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アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーとイラン革命

Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī and the Iranian Revlution

池田光穂

アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(آیت‌الله روح‌الله خمینی, Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī Fa-ir-khomeini_(1).ogg 発音[ヘルプ/ファイル], 1902年9月24日 - 1989年6月3日)は、イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者であり、政治家、法学者。1979年にパフラヴィー皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の元首である最高指導者として、同国を精神面から指導した。

「ルーホッラー・ホメイニー」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本ではホメイニーの存命中から今日に至るまで、外務省 [1]や新聞・報道は一貫して「ホメイニ師」「アヤトラ・ホメイニ師」などと表記しており、死後でも一般にはこのホメイニ師の方がより広く知られている。

ホメイニーは、1902年、イラン中部の人口1万に満たない小さな町・ ホメインに、シーア派第7代イマーム、ムーサーの子孫を称するサイイド(預言者ムハンマドの直系子孫)の家系として生まれ、出生名をルーホッラー・ムー サーヴィーといった。当時イランには近代化政策に伴う創姓法によりすでに家姓が存在したため、ムーサヴィーが本名の姓にあたる。のちに「ホメイン出身の 者」を意味するニスバより、ホメイニーを名乗る。なお、シーア派では法学者が出身地などを冠したニスバで呼ばれるのは極めて一般的である。

ホメイニーが生後5ヶ月の時に法学者であった父親が地元の人間により殺害され、母親とおば達によって教育を受ける。16歳の時に二人とも亡くなり、その後 は兄に教育を受けた。 幼い頃に亡くなった父にならい、アラークで学んだ後に彼もイランのシーア派の聖地ゴムでイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者を意味するアーヤトッ ラーの称号を得た。これらの教育や研究の中で「生きることの本義は簡素、自由、公共善にあり」という信念を確かなものとし、自分の人生においてもこれを実 践するとともに人々に呼びかけた
パフラヴィー朝下のイランは、石油国有化を主張してアメリカ合衆国の干 渉政策と皇帝によって、無念のうちに失脚させられた1953年8月のモハンマド・モサッデク首相失脚後、ソビエト連邦の南側に位置するという地政学的理由 もあり、西側諸国の国際戦略のもとでアメリカ合衆国の援助を受けるようになり、脱イスラーム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。

皇帝(シャー)モハンマド・レザーは、1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣 言し、上からの近代改革を推し進めたが、宗教勢力や保守勢力の反発を招き、イラン国民のなかには、政府をアメリカの傀儡政権であると認識するものもいた。 パフラヴィー皇帝は、自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。
皇帝の政策への批判と反帝制運動
そして第二次世界大戦中の1941年頃から、モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝の独裁的な西欧化政策に対する不満を表明する。その後1963 年に、皇帝が宣言した「白色革命」の諸改革に潜むイラン皇帝の独裁的な性格を非難、抵抗運動を呼びかけて逮捕される。この時は釈放されるものの政府批判を 続け、翌年1964年、ついにホメイニーの国民への影響力を恐れたパフラヴィー皇帝に拉致され、国外追放を受け亡命した

この「白色革命」を含む皇帝の政策は、石油のアメリカ合衆国やイギリス、日本などへの輸出による豊富な外貨収入を背景にした工業化と西欧化を中心に据えた ものであるものの、西欧的で世俗的なだけでなく、多分に独裁的な性格が強く、さらにイランの内情や国民の生活を省みない急激な改革を行ったために貧富の格 差が増大した。これらのことに国民は反発して抵抗運動が起きた。ホメイニーはこの運動のシンボル的な存在だった。

その後、トルコに滞在した後に、イラクのシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニー は、イラン国民に改革の呼びかけを行う一方、ここでシーア派のイスラム法学者がお隠れ(ガイバ)中のイマームに代わって信徒の統治を行わなければならない とするホメイニ以前からあったシーア派の理論をさらに発展させた「法学者の統治論(ヴェラヤティ・ファキーフ)」を唱えた

このイラク滞在時に長男が突然死しているが、パフラヴィー皇帝の「サヴァク」による暗殺とみられている。1978年にイラクを離れ、フランスに亡命してからも、一貫して国外からイラン国民へ皇帝への抵抗を呼びかけ続けた
イラン革命(イ ランかくめい、ペルシア語: انقلاب ۱۳۵۷ ایران‎)は、イランのパフラヴィー朝[1]において1978年1月に始まった革命である[6]。亡命中であったルーホッラー・ホメイニーを精神的指 導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とする国民の革命勢力が、モハンマド・レザー・シャーの専制に反対して、政権を奪取し た事件を中心とする政治的・社会的変動をさす。民主主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。イスラム革命(ペルシア語: انقلاب اسلامی‎, ラテン文字転写: enqelâb-e Eslâmi[注 1]、英語: islamic revolution)とも呼ばれる。

1978年1月、パフラヴィーによって国外追放を受けたのち、フランス・パリに亡命していた反体制派の指導者で、十二イマーム派の有力な法学者の一人で あったルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事を巡り、イラン国内の十二イマーム派の聖地ゴムで暴動が発生。その暴動の犠牲者を弔う集会が、死者を40日 ごとに弔うイスラム教の習慣と相まって、雪だるま式に拡大し、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。

皇帝側は宗教勢力と事態の収拾を図ったが、9月8日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出した事件をきっかけにデモは激しさを増し、ついに公然と反皇帝・ イスラム国家の樹立が叫ばれるようになった。11月、行き詰まった皇帝は、国軍参謀長のアズハーリーを首相に起用し、軍人内閣を樹立させて事態の沈静化を 図ったが、宗教勢力や反体制勢力の一層の反発を招くなど事態の悪化を止めることができなかった。
革命の成功
1979年1月16日、フランスから糸を引いた反体制運動の高まりに耐えかね、皇帝とその家族がエジプトに亡命。これを受けて、ホメイニーは2月1日に亡命先のフランスから15年ぶりの帰国を果たし、ただちにイスラーム革命評議会を組織した


2月11日、評議会はパーレヴィー皇帝時代の政府から強制的に権力を奪取し唯一の公式政府となると、「イスラム共和国」への移行の是非を問う国民投票を行 い、98%の賛意を得た。4月1日、ホメイニーは「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の最高指導者(国家 元首)となり、任期4年の大統領(行政府の長)をも指導しうる、文字通り同国の最高指導者となった。この一連の動きをイラン革命と呼ぶ。
パフラヴィーは1978年末に、反皇帝政党である国民戦線のバフティヤールを首相に立てて、翌1979年1月16日、国外に退去した。

バフティヤールはホメイニーと接触するなど、各方面の妥協による事態の沈静化を図ったが、ホメイニーはじめ国民戦線内外の反体制側勢力の反発を受けた。2 月1日、ホメイニーの帰国により革命熱がさらに高まり、2月11日、バフティヤールは辞任、反体制勢力が政権を掌握するに至った。

4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。

【革命の特徴】
第一に、この革命がまったく民衆自身によって成就されたことである。冷戦下の1970年代当時はアメリカ合衆国とソ連の覇権争いと、その勢力圏下の国や民 間組織が、アメリカ合衆国やソ連の代理としての戦争や軍事紛争、政治的・経済的な紛争が世界的に発生・継続していた国際情勢だったが、この革命の場合は反 米・反キリスト教を掲げながらも、ソ連には依存せず、インドやインドネシアのように米ソのどちらの勢力にも加わらない中立の姿勢を堅持し、第三世界の自立 性の強化を歴史的に実証し、当時第三の勢力として実力をつけつつあった第三世界の傾向を強烈に示したのがこの革命だった。

第二に、伝統的な宗教であるイスラム教を原動力にしていることである。革命の成功後、日本ではそれが政治的な変革にすぎず、宗教的、文化的なものではないという議論が支配的だったが、次第に新たな運動のタイプであると認識されるようになった[7]。

イスラム共和国体制は、アメリカ合衆国連邦政府が背後から支援して樹立したパフラヴィー朝を打倒したので、アメリカ合衆国から敵視された。

1979年11月には、イランアメリカ大使館人質事件が起こり、アメリカは1980年4月にイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動した。またパフラ ヴィー朝が西側諸国に発注していた兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、イギリスのシール(チャレンジャー1)戦車やアメリカのキッド級ミサ イル駆逐艦など、多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす事になった。一方で、イスラエルはキャンセルされたF-16戦闘機を代わりに購入する事で、イラ ク原子炉への爆撃(バビロン作戦)が遂行可能になった。

一方、サウジアラビアなどの周辺のアラブ諸国にとって、十二イマーム派を掲げるイランにおける革命の成功は、十二イマーム派の革命思想が国内の十二イマー ム派信徒に影響力を及ぼしたり、反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム(イスラム教徒)全体に波及すること に対する怖れを抱かせることになった。
国家元首として
新政権は、その発足直後からイランアメリカ大使館人質事件やイラン・イラク戦争などの外交危機や戦争、バニーサドル大統領と議会多数党のイスラム共和党の 対立など、さまざまな危機的状況にもまれたが、革命イランの最高指導者としてホメイニーは、諸政策に強い影響力をもった。ホメイニーは政治・司法・文化を イスラムに基づいて構築し直すことを目指したが、当初はある程度は現実にあわせたイスラムを考えて改革的な政策も施行していた。

ホメイニーは、革命中はかつてのシーア派イマームたちの殉教を「被抑圧者(モスタズアフィーン)」の抵抗の象徴とし、皇帝の独裁に対抗するシーア派社会主 義の理念を取り入れ、この革命を「イスラームに基づく被抑圧者解放」と主張した。この主張によってホメイニーは、元来社会主義の支持者だった貧困層や世俗 的中産階級からも支持を取り付け、革命を達成した。

しかし革命達成後は一転して、世俗主義者や社会主義者を「イスラームの敵(カーフィル)」として弾圧するなど、事実上の宗教独裁体制を敷いた[2]。さら に1988年に発表された、イギリスの作家サルマン・ラシュディがムハンマドの生涯を題材に書いた小説『悪魔の詩』を「冒涜的」だとして、1989年2月 14日に著者のラシュディ、及び発行に関わった者などに対して死刑を宣言するなど、強権的な姿勢をさらに強め、イスラム教国を含む世界各国から強い反発を 招いた(日本語訳者が殺害されたが未解決)。
1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内に多 数の十二イマーム派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。イランの猛烈な反撃によりイラク が崩壊し、産油地域が脅かされたり、十二イマーム派の革命が輸出されたりすることを懸念したアメリカがイラクに対する軍事支援を行った結果、この戦争は8 年間の長きにわたり、イランの革命政権に対して国内政治・国内経済に対する重大な影響を及ぼした。また、戦争は国際化し、ニカラグアの内戦(コントラ戦 争)から波及したイラン・コントラ事件などを巻き起こした。

また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻は、ソ連がイスラム革命のアフガニスタンへの波及を防ぎたいと考えたのも要因とされている

革命当初、欧米ではイラン・イスラム共和国体制を短命であると見ていた程西欧にとって革命とその体制は信じがたい衝撃で、体制が何年にも渡って継続すると はまるで予想していなかった。しかし、40年以上この革命体制は欧米の激しい干渉にさらされながらも継続している[7]。
死去
1989年6月3日死去。86歳だった。最期の言葉は「灯りを消してくれ、私はもう眠い」だった。イラン最高指導者の職はアリー・ハーメネイーが継承し た。葬儀の際には、棺を移送中に取り扱いの不手際で棺の蓋が開いて遺体が落下、これを見た一部の参会者がショックで卒倒する一方で、多くの参会者はその衣 服や体の一部を「聖遺物」として持ち帰ろうとその遺体に殺到、これが暴徒化して大騒動になった。現在はテヘラン南部のホメイニー廟に祀られている。

統治形態について
ホメイニーの著書『イスラム統治体制』(法学者の統治論)はイスラムに基づく国家と社会のあり方について述べているが、本書の理念はイラン・イスラム共和国憲法の基本原理として盛り込まれた[3] 。

法学者の統治論は十二イマーム派の政治理論であり、ホメイニー以前から存在していたもので、ホメイニーはこれを発展させ、『イスラム統治体制』でイスラム 法学者はイスラム政治体制を樹立し、国家権力を持った社会統治を行う(連帯)義務を持っているとした。 また、『イスラム統治体制』ではイスラムの政治体制の目的はイスラムの法を行うことであり、統治者に必要な条件はイスラム法学についての知識と指導者とし ての公正さであるとし、一般信徒は無謬のイマームに対するのと同じように従う義務があるとされている[4]。

そして、イスラーム法に厳正にのっとった統治を行うことで社会に「イスラーム」的秩序を貫徹させ、汚職のない公平な税収運用[5]、支配者による収奪の徹 底した排除[6]、被抑圧者の解放と救済[7]などを達成するよう説いており、彼の主張する「イスラーム的統治」によって、君主や貴族の汚職・浪費・収奪 などが批判されたパフラヴィー朝とは全く異なるイスラーム的公益社会を実現しようとした。

ホメイニーは君主制・世襲権力をイスラームの理念に反しているとして否定している。直接にはパフラヴィー朝を指しているが、ホメイニーはそれまで合議制 だったカリフ位をウマイヤ家が世襲制にしたことにシーア派が対抗した事例を挙げることで、シーア派の歴史の中に反君主制・世襲権力という動きを見出そうと している[8]。 ただし、当時シーア派がウマイヤ家のカリフ位世襲に反対したのは、預言者の血縁のアリー家によるカリフ位の世襲を目指したためである。
革命後の国内
革命後、人々は国王という共通の敵を失い、政治集団内では新体制を巡り激しい権力闘争に突入した[8]。最終的にホメイニーを頂点とするイスラーム法学者が統治する体制が固まり、そこではイスラム法が施行されるイスラーム的社会が目指されることになった[9]。

しかし、イランにはイスラームの他にも少数ではあるが複数の宗教が存在している。このような宗教少数派の一部、すなわちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロア スター教徒は、公認の宗教少数派としてイラン・イスラーム共和国憲法第1章第13条で認められている[10]。彼らが運営する私立小学校では、教育省が作 成した宗教少数派用の教科書に従って宗教教育を実施することが義務付けられている[11]。

イランのロウハーニー大統領によれば、イランには二級市民は存在せず、いずれの宗教に属していても憲法のもと平等な市民権を有しているという[12]。

しかし、憲法においてはイスラム教徒に加えてゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒に対し宗教儀礼の自由が認められており、非シーア派のムスリムに 対して“完全な敬意”を払わなければならないと定められている(第12条)ものの、これらの4宗教から外れる宗教の信者は、教育権や参政権などの基本的人 権も保障されておらず、とりわけ無神論者やバハイ教徒は[13]、国内における生活自体が認められていない。

バハイ教徒であったモナ・マフムードニジャードは、バハイ教徒として改宗を拒み、また子供たちに対してバハイ教について教えた罪により、1983年に処刑された。
現実に適わせたイスラームについて
1988年初め、ホメイニーは公益に適うならば政府の令が伝統的なイスラーム法に優先すると表明した[9]。これは、国家の現実にイスラームの伝統的規範 を適合させようとする努力であった。また、当時イスラーム法が政府の令に優先するという伝統的な考え方の人物も多くいるなかでの重要な表明だった [10]。 同年9月、宗教的道徳に反する使用はしないという条件付きで、楽器とチェスの解禁も行った。この時、コムの宗教法学者が権威あるイスラーム・シーア派の伝 承を引用してこのことをホメイニーに問いただしたが、ホメイニーは「現代に適応できない宗教学者」のくびきから脱すべしとこの宗教法学者を諭した [11]。
上記のように西側諸国が世界中で推し進める西欧化とは異なる価値観の体 制を革命によって推し進めたため、革命後、欧米諸国の国際的な干渉、内政干渉の攻撃を長年に渡り受けてきた。これには、欧米のいわゆる「イラン核開発疑 惑」、2009年のイランの反アフマディネジャド派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことなどが挙げられる[14]。

核開発に関しては日本では欧米的な論調がほとんどだが、イラン側は核エネルギーの生産を目指すもので、核兵器開発ではないとし、アフマディネジャド大統領 は「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対して明言している[15]。詳細はアメリカ合衆国とイランの関係のイランの主張の項を参 照)。

イランの「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示す国々も数多く、トルコ、ブラジル、ベネズエラ、キューバ、エジプトな どの第三世界各国や中国などの国がイランを支持している(詳細はイランの「核開発問題についてのイランと第三世界各国の認識 」の項を参照)。
革命に貢献した女性の役割と女性の地位について
ホメイニーの次に最高指導者となったハーメネイーはその見解[12]でホメイニーの発言や考えにも言及している。(以下はこの見解を参考)

イラン・イスラム革命が勝利した際、ホメイニーは「もしこの運動に女性の協力がなかったら、革命は勝利していなかっただろう」と述べ、女性たちが賛同せ ず、信じなければこの革命が成功することはなかったとの考えを示した。 イラン・イスラム革命では、参加者の半数が女性であり、女性は革命の先頭にたって戦い、家庭環境においても女性はその家族に文化的な影響を与えた。

ホメイニーは革命時およびその後の革命体制時における女性の役割を、またイスラム社会の完成とその革命的・イスラム的な成熟における女性の地位を、非常に 大きなものと見ていた。これには、"イラン人女性・イスラム女性が、「西側の堕落した文化」が築いた道の中で、様々な罠から解放されるための自らの聖なる 戦いを、強固な決意で継続する"ことが必須であるとした。
革命後の教育と女性の地位の変化
革命後政府は体制支持集会や戦争協力などに女性を積極的に動員してきた[8]。例えば、革命後まもなくホメイニーは預言者ムハンマドの娘ファーティマの誕 生日を「女性の日」と定め、この日に大規模な女性集会を組織してきた。またイラン・イラク戦争の時には女性も革命防衛隊に動員された[8]。イスラーム法 学者が統治する体制を浸透させるためには女性の教育が必要であると考えた政府はそれ以降も、特に女性教育を重視して学校の増設や女性教育者の養成に取り組 んだ[8]。

こういった学校のイスラーム化は地方や農村などの保守的な地域の就学率も押し上げた[8]。その結果として、イランの教育機関における女子比率は、小学校 では革命前(1975年)の31%から48%(2003年)となり、中学では、37%(1976年)から48%(2003年)高校では36%(1978 年)から48%(2008年)に向上した[16][8]。

イランでの公立大学への進学は、年一回のコンクールと呼ばれる大学統一試験に合格しなければならないが、全合格者に占める女子比率は年々上昇し、1998 年には遂に男子を抜いて52%に達し[8]、2002年には62%を記録した[16]。現在では高等教育における大学生の男女比率は、医学、人文、基礎科 学、芸術の各専攻とも女性優位となっている。例えば医療系学部の女性比率は70%、基礎科学系学部は56%、人文系は52%、農業・獣医系は46%となっ ている[16]。

医療分野を例にとると、国民医療の公営化による普及と男女分離政策により、女性患者にたいするサービスは女性スタッフが行うことが望ましいとされたために、女性の雇用が伸びている[8]。

教育分野においても同様のことが言え、専門職に従事する女性の83%が教育関係の職に就いている(1996年度現在)[8]。また大学ならびに高等教育機 関の専任教員に占める女性の割合は1978年度から1997年度の20年間に17.4%から19.4%へ、非常勤も含めると13.6%から16.8%に上 昇した[8]。近年拡充されてきた女性向けの年金制度や育児休暇制度のおかげで社会参加と就労がさらに進み、女性からの離婚を申し立てる権利も拡大してい る。

イランでは中等教育までは男女別学が基本だが、教育カリキュラムは、中等教育過程での男子を対象に防衛技術を教える「防衛準備科」を除き、教育の全過程を通して男女同一である[17]。

女性が対外的に公衆の前では体と髪を覆うヘジャーブを着用する義務に対して、近年抗議デモが盛り上がり、現政権も無視できない状況になってきている[18]。

また、革命後にイランで学士号までの教育を受けた女性数学者・マリアム・ミルザハニは、最も権威ある数学の賞であるフィールズ賞を受賞した現在まで唯一の女性である。
「植民地主義者」の反イスラーム政策への危惧について
『イスラーム統治論』では、「植民地主義者」の政策に関する警告もなされている。ここでは、西側の植民地主義者は、300年あるいはそれ以上前からイスラ ム諸国に進出していたが、自分たちの利益獲得を難しくし、その政治的権力を危うくしているのはイスラームとその法規範、人々のイスラームへの信仰だと見做 したため、多様な手段をもって反イスラームの宣伝と陰謀を実施したとされている。当時、宗教学院界で養成された布教者、大学や政府の宣伝機構、印刷出版所 における植民地主義者の代理人、植民地主義的な諸政府に奉仕する東洋学者たちがこの政策に協力し、本来真理と正義を求める人々の宗教であるイスラムを捻じ 曲げ、異なった形で紹介し、一般の人々に誤った考えを持たせ、宗教学院界で不完全なイスラムの姿を提示したとする。

この理由として、「イスラームの活力と革命的性格を奪い、そしてムスリムたちが努力すること、運動に従事すること、自由を求めること、イスラームの法規範 の執行を求めること、ムスリムたちの幸福を保障し人間としての尊厳を保った生活を認める統治(体制)を作ること、これらを阻止する意図である」としてい る。 この例として「イスラームは包括的な宗教ではない。生活に即した宗教ではない。社会(運営)のための諸制度や諸法を持っていない。統治方法やその諸法を 持っていない。」、「倫理性も持つが、生活や社会の運営には値しない」と宣伝されていたことが挙げられている。

本来のイスラームはもちろんまったく異なる極めて政治的な宗教であるが、当時これらの「植民地主義者」の悪意のある宣伝は効果を上げており、一般の民衆よ りも教育を受けた大学人や宗教学徒のほうが誤った考えを信じてイスラムをまったく正しく理解していなく、もし誰かが正しいイスラームを紹介しようとしても 人々は簡単には信じようとはせず、逆に宗教学院の植民地主義の協力者が騒ぎ立てるという状況があった、としている[13] 。

イスラムの社会性、政治性について
この植民地主義の宣伝が誤っていることを証明するために、ホメイニーは次のように述べている。「コーランにおいて、社会問題に言及した箇所と(社会問題で はなく個人的次元に属する)宗教儀礼の章句の比は100対1以上である。約50巻からなり、すべての法規範を包含する伝承の1セット中、3巻ないし4巻が 宗教儀礼ならびに神に対する人間の義務に関連し、また、一部の法規範は道徳に関連しているが、残りはすべて社会・経済・法律・政治・社会運営に関連してい る(つまり、「本来のイスラーム」は個人次元の信仰よりも、社会問題により多く関わるものである)」[14]

以上のことを述べた上で、若い世代に向けて自分が述べる論題について研究しながら、イスラムの諸法と制度を紹介するために生涯努力し、イスラムがそのはじ めからいかなる障害に直面し、現在いかなる敵意と苦難に直面しているかを人々に知らせ、イスラムの本質と真実が覆い隠されたままにしてはならない、キリス ト教と同じくイスラムも神と人民の関係(社会と関わりをもたない関係)についての命令のみの宗教だと人々が考えないようにしなければならない、と訴えてい る。

また、同著でユダヤ人の反イスラーム宣伝に関する記述もある。

「(第三次中東戦争(1967年)直後の)今日ユダヤ教徒が意のままに改ざんしたコーランをイスラエルの占領地で印刷していること」を挙げた上で、「声を あげ、人々に気づかせ、もってユダヤ教徒たちや彼らを支援する外国の者たちはイスラームの根幹に反対し、ユダヤ教徒の統治を世界に打ちたてようとしている ことをはっきりさせなければならない。我々一部の者の無気力さが原因となって、ユダヤ教徒が我々を統治することになるのを恐れる」[15]と述べており、 これらの人々をムスリムたちを脅かす存在として、イランにおいて存在し、宣教活動を行っていることに対して危惧の念を示している。

他宗教勢力の見方とイスラム時代以前の世界の見方について
ホメイニーは著作に於いて「イスラムの支配下に於いて異教徒は一定程度の人権を守られるだけで満足するべきであり、政治的権利など与えられない」と主張している。著書において、現代においてもジズヤ徴収(すなわちズィンミー制)は有効だと主張している箇所がある[16]。

パフラヴィー朝下の1962年10月6日に、政府が地方選挙において選挙権・被選挙権をムスリムのみに限った条項[17]を撤廃し、バハイ教徒などにも市 民権を拡大させようとした時には、バハイ教徒を背教者として憎悪する12イマーム派の立場から、同僚の法学者とともに激しい抗議運動を行い、同法を撤回さ せた[18]。しかし、後に「彼ら(バハイ教徒)が我々(ムスリム)をしだいに弛緩させて相互に離反させ、各個人に「宗教義務」を明らかにした結果、[我 々]に言葉の違いと混乱が広がった。そして今や、彼らが望むことを何でもムスリムたちやイスラーム国家に対して行っている」と主張している[18]。

著書でイスラム以前の時代に関して、アメリカ先住民を「野蛮な状態で日々を過ごす半開化の赤色人」[19]、古代の(自国である)イランとローマの国家を 指して「専制支配、貴族性、差別性の下にあり、専横なる人々の支配下で、人々や法による統治の痕跡は無かった」[20]と述べている。イスラム教では、発 祥の地であるアラビア半島のこともイスラム教以前の時代は「ジャーヒリーヤ時代(無知、無明時代)」とされ、野蛮な時代とされている。

イスラエルのユダヤ人に対してはイスラエルのパレスチナ占領およびパレスチナ人への抑圧という事情もあって対立する立場で、イスラームの初期におけるユダ ヤ人との確執を「反イスラームの宣伝と陰謀」[21]とし、現在のパレスチナ問題に至るまでこの対立が尾を引いたものと認識している[22]。

また、公正なる支配者に関する記述で、「ムスリムたちと人類社会を統治するものは常に公的な諸面と利益に配慮し、個人的な諸面や個人的な愛着には目をつむ らなければならない」[23]とし、それゆえにイスラームでは社会、人類の利益に反する部族・集団は滅ぼしてきたとしている[24]。例としてムハンマド がクライザ族が腐敗を増やしていたために滅ぼした(クライザ族虐殺事件)ことを挙げている。

刑罰について
ホメイニーはハッド刑に関しても、著書でその必要性を強く主張していた[25]。例として(ホメイニーは「堕落」と表現している)婚外性交渉を行ったもの に対する100回の鞭打ち(未婚者)[26]や石打ちによる死刑(既婚者)[27]、窃盗犯に対する人体切断[28]などをあげている。

共和国への影響について
結果として、ホメイニーが著書で主張した政体のほとんどが、革命イランのイスラム共和制において実現された。

イラン刑法はイスラム法体系(シャリーア)の規定にそい、イスラームを棄教したもの、婚外性交渉をした者や同性愛者に対する鞭打ち刑や投石殺刑などを定め ている。またイスラーム以外の宗教のうち、ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教は、当初のホメイニーの主張通りにズィンミーになることは免れ、憲法でも その尊重がうたわれたものの、政治的権利や信仰の自由などでイスラム教徒に対して劣勢に置かれることとなった。また、バハイ教徒や無神論者は完全にその存 在を否定され、発覚した場合死刑である。

『ホメイニわが革命 イスラム政府への道』共同通信社訳. 共同通信社, 1980.3.
『ホメイニわが闘争宣言』清水学訳. ダイヤモンド社, 1980.2.
『イスラーム統治論・大ジハード論』富田健次訳. 平凡社, 2003

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