティーソと呼ばれるスペイン系などの白人とインディオの混血であり[11]、残りは純粋な白人とインディオで構成され
ていた[11]。山岳地帯が連なる狭い国土に居住しており、中米地域の中で特に工業が発展していることから「中米の日本」とも評された[12]。
その一方で19世紀後半頃から国内経済をコーヒーの生産と輸出に依存していたが[13]、これは政府が自給自足農業を行う先住民の土地所有を法律により禁
止し[13]、コーヒー生産者には税制上の優遇措置を付与するなどして、国を挙げてコーヒー生産を奨励したことの影響によるものだった[13]。国土の多
くは「14家族」(カトルセファミリア)と呼ばれる一部の白人富裕層の所有する農場で占められ、土地や財産を独占していたのに対し[12][13]、多く
の国民は低所得に抑えられ生活に困窮していた[12][13]。
土地を所有していないエルサルバドルの一部の国民は、約6倍の国土を持ち人口比もエルサルバドルの2分の1(250万人)に満たない隣国のホンジュラスへ
と移住し生活基盤を置いたが、こうした移民は1960年代当時、合法による者と非合法による者を含めて30万人[14]から50万人に上った[15]。 |
ホンジュラスでは古くからエルサルバドルからの移民を受け入れ、
1900年代には政府が辺境地を開拓する意思を持つ移民に対し無償で土地を提供し[16]、1932年にエルサルバドルで恐慌が発生した際には、数千人が
ホンジュラスへと移民し、農園や鉱山で働いた[16]。一方、ホンジュラスの国内情勢の変化や、地元民と移民との間での土地と仕事を巡る争いごとが表面化
すると[16]、ホンジュラス政府も次第に態度を硬化させるようになった[16]。
移民問題に対処するべく、両国政府は1962年と1965年に条約を締結し調整を図ってきたが[16]、ホンジュラス国内の人口増加、バナナ農園の近代化
に伴う労働需要の激減、牧畜や綿花農園の拡大による農地不足が問題となり、野党や富裕層から農地改革への圧力が高まっていた[7][17]。ホンジュラス
政府は1969年1月[18]に条約の更新を拒否し[17]、オスバルド・ロペス・アレジャーノ(スペイン語版)大統領は、1962年に制定された農地改
革法の実施に踏み切ることになった[19]。この改革法は土地の所有者をホンジュラス国内で出生した者に限定したもので[19]、それに該当しないエルサ
ルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求める内容となった[19]。ホンジュラス政府による発表は1969年4月に行われ[18]、同年5月下旬まで
にエルサルバドル移民の帰還が始まった[18]。 |
その中で、1950年代から工業化が進んだエルサルバドルは、国民の多
くが貧困層であり国内市場が狭いという事情が存在したものの[22]、一部の富裕層向けの生産と双務貿易協定に基づいた中米諸国への輸出向け生産により発
展を遂げていた[22]。同国は中米共同市場の発足の際には主導的役割を果たし、加盟国内で最も多くの恩恵を受けていた |
国の産業をコーヒーやバナナなどの農業生産と輸出に特化し、先進国から
は「近代化の遅れた国々」と見做されていた[20]エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、グアテマラ、コスタリカの5か国は、中米地域の経済統合を
目指して1961年に中米共同市場を発足させた[20]。中米共同市場の発足と、アメリカ合衆国の圧力による外資系企業の参入自由化により、1960年代
に5か国での工業化が進展した[20]。工業立地に関して当初は、各国間で公平に分配する取り決めとなっていたが[21]、加盟国間の対立と外資系企業の
圧力もあって緩和され、工業化の進んでいたエルサルバドル、グアテマラ、コスタリカの3か国に工業立地は集中するようになった[21]。ホンジュラスでは
工業化に立ち遅れ[22]、エルサルバドル製品により市場が圧迫を受けるなどの不均衡が生じたことから、ホンジュラス側は不満を抱くようになった
[22]。 |
両国の国境線は植民地時代以来、河川を基点とすることが多かったが
[15]、雨季と乾季で地形が大きく変動することから国境線が未確定の部分が存在した[15]。そのため、エルサルバドルのチャラテナンゴやモラサン北部
では、両国がたびたび衝突を繰り返しており[16]、1961年、アルベルト・チャベスに率いられた部隊がホンジュラス領内のドロレス(スペイン語版)と
ラパスに侵入して現地の市民警備隊と交戦し、指揮官のチャベスが死亡した[23]。6年後の1967年5月29日、エルサルバドル領内のモンテカ
(Monteca)
をパトロール中の国境警備隊が、ホンジュラス軍部隊の待ち伏せを受けて戦闘となった[24]。この戦闘によりエルサルバドル側は3人が死亡、2人が捕虜と
なり、ホンジュラス側も2人が死亡したが、その後しばらくは国境を挟んで両国の緊張が高まった[24]。 |
【国境紛争】左カラム参照 |
移民の国外退去は強制的なもので[14]、ホンジュラスの「ラ・マン
チャ・ブラバ」と呼ばれる極右組織や準軍事組織が関与し[25]、残虐行為が行われた事例が報告された[5][25]。これに対しエルサルバドルの新聞メ
ディアは、ホンジュラスに対して徹底的な報復を求める様に政府に要求した[25]。 |
|
ホンジュラスのアレジャーノ大統領により実施された農業改革法は、主に
国境未確定地帯に居住しているエルサルバドル人を退去させ、ホンジュラス人を入植させることを企図するものだった[15]が、この政策により土地を失いエ
ルサルバドルへと帰国した移民の数は戦争開始前の数か月間に1万4千人[14]とも、2万人から5万人にのぼったものと推測されている[6]。この政策は
ワールドカップ予選とほぼ同時期に執り行われたもので[15]、偶然によるものなのか意図的なものなのかは定かではないが[15]、結果として両国間の国
民感情を刺激し、戦争へと発展する呼び水となった[15]。 |
●W杯
エルサルバドル |
1969年 |
ホンジュラス |
1970
FIFAワールドカップの北中米カリブ海予選は、史上最多となる12チームがエントリーして行われた[26]。同地域ではメキシコ代表がワールドカップ本
大会に連続出場するなど優勢を保っていたが1970年大会は地元開催ということで予選を免除されていた[26]ため、それ以外のチームにとっては本大会出
場の機会となった[26]。 |
W杯 |
エルサルバドル代表はスリナム代表とオラ
ンダ領アンティル代表を、ホンジュラス代表はコスタリカ代表とジャマイカ代表をそれぞれ下して1次ラウンドを突破し、準決勝ラウンドで対戦することになっ
た[27]。 |
6月8日 | 第1戦は1969年6月8日にホンジュラ
スの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やク
ラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた[28]。なお、こうしたサポー
ターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった[28]。一方、エルサルバドル
では熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生[28]。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス(スペイン語
版)大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し[29]葬儀の模様がテレビ中継をされるなど[28]、国家的イベントの様相を呈し
た[30]。 |
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第2戦は1週間後の6月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで
行われたが、ホンジュラス代表が宿泊したホテルの周辺では第1戦と同様に群集が周囲を取り巻き[29]、自殺した女性の肖像を掲げ、相手チームを批難した
[29]。また、群集はホテルの窓ガラスを破壊し、腐敗した卵や鼠の死骸などの汚物を建物へと投げ入れた[29]。ホンジュラス代表選手の輸送はエルサル
バドル軍の装甲車によって行われていたため、暴徒による襲撃を直接に受けることはなかったが[29]、ホンジュラスから応援に駆けつけたホンジュラス代表
サポーターは暴徒から殴る蹴るの暴行を受けるなど2人が死亡し[31]、彼らの乗車していた自動車150台が放火される被害を受けた[31]。試合は3-
0でエルサルバドルが勝利し1勝1敗の成績で並び、プレーオフへと持ち込まれることになった[27]。 エルサルバドル政府の発表によると、6月15日に行われたワールドカップ予選後にホンジュラスに在住するエルサルバドル移民が襲撃を受け、身の危険を危ぶ んだ1万2千人近くの移民がエルサルバドル領内へと避難する事態となった[34]。 |
6月15日 | |
エルサルバドル国民の間でホンジュラスとの国交断絶を求める声が高まる
と、エルサルバドル政府は6月23日に国家非常事態を宣言して予備役軍人を召集[34]。3日後の6月26日夜にエルサルバドル政府は「ホンジュラスは同
国に在住するエルサルバドル人を迫害しようとしている」との声明を発表し、国交断絶を宣言した[34]。 |
6月23日 |
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6月26日 |
ホンジュラス政府もこれを受けて6月27
日にエルサルバドルとの国交を断絶し、国防上の対処を行うことを発表した[35][注 2]。 |
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【メキシコシティ】 6月27日にメキシコの首都メキシコシティにあるエスタディオ・アステカで行われた最終戦は、会場となったエスタディオ・アステカの収容人数を10万人か ら2万人に制限[32][33]。試合の2日前から観戦のために訪れていた両国のサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離して入場させ [33]、緩衝地帯には催涙ガス銃を装備した機動隊員を配置させる、といった厳戒態勢の中で執り行われた[32][33]。試合は延長戦の末にエルサルバ ドル代表が3-2でホンジュラス代表を下し、ハイチ代表との最終ラウンドへと進出した[32]。 |
6月27日 |
【メキシコシティ】 |
エルサルバドル外務省の発表によると、7月3日11時45分にホンジュ
ラス空軍(英語版)の1機が、エルサルバドル北西部に位置するエルポイ (El Poy)
にある国境監視所を爆撃するなどして、同監視所の守備隊と交戦[36]。その後、先刻の爆撃機とは別のホンジュラス空軍の2機が同監視所を襲撃したが、エ
ルサルバドル空軍機が迎撃してこれを退けた[36]。また、両国陸軍が国境を挟んで約20分間に渡って銃撃戦を行った[36]。エルサルバドル外務省は米
州機構 (OAS) に対し、ホンジュラスの行為を非難する書簡を送った。 |
7月3日 |
|
両国の衝突を受けてOASは7月4日、理事会を招集し今後の対応を協議
した[37]。 |
7月4日 |
両国の衝突を受けてOASは7月4日、理
事会を招集し今後の対応を協議した[37]。 |
7月9日、ホンジュラス政府の発表によると、エルサルバドル陸軍がホン ジュラス領内のインティブカ県にある村を襲撃し、地元の警官隊と衝突。12戸の民家が焼き払われたが、死傷者はなかった[38]。両軍による戦闘は7月3 日に続いて2度目。 | 7月9日 |
7月9日、ホンジュラス政府の発表によると、エルサルバドル陸軍がホン
ジュラス領内のインティブカ県にある村を襲撃し、地元の警官隊と衝突。12戸の民家が焼き払われたが、死傷者はなかった[38]。両軍による戦闘は7月3
日に続いて2度目。 |
7月14日、OASを介して両国による外交交渉が行われる中、エルサル
バドル空軍はフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領からホンジュラスの主要都市を攻撃するための直接命令を受けた[43]。本作戦は1961年以来、
ホンジュラス侵攻を目的に進められてきた「ヘラルド・バリオス大将計画」を実行に移したもので、戦略目標は「ホンジュラスに在住する自国民の身分保証と、
緩衝地域の占領」にあった[23]。 同日18時10分、エルサルバドル空軍のC-47、F-51D、FG-1D(F4U コルセアのライセンス生産機)[44]で構成される少なくとも6機[43]の編隊が、テグシガルパ郊外のトンコンティン国際空港を爆撃。同空軍はこれと同 時にホンジュラス領内にあるサンタロサ・デ・コパン(スペイン語版)、アマパラ、チョルテカ(スペイン語版)など、ホンジュラスの主だった飛行場及び軍事 施設十数か所への爆撃を行った[43][44]。なお、このエルサルバドル空軍による空爆は、戦力で勝るホンジュラス空軍に対して先制攻撃を仕掛けること で、従来の軍事的バランスを覆す目的があったが[44]、作戦は失敗した[44]。 エルサルバドル空軍による爆撃後、エルサルバドル陸軍は西部、チャラテナンゴ県、東部の3方面から国境を越えてホンジュラス領内へと侵攻を開始した [45]。これらの空と陸からの奇襲作戦は、第二次世界大戦時のナチス・ドイツや第三次中東戦争時のイスラエルの事例が示すように双方の完璧な連携が行わ れた場合に効果を発揮するが[4]、本作戦ではエルサルバドル側の望むような効果を得ることが出来ず、その代償としてホンジュラス側に注意を喚起させる結 果となった[4]。 |
7月14日 |
|
7月15日 |
7月15日朝、ホンジュラス空軍のT-28、F4U、F-51Sなど数
機がエルサルバドル領内に侵入し[44]、サンサルバドル郊外にあるイロパンゴ国際空港(英語版)を爆撃[44]。軍民共用飛行場である同空港の滑走路や
格納庫、一般利用客用の駐車場などが損害を受けた[44]。 この他に、ホンジュラス空軍機はエルサルバドルの主要な港湾都市であるアカフトラ(スペイン語版)にあるコンビナートを攻撃。石油精製所は被害を受けな かったものの、貯蔵タンクが爆撃により損害を受けた[44]。また、ラ・ウニオン県にあるラ・クトゥコ港(スペイン語版)も爆撃され、17の貯蔵タンクの うち、5つが破壊されたが、港自体の損害はなかった[44]。 |
|
航空戦力では2.5対1とホンジュラスが開戦前から優位に立ち、戦争を
通じて制空権を維持していたが[44]、これに対して地上戦力の面では両国共におよそ5千人前後の兵員を有し[44]、アメリカ合衆国陸軍が第二次世界大
戦の際に使用していた旧式の装備を身に付け[44]、戦車や重火器といった大型装備を持ち合わせるなど、表面上の明確な差異は存在しなかった[44]。一
方で組織力や戦闘能力といった面でエルサルバドル陸軍が優位に立ち[44]、戦争末期ではホンジュラス最強の部隊とされる大統領防衛隊を撃破したと報じら
れるなど[44]、地上においてはエルサルバドル軍が攻勢を続けた[44]。エルサルバドルの新聞は「エルサルバドル軍の進撃は誰にも止めることは出来な
い」「ラテンアメリカのイスラエル」などと大見出しで報じるなど[44]、このまま進撃を続けてホンジュラス領内の都市を陥落させ首都テグシガルパに迫る
ものと考えられていた[44][注 1]。 |
ホンジュラス領内に侵攻していたエルサルバドル陸軍は、北部にあるエル
ポイから侵攻した部隊が、同日中にヌエバ・オコテペケ(英語版)を占領[18]。この他、東部から侵攻した部隊が太平洋岸にあるゴアスコラン(スペイン語
版)やカリダやアラメシナ(スペイン語版)を、チャラテナンゴ方面から侵攻した部隊が北中部の国境線に沿ってサン・フアン・ガリタ(スペイン語版)、バ
リャドリード(スペイン語版)、ラ・ビルトゥド(スペイン語版)といった町を占領するなど[44]、旧式のH&K
G3自動小銃を携帯する歩兵部隊が、開戦から1日でホンジュラス領内の40平方キロメートルの地域を占領した[45]。一方で、エルサルバドルの司令官が
兵站問題に理解がなかったこと[44]、ホンジュラス空軍により石油貯蔵タンクが攻撃された影響により国内の石油供給に支障を来たしたためエルサルバドル
陸軍でもガソリン不足に陥ったこと[44]により侵攻の停止を余儀なくされた[44]。 |
|
エルサルバドル側は停戦に応じる様子はなく、ホンジュラス軍に対し「降
伏を選ぶか死を選ぶか」と要求するなど強硬な姿勢を見せた[46]。 |
7月16日 |
7月16日、OASが派遣した平和維持委員会は、ホンジュラス側が「エ
ルサルバドル軍がホンジュラス領内から撤退する」との条件付でエルサルバドルとの停戦に応じることを承諾したと発表した[46]。 |
ホンジュラス政府はラジオ放送を通じて「我が軍はエルサルバドルの戦略
拠点に対する空爆を継続中である」との声明を発表[46]。また、国民に対して「老若男女の区別なく、侵略者に対抗するために戦地に赴く準備をするよう
に」と義勇兵の参加を呼びかけた[46]。こうした両国間の情勢に対し国際連合のウ・タント事務総長は両国の外務大臣に、戦闘を中止し相互対話に応じるよ
うに要請した[47]。 |
||
7月17日、エルサルバドル政府は「ホンジュラスに在住するエルサルバ
ドル人に対する迫害行為を即座に停止させ、戦争前の原状に復帰させる」という条件付で停戦に応じることを承諾した[48]。一方、ホンジュラス政府は同陸
軍がエルサルバドルとの国境を越えて領内に侵攻し、北部にある都市に迫りつつある、と発表[48]。同時に政府は、エルサルバドル側の停戦に向けた非協力
的な姿勢を批難する声明を発表した[48]。これに応じてエルサルバドル軍もホンジュラス領内の三方面からの攻撃を再開させた[49]。 |
7月17日 |
地上目標に対する機銃掃射の任務に就いていたホンジュラス空軍のフェル
ナンド・ソト・エンリケス大尉が操縦するF4U-5が、味方機からの要請を受けてエルサルバドル空軍機と交戦[50]。エルサルバドル空軍のF-51D
1機とFG-1D
2機を撃墜した[50]。レシプロ戦闘機同士による世界史上最後の戦い[51]と呼ばれる戦闘での戦果によりソト大尉は少佐に昇進し[50]、ホンジュラ
スの国民的英雄として扱われただけでなく[50]、世界的な知名度を獲得した[51]。 |
7月18日朝、OASのガロ・ブラサ事務総長は両政府関係者とOAS平
和維持委員会との間で約24時間に渡って行われた三者会談により、戦争を終結させるための4項目からなる和平案について合意が成立したと発表した
[52]。この和平案は以下の通りとなっている。両国の即時停戦[52]。
両国軍が開戦前の地点にまで撤退する[52]。
両国に在住する相手国民の有する財産と保護を保障する[52]。
両国の停戦を監視するため、OASが派遣する軍民合同顧問団を受け入れる[52]。 |
7月18日 |
OASの発表によると両国は、中米時間の7月18日22時から停戦に入
り[53]、OASに加盟する3か国で構成される監視団の下で両国軍を96時間以内に撤退させる予定となっていた[54]。両国の停戦受託により、それぞ
れの戦線では平穏な情勢を取り戻したが[54]、一方でエルサルバドルのエルナンデス大統領は同日に国民に向けた放送において、占領地域からの撤退を拒絶
する声明を発表した[53]。 |
7月19日、エルサルバドル軍の広報官の発表によると、同国のエルナン
デス大統領がホンジュラス領内に17km入った前線地域を視察中にホンジュラス軍から狙撃される事件が発生した[55]。エルナンデス大統領に怪我はな
かったものの、同広報官はOASの停戦命令に反するものだとしてホンジュラス側を批難した[55]。また、OASの公式報告によりエルサルバドル軍が停戦
命令後も、ホンジュラス領内からの撤退を開始せず、同領内の陣地をさらに前進させていることが明らかとなった[56]。 |
7月19日 |
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7月21日朝、エルサルバドル軍による停戦命令違反の報告を受けて
OASは緊急会議を招集[56]。OASから現地に派遣されたニカラグアのセビラ・サカサ監視団長は「エルサルバドル軍がこのまま撤退を拒んでホンジュラ
ス領内に留まった場合、OASの規定に基づき同国に対する軍事的および経済的な制裁措置を採ることも辞さない」と警告した[57]。エルサルバドル陸軍は
同日夜までにホンジュラス南部にあるバジェ県の県都ナカオメを包囲し、首都テグシカルパと同地を結ぶ幹線道路を封鎖した[58]。 |
7月21日 |
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7月23日 |
7月23日、OASの定めた96時間の撤退期限が失効したことを受け、
ホンジュラス空軍の2機の爆撃機がエルサルバドル領内に侵入し、サンサルバドルにあるイロパンゴ国際空港と、同地の北方16kmに位置するネハバ
(nejaba) という村を爆撃[59]。エルサルバドル軍の発表によると爆撃による被害は確認されなかった[59]。 |
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7月29日、OAS外相会議の席上においてエルサルバドルの外務大臣
は、紛争により占領した地域から撤兵することを発表[60]。これを受けてOASは、エルサルバドル軍の撤退期限を8月3日18時までと定めた[61] |
7月29日 |
|
8月3日13時15分、OAS顧問団の監視の下、ホンジュラス南部のレ
ンピーラ県にあるラ・ビルトゥドで最後の撤兵が確認され、撤退が完了した[61]。この戦争により両国あわせて2千人が死亡し[18][62][63]
[64](2千から3千人[2]、3千人[3]、6千人[65][66]とする資料もある)、4千人[63]または1万2千人[65][66]が負傷し
た。 |
8月3日 |
犠牲者の多くはホンジュラスの農民であり[18][64]、国境沿いに
在住する農民の多くが家や土地を失った[18]。 |
●池田の個人的なメモアール
この町(=ドローレス・コパン)は私が滞在した 100 年を遡らない前くらいに、より南のエルサルバドル国境の県のオ コテペケから移住してきた数家族の末裔からなると述懐していた。その出自と言われるオコテ ペケに接するエルサルバドル西部のサンタ・アナ県およびチャラテナンゴ県先住民は、北方の メキシコ起源のピピル(ないしはナワト)先住民が多数に住む地域であり、伝統的にこの地域 の人口圧がホンジュラス領内へと北進する要因になっているのが人口学的な定説である。サッ カー戦争ないしは百時間戦争と呼ばれた、1969 年 7 月のエルサルバドル軍の国境侵犯とオコテ ペケ占領という事態は、サッカーにまつわる国民対立よりも、それに先立つホンジュラス領内 の大量のエルサルバドル移民の国外退去命令が背景にあると言われる。
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