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ジゼル・フロイント

Gisèle Freund

池田光穂

背景

ジゼル・フロイントは1908年12月19日、ベルリン・シェーネベル ク(ドイツ語版)の裕福なユダヤ人家庭にギーゼラ・フロイント(Gisela Freund)として生まれた[1][2]。実業家の父ユリウス・フロイントは美術品蒐集家で、出張の際にはギーゼラを連れて美術館・画廊巡りをした [3]。だが、両親が希望したのは良妻賢母教育であり、ギーゼラはズボンを穿いてアビトゥーア受験に行くなど、保守的な両親に反抗した[3]。とはいえ、 母方の曽祖父はスカート風の七分丈ズボン(ジュップ・キュロット)を製作・販売して財を成した実業家であった[4][5]。 フロイントはすでに12歳のときに父に最初のカメラを与えられ、写真に興味を示すとさらに新しいカメラを与えられ、1929年にアビトゥーアに合格したと きにはライカを贈られた[6][7]。この贈り物が後に写真家としての出発点となる。
教育

フ ロイントは両親の教育方針には従わず、フライブルクで社会学者カール・マンハイムに師事し、フランクフルト大学に入学。社会研究所(ドイツ語版)でカー ル・マンハイムの研究助手を務めていたノルベルト・エリアスに師事し、テオドール・アドルノらとともに社会学と美術史を専攻した。いつもカメラを持ってい るフロイントに、映像の問題に取り組んでみるよう勧めたのは恩師エリアスであった[5][8][9]。フロイントは写真史に関する調査を始め、後にソルボ ンヌ大学に提出することになる博士論文を準備し始めた。とはいえ、当初から社会学者になるつもりはなくジャーナリストを目指していたフロイントは、社会問 題に対する関心からフランクフルト社会主義青年同盟に参加した。またこの頃、ベルリンのロマーニッシェス・カフェ(ドイツ語版)でヴァルター・ベンヤミン やベルトルト・ブレヒトに出会った[4][8]。 一方、社会研究所は繰り返しナチの攻撃の的にされ、1932年5月1日にフランクフルトで反ファシズムの学生のデモがあった。フロイントはこのデモを取材 し、ライカで学生たちの表情を捉えた。これが彼女の最初のルポルタージュであった[6][8]。こうした活動から、1933年1月30日にヒトラー内閣が 成立し、高等教育機関もナチ化されると、自由主義を唱える多くの大学教員が追放された。ベンヤミンは3月にフランス亡命し、フロイントも5月30日に亡 命、パリに居を定めた[8]。
フランス亡命
ベンヤミンとの交友
フ ロイントはフランス国立図書館に通って博士論文の執筆を続けた。テーマはフランスにおける写真史に絞られた。ベンヤミンもまたフランス国立図書館でボード レール、玩具、絵葉書など後に『パサージュ論』の「パリ ― 19世紀の首都」に収められることになるパリの文化の諸側面に関する草稿や『複製技術時代の芸術』を書いていた。二人は図書館で毎日のように会い、文学、 政治、写真、哲学について議論を交わした[8][10]。ベンヤミンはアンドレ・ジッドやマルセル・プルーストをドイツ語に訳していたが、フロイントは生 活費・学費を稼ぐ手段がなかったため、ライカで写真を撮り始めた[11][12]。ドイツの両親は裕福ではあっても、ナチス統治下では海外送金が禁じられ ていたため、経済的支援を受けることができなかったからである[10]。

1935年に渡英し、世界恐慌の影響を目の当たりにしたフロイントは、イングランド北東部の失業者の生活をカメラに収め、翌1936年に創刊された『ライフ』誌に掲載する機会を得た[1][6]。

マルローとの出会い
さ らに、パリでアンドレ・マルローに出会ったことが大きな転機となった。彼はフロイントに自著の表紙に掲載する写真の撮影を依頼した。自宅のテラスで煙草を くわえて風に吹かれるマルローの姿を撮った写真は、フロイントの最初の肖像写真であり、しかもマルローの肖像写真としてこの後、雑誌などにしばしば掲載さ れることになった。1996年にマルローの没後20年を記念して郵政公社が発行した切手にも採用された。なお、このときは、禁煙を推奨する政府の要請で、 マルローがくわえた煙草がカットされ、修整が施されたため、一層注目を浴びることになった[6][13]。

同じくマルローからの依頼で、第一回文化擁護国際作家会議(フランス語版)を取材した[14]。1935年6月21日から25日までパリで開催され、世界 38か国から320人の参加を得たこの会議は、ファシズムから文化を守ることが目的であり、発起人のマルロー、事務局を務めたルイ・アラゴンのほか、フラ ンスからはアンドレ・ジッド、アンリ・バルビュス、ソ連からはイリヤ・エレンブルグ、イサーク・バーベリ、ドイツからはハインリヒ・マン、ベルトルト・ブ レヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリー、E・M・フォースターらが参加した[15] [16]。フロイントがこのときに撮った作家の写真は、同会議の唯一の写真資料であり[16]、フロイントはこれを機に、作家の肖像写真を撮ることに関心 を持つようになった。

モニエの支援 - 作家の肖像写真
1935 年に6区オデオン通り(フランス語版)で「本の友の家」書店を経営していたアドリエンヌ・モニエに出会い、モニエの書店の斜め向かいでシェイクスピア・ア ンド・カンパニー書店を経営していたアメリカ人のシルヴィア・ビーチとも親しくなった。図書館、画廊を兼ね、新しい文学を紹介する講演会や朗読会が行われ ていたモニエの書店にはフランスだけでなく、ビーチの書店を拠点とするアメリカ、イギリス、アイルランドの作家が多数訪れ、戦間期の文学運動の拠点の一つ であった[17]。

もともと文学に関心が深かったフロイントはすでに彼らの作品を読んでおり、作家と話をしたい、もっと作家について知りたいという個人的な関心があった [10]。撮影は作家が最もくつろげる場所として、常に作家の自宅で行った。自宅を訪れ、文学について議論を交わし、相手が興に乗って議論に熱中したとき に見えてくる素顔を写し取った。作家は、写真を撮りたいというよりむしろ相手のことを知りたいというフロイントの真摯な気持ちに打たれて心を開き、素顔を 見せたのである[4][10]。実際、彼女は「文学を愛していたし、関心のある作家や、作品を理解している作家だけを被写体にした」と語っており [18]、だからこそ、作家の「忘我」の瞬間とその瞬間に見せる内面、作家自身すら気づいていない特徴を捉えることができたのである[19]。フロイント は特にカラーの肖像写真の先駆者として知られる[20][21]。早くも1938年に、当時開発されたばかりのカラー写真フィルム「アグファカラー」や 「コダクローム」を使って写真を撮り始めた[21]。1940年にパリを去るまでに撮影した写真は1,700枚。その大半が肖像写真で、うち80枚が作家 の肖像写真であるが[10]、カラー写真フィルムは当時まだ高価であり、フランスの雑誌や新聞ではカラー印刷ができなかったために、スライドを制作し、 1939年にモニエの書店でスライド上映会を行った。後にモニエが「人々の表情が織り成す世界への旅」と呼ぶことになるこの上映会には、被写体となった作 家も多数参加した[10]。

パリではマルローをはじめとする第一回文化擁護国際作家会議に参加した作家のほか、ジョージ・バーナード・ショー、T・S・エリオット、ウラジミール・ナ ボコフ、アンリ・ミショー、ミシェル・レリス、マルグリット・ユルスナール、ジャン・コクトー、エルザ・トリオレ、フランソワ・モーリアック、ジャン= ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、サミュエル・ベケット、ポール・ヴァレリー、シュテファン・ツヴァイク、ボリス・パステルナーク、アン ドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラらの写真を撮った(作品参照)。また、モニエの紹介で1939年に2度渡英し、ヴァージニア・ウルフとジェイムズ・ ジョイスの写真を撮った。いずれもカラー写真である。特にヴァージニア・ウルフの写真はフロイントの代表作であり、1984年にロバート・メイプルソープ が撮影したフロイントの肖像写真にもウルフの写真が写っている[22]。一方、ジョイスの肖像写真は『フィネガンズ・ウェイク』が発表された1939年の 『タイム』誌の表紙を飾った[19][23]。この他、フロイントの肖像写真は、英国の『ウィークリー・イラストレーティッド(英語版)』誌、『ピク チャー・ポスト(英語版)』誌、フランスの『パリ・マッチ』誌、『ヴュ』誌、ドイツの『ドゥー』誌[24]などに掲載された[25]。

博士論文「19世紀フランスにおける写真」
博 士論文は1936年に完成し、ソルボンヌ大学に提出した。モニエはフロイントのフランス語での執筆に協力し、提出後に「本の友の家」書店から刊行した [6][9]。「19世紀フランスにおける写真」と題されたこの論文は、2011年に現代出版資料研究所(フランス語版) (IMEC) の編纂により再刊された。本論文は、かつてブルジョワ階級のものであった肖像写真が複製技術の発展によって大衆化した過程を跡付けるものであり、学位論文 で写真史を論じたのは初めてのことであった[12][17][26]。この論文ではまた、肖像写真の普及に貢献した写真家として、彼女が尊敬するナダール について論じている。フロイントによると、肖像写真がブルジョワ階級の特権であった時代には「美しく見せるための」修整技術が発展したが、修整を施すこと なく、人間の「内面に秘められた知性」を写し取ろうとしたのがナダールである。一方、ナダールは人物を浮き上がらせるために背景を削除したが、フロイント は逆に、人物の特徴を際立たせるために「自宅」という個性的な空間を選んだ[10]。

博士論文を提出・出版した1936年、フロイントはフランス国籍を取得した[1][9][18]。
アルゼンチン亡命

第二次世界大戦が勃発し、1940年にナチス・ドイツがフランスを占領 すると、フロイントは再び亡命を余儀なくされた。モニエは多くのユダヤ人の亡命を助けたことでも知られるが、ベンヤミンがニエーヴル県ヌヴェール近郊の ヴェルニュシュ収容所から解放され、フロイントがロット県に逃れることができたのもモニエの尽力によるものであった[17]。ベンヤミンはこの後ルルド、 次いでマルセイユに逃れ、スペイン経由で亡命を企てたが、健康状態も含めて絶望的な状況のなか、ポルトボウで自殺した[8]。ロット県に着いたフロイント は、再びアンドレ・マルローと、アルゼンチンの作家で文芸雑誌『南(Sur)』を主宰していたヴィクトリア・オカンポ(スペイン語版)の支援により、 1941年にアルゼンチンに亡命し、ブエノスアイレスのオカンポのもとに身を寄せた[1][8]。

アルゼンチンではすでに1939年にフランスから亡命していたロジェ・カイヨワが、赤十字社の「フランス戦争犠牲者支援委員会」のための活動をしていた。 彼は自作のほか、ジュール・シュペルヴィエル、ヴィクトル・ユーゴー、サン=ジョン・ペルス、アンドレ・ブルトンの作品をオカンポの『南』誌に掲載し、収 益を支援委員会に寄付した[3]。フロイントもまた、フランスのための資金調達に奔走し、「慈善活動ではない、フランスとの団結だ」として「フランス人作 家との団結」を結成。オカンポが代表に就任した[27]。支援委員会はホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサーレス、マヌエル・ムヒカ=ラ イネス(スペイン語版)など多くの作家から支援を得た。フロイントは彼らの肖像写真を撮り、これまでの作品も含めて競売にかけ、収益を委員会に寄付した [27]。パリ解放後に郵便が再開され、モニエと連絡を取ることができるようになると、フランス人作家と委員会の仲介役となり、委員会が集めた資金で、数 トンの食料品や衣料品、タイプライターのリボンを購入し、マルローを介してフランスに送った[27]。
戦後
マグナム・フォト - 再び、中南米での活動
アルゼンチンではさらにシャルル・ド・ゴールの自由フランス政府の情報 省からの依頼で南米情勢について取材し、1946年にパリに戻った後、南米芸術展を開催した[1]。次いで人類博物館からの依頼で再び南米に向かい、パタ ゴニア(アルゼンチンおよびチリのコロラド川以南の地域)、ティエラ・デル・フエゴ(南米最南端)で人々の暮らしや風景をカメラに収めた[1]。

1947年にロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デヴィッド・シーモアによりマグナム・フォトが結成されると、キャ パに誘われて会員になった。マグナム初の女性写真家であった[28]。マグナム専属の報道写真家として米国、カナダ、中米、エクアドル、ペルー、ボリヴィ ア、ブラジル、アルゼンチン、メキシコで取材した。メキシコ滞在は2週間の予定であったが、ラテン・アメリカに魅せられ、さらにフリーダ・カーロとディエ ゴ・リヴェラに出会ったため、2年間にわたってフリーダと彼女を取り巻く世界を写真に撮り続けることになった。このときの写真は、2013年に現代出版資 料研究所とアルバン・ミシェル(フランス語版)の共編で『フリーダ・カーロ』写真集として出版された。

1950年にアルゼンチンのフアン・ペロン大統領夫人エヴァ・ペロンの日常生活をカメラに収め、『ライフ』誌に発表した。被写体の素顔を捉えるのがフロイ ントの得意とするところであったが、大統領夫妻はこのような写真が気に入らず「これ見よがしで恥かしい」と批判した。挙句はこの『ライフ』誌がアルゼンチ ンで没収され、フロイントは出国を余儀なくされた[6][16]。

パリ定住後
パリに定住したのは1952年であった。1954年にキャパ自らにより マグナムから除名された。マッカーシズム(反共産主義、赤狩り)が猛威を振るった1950年代に共産主義者の疑いをかけられ、米国入国が禁じられたからで あり、キャパはこのようなフロイントの存在によりマグナム・ニューヨーク事務所の活動および将来に影響を及ぼすと考えたためであるとされる[9] [29]。

1968年にパリ市立近代美術館で最初の大規模なフロイント展が開催された[12]。これにより、フロイントの名は世界的に知られることになったが、60 歳になった彼女は以後、執筆活動に専念した。1974年には写真史家として名を残す契機となった著書『写真と社会』を発表した。博士論文「19世紀フラン スにおける写真」をさらに発展させ、ドイツやアメリカにおける写真報道やマスメディア雑誌、写真と政治や法律との関係、新しい動向としてのアマチュア写真 までより広い視野で論じている。本書はドイツ語、オランダ語、日本語、英語に翻訳され、現在でも写真史を語るときにしばしば引用される重要な文献である [26]。

1981年に、フランソワ・ミッテランが大統領に就任すると、彼自らの指名により大統領の公式写真を撮影した[5][29]。フロイントはこれまでと同様に、撮影の前に「お孫さんの話をしたら、(ミッテランは)そっと微笑んだ」という[5]。

1991年から92年にかけて、ポンピドゥー・センター内国立近代美術館で大規模な回顧展が行われた。日本でも、2007年に国立新美術館で同美術館所蔵 作品を紹介する「異邦人(エトランジェ)たちのパリ 1900-2005」展が開催されたときに、フロイントの代表的な肖像写真7点(ジッド、ベンヤミン、サルトル、ジョイス、ミショー、マルロー、ブルト ン)が展示された[30]。

1977年にドクメンタ 6(ヘッセン州カッセルで5年ごとに開催される世界最大規模の現代美術展の第6回で、芸術総監督はマンフレート・シュネッケンブルガー(ドイツ語版) [31])に参加し、同年、フランス創造写真協会連盟の会長に就任した[1]。また、フランス文化省の第3回国家写真大賞(フランス語版)(第1回はブ ラッサイ、第2回はウィリー・ロニが受賞)、ドイツ写真協会の文化功労賞、芸術文化勲章、レジオンドヌール勲章など多くの栄誉を得た[32][25]。
死去・没後

フロイントは2000年3月30日にパリにて91歳で死去し、モンパルナス墓地に埋葬された[33]。

遺された白黒ネガフィルムとそのコンタクトプリント約1,600点、白黒・カラーの焼付け1,200点、スライド8,200枚(複写を含む)、焼増し 1,000点、刊行物用の焼付け8,000点のほか資料(原稿、手帳、日記、メモ、書簡、展覧会や出版に関する資料、写真が掲載された雑誌)については、 遺産相続手続きが複雑であったため、2005年に現代出版資料研究所 (IMEC) に移され、目録が作成された後、ドイツに住むフロイントの親族の希望により、同研究所に寄贈された。現在、現代創造資料(Mémoire de la création contemporaine)基金の一環として管理され、主な写真作品は国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)が所蔵し、資料はカルヴァドス県のアル デンヌ修道院(フランス語版)の IMEC 図書館が所蔵している[11][34]。

現代出版資料研究所 (IMEC) は、2011年10月14日から2012年1月29日まで、ピエール・ベルジェ=イヴ・サン・ローラン財団(フランス語版)が管理するパリ16区のイヴ・ サン・ローラン美術館で「国境の眼、パリ 1933-1940年」と題するフロイント展を開催した[35]。ほぼ同時の2011年10月12日から2012年2月5日まで、3区のユダヤ芸術歴史博 物館では「ヴァルター・ベンヤミン資料展」が開催された[36]。


評価

フロイントは写真家および写真史研究者として写真家の地位を向上させ、 写真を造形芸術の一分野として確立することになったが[11]、彼女自身は「写真が芸術だと思ったことはない。重要なのは写真であって、カメラの背後にい る写真家ではない」と語っている[4][18]。また、作家の肖像写真が革新的であったことから肖像写真家として知られることになったフロイントだが、彼 女自身はむしろ報道写真家を目指していた。一方でまた、戦時中には従軍記者として活躍する機会もあったが、戦争の写真は撮らなかった。これについては、 「写真を通じて人間を理解することで殺し合いはなくなるだろうと思っていた。相手のことをよく理解していたら殺せるだろうか。でも、間違っていた。ある 日、人間はそれでも殺し合うことを知った」と語っている[18]。


作品に関する情報は「ジゼル・フロイント」が詳しい

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