はじめによんでください

高校野球論(ca. 1990

Illusion of the National High School Baseball Invitational Tournament

解説:池田光穂

ここに本文が入る

高校野球の儀式性

 儀式 v.s. ショー
  今日におけるショー化の傾向に拮抗
   厳粛な儀式を守り抜くことに焦点
  儀式性は、選手たちのプレーにも反映されている
  観客は儀式を見守り、一心に祈るのである


表題:モダニティーと野球
  ●モダニティーと野球

   マッカルーンのオリンピック論は、オリンピックが近代世界において見せ物化され、世界システムのなかに組み込まれてゆく過程を描いた。我々は、高校野球 を通して、日本のモダニティーについて語れるだろうか?


表題:メディア論:言説に埋め尽くされた構図
言説に埋め尽くされた構図

現代のスポーツ番組における元プロ野球の暗躍
 スポーツ一般を野球の言説の秩序で埋め尽くす構図
  野球は言葉に支配されたスポーツ
 
【ラジオ】
ラジオがないと球場で試合運びが十分フォローできない
 アナウンサーと解説者のコンビ[→漫才におけるボケとツッコミ]
  プラス、ゲスト解説者[→トリオ漫才]
  �名アナウンサー伝説�の誕生
 
【テレビ】 
テレビにおけるビデオテープ再生の威力(それぞれのモーションに解説が侵入する)
コマーシャルやテロップが、野球画像の退屈さを減らす
 →【映像と解説のドラマトゥルギー】
テレビのコマ割、クローズアップは事実の断片であり、それを編集することは(編集が担う)意味を付与することであり、それは解説によって意味の強化を遂行 する。
[亀山(1990:22)は、映像断片を�語彙�、編集作業を�文法�、解説を�意味賦与�と表現している。]



 ●スポーツ新聞

   「日本には地方紙も含めて十四のスポーツ紙があり、販売部数は一千万を超えるという。ところが、アメリカには、�スポーツ紙�なるものは一紙もない」 (ホワイティング1990:111)。ただし、新聞のスポーツ欄は独立し充実している。



表題:純粋のイデオロギー
  ●純粋のイデオロギー
 
    青春
      全員が一丸となる
      商品化からはいちばん遠いところとして
       →ただし、有名校の選手がプロ化している事実や、甲子園での活躍がドラフトでの評価になることは、誰でも知っている。
    →その理由:高校野球がヒーローを作り出さない[→特定の個人を公的に応援することの禁止:テレビの画面に登場することの禁止・特定の高校生を ヒーローにしないことを通してのイデオロギー的操作]
               ただし、超高校級の選手が注目されることもある
                       その際に、プロのことが話題に上がっても表向きは問題化しない[→スポーツ新聞以外の大新聞ではタブーないしは無視]
                    球児は監督の駒として動く
                    その点では、球児もサラリーマンもおなじ
                    球児を駒と見る見方のなかに、日本の秩序社会の構成を嫌うものはあるか。

 ●不祥事の排除による�純粋�の保持
    不祥事にまつわる出来事
      不祥事のねつ造・罠・強迫(ブラック・メール)
     監督・学校という管理者が、不祥事を取り締まる警察としての機能をはたす
     人びとによる不祥事の取り上げ方
       不祥事パージに対する非難[非難は、球児に関連する事柄のより外延になればなるほど増す・すなわち球児の不祥事に対する制裁を当然視する姿勢は存在す る]


表題:甲子園=聖地論
●「甲子園=聖地」論

甲子園は聖地である
 甲子園ではあらゆるものの規範となるべくような振舞いが要求される
   甲子園での経験を後の人生に活かすという訓辞
    甲子園=神聖な場=不正な行為で汚してはならない空間
     [→純粋のイデオロギー、不祥事排除論]
  甲子園の土
   宗教的なサブスタンス[→比喩としての�華僑が携える故郷の井戸の土�]
   
  甲子園=巡礼地::�青春巡礼�(楊)
   誰にとっての巡礼地か?::野球少年
     巡礼の循環性:野球少年であるかぎり(老人になっても)そこに戻る
      聖地のコミュニタス性:
      聖地の観光地性
       チームのペナント、甲子園まんじゅうなどのみやげもの
        球場前での記念写真[球場正面の(撮影用の?)セット]
   


表題:甲子園観客論
 ●参加しているのは誰だ?
    プレーする球児と応援の学生の一体感
   �だれが高校野球というイベントに参加しているか?�
        表舞台の球児
          共感し�イベントに参加している�応援団
         スタンドで(あるいは自宅のテレビの前で)見守る家族
          球児と一体化する人々
           出身都道府県の代表
            出身校
  ●甲子園観客論(池田)
   甲子園の観客は多様だ
   応援席のフィーバーぶり
     あやしげな私設(?)応援団長
     オタク的なカメラマン
     他校の女子高性・女子中生[→男子は内野あるいは外野席にいる]
    クールな内野席[応援席からはみでた異質な観客もいる]
    球場スタッフ・報道陣
     野球を食い物にする人たち
      時間管理に追われる�悲しい観客�
    外野席
     野球をのんびり楽しむ�甲子園貴族�(池田)
    グラウンドの球児
     当事者であり観客
      ナイン、あるいはヒーロー
      補欠選手たち


表題:外野席からみた甲子園
 ●外野席

 ▲セブンティーン・リポーターの外野席100人インタビュー(4/1放映)
      (優勝候補)1.天理・2.大阪桐蔭・3.国士館
      (外野席の魅力)1.全体が見渡せる、2.無料、3.どちらも応援できる
      (高校野球の魅力)1.一生懸命・2.若々しい・3.雰囲気がよい
 
  外野席=鳥かんできる視座
   中立(?)的な立場から応援できる外野席(風景を眺める)
     同じ中立でも、バックネットは、監視(?)として視座を提供
     


表題:舞台装置
 ●舞台装置[→巨大な演出装置]

  巨大な舞台装置としての甲子園
   
  ※演出されるのは�理想化された高校生�である。
    演出力の限界という問題は常につきまとう
     ただし、その恒常的な開催が、高校野球の理想像を温存し、継承することを保証する。



表題:敗北の位置づけ
 ●敗北の位置づけ

試合全体と、敗北を意味するプレー(エラー・プレー)の二通りがある
 ほんとうの勝利者
 敗北の美学
 勝ち負けを不明瞭化させるレトリック
  同情/あるいは敗北者に対する寛容性[cf.第二次大戦中の日本軍の捕虜虐待]


 【試合全体】高校野球において勝利するチームは優勝校の一校だけである。トーナメント途中の勝利は、最終的な勝利(�ほんとうの勝利�)にいたるステッ プ・一時的な勝利にすぎない。
  この勝ち負けの明快な論理にたいして、敗者は徹底的に痛めつけられるかというと、そうではなく、敗者をなぐさめる論理がさまざまなレベルで準備されて いる。すなわち、「試合には負けたが、(野球道に則った)勝負には勝った」、「試合は負けたが応援は勝った」などである。これは、言葉遊びに近いレトリッ クであり、それ自体は目の前でおこった現象に必ずしも対応するものではない。にもかかわらず、この言葉を発したり、あるいは慰めとしてこの言葉を用いる背 景には、敗者の感情を喚起するなにものかがある。また、「力を出し切った者は、たとえ敗者でも美しい」という�敗者の美学�というものがある。この敗者の 美学は、じつは勝者の行動をも規定する。すなわち、力を出し切らないものはたとえ勝利者でも責めを負わねばならないというものである。プロ野球に比べてプ レーのやり直しがきかない高校野球には、それが一層の脅迫感をもって主張される。敗者の美学は、試合の真剣さに反映されるというわけである。

 【エラー・プレー】
  エラーは、いくら訓練をつんでも�やはり高校生だから�という免罪がおこなわれる。また、メディアもエラーした状況を繰り返しビデオテープで再生し、球児 の苦悩の表現を描写する。その際の画面の提示は、エラーにたいする追求ではなく、むしろ哀れみをさそい、球児に同情させるものなのだ。                   

★敗北の位置づけに際しての留意点

 高校野球の場合、勝ち・負けについて理解することが非常に困難である。
 試合の勝負はスコアのそれであるのだが、試合後、勝ち負けの明暗を不明瞭にさせるレトリックが準備されている。そのレトリックのひとつが�敗北の美学� なのである。ただし、このレトリックは、試合を単なる勝ち負けに終わらせていない点で、むしろ高校野球における試合のあり方を興味深いものにさせている [→ディープ・プレイ/ただし、ギアーツの議論そのものは全面には出さない]



表題:禁止のコード体系
  ●禁止のコード体系
 
    メディアや報道のカテゴリーに応じた�禁止のコード�
       新聞[正確さと客観性が強調される]
     テレビ[即自性や球場の雰囲気を伝えることが要求されるので、新聞の禁止のコードよりも緩い]
     セブンティーンリポーター:禁止のコードを懐くぐって、禁断の地域(=球児の宿泊する旅館、応援席へのインタビュー)に領域侵犯する[境界性を確定 しそれを]。
   球児のタバコやビールとの関連は公には認められなくても�黙認あるいは無視される�が、セックス・スキャンダルには禁止のコードが発動される。[→ ホワィティングの記事のエピソード『高校野球の真実』]


表題:親のための甲子園
 ●親のための高校野球
     親の期待する高校生像/子供像の成就
      監督の駒[→監督の采配とその期待を受けて投打する球児::プロ野球との関連]


表題:高校生の商品化
 ●高校生の商品化

    ミスコンとの共通性(性の商品化と青春の商品化)
       男子高校生の物象化論[そこに感動を操作する部分が必ずある]
        汗と涙の背景にあるもの
         高校野球の演出・作劇論(ドラマトゥルギー)
          操作と支持
     コドモとしての球児[→●通過儀礼]
      青春を信じているのは親だけ[←これは極論]
      親が楽しむ甲子園[←これも不正確/理想の男子高校生]
   常識としての球児の商品化
       球児を学校の宣伝に使うこと
        有名な球児をあつめること[→ただし、これは、都市部における公立高校や�文武両道の高校�の登場によって�球児狩りへの人々の感情的嫌悪�は中和化され る。あるいは、高校野球の常連校とどれだけ戦うかということも重要]
      高校生の不安定さ[→●通過儀礼としての高校野球]
       高校生をどのように見るかは、見る主体によって異なる
         大人・親はコドモとして
          同世代の高校生(非・甲子園球児)は、�自分達より一回り大きい�オトナとして
   春のセンバツと夏の選手権大会
       (私の)高校時代のイメージ:ニセの春(センバツ)とホンモノの夏(選手権)


   商品化戦略のなかの高校生
       ■球児:高校の宣伝・汗と涙のイメージつくりの一翼・
        ▲チアガール:性・可愛らしさを売られる
        ★応援団:母校やお国の出身者は、おしなべて、その出場校を応援しなければならないという�共同性の�イデオロギーを担わされる。



表題:若衆歌舞伎の世界
 ●<若衆歌舞伎>の世界
   →「前髪をつけた美少年たちによる踊りや狂言、とくに舞や軽業などの芸が中心になる」「衆道の売色をかねていたために<女歌舞伎>とともに禁止 (1652)される」(→<野郎歌舞伎>の登場)


表題:ゲームの特質
  ●ゲームの特質
     実力・戦力を的確に反映される�セオリー�どうりの攻撃
      システム的管理技術[かたちの野球]
      不確定要素の効用
       →これらのことがアンダーグラウンドで展開する非合法の賭博にはうってつけの素材になる


表題:甲子園の退屈さ
 ●甲子園の退屈さ
    緊張感が散発的に襲う
      退屈さとは、甲子園で直接体験すること[ただし、以下の条件が必要]
       a.ラジオやテレビというメディアを持ち込まない
         →�ビデオテープでもう一度�がない
          →球場でプレーに注視しないと見逃してしまう可能性がある
         
        b.応援席にいない
      テレビのダイジェストの面白さ

  「われわれは野球界のサリエリばかりを見せられる羽目になり、モーツァルトを見ることができないのだ」(実相寺昭雄:別冊宝島1989:267に所 収)
  「球場は神聖なる場所である」(川上哲治/ホワイティング1990:170から引用)
    「バントは、いわば日本野球のエイズだ」(ホワイティング1990:110)


表題:わが国の野球発展
わが国の野球の発展史[杉本,1990:24-28]

(鈴木惣太郎、池井優、神田順二、守屋毅などの著書あり)
(1)野球事始め:明治初年の外国人教師、日本人留学生による野球の紹介
(2)エリート野球の時代:明治20年代〜大正末期、�野球�という言葉の翻訳、一高、早慶、六大学野球リーグの開催
(3)大衆への普及:大正初年(1915,大4)〜春夏の全国中等学校野球大会
(4)プロ野球の誕生と野球苦難時代:昭和初期、米プロ野球の紹介
(5)戦後の大隆盛時代



表題:記録保持のシステム
 ●記録保持のシステム

   高校野球の記念館にノーヒット・ノーランのウイニング・ボールが保存される
    新しい記録が更新されるたびに、過去の記録とその野球の状況が思い出される。そこで、記憶のマーカーとなるのは、野球チームであり、そのチームの出身県で ある。また、その選手のエピソードである。マスコミの媒体、とくにフォーマルな報道には、その球児がなにをしているか、どうなったかについての情報につい てはなにも語られない。[プロ野球についても同様にその言及が回避されている]



表題:誉め歌/賛歌
 ●誉め歌と賛歌としての高校野球
    
 汗と涙
  青春
  一生懸命
  純粋
  真面目
  ドラマ
  ストーリー(物語)


表題:アマチュアリズムの強調
  ●アマチュアリズムの強調
    18歳未満のプロ野球選手がいない。
   高校生は、高校野球と決まっている?
      アマチュアリズムの過剰な強調[→高校野球の商品化に貢献]
     


表題:都市と農村/あるいは地域性
  ●都市と農村/あるいは地域性問題
    
    都市/農村の二項対立そのものには新鮮味がないが‥‥
       都市
         応援にくる人たちの不特定性・一貫性の欠如
          地元住民のクールな反応
          地域ぐるみという際の、境界が不明瞭[→球児の居住する地域]
        農村
         応援団の一枚岩的雰囲気
          地元ぐるみのサポートがある[または、あるような印象]
          フィーバー
         
 ▲地域性と甲子園
   都道府県単位の出場校の対戦によるトーナメントが�土着性あるいは地域対抗戦的な性格�(杉本,1990:27)を強調。
  旧藩意識が働いており、技術よりも精神の優位という「野球道」的な考え方が、戦前の国家の方向性と同調していた(梅原:杉本,1990:27に引 用)。

         


表題:通過儀礼
  ●通過儀礼としての高校野球

   球児の通過儀礼をみんなが固唾を飲んでみる
    甲子園の終了(とくに負けを通して)後、�一回りも二回りも大きくなる�
    高校野球が終わるまでは、球児はオトナとして扱ってはならないというタブー[→禁止のコードを用いて、�球児はコドモである�という印象操作を貫徹する]


表題:球児のアイドル論
 ●球児のアイドル論[誰が、そのアイドルを見るかによって異なるかも]

   ピッチャーで4番
    甘い<^ー^>
    高校生らしい選手(真面目・練習熱心・素直というイメージに合致)
   


表題:Man 掲載論文
●Man に高校野球を扱った論文があるという情報(5年前?)

 要・調査
 


表題:高校生男女の対称性・非対称性
 ●高校生男女の対称性・非対称性について

 男・・男らしさ、球場を通してひとまわり大きくなる・・・努力(獲得する資質)
 女・・やさしさ、包み込み、抱擁する力・・・・天賦の才能(先天性)

   a.男を大きくするところとしての甲子園
     プレーを大きくすることによって高校生の男を大きく写す(高校生を子供と見なすものとは逆の方向性)。そこに見られる�印象操作の�原理は、おとこはす すんでいるということである。

  b.だが、現実は女のほうがすすんでいる[=すすんでいる、という言葉を大人のもつ属性をよりおおく共有する/あるいはセックスの体験という尺度から 計るとすると]同年齢の男の子のほうに比べて女の子のほうが、セックスの対象にする男性の選択枝が広い(同年代の男プラス年上の男)[同年代の男の子が年 上の世代の女性と接触する機会はきわめて限られている:その神話的な憧れとは正反対に]

  c.ところが、チアガールに与えられたイメージは、性的未成熟と成熟がないまぜになったものである。[未成熟=純情・健全さ/成熟=ミニスカート、セ クシュアルなアイドルとして]。これは、ミスコンとの関連性について、我々の考察を大いに刺激する。
 ミスコンの凄さは、性的なアイドル性(3サイズの公表/水着とハイヒールの組み合わせ)と純情性・お嬢さん性(彼女が処女であること/英会話やテニス・ 水泳などの趣味を同時にもつこと)を同時に強調することだ。ミスコンは、単純な�経済セックス化�(→イリイチ『ジェンダー』玉野井芳郎訳、岩波書店 1984/Illich,I.,1983,Gender,Marion Boyars.)という枠組みではフォローしきれない側面があるのではないか?
  ▲アイドルを追い求めるオタクが、ミスコンの女性を追いまさわず、どちらかというとチアガール的な未成熟で成熟した女の子を求めるのはなぜか?
   
 


表題:野球道と青年教育
 ●野球道と青年教育

   飛田穂洲(とびた・すいしゅう)の野球観
     元早稲田大学野球部監督、「一球入魂」の言葉の創作者
      朝日新聞時代の文章/『飛田穂洲選集』(ベースボールマガジン社、1986)にある?
      「清純の球を抱いて場に起てば、春風を切って白球は飛ぶ。選ばれたる九人の野手は、各各与えられたる持ち場にたって、責任を果たさんこと誓い、人の和を至 上として或は勇敢に、また敏捷に命を賭けて攻め合い且つ守り合う。時に魁けて進み、塁上快隼脱兎[かいじんだっと]の如く振舞うこともあれども、時にまた 味方の為に功名を捨て犠牲の球に美をなすもあらむ。スタンド・プレーを忌むは謙譲の美徳を忘れぬが為めにして試合は礼に始まり礼に終る。」(直接の引用 は、玉木による、別冊宝島,1989:21)
 


表題:●高校野球年表
高校野球年表

1915(大正4年)大阪・豊中のグラウンドで、朝日新聞社主催の夏の「全国中等学校野球優勝大会」(現在の全国高等学校野球選手権大会)開催
1924(大正13年)春に毎日新聞社主催の全国選抜中等学校大会(現在の選抜高等学校野球大会)が開催
1924(大正13年)阪神電鉄による甲子園球場建設
1927(昭和2年)角谷忠、松内則三、両アナウンサーによる野球のラジオ中継がはじまる。


表題:■高校野球文献
高校野球文献


 朝日新聞社編、1929『全国中等学校野球大会史』朝日新聞社(983/95)
 朝日新聞社編、1968『全国高等学校野球選手権大会50年史』朝日新聞社・日本高等学校野球連盟(983/379)
 朝日新聞社編、1968『高校野球風土記』朝日新聞社(983/375)
 朝日新聞社編、1978『甲子園風土記』(西日本編・東日本編)、朝日新聞社(983/531)
 朝日新聞社編、1978『全国高等学校野球選手権大会史・第51回〜60回』朝日新聞社(983/555)
 朝日新聞社編、1989『全国高等学校野球選手権大会70年史』朝日新聞社・日本高等学校野球連盟(983/1071)
 池井優、1976『白球太平洋を渡る:日米野球交流史』中央公論社
 市岡野球倶楽部編、1988『青春の三本線:市岡野球部八十年史』(上・下)市岡野球倶楽部(198.4/349)
 梅原猛、小松左京、多田道太郎、1979『野球戯評』講談社
 扇町商業高等学校OB野球倶楽部、1984『熱と意気(大阪市立扇町商業野球部史)』扇町商業高等学校OB野球倶楽部(198.4/289)
  大阪府高等学校野球連盟、1989『大阪府高等学校野球連盟史』、大阪府高等学校野球連盟(78.7/8N)
 大阪府高等学校野球連盟編、1976『大阪府高校野球五十年史』、大阪府高等学校野球連盟(983/513)
 大阪府高等学校野球連盟編、1955『大阪府高等学校野球連盟30年史』、大阪府高等学校野球連盟(983/203)
 大阪府体育運動連盟野球部編、1939『大阪府中等学校野球連盟15年史』大阪府体育運動連盟野球部(983/163)
 大阪府立八尾高等学校硬式野球部OB会部史編纂委員会編、1982『八尾高野球部史』八尾高野球部OB会(983/655)

 神奈川新聞運動部、1990『熱球伝説:かながわ高校野球史』神奈川新聞社(783.7/30N)
 神前俊彦、1983『やればできるぞ甲子園』徳間書店(983/687)
 亀山佳明編、1990『スポーツの社会学』世界思想社(780.1/26N)
 河出書房新社編、1981『野球:する人・ただ見る人・見られる人−総員参加のスポーツ』河出書房新社[文献リストあり](983/613)
 神田順二、1984『野球殿堂物語』恒文社
 神田順二、1986『高校野球の事典:甲子園が語る日本の青春』三省堂(983/863)
 楠本博一、1987『医者が診断する高校野球』日本エディタースクール出版部(983/909)
 久保田高行、1956『高校野球五十年』時事通信社(983/207)
 久保田高行、1976『高校野球百年(改訂新版)』時事通信社(983/457)
 軍司貞則、1982『落ちこぼれの甲子園:横浜高校野球部の奇跡』講談社(983/645)
 神戸新聞阪神総局編、1985『マンモス賛歌:甲子園の60年』神戸新聞出版センター(983/761)

 佐伯達夫、1980『佐伯達夫自伝』ベースボールマガジン社(983/579)
 坂本光一、1988『白色の残像』____[第30回江戸川乱歩賞/推理小説?]
 作左部勢策、1977『甲子園の校歌とその周辺』本荘[秋田](958/257)
 佐藤泰正、1989『こんなチームに子供を入れたい:心理学者の少年野球論』佼正出版社(983/1095)
 菅原禮編、1990『スポーツ社会学への招待』不昧堂出版(780.1/5N)
 杉本尚次、1990『ベースボール・シティ:スタジアムにみる日米比較文化』福武書店
 杉本藤次郎編、1933『浪商野球部十年史』浪華商業野球部(983/149)
 杉本藤次郎編、1969『浪商野球部四十年史』浪商野球倶楽部(983/795)
 鈴木惣太郎、1987『アメリカ野球史話』ベースボール・マガジン社
 瀬川達男、1965『大阪府高等学校野球連盟40年史』大阪府高等学校野球連盟(983/357)
 泉州高等学校、1983『飛翔:第55回選抜高等学校野球大会』泉州高等学校(983/685)
  相馬卓司、1988『センバツ物語』毎日新聞社(983/977)

 高橋源一郎、19_『優雅で感傷的な日本野球』_______
 竹内照夫、1989『崖の下のプレイボール』ゆまに書房(783.7/27N)
 谷口源太郎、1988『冠スポーツの内幕』日本経済新聞社
 玉木正之、1987『不思議の国の野球』評伝社(983/927)
 玉木正之、1989『愛と幻想のベースボール』JICC出版局(983/1059)
 玉木正之、1990『されど球は飛ぶ』河出書房新社(783.7/2N)
 飛田穂洲、1928『野球生活の思ひ出』朝日新聞社(983/83)
 飛田穂洲、1931『野球・人・漫筆』人文書房(983/113)
  飛田穂洲、1934『熱球三十年』中央公論社(983/141)
 飛田穂洲、1947『野球生活五十年・選手編』双山社(983/169)
 飛田穂洲、1974『学生野球とはなにか』恒文社(983/425)
  飛田穂洲、1986『飛田穂洲選集』(1〜5巻、別巻)ベースボールマガジン社(983/883)


 中村ブン、1990『風のなかの天使たち:ボクらの甲子園』東京新聞出版局(783.7/16N)
 浪商高等学校野球倶楽部編集委員会編、1985『浪商高校野球部六十年史』浪商学園野球倶楽部(983/819)
 西宮市教育委員会編、1989『西宮の歴史』西宮市教育委員会

 阪神電鉄編、1965『阪神電鉄八〇年史』阪神電鉄
 平出隆、1989『白球礼賛:ベースボールよ永遠に』岩波書店
  平出隆、1989『ベースボールの詩学』筑摩書房(983/1031)
 広瀬謙三・松井一之、1975『高校野球優勝物語』恒文社(983/449)
 藤本治一郎、1987『甲子園球児一勝の�土�』講談社(983/923)
 平安高等学校野球部史編纂委員会編、1985『平安野球部史』平安学園(198.4/355)
  別冊宝島編集部、1985『プロ野球の悩み』(別冊宝島93)、JICC出版局
 別冊宝島編集部、1989『高校野球の真実』(別冊宝島98)、JICC出版局
 ホワイティング,ロバート、1977『菊とバット:プロ野球にみるニッポンスタイル』(鈴木武樹訳)、サイマル出版(983/741)
 ホワイティング,ロバート、1985『ニッポン野球は永久に不滅です』(松井みどり訳)筑摩書房(983/781)
  ホワイティング,ロバート、1990『日米野球摩擦』(松井みどり訳)、朝日新聞社

 毎日新聞社編、1978『センバツ50回・青春の軌跡』毎日新聞社(983/521)
 毎日新聞社編、1978『選抜高等学校野球大会50年史』毎日新聞社(983/549)
 毎日新聞社編、1989『選抜高等学校野球大会60年史』毎日新聞社(983/1087)
 松尾俊治、1978『選抜高校野球優勝物語』恒文社(983/529)
 松尾俊治、1990『選抜高校野球優勝物語(1990年度増補改訂版)』ベースボールマガジン社(783.7/3N)
 松尾俊治、1990『不滅の高校野球』ベースボールマガジン社(783.7/29N)
 守屋毅、1984『日本人の遊びごころ』PHP研究所
  守屋毅編、1989『日本人と遊び』ドメス出版

 野球体育博物館、1969『野球体育博物館蔵書目録』野球体育博物館
 野球体育博物館、1986『野球体育博物館増加図書目録』野球体育博物館
 山本英一郎・近藤唯之・殿岡駒吉、1976『甲子園・熱戦の記録』河出書房新社(983/463)
 好村三郎、1968『考える野球』朝日新聞社(983/371)
 好村三郎、1976『汗と涙の甲子園』山手書房(983/455)
 好村三郎、1988『白球よ翔べ夏の甲子園』朝日新聞社(983/971)


 和歌山県高等学校野球連盟、1985『和歌山県中等学校高等学校野球史』和歌山県高等学校野球連盟(983/939)
 渡部直巳、1987『プロ野球観戦学講座』論創社(983/955)




表題:研究対象としての甲子園:批評ジャンルの成立
人類学の対象としての甲子園

●人類学の対象として考察できるための理由
   ㈰甲子園について語ることの重圧感
      甲子園・高校野球について批判は、すでに指摘されている
        にもかかわらず、甲子園についてオープンに批判できない雰囲気がある
        この雰囲気は、甲子園・高校野球というものが�国民スポーツ�としての定着に起因するものであると思われる。すなわち、甲子園現象について、人びとは一定 のコンセンサスがあると考えられる
  ㈪甲子園・高校野球について論じた議論・資料の完備
      高校野球の資料の整備、とくに各地の高校の野球部の歴史の編纂
        高校野球の�歴史的に再構成する�作業
         高校野球というジャンルが、権威のあるものとして定着する過程のなかに我々はいる。
    すなわち、甲子園現象というものが、分析されるべき資料として確立しつつある。

■スポーツ研究が振興しなかった理由(グートマン,亀山,1990:i)
 1.スポーツが我々にとって身近にあるために、�スポーツにまつわる現象�を我々がすでに理解していると誤認する傾向があること
 2.スポーツを素材にした研究が数多くあっても、それらの専門家が一般大衆にむけて本を書く機会があまりなったこと


表題:少年漫画
少年漫画と甲子園

 昭和四十年・五十年代には野球漫画が主流を占める
 その後、サッカー、などの多様なスポーツ漫画が登場し、野球のスポーツ漫画としての独自性は衰退する。
 野球漫画の内容も、�スポ根�はむしろ交替し、ゲームやプレーヤーの面白さ(ドカべん)、青春ドラマ、ゲームプレーの背景にある人生などを描くものに変 わってゆく。



表題:映画のなかの野球・甲子園
映画のなかの野球・甲子園

『サード』
 純粋・スポ根というステレオタイプから外れた[おそらく普通の少年と変わらない]野球少年の数奇な運命とその内的な世界

『瀬戸内少年野球団』
 野球を通しての少年の成長/日本の戦後とその成長のイメージと重なる
 
『‥‥』
 沖縄の障害児の成長/健常イデオロギーとの闘いと内的価値の創出


表題:だれが野球を権威化させるか?
高校野球を権威化させる文化的装置

相撲
 国民統合のシンボル・天皇、総理、企業による護持
 
野球
 国民スポーツ
  新聞社・高野連による護持/文部大臣による始球式
 


表題:物語の中心:甲子園
物語(narrative)の中心としての甲子園

甲子園現象を正当化させる物語があるとすると、その物語の中心は、�期待される青春のあり方�であり、それを担う�理想的な男子高校生のビジョン�なので ある。


H・ホワイト
物語の中心となり得るのは、当該の社会のモラルである。
(物語を作り上げて意味を構築するためには、断片的な諸事実を取捨選択して配列する必要があるが、配列という作業には常に一定の基準がある。物語の中心と はこの基準をさす。)
ホワイト「歴史における物語性の価値」M・J・T・ミッチェル編『物語について』(海老根宏ほか訳)平凡社,1987


表題:スポーツにおける近代化論
スポーツにおける近代化論

アレン・グートマンによる近代スポーツの特徴/(トンプソン,1990:71)より

1.世俗化
2.平等化
3.役割の専門化
4.合理化
5.官僚的組織
6.数量化
7.記録の追求

これが、近代スポーツとしての高校野球にどれくらいあてはまるか? ちょうど、トンプソンが相撲において試みたように検討すること。[彼は相撲における儀 礼的要素の整備から�脱世俗化�という方向性を指摘している。]


表題:甲子園の起源をいう通俗的形容
甲子園の文化史的起源をしめす�通俗的形容�

「ちょうど、人々の生活から土地の匂いの本格的になくなりはじめた大正期に、�舶来�のスポーツをかりてつくりあげた土俗的祭とでもいいたくなる」(三橋 修、1982:203)

三橋修『翔べない身体』三省堂、一九八二年


表題:カーニバルとしての甲子園
カーニバルとしての甲子園

『甲子園グラフィティ㈵・㈼』(朝日文庫)を眺めていると、甲子園観戦は、参加している人にとっては、カーニバル的な色彩があることが分かる。

 ・異形の応援団の跋扈
  ・応援そのものの非日常性
  ・ハレとしての甲子園
 
 
【問題点】
・カーニバルというメタファーの妥当性
 カーニバルにおける意味・価値の転倒
  カーニバルの“原初的形態”(ラブレー的世界/バフチーン)
  カーニバルのもともとの意味の検討
   =時間的循環の再活性化、であるならば全体の暦のなかでのカーニバルの位置
・コミュニタス(ターナー)概念の検討などなど



表題:意識産業論:エンツェンスベルガー
エンツェンスベルガーの「意識産業」論

・文化産業/情報産業に対する理解に「虚偽意識の生成過程」を導入する。
・マスメディアによる情報の提示とは、一つの情報解釈であり、マスメディアはこの解釈を通して「支配的イデオロギー」の生成装置となっている、と指摘。

ここに本文が入る

リンク

文献

その他の情報

tecolote36.gif

Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2017