Gisèle Freund
以下の情報は全部ウィキペディアからの情報である「ジゼル・フロイント(Gisèle Freund、1908年12月19日 - 2000年3月30日)はドイツに生まれ、主にフランスで活躍した写真家。ヒトラー内閣が成立した1933年にフランスに亡命し、作家が多数集まる「本の 友の家」書店を経営していたアドリエンヌ・モニエと出会い、アンドレ・マルロー、ジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフなど作家の肖像写真を2、3 年の間に約80枚撮影した。特にカラーの肖像写真においては先駆的であった。第二次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツがフランスを占領するとアルゼンチン に亡命。大戦後も南米各地で報道写真家として活躍するほか、特にフリーダ・カーロ、エヴァ・ペロンの写真を多く遺した。マグナム・フォト初の女性写真家で ある。さらに、ソルボンヌ大学に提出した博士論文は、写真史をテーマにした最初の学位論文であり、1974年発表の著書『写真と社会』により写真史家とし て名を残すことになった。」
背景 |
ジゼル・フロイントは1908年12月19日、ベルリン・シェーネベル
ク(ドイツ語版)の裕福なユダヤ人家庭にギーゼラ・フロイント(Gisela
Freund)として生まれた[1][2]。実業家の父ユリウス・フロイントは美術品蒐集家で、出張の際にはギーゼラを連れて美術館・画廊巡りをした
[3]。だが、両親が希望したのは良妻賢母教育であり、ギーゼラはズボンを穿いてアビトゥーア受験に行くなど、保守的な両親に反抗した[3]。とはいえ、
母方の曽祖父はスカート風の七分丈ズボン(ジュップ・キュロット)を製作・販売して財を成した実業家であった[4][5]。
フロイントはすでに12歳のときに父に最初のカメラを与えられ、写真に興味を示すとさらに新しいカメラを与えられ、1929年にアビトゥーアに合格したと
きにはライカを贈られた[6][7]。この贈り物が後に写真家としての出発点となる。 |
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教育 |
フ
ロイントは両親の教育方針には従わず、フライブルクで社会学者カール・マンハイムに師事し、フランクフルト大学に入学。社会研究所(ドイツ語版)でカー
ル・マンハイムの研究助手を務めていたノルベルト・エリアスに師事し、テオドール・アドルノらとともに社会学と美術史を専攻した。いつもカメラを持ってい
るフロイントに、映像の問題に取り組んでみるよう勧めたのは恩師エリアスであった[5][8][9]。フロイントは写真史に関する調査を始め、後にソルボ
ンヌ大学に提出することになる博士論文を準備し始めた。とはいえ、当初から社会学者になるつもりはなくジャーナリストを目指していたフロイントは、社会問
題に対する関心からフランクフルト社会主義青年同盟に参加した。またこの頃、ベルリンのロマーニッシェス・カフェ(ドイツ語版)でヴァルター・ベンヤミン
やベルトルト・ブレヒトに出会った[4][8]。
一方、社会研究所は繰り返しナチの攻撃の的にされ、1932年5月1日にフランクフルトで反ファシズムの学生のデモがあった。フロイントはこのデモを取材
し、ライカで学生たちの表情を捉えた。これが彼女の最初のルポルタージュであった[6][8]。こうした活動から、1933年1月30日にヒトラー内閣が
成立し、高等教育機関もナチ化されると、自由主義を唱える多くの大学教員が追放された。ベンヤミンは3月にフランス亡命し、フロイントも5月30日に亡
命、パリに居を定めた[8]。 |
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フランス亡命 |
ベンヤミンとの交友 |
フ
ロイントはフランス国立図書館に通って博士論文の執筆を続けた。テーマはフランスにおける写真史に絞られた。ベンヤミンもまたフランス国立図書館でボード
レール、玩具、絵葉書など後に『パサージュ論』の「パリ ―
19世紀の首都」に収められることになるパリの文化の諸側面に関する草稿や『複製技術時代の芸術』を書いていた。二人は図書館で毎日のように会い、文学、
政治、写真、哲学について議論を交わした[8][10]。ベンヤミンはアンドレ・ジッドやマルセル・プルーストをドイツ語に訳していたが、フロイントは生
活費・学費を稼ぐ手段がなかったため、ライカで写真を撮り始めた[11][12]。ドイツの両親は裕福ではあっても、ナチス統治下では海外送金が禁じられ
ていたため、経済的支援を受けることができなかったからである[10]。 1935年に渡英し、世界恐慌の影響を目の当たりにしたフロイントは、イングランド北東部の失業者の生活をカメラに収め、翌1936年に創刊された『ライ フ』誌に掲載する機会を得た[1][6]。 |
マルローとの出会い |
さ
らに、パリでアンドレ・マルローに出会ったことが大きな転機となった。彼はフロイントに自著の表紙に掲載する写真の撮影を依頼した。自宅のテラスで煙草を
くわえて風に吹かれるマルローの姿を撮った写真は、フロイントの最初の肖像写真であり、しかもマルローの肖像写真としてこの後、雑誌などにしばしば掲載さ
れることになった。1996年にマルローの没後20年を記念して郵政公社が発行した切手にも採用された。なお、このときは、禁煙を推奨する政府の要請で、
マルローがくわえた煙草がカットされ、修整が施されたため、一層注目を浴びることになった[6][13]。 同じくマルローからの依頼で、第一回文化擁護国際作家会議(フランス語版)を取材した[14]。1935年6月21日から25日までパリで開催され、世界 38か国から320人の参加を得たこの会議は、ファシズムから文化を守ることが目的であり、発起人のマルロー、事務局を務めたルイ・アラゴンのほか、フラ ンスからはアンドレ・ジッド、アンリ・バルビュス、ソ連からはイリヤ・エレンブルグ、イサーク・バーベリ、ドイツからはハインリヒ・マン、ベルトルト・ブ レヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリー、E・M・フォースターらが参加した[15] [16]。フロイントがこのときに撮った作家の写真は、同会議の唯一の写真資料であり[16]、フロイントはこれを機に、作家の肖像写真を撮ることに関心 を持つようになった。 |
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モニエの支援 - 作家の肖像写真 |
1935
年に6区オデオン通り(フランス語版)で「本の友の家」書店を経営していたアドリエンヌ・モニエに出会い、モニエの書店の斜め向かいでシェイクスピア・ア
ンド・カンパニー書店を経営していたアメリカ人のシルヴィア・ビーチとも親しくなった。図書館、画廊を兼ね、新しい文学を紹介する講演会や朗読会が行われ
ていたモニエの書店にはフランスだけでなく、ビーチの書店を拠点とするアメリカ、イギリス、アイルランドの作家が多数訪れ、戦間期の文学運動の拠点の一つ
であった[17]。 もともと文学に関心が深かったフロイントはすでに彼らの作品を読んでおり、作家と話をしたい、もっと作家について知りたいという個人的な関心があった [10]。撮影は作家が最もくつろげる場所として、常に作家の自宅で行った。自宅を訪れ、文学について議論を交わし、相手が興に乗って議論に熱中したとき に見えてくる素顔を写し取った。作家は、写真を撮りたいというよりむしろ相手のことを知りたいというフロイントの真摯な気持ちに打たれて心を開き、素顔を 見せたのである[4][10]。実際、彼女は「文学を愛していたし、関心のある作家や、作品を理解している作家だけを被写体にした」と語っており [18]、だからこそ、作家の「忘我」の瞬間とその瞬間に見せる内面、作家自身すら気づいていない特徴を捉えることができたのである[19]。フロイント は特にカラーの肖像写真の先駆者として知られる[20][21]。早くも1938年に、当時開発されたばかりのカラー写真フィルム「アグファカラー」や 「コダクローム」を使って写真を撮り始めた[21]。1940年にパリを去るまでに撮影した写真は1,700枚。その大半が肖像写真で、うち80枚が作家 の肖像写真であるが[10]、カラー写真フィルムは当時まだ高価であり、フランスの雑誌や新聞ではカラー印刷ができなかったために、スライドを制作し、 1939年にモニエの書店でスライド上映会を行った。後にモニエが「人々の表情が織り成す世界への旅」と呼ぶことになるこの上映会には、被写体となった作 家も多数参加した[10]。 パリではマルローをはじめとする第一回文化擁護国際作家会議に参加した作家のほか、ジョージ・バーナード・ショー、T・S・エリオット、ウラジミール・ナ ボコフ、アンリ・ミショー、ミシェル・レリス、マルグリット・ユルスナール、ジャン・コクトー、エルザ・トリオレ、フランソワ・モーリアック、ジャン= ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、サミュエル・ベケット、ポール・ヴァレリー、シュテファン・ツヴァイク、ボリス・パステルナーク、アン ドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラらの写真を撮った(作品参照)。また、モニエの紹介で1939年に2度渡英し、ヴァージニア・ウルフとジェイムズ・ ジョイスの写真を撮った。いずれもカラー写真である。特にヴァージニア・ウルフの写真はフロイントの代表作であり、1984年にロバート・メイプルソープ が撮影したフロイントの肖像写真にもウルフの写真が写っている[22]。一方、ジョイスの肖像写真は『フィネガンズ・ウェイク』が発表された1939年の 『タイム』誌の表紙を飾った[19][23]。この他、フロイントの肖像写真は、英国の『ウィークリー・イラストレーティッド(英語版)』誌、『ピク チャー・ポスト(英語版)』誌、フランスの『パリ・マッチ』誌、『ヴュ』誌、ドイツの『ドゥー』誌[24]などに掲載された[25]。 |
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博士論文「19世紀フランスにおける写真」 |
博
士論文は1936年に完成し、ソルボンヌ大学に提出した。モニエはフロイントのフランス語での執筆に協力し、提出後に「本の友の家」書店から刊行した
[6][9]。「19世紀フランスにおける写真」と題されたこの論文は、2011年に現代出版資料研究所(フランス語版) (IMEC)
の編纂により再刊された。本論文は、かつてブルジョワ階級のものであった肖像写真が複製技術の発展によって大衆化した過程を跡付けるものであり、学位論文
で写真史を論じたのは初めてのことであった[12][17][26]。この論文ではまた、肖像写真の普及に貢献した写真家として、彼女が尊敬するナダール
について論じている。フロイントによると、肖像写真がブルジョワ階級の特権であった時代には「美しく見せるための」修整技術が発展したが、修整を施すこと
なく、人間の「内面に秘められた知性」を写し取ろうとしたのがナダールである。一方、ナダールは人物を浮き上がらせるために背景を削除したが、フロイント
は逆に、人物の特徴を際立たせるために「自宅」という個性的な空間を選んだ[10]。 博士論文を提出・出版した1936年、フロイントはフランス国籍を取得した[1][9][18]。 |
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アルゼンチン亡命 |
第二次世界大戦が勃発し、1940年にナチス・ドイツがフランスを占領
すると、フロイントは再び亡命を余儀なくされた。モニエは多くのユダヤ人の亡命を助けたことでも知られるが、ベンヤミンがニエーヴル県ヌヴェール近郊の
ヴェルニュシュ収容所から解放され、フロイントがロット県に逃れることができたのもモニエの尽力によるものであった[17]。ベンヤミンはこの後ルルド、
次いでマルセイユに逃れ、スペイン経由で亡命を企てたが、健康状態も含めて絶望的な状況のなか、ポルトボウで自殺した[8]。ロット県に着いたフロイント
は、再びアンドレ・マルローと、アルゼンチンの作家で文芸雑誌『南(Sur)』を主宰していたヴィクトリア・オカンポ(スペイン語版)の支援により、
1941年にアルゼンチンに亡命し、ブエノスアイレスのオカンポのもとに身を寄せた[1][8]。 アルゼンチンではすでに1939年にフランスから亡命していたロジェ・カイヨワが、赤十字社の「フランス戦争犠牲者支援委員会」のための活動をしていた。 彼は自作のほか、ジュール・シュペルヴィエル、ヴィクトル・ユーゴー、サン=ジョン・ペルス、アンドレ・ブルトンの作品をオカンポの『南』誌に掲載し、収 益を支援委員会に寄付した[3]。フロイントもまた、フランスのための資金調達に奔走し、「慈善活動ではない、フランスとの団結だ」として「フランス人作 家との団結」を結成。オカンポが代表に就任した[27]。支援委員会はホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサーレス、マヌエル・ムヒカ=ラ イネス(スペイン語版)など多くの作家から支援を得た。フロイントは彼らの肖像写真を撮り、これまでの作品も含めて競売にかけ、収益を委員会に寄付した [27]。パリ解放後に郵便が再開され、モニエと連絡を取ることができるようになると、フランス人作家と委員会の仲介役となり、委員会が集めた資金で、数 トンの食料品や衣料品、タイプライターのリボンを購入し、マルローを介してフランスに送った[27]。 |
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戦後 |
マグナム・フォト - 再び、中南米での活動 |
アルゼンチンではさらにシャルル・ド・ゴールの自由フランス政府の情報
省からの依頼で南米情勢について取材し、1946年にパリに戻った後、南米芸術展を開催した[1]。次いで人類博物館からの依頼で再び南米に向かい、パタ
ゴニア(アルゼンチンおよびチリのコロラド川以南の地域)、ティエラ・デル・フエゴ(南米最南端)で人々の暮らしや風景をカメラに収めた[1]。 1947年にロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デヴィッド・シーモアによりマグナム・フォトが結成されると、キャ パに誘われて会員になった。マグナム初の女性写真家であった[28]。マグナム専属の報道写真家として米国、カナダ、中米、エクアドル、ペルー、ボリヴィ ア、ブラジル、アルゼンチン、メキシコで取材した。メキシコ滞在は2週間の予定であったが、ラテン・アメリカに魅せられ、さらにフリーダ・カーロとディエ ゴ・リヴェラに出会ったため、2年間にわたってフリーダと彼女を取り巻く世界を写真に撮り続けることになった。このときの写真は、2013年に現代出版資 料研究所とアルバン・ミシェル(フランス語版)の共編で『フリーダ・カーロ』写真集として出版された。 1950年にアルゼンチンのフアン・ペロン大統領夫人エヴァ・ペロンの日常生活をカメラに収め、『ライフ』誌に発表した。被写体の素顔を捉えるのがフロイ ントの得意とするところであったが、大統領夫妻はこのような写真が気に入らず「これ見よがしで恥かしい」と批判した。挙句はこの『ライフ』誌がアルゼンチ ンで没収され、フロイントは出国を余儀なくされた[6][16]。 |
パリ定住後 |
パリに定住したのは1952年であった。1954年にキャパ自らにより
マグナムから除名された。マッカーシズム(反共産主義、赤狩り)が猛威を振るった1950年代に共産主義者の疑いをかけられ、米国入国が禁じられたからで
あり、キャパはこのようなフロイントの存在によりマグナム・ニューヨーク事務所の活動および将来に影響を及ぼすと考えたためであるとされる[9]
[29]。 1968年にパリ市立近代美術館で最初の大規模なフロイント展が開催された[12]。これにより、フロイントの名は世界的に知られることになったが、60 歳になった彼女は以後、執筆活動に専念した。1974年には写真史家として名を残す契機となった著書『写真と社会』を発表した。博士論文「19世紀フラン スにおける写真」をさらに発展させ、ドイツやアメリカにおける写真報道やマスメディア雑誌、写真と政治や法律との関係、新しい動向としてのアマチュア写真 までより広い視野で論じている。本書はドイツ語、オランダ語、日本語、英語に翻訳され、現在でも写真史を語るときにしばしば引用される重要な文献である [26]。 1981年に、フランソワ・ミッテランが大統領に就任すると、彼自らの指名により大統領の公式写真を撮影した[5][29]。フロイントはこれまでと同様 に、撮影の前に「お孫さんの話をしたら、(ミッテランは)そっと微笑んだ」という[5]。 1991年から92年にかけて、ポンピドゥー・センター内国立近代美術館で大規模な回顧展が行われた。日本でも、2007年に国立新美術館で同美術館所蔵 作品を紹介する「異邦人(エトランジェ)たちのパリ 1900-2005」展が開催されたときに、フロイントの代表的な肖像写真7点(ジッド、ベンヤミン、サルトル、ジョイス、ミショー、マルロー、ブルト ン)が展示された[30]。 1977年にドクメンタ 6(ヘッセン州カッセルで5年ごとに開催される世界最大規模の現代美術展の第6回で、芸術総監督はマンフレート・シュネッケンブルガー(ドイツ語版) [31])に参加し、同年、フランス創造写真協会連盟の会長に就任した[1]。また、フランス文化省の第3回国家写真大賞(フランス語版)(第1回はブ ラッサイ、第2回はウィリー・ロニが受賞)、ドイツ写真協会の文化功労賞、芸術文化勲章、レジオンドヌール勲章など多くの栄誉を得た[32][25]。 |
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死去・没後 |
フロイントは2000年3月30日にパリにて91歳で死去し、モンパル
ナス墓地に埋葬された[33]。 遺された白黒ネガフィルムとそのコンタクトプリント約1,600点、白黒・カラーの焼付け1,200点、スライド8,200枚(複写を含む)、焼増し 1,000点、刊行物用の焼付け8,000点のほか資料(原稿、手帳、日記、メモ、書簡、展覧会や出版に関する資料、写真が掲載された雑誌)については、 遺産相続手続きが複雑であったため、2005年に現代出版資料研究所 (IMEC) に移され、目録が作成された後、ドイツに住むフロイントの親族の希望により、同研究所に寄贈された。現在、現代創造資料(Mémoire de la création contemporaine)基金の一環として管理され、主な写真作品は国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)が所蔵し、資料はカルヴァドス県のアル デンヌ修道院(フランス語版)の IMEC 図書館が所蔵している[11][34]。 現代出版資料研究所 (IMEC) は、2011年10月14日から2012年1月29日まで、ピエール・ベルジェ=イヴ・サン・ローラン財団(フランス語版)が管理するパリ16区のイヴ・ サン・ローラン美術館で「国境の眼、パリ 1933-1940年」と題するフロイント展を開催した[35]。ほぼ同時の2011年10月12日から2012年2月5日まで、3区のユダヤ芸術歴史博 物館では「ヴァルター・ベンヤミン資料展」が開催された[36]。 |
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評価 |
フロイントは写真家および写真史研究者として写真家の地位を向上させ、
写真を造形芸術の一分野として確立することになったが[11]、彼女自身は「写真が芸術だと思ったことはない。重要なのは写真であって、カメラの背後にい
る写真家ではない」と語っている[4][18]。また、作家の肖像写真が革新的であったことから肖像写真家として知られることになったフロイントだが、彼
女自身はむしろ報道写真家を目指していた。一方でまた、戦時中には従軍記者として活躍する機会もあったが、戦争の写真は撮らなかった。これについては、
「写真を通じて人間を理解することで殺し合いはなくなるだろうと思っていた。相手のことをよく理解していたら殺せるだろうか。でも、間違っていた。ある
日、人間はそれでも殺し合うことを知った」と語っている[18]。 |
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作品に関する情報は「ジゼル・フロイント」が詳しい |
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Gisèle Freund
(gebürtig Gisela Freund; geboren am 19. Dezember 1908 in Schöneberg,
heute Stadtteil von Berlin; gestorben am 31. März 2000 in Paris) war
eine deutsch-französische Fotografin und Fotohistorikerin. |
ジゼール・フロイント(本名ジゼラ・フロイント、1908年12月19日シェーネベルク(現ベルリン)生まれ、2000年3月31日パリ没)は、ドイツ系フランス人の写真家、写真史家である。 |
Leben Galerie Château d'eau Toulouse. Von links nach rechts: Michel Tournier, Jean Dieuzaide, Michel Delaborde, Gisèle Freund, 1981 Gisèle Freund (sitzend) und die Kunstwissenschaftlerin Marita Ruiter, Frankfurt 1995 Gisela Freund wuchs in einer wohlhabenden jüdischen Familie im Bayerischen Viertel von Schöneberg auf. Ihr Vater, der Textilfabrikant und Kunstsammler Julius Freund, weckte früh ihr Verständnis für Bilder und schenkte der Amateurfotografin zum Abitur eine Leica. Obwohl sie nach ihrem Abitur anfangs nach Heidelberg zum Studium wollte, kam es nicht dazu, weil ihre Eltern anders als bei ihrem Bruder ein Studium in dem als allzu mondän betrachteten Studienort für unratsam hielten. Sie studierte deshalb ab 1929 in Freiburg im Breisgau, dann ab dem Wintersemester 1929/30 bei Karl Mannheim in Frankfurt am Main Soziologie, der zu diesem Zeitpunkt ebenfalls bereits wieder Heidelberg verlassen hatte. Am benachbarten Institut für Sozialforschung nahm sie auch an Seminaren von Max Horkheimer teil. Als Mitglied der Roten Studentengruppe nahm sie an linken Demonstrationen teil und war Teil jener Studentenzeitschrift. Sie betonte jedoch immer, dass sie zwar antifaschistisch aber nie prokommunistisch gewesen sei.[1] Ihr Mentor Norbert Elias, damals Assistent von Karl Mannheim, riet ihr, die Anfänge der Fotografie in Frankreich in einer soziologisch-ästhetischen Doktorarbeit zu untersuchen. Sie hielt sich deshalb für Forschungen ab 1931 überwiegend in Paris auf. Als im April 1933 die jüdischen Professoren in Deutschland durch ein nationalsozialistisches Gesetz zwangspensioniert respektive vertrieben wurden und Karl Mannheim nach London emigrierte, entschied sich auch Freund für die Emigration und beendete in Paris ihre Dissertation. Wesentliche Unterstützung erfuhr sie dabei durch die Buchhändlerin und Schriftstellerin Adrienne Monnier, mit der sie eine sehr enge Freundschaft verband. Monnier übersetzte die Doktorarbeit ins Französische und publizierte sie zur Promotion an der Sorbonne 1936 im Verlag ihrer Buchhandlung. La Photographie en France au dix-neuvième siècle war der erste Versuch, das Aufkommen der Porträtfotografie materialistisch zu erklären. Die Arbeit ist ein Meilenstein in der Erforschung der modernen Bildkultur. Das deutsche Original erschien erst 1968 unter dem Titel Photographie und bürgerliche Gesellschaft. Eine kunstsoziologische Studie. Noch als Studentin begann Freund, fotojournalistisch zu arbeiten. Ihre erste bedeutende Reportage schilderte das Leben der Arbeitslosen im nordenglischen Industrierevier und erschien 1935 in Weekly Illustrated, ein Jahr später als Nachdruck in der neu gegründeten Life. Im Zusammenhang einer Reportage über den Internationalen Schriftsteller-Kongress, der 1935 in Paris stattfand, gelang ihr ein Porträt von André Malraux, das durch seine schnappschussartige Beiläufigkeit und grafische Brillanz einen romantisch-revolutionären Helden der Zeit zur Ikone erhob. Als 1938 der Agfacolor-Diapositivfilm in Frankreich auf den Markt kam, begann Freund, eine Sammlung von Farbporträts von Schriftstellern anzulegen. Sie fotografierte die Autoren, die sie meist durch Monnier kennengelernt hatte, in Porträtsitzungen bei Lampenlicht. Die Bilder bekamen dadurch eine ruhige ästhetische Einheit, die an die Konzeption der Galerie contemporaine von Nadar und anderen Fotografen des Second Empire erinnerte. In etwa eineinhalb Jahren nahm sie in Paris und London über achtzig Schriftsteller auf, von denen später viele zu den wichtigen Autoren des zwanzigsten Jahrhunderts gezählt wurden: Aragon, Breton, Benjamin, Cocteau, Colette, Eliot, Éluard, Gide, Joyce, Koestler, Montherlant, Rolland, Shaw, Susana Soca, Valéry, Wilder, Woolf, Zweig u. a. Rue Gisèle-Freund (13. Arrondissement), Paris Gisele-Freund-Hain, Berlin-Rummelsburg Dieses einzigartige Farbporträt-Werk wurde erst viele Jahre nach dem Zweiten Weltkrieg publiziert und begründet heute Freunds Berühmtheit als Porträtistin des Geistes. In manchen Fällen – Joyce, Malraux und Woolf – ist Freunds Bildnis so stark ins öffentliche Bewusstsein eingegangen, dass es kanonisch für die Figur selbst steht. Als François Mitterrand 1981 französischer Staatspräsident wurde, kannte er diese Ahnengalerie, und er bat Freund, sein offizielles Porträt aufzunehmen. Sie setzte ihn wie die Schriftsteller von einst ins Lampenlicht. Ein Jahr darauf wurde sie mit dem Orden der Légion d’honneur ausgezeichnet und erhielt ihren französischen Personalausweis. Kurz vor dem Einmarsch der deutschen Truppen in Paris 1940 floh Freund in das Departement Lot und verbrachte ein Jahr bei Bauern in der freien Zone. Sie hatte zwar 1936 Pierre Blum, den Freund eines Cousins von Adrienne Monnier, geheiratet, um französische Staatsbürgerin zu werden. Aber sie zweifelte nicht daran, dass sie im besetzten Frankreich in Lebensgefahr war. Durch die Hilfe der vermögenden argentinischen Literatin Victoria Ocampo gelang ihr die Flucht nach Buenos Aires. Diese Stadt blieb ihre Lebensbasis bis zum Kriegsende. Die Ehe mit Blum wurde 1948 einvernehmlich geschieden. Die erzwungenen südamerikanischen Jahre waren für Freund eine glückliche und produktive Zeit. Sie reiste durch Patagonien und fotografierte dort und in den Andenstaaten mit der Neugier einer Ethnografin. In Chile gehörte sie 1945 als Regieassistentin und Standfotografin zu einer französischen Schauspieltruppe, die unter der Regie von Jacques Rémy den Spielfilm La Fruta mordida realisierte. Als Robert Capa und andere ehemalige Kriegsfotografen 1947 die Fotoagentur Magnum gründeten, wurde Freund ein assoziiertes Mitglied. Sie lebte überwiegend in Mexiko-Stadt und fotografierte in ganz Mittel- und Südamerika. Aus dem geplanten zweiwöchigen Aufenthalt in Mexiko wurden zwei Jahre, geschuldet dem Malerpaar Frida Kahlo und Diego Rivera. Freund porträtierte beide und dokumentierte das Leben des Malerduos ausgiebig. Gisèle Freund sprach nicht viel über ihre Liebschaften und ihre Ehe mit Pierre Blum wird häufig als reine Zweckheirat beschrieben,[2] so dass auch über eine Bisexualität Freunds spekuliert wurde.[3] Frida Kahlo soll sich in Freund verliebt haben, was, laut ihrer Biografin Bettina de Cosnac, aus den zahlreichen Briefen an Freund hervorgeht.[4][5] Magnum verkaufte ihre Reportagen und Porträts international an Magazine, darunter auch 1950 eine Bilderserie über Evita Perón, die zu ihren besten journalistischen Arbeiten zählt. Wenig später kam es zum Bruch mit der Agentur. Freund arbeitete ab 1952 von Paris aus und erweiterte ihre Porträtsammlung um Schriftsteller der Nachkriegszeit: Beauvoir und Sartre, Beckett, Duras, Ionesco, Leiris, Michaux, Sarraute u. a. wurden von ihr nun in einem diskret-beobachtenden Stil und meist in Schwarzweiß erfasst. Mitte der sechziger Jahre endete ihre aktive Zeit als Fotografin. Sie lebte jetzt von ihrem umfangreichen Porträtarchiv, auf das Magazine, Buchverlage und das Fernsehen zurückgriffen. Eine erste große Einzelausstellung ihrer Porträts zeigte 1968 das Musée d’art moderne de la Ville de Paris. Zwei Jahre später veröffentlichte Freund eine Autobiografie, Le Monde et ma caméra, die mit der Schilderung ihrer dramatischen Flucht im Nachtzug aus Hitler-Deutschland einsetzte. Damit begann die Legendenbildung um ihre Person, die sie in den Jahren ihrer Berühmtheit mit vielen Interviews nährte. Die Entdeckung ihres Werks und ihre besondere Beliebtheit in Deutschland setzten Mitte der siebziger Jahre ein, parallel zur Frauenbewegung und zur Trennung von Fotografie und Fotokunst durch den Kunstbetrieb. Als die documenta in Kassel 1977 ein für den Kunsthandel hergestelltes Portfolio mit zehn ihrer frühen Farbporträts zeigte, war aus der Fotografin Freund eine Fotokünstlerin geworden. Gisèle Freunds Grabstein auf dem Cimetière Montparnasse Alle 180 Bilder einer Freund-Werkschau der Sidney Janis Gallery in New York wurden 1979 vom Center for Creative Photography in Tucson erworben. Bildbände und mehrere Fernsehfilme machten ihr Leben und Werk vor allem in Frankreich und Deutschland bekannt. Auf dem Höhepunkt ihrer Berühmtheit richtete das Centre Georges-Pompidou 1991 Freund eine große Retrospektive aus, die von 400.000 Menschen besucht wurde. Die 250 Werke dieser Schau gingen als Geschenk von Freund in die Sammlung des Musée National d’Art Moderne ein. In den 1990er Jahren wirkte sie als Mentorin der jungen Jessica Backhaus. Am 31. März 2000 starb Gisèle Freund im Alter von 91 Jahren in Paris an Herzversagen. Ihr Grab befindet sich auf dem Cimetière Montparnasse in Paris. Sie hat keine Nachkommen. Das Institut mémoires de l’édition contemporaine (IMEC) in Saint-Germain la Blanche-Herbe besitzt ihren Nachlass und ist für die Verwertungsrechte an ihrem Werk zuständig. Leistungen Gisèle Freund gilt heute als eine Künstlerin, die durch ihre Fotografien und durch ihre Biografie wirkte. Sie hat ihr Werk immer an die Erzählung ihres bewegten Lebens, an ihre Liebe zur Literatur und zu den Literaten, an ihre oft radikalen Ansichten gebunden. Die Frau mit der Kamera – wie eines ihrer letzten Bücher hieß – war eine der großen Frauen des zwanzigsten Jahrhunderts. Ihre kunstsoziologische Pionierarbeit von 1936, die sie in den 1970ern ausbaute und als Photographie und bürgerliche Gesellschaft wiederveröffentlichte, thematisiert auf Basis einer materialistischen Gesellschaftstheorie die Zusammenhänge zwischen französischer Porträtfotografie und dem Aufstieg von Bürgertum und Kleinbürgertum und kritisiert insbesondere die Scheinobjektivität des Mediums. Mit dieser zum Standardwerk gewordenen Untersuchung hatte Freund bleibenden Einfluss auf die kritische Analyse der Fotografie.[6] Würdigungen Rue Gisèle Freund, 13. Arrondissement, Paris Die Universität Frankfurt am Main benannte im Jahre 2015 einen Platz auf dem Campus Westend nach Gisèle Freund.[8] Auch in Paris, Berlin, Rheine und Rodgau wurden Straßen nach ihr benannt. Seit 2021 wird an der Folkwang Universität der Künste alle zwei Jahre der Gisèle Freund-Preis für Theorie und Geschichte der Fotografie verliehen.[9] |
生活 ギャラリーChâteau d'eau Toulouse。左からミシェル・トゥルニエ、ジャン・ディエウザイド、ミシェル・ドラボルド、ジゼール・フロイント、1981年 ジゼール・フロイント(着席)と美術史家マリタ・ルイター、フランクフルト 1995年 ジゼラ・フロイントは、バイエルンのシェーネベルクの裕福なユダヤ人家庭に育った。織物メーカーで美術品コレクターのユリウス・フロイントを父に持つ彼女 は、幼い頃から写真に親しみ、アマチュア写真家としてライカをプレゼントされた。当初はハイデルベルクへの留学を希望していたが、両親は兄とは異なり、流 行の先端を行く大学街での勉強は好ましくないと考えていたため、それは叶わなかった。そのため、彼女は1929年からフライブルク・イム・ブライスガウで 社会学を学び、1929/30年の冬学期からはフランクフルト・アム・マインでカール・マンハイムに師事した。また、隣接する社会研究所のマックス・ホル クハイマーのセミナーにも参加した。赤い学生グループのメンバーとして左翼デモに参加し、学生雑誌に寄稿した。しかし、彼女は常に反ファシストであること を強調していたが、決して親共産主義者ではなかった[1]。 当時カール・マンハイムの助手であった恩師ノルベルト・エリアスは、社会学的・美学的な博士論文でフランスにおける写真の始まりを調査するよう彼女に勧め た。そのため、彼女は1931年以降、研究期間のほとんどをパリで過ごした。1933年4月、ドイツのユダヤ人教授が国家社会主義法によって退職や追放を 余儀なくされ、カール・マンハイムがロンドンに移住すると、フロイントも移住を決意し、パリで論文を完成させた。 彼女は、親交の深かった書店員で作家のアドリアン・モニエから大きな支援を受けた。モニエは論文をフランス語に翻訳し、1936年にソルボンヌ大学で博士 号を取得した彼女の書店で出版した。La Photographie en France au dix-neuème siècle』は、肖像写真の出現を唯物論的に説明した最初の試みである。この著作は、近代の視覚文化研究における画期的な出来事である。ドイツ語の原著 は1968年に『Photographie und bürgerliche Gesellschaft』というタイトルで出版された。芸術の社会学的研究』である。 フロイントは学生時代からフォトジャーナリストとして活動を始めた。彼女の最初の重要なルポルタージュは、イギリス北部の工業地帯の失業者の生活を描いた もので、1935年に『Weekly Illustrated』に掲載された。1935年にパリで開催された国際作家会議のルポルタージュに関連して、彼女はアンドレ・マルローの肖像を描くこ とに成功した。そのスナップショットのようなさりげなさとグラフィックの輝きは、当時のロマンティックな革命の英雄を象徴的な地位に押し上げた。 1938年にフランスでアグファカラースライドフィルムが発売されると、フロイントは作家たちのカラーポートレート集を作り始めた。彼女は、モニエを通じ て知り合った作家たちのほとんどを、照明に照らされたポートレート・セッションで撮影した。これによって、ナダールをはじめとする第二帝政期の写真家たち によるギャルリー・コンテンポラリーのコンセプトを彷彿とさせる、落ち着いた美的統一感が写真に与えられた。約1年半の間に、彼女はパリとロンドンで80 人以上の作家を撮影したが、その多くは後に20世紀を代表する作家の一人に数えられるようになった: アラゴン、ブルトン、ベンジャミン、コクトー、コレット、エリオット、エリュアール、ジド、ジョイス、ケストラー、モンテルラン、ロラン、ショー、スサ ナ・ソカ、ヴァレリー、ワイルダー、ウルフ、ツヴァイクなどである。 パリ、ジゼル・フロント通り(13区 ジゼル=フロイント=ヘイン、ベルリン=ルンメルスブルク このユニークなカラー肖像画は、第二次世界大戦後何年も経たないと出版されなかったが、今日、心の肖像画家としてのフロイントの名声を確立している。ジョ イス、マルロー、ウルフのように、フロイントの肖像画が大衆の意識に強く入り込み、その人物そのものが正典となった例もある。フランソワ・ミッテランが 1981年にフランス大統領に就任したとき、彼はこの先祖のギャラリーをよく知り、フロイントに公式肖像画の撮影を依頼した。かつての作家たちのように、 彼女は彼にスポットライトを当てた。年後、彼女はレジオンドヌール勲章を授与され、フランスの身分証明書を手にした。 1940年にドイツ軍がパリに進軍する直前、フロントはロット県に逃れ、自由地区の農民たちと1年を過ごした。1936年、彼女はフランス国籍を取得する ため、アドリアン・モニエの従兄弟の友人ピエール・ブルムと結婚した。しかし彼女は、占領下のフランスで自分の命が危険にさらされていることを疑わなかっ た。アルゼンチンの裕福な作家ヴィクトリア・オカンポの助けを借りて、彼女はブエノスアイレスに逃れることに成功した。この街は終戦まで彼女の生活の拠点 となった。ブルムとの結婚は1948年に双方合意の上で離婚した。 強制的に南米に送られた数年間は、フロイントにとって幸福で実り多い時期だった。パタゴニアを旅し、そこで、そしてアンデス諸国で、民族誌学者としての好 奇心をもって写真を撮った。1945年のチリでは、助監督兼スチールカメラマンとして、ジャック・レミーの監督のもと、長編映画『La Fruta mordida』を実現させたフランス人俳優団の一員だった。1947年、ロバート・キャパら元戦場カメラマンがマグナム・フォト・エージェンシーを設立 すると、フロイントは準会員となる。彼女は主にメキシコシティに住み、中南米各地で撮影を行った。画家のフリーダ・カーロとディエゴ・リベラのカップルの おかげで、2週間のメキシコ滞在が2年になった。フロイントは2人のポートレートを撮影し、画家コンビの人生を幅広く記録した。ジゼル・フロイントは恋愛 について多くを語らず、ピエール・ブルムとの結婚はしばしば便宜上の結婚と言われ[2]、フロイントはバイセクシュアルであったという憶測を呼んだ [3]。フリーダ・カーロはフロイントと恋に落ちたと言われており、彼女の伝記作家ベティナ・ド・コスナックによれば、それは彼女がフロイントに書いた数 多くの手紙から明らかである[4][5]。 マグナムは彼女のルポルタージュやポートレイトを国際的な雑誌に売り込み、その中には1950年のエビータ・ペロンに関する一連の写真も含まれていた。し ばらくして、フロイントはマグナムと決別した。ボーヴォワールやサルトル、ベケット、デュラス、イヨネスコ、レイリス、ミショー、サローテなど、戦後の作 家たちの肖像写真も手がけるようになった。写真家としての活動は60年代半ばに終わりを告げた。現在、彼女は雑誌、書籍出版社、テレビなどで使用される膨 大な肖像写真のアーカイブで生計を立てている。 1968年、パリ市立近代美術館は、彼女のポートレートを集めた初の大規模な個展を開催した。その2年後、フロイントは自伝『Le Monde et ma caméra』を出版した。この自伝は、ヒトラーのドイツから夜行列車で脱出するという劇的な出来事から始まった。これが彼女に関する伝説的な物語の始ま りとなり、名声のあった数年間、彼女は多くのインタビューでその物語を煽った。彼女の作品の発見とドイツでの特別な人気は、女性運動と美術界による写真と 写真芸術の分離と並行して、70年代半ばに始まった。1977年にカッセルで開催されたドクメンタで、美術業界向けに制作された彼女の初期のカラーポート レート10点のポートフォリオが展示されたとき、写真家フロイントは写真芸術家になっていた。 モンパルナスのシメティエールにあるジゼール・フロントの墓碑 1979年、ニューヨークのシドニー・ジャニス・ギャラリーで開催されたフロイントの写真展の全180点が、ツーソンのクリエイティブ写真センターに収蔵 された。絵本や数本のテレビ映画によって、彼女の人生と作品は、特にフランスとドイツで有名になった。彼女の名声が最高潮に達した1991年、ジョル ジュ・ポンピドゥー・センターはフロイントの大規模な回顧展を開催し、40万人が訪れた。この展覧会に出品された250点の作品は、フロイントによって国 立近代美術館に寄贈された。1990年代には、若いジェシカ・バックハウスの指導者としても活躍した。 2000年3月31日、ジゼル・フロントは心不全のため91歳でパリで死去した。墓はパリのモンパルナスにある。彼女の子孫はいない。サン・ジェルマン・ ラ・ブランシュエルブにあるIMEC(Institut mémoires de l'édition contemporaine)が彼女の遺産を所有し、彼女の作品に関する権利を管理している。 業績 今日、ジゼール・フロントは、写真とその伝記を通して衝撃を与えたアーティストとして認められている。彼女は常に自分の作品を、波乱に満ちた人生の物語、 文学と文学者への愛、そしてしばしば過激な意見と結びつけていた。カメラを持った女--彼女の最後の著作のひとつがそう呼ばれている--は、20世紀の偉 大な女性のひとりである。1936年に発表された芸術社会学に関する彼女の先駆的な著作は、1970年代に増補され、『写真とブルジョワ社会』として再出 版された。フランスの肖像写真とブルジョワジーおよびプチ・ブルジョワジーの台頭との関連を、唯物論的な社会理論に基づいて論じ、特にこのメディアの擬似 客観性を批判している。標準的な著作となったこの研究によって、フロイントは写真の批評的分析に永続的な影響を与えた[6]。 トリビュート ジゼル・フロント通り パリ13区 2015年、フランクフルト・アム・マイン大学は、ヴェステンド・キャンパスの広場をジゼール・フロイントにちなんで命名した[8]。2021年以降、フォルクヴァング芸術大学で2年ごとにジゼール・フロイント写真理論・歴史賞が授与されている[9]。 |
https://de.wikipedia.org/wiki/Gis%C3%A8le_Freund |
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Werke Einzelausstellungen 1963: Bibliothèque nationale de France, Paris 1968: Musée d’art moderne de la Ville de Paris 1975: Robert Schoelkopf Gallery, New York 1977: Galerie Lange-Irschl, München 1977: Rheinisches Landesmuseum Bonn 1978: Marcus Krakow Gallery, Boston 1979: Sidney Janis Gallery, New York 1980: Galerie Agathe Gaillard, Paris 1981: Center for Creative Photography, Tucson, Arizona 1982: Koplin Gallery, Los Angeles 1983: Stanford University Museum 1984: Fotografie Forum Frankfurt, Frankfurt am Main 1987: Galerie Zur Stockeregg, Zürich 1988: Werkbund-Archiv, Berlin 1989: Galerie de France, Paris 1990: Akademie der Künste, Berlin 1991: Centre Georges-Pompidou, Paris 1992: Hammoniale, Hamburg 1994: Museum für Photographie, Braunschweig 1995: Museum für Moderne Kunst, Frankfurt am Main 1996: Berliner Festwochen 1996: Galerie nationale du Jeu de Paume, Paris 1996: Sprengel Museum, Hannover 2002: Centre de Cultura Contemporania, Barcelona 2008: Versicherungskammer Bayern, München 2009: Focke-Museum, Bremen 2011: Kunsthalle Jesuitenkirche, Aschaffenburg 2014: Akademie der Künste, Berlin[7] 2015: Historisches Museum Frankfurt, Frankfurt am Main 2017: Universitätsarchiv Frankfurt, Goethe-Universität, Frankfurt am Main Monografien 1936: La Photographie en France au dix-neuvième siècle. Paris 1954: Mexique Précolombien. Neuchâtel 1965: James Joyce in Paris. New York 1968: Au pays des visages 1938–1968. Paris (Ausstellungskatalog) 1968: Photographie und bürgerliche Gesellschaft. München (deutsche Ausgabe von * 1936) dt. Ausgabe: Photographie und Gesellschaft. München 1976 (mehrere Auflagen und Ausgaben) 1970: Le Monde et ma caméra. Paris 1974: Photographie et société. Paris (völlig veränderte und erweiterte Fassung von * 1936) engl. Ausgabe: The World In My Camera. New York 1975 (um viele Abbildungen erweitert) 1977: Fotografien 1932–1977. Bonn (erste Retrospektive in Deutschland; Ausstellungskatalog) 1977: Mémoires de l’œil. Paris dt. Ausgabe: Memoiren des Auges. Frankfurt am Main 1977. 1982: Trois jours avec Joyce. Paris dt. Ausgabe: Drei Tage mit James Joyce. Frankfurt am Main 1983. 1985: Photographien. München (bis heute die maßgebliche Monografie; weitere Auflagen als Photographien und Erinnerungen, engl. und franz. Lizenzausgaben) 1988: Gisèle Freund. Berlin (Ausstellungsmagazin, zu Buch erweitert) 1989: Porträts von Schriftstellern und Künstlern. München 1991: Itinéraires. Catalogue de l’œuvre photographique Gisèle Freund. Werkkatalog von Hans Puttnies, Paris (Ausstellungskatalog) 1992: Die Frau mit der Kamera. Text von Hans Puttnies, München (zugleich als Ausstellungskatalog Hamburg) 1992: Gisèle Freund Portrait. Entretiens avec Rauda Jamis. Paris dt. Ausgabe: Gespräche mit Rauda Jamis. München 1993 1994: Zwei Reportagen. Braunschweig (Ausstellungskatalog) 1995: Fotografien zum 1. Mai 1932. Frankfurt am Main (Ausstellungskatalog. Die Fotos entstanden ausnahmslos vor 1932) 1996: Berlin-Frankfurt-Paris. Fotografien 1929–1962. Berlin (Ausstellungskatalog) 1996: Gesichter der Sprache. Schriftsteller um Adrienne Monnier. Fotografien zwischen 1935 und 1940. Hannover (Ausstellungskatalog) 1996: Malraux sous le regard de Gisèle Freund. Paris (Ausstellungskatalog) 2001: en face. Gisèle Freund photographiert von Tom Fecht. Berlin (Ausstellungskatalog) 2014: Gisèle Freund. Fotografische Szenen und Porträts. Hrsg. von Janos Frecot und Gabriele Kostas, Berlin (Ausstellungskatalog) Hörbuch 2000: Ein Leben für die Leica. Gisèle Freund im Gespräch. o. O. (SWR-Sendung von 1983) Dokumentation 2019: Gisèle Freund – Ein Leben für die Fotografie. Regie: Teri Wehn-Damisch. ARTE Frankreich (53 min) |
作品紹介 個展 1963年:フランス国立図書館(パリ 1968年:パリ市立近代美術館 1975年:ロバート・ショエルコップ・ギャラリー(ニューヨーク 1977: ランゲ・イルシュル・ギャラリー(ミュンヘン 1977: ボン・ライン州立美術館 1978: マーカス・クラコフ・ギャラリー(ボストン 1979: シドニー・ジャニス・ギャラリー(ニューヨーク 1980: Agathe Gaillard Gallery(パリ 1981: Centre for Creative Photography(ツーソン、アリゾナ 1982年:コプリン・ギャラリー(ロサンゼルス 1983: スタンフォード大学美術館 1984: Fotografie Forum Frankfurt(フランクフルト・アム・マイン 1987:Gallery Zur Stockeregg(チューリッヒ 1988: ヴェルクブント・アーカイヴ(ベルリン 1989: ギャラリー・ド・フランス(パリ 1990: 芸術アカデミー(ベルリン 1991: ジョルジュ・ポンピドゥー・センター(パリ 1992: ハンブルグ、ハンモニアーレ 1994: 写真美術館(ブラウンシュヴァイク 1995: フランクフルト・アム・マイン近代美術館 1996: ベルリン・フェスティバル 1996:パリ国立ジュ・ド・ポーム美術館 1996: シュプレンゲル美術館(ハノーファー 2002: 現代文化センター(バルセロナ 2008: ヴェルシチェルングスカマーバイエルン(ミュンヘン 2009: フォッケ美術館(ブレーメン 2011: Kunsthalle Jesuitenkirche(アシャッフェンブルク 2014年:ベルリン芸術アカデミー[7] 2015年:フランクフルト歴史博物館(フランクフルト・アム・マイン 2017: フランクフルト大学アーカイブ、ゲーテ大学、フランクフルト・アム・マイン モノグラフ 1936: La Photographie en France au dix-neuvième siècle. パリ 1954:Mexique Précolombien. ヌーシャテル 1965: ジェイムズ・ジョイス・イン・パリ. ニューヨーク 1968:Au pays des visages 1938-1968、パリ(展覧会カタログ) 1968: 写真とブルジョワ社会。ミュンヘン(1936年のドイツ語版) 英語版 英語版:Photographie und Gesellschaft. ミュンヘン 1976年(いくつかの版と号がある) 1970: ル・モンド・エ・マ・カメラ. パリ 1974年:写真と社会。パリ(1936年版を全面的に修正・拡大したもの) 英語版:The World In My Camera. ニューヨーク 1975年(多くの図版を含む増補版) 1977: Fotografien 1932-1977. ボン(ドイツ初の回顧展、展覧会カタログ) 1977: Mémoires de l'œil. パリ 英語版。エディション:目の回顧録。フランクフルト・アム・マイン 1977年 1982: Trois jours avec Joyce. パリ 英語版。版:ジェイムズ・ジョイスとの3日間。フランクフルト・アム・マイン 1983年 1985: Photographien. ミュンヘン(現在でも決定的な単行本であり、さらにPhotographien und Erinnerungenとして、英語版とフランス語のライセンス版がある。) ライセンス版) 1988: ジゼール・フロイント。ベルリン(展覧会雑誌、単行本化) 1989: 作家と芸術家のポートレート。ドイツ、ミュンヘン 1991: Itinéraires. ジゼール・フロイント写真作品カタログ。ハンス・プットニーズによるカタログレゾネ、パリ(展覧会カタログ) 1992: カメラを持つ女。ハンス・プットニーズによるテキスト、ミュンヘン(展覧会カタログとしてハンブルグにもある) 1992: ジゼール・フロントの肖像。ラウダ・ジャミスとの対話。パリ 英語版 ラウダ・ジャミスとの対話。ミュンヘン 1993年 1994年:2つのルポルタージュ。ブランズウィック(展覧会カタログ) 1995:Fotografien zum Mai 1932. フランクフルト・アム・マイン(展覧会カタログ、写真はすべて1932年以前に撮影されたもの) 1996: ベルリン-フランクフルト-パリ。ベルリン(展覧会カタログ) 1996: 言葉の顔。アドリアン・モニエを取り巻く作家たち。1935年から1940年の写真。 ハノーファー(展覧会カタログ) 1996: ジゼル・フロントの視点によるマルロー。パリ(展覧会カタログ) 2001: アン・フェイス。トム・フェヒトがジゼール・フロントを撮影。ベルリン(展覧会カタログ) 2014年:ジゼール・フロイント。写真のシーンとポートレート。ヤーノシュ・フレコット、ガブリエレ・コスタス編集、ベルリン(展覧会カタログ) オーディオブック 2000年:ライカのための人生。Gisèle Freund in conversation. n.d. (1983年のSWR番組) ドキュメント 2019年:ジゼール・フロイント-写真のための人生。テリ・ヴェーン=ダミッシュ監督。アルテ・フランス(53分) |
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