On Flavius Josephus,
テキスト:スーザン・バック=モース『西暦一年:「理性」と「信仰」の分断を問い直す』森夏樹訳、青土社、2021年
書籍紹介「『ユ ダヤ戦記』を記したフラウィウス・ヨセフス、 七十人訳聖書の注釈を記したアレクサンドリアのフィロン、「ヨハネの黙示 録」を記したパトモスのヨハネ。ディアスポラとされる三人のユダヤ人思想家に光を 当て、デカルト、カント、ヘーゲル、ホッブス、ベンヤミン、デリダといった哲学者たちの思想を援用し、まったくあたらしい一世紀像を描き出す」紀伊國屋書 店ウェブサイトより
目次
1 時の計測、空間の図示
2 時の中の翻訳―フラウィウス・ヨセフスについて
3 歴史と形而上学―アレクサンドリアのフィロンについて
4 歴史とアイデンティティ―パトモスのヨハネについて
5 コンステレーション
5.1 歴史的特殊性と哲学的普遍性
5.2 アポカリプスはわれわれの現在ではない
5.3 縁辺の女
5.4 歴史と真実
●使徒ヨハネ自身の謎(ウィキペディアによる)
「聖
書自身の自己証言による伝統的な理解では『ヨハネによる福音書』、『ヨハネの手紙一・二・三』、『ヨハネの黙示録』の著者をすべて使徒ヨハネであると考え
てきた。西暦2世紀のパピアスは、この書を使徒の作とみなしていた。2世紀の殉教者ユスティヌスは自著、『ユダヤ人トリュフォンとの対話』の中で「キリス
トの使徒の一人で、名をヨハネという、ある人がわたしたちと共にいた。彼は自分の受けた啓示によって預言をした」と述べている。エイレナイオスは、2世紀
末および3世紀初頭のアレクサンドリアのクレメンスやテルトゥリアヌスと同様、使徒ヨハネがその筆者であることを述べている。3世紀の聖書学者であるオリ
ゲネスはこう述べている。「わたしはイエスの胸に寄り掛かったヨハネについて語っているが……彼は一つの福音書を残した……彼はまた、黙示録をも記し
た」。さらに、『黙示録』の著者は、自らを「しもべヨハネ」と称し、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」と記しているが、
これは伝承による使徒ヨハネの晩年の境遇と一致する。また、新約聖書において「小羊」という言葉をキリストの象徴として用いているのは、『ヨハネの黙示
録』と『ヨハネによる福音書』だけである。/
一方で、著者「ヨハネ」に関してもほとんど知られていないとし、3世紀には、文体上の違いに着目し、『ヨハネの黙示録』は、使徒以外の「違うヨハネ」の筆
であることを指摘する議論があったことを、教会史家エウセビオスは伝えている。また『黙示録』(特に21章と22章)における終末理解と『ヨハネによる福
音書』の著者の終末理解には大きな隔たりがあることを指摘する学者もおり[誰?]、現代の聖書学者でこの説を支持しない者もいる[誰?]。だが、『福音
書』の記事はイエス在世中の出来事であり、『黙示録』はイエス復活後数十年を経ての終末に関する新たな啓示を記した記録であるので、そこに何らかの差異が
あっても不自然ではない。/
4世紀には、東方で、金口イオアンと他の主教たちの間で『黙示録』の聖書正典収録に関しての議論が巻き起こった。理由は『黙示録』が難解であるため、その
表現を都合よく解釈して悪用されることを恐れたためである。シリアのキリスト教徒の間においても、『黙示録』は、モンタノス派が自らの正当化に利用したた
め排斥された。9世紀にはコンスタンティノープル総主教ニケフォロス1世がその著書の中で、『ヨハネの黙示録』を『ペトロの黙示録』と共に「真性に疑問の
ある書物」であるとしている。最終的には中世末期、正教会でも正典に加えられはしたものの、聖書の中で唯一奉神礼で朗読されることのない書となっている。 / 伝統的に、『黙示録』の成立はドミティアヌス帝時代の紀元96年
周辺であると考えられてきたが、聖書学者の中にはネロ帝時代の69年頃と考える者も居る。前者の説の有力な傍証とされるのは202年に死去したエイレナイ
オスの著書『異端反駁』5巻30における証言である。エイレナイオスは著者ヨハネと会ったという人物から『黙示録』の執筆は「というのは、それが登場した
のは余り前のことではなく、殆ど我々の時代、ドミティアヌスの治世の終わり頃のことである」という証言を直接聞いたと記す。さらに96年成立説を有力なも
のとするのは、『黙示録』に小アジアにおける迫害というテーマが含まれていることである。ネロ帝のキリスト教徒迫害はローマ周辺に留まっていた為、小アジ
アでも迫害が行われたドミティアヌス帝時代の成立の方が、遙かに辻褄が合うということになる」ヨハネの黙示録)
リンク
文献
その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099