テストウィード神父と神山復生病院
Rev.(Father) Germain
Leger
Testvuide and Koyama Fukusei Hospital
テストウィード師の年譜ほか、関連年譜(註:上記写真は左より岩下壮一[1889-1940]、井深八重[1897-1989]、そして、ジェ ルマン・レジェ・テストウィード[1849-1891])
1849 フランスのオートマルヌ県ティヴェHaute-Marneに生まれる(10月2日)。ラングルの神学校で学び助祭
1872 パリ外国宣教会( Missions étrangères de Paris ; Paris Foreign Missions Society)の運営する神学校に転校(10月8日)
1873 司祭に叙階(6月7日)同年、7月2日に日本へ向けて出発、12月に横浜着。聖ルイ教会を司牧(横須賀海軍工廠)
1875 武蔵野方面への宣教
1876 北緯代牧区巡回宣教師
1880 西関東・東海道地方を担当(〜愛知・岐阜方面)
1883
「水車小屋で30歳ぐらいの盲目の女性ハンセン病患者と出会い、療養所の設立を決意」したと言われる。これは、第10書簡というオズーフ司 教宛の(1883年9月21日〜12月21日)のものが出典であろと思われる。当該の鮎沢村での、盲目女性との邂逅は11月(中島 2017:94, 244)。
1883 御殿場の鮎沢村(現在の御殿場市新橋)に家屋を借用して6名の患者を収容する。
「薬はモロカイ島でハンセン病の患者を世話していた司祭のヨセフ・デ・ブーステルから調達した。またブーステルの紹介でハンセン病治療医の
後藤昌直と知り合いとなり、新薬を分けてもら」う。→ Father Damien or
Saint Damien of Molokai, SS.CC. or Saint Damien De Veuster
Saint Damien of Molokai
1884 静岡市鷹匠町に布教所を設立
1885 沼津に布教所
1888(明治21) 静岡県駿東郡富士岡村字神山(現在の御殿場市)に土地を購入
1889 5月22日、診療所を設立し、患者20名を収容。テストウィード「主における復活」の意味で『神山復生病院』と命名。/岩下壮一9月 18日に東京市麹町区で生まれる。
「らい患者が現世の苦しみによって永遠の生命を得ることができたら苦しみも又幸せとなるでしょう。そのために病院を建て、そのことを教えた
いと思います。こうして彼らは肉体の救いと共に魂のたすかりを得ると思います」。
1891 「体調を崩し治療のため6月2日に香港の宣教師療養所ベタニアの園へ着き、5日にミサを立てたが、これが神父最後のミサ」。同年8月
4日香港にて胃がんにて召天。第2代目院長にヴィクルー神父着任。
1893 ベルトラン神父第3代院長。年度末在院患者数は97。
1897 井深八重、井深彦三郎とテイの娘として1897(明治30)年に台北で生まれる(台北市樺山町の官舎)
1910 井深、小学校卒業後、1910(明治43)年に同志社女学校普通学部に入学、その後、専門学部英文科に進み、1918(大正7)年に
卒業。女性宣教師・M・F・デントン(Mary Florence Denton 1857-1947、との邂逅か?
1915 アンドリュー神父第4代院長。
1918 ドルワール・ド・レゼー神父第5代院長が就任。井深、長崎県立長崎高等女学校の英語教師として赴任、翌1919(大正8)年九州帝国大学医学部附 属医院にてハンセン病を疑われ、神山復生病院に隔離入院(→「堀清子」を名乗る。22歳)
井深の後年の述懐:「ここがらいの病院であること、そして私が何の為にここに連れてこられたかを初めて知ったときの私の衝撃!それは、到底
何をもっても、表現することはできません。」
1922 井深のハンセン病は10月5日に誤診と判明(東京大学皮膚科教授・土 肥慶蔵[1866-1931]の診断をうける)。
1923 井深八重(Yae Ibuka, 1897-1989)東京看護婦学校を卒業し看護婦免許を取得。そのまま、ただ一人の看護婦として着任。ドルワール・ド・レゼー神 父(承前)のもとで看護を続ける。
1930 レゼー神父召天。岩下壮一神父第6代院長
1936 石山春平(いしやま・はるへい)静岡で生まれる。
1940 岩下院長召天。千葉大樹神父院長
1947
全国のハンセン病療養施設でプロミン(グルコスルホンナトリウム)が使われはじめるが、その利用は暫定的なものにとどまり、全患協[1951-]の資料などによると施設や厚生 省に要請(「多磨全生園プロミン獲得促進委員会」1948年)し、また、ハンストなどを実行している。
1948 第5回国際らい会議(ハバナ)で伝染性の患者の隔離が否定される。
石山春平を発症し、退学される。自宅の納屋に4年間暮らす(-1952)
1951
n.d. 林富美子医師着任
1952 聖マリア診療所を開設
この年に石山春平に入所。12月25日、石山はアンチェン神父により受洗。当時の診療体制は石山(2018:48-49)参照。
1953 DDS(ジアフェニルスルホン)国産化開始
1959
ヨハネ23世教皇より井深に聖十字勲章が授与される。
石山春平、完治宣言されるが、退所は許されず。
1961 井深八重婦長、国際赤十字が、フローレンス・ナイチンゲール記章受 賞
1968 石山春平、神山復生病院を退所。
1975 井深八重「同志社大学名誉学位をいただいて」『しばくさ』第14号 同志社女子大学 1975年
「今、この時の流れを顧みて、私がこの道をひとすじに進み得たことは、無論院長レゼー翁の偉大な人格とその指導に依るものではあるが、これ を受け入れる基盤となったものは、まず何よりも母校の創立者新島先生の息吹のかかるキリスト教的雰囲気の中で学び得たことに依るものと信ずるのである。母 校から頂いた眼に見えないたまものこそ、私の今日までの生涯を力強く支え続けた原動力に他ならないことを確信して、ただ感謝のほかないのである。」
石山春平、川崎市でガイドヘルパーの仕事に従事(-2008年)
1977 井深は朝日社会福祉賞を受賞。
1989 井深八重名誉婦長召天(5月15日)、翌5月16日、神山復生病院百周年記念式典
1996 らい予防法の廃止に伴い、らい病床を一般病床に編入
2002 施設再整備により一般20床、療養40床(ハンセン病患者対象の病床17床を含む)の計60床に再編。神山復生病院旧事務所が記念館 に改装される
2006 神山復生病院記念館が国の登録有形文化財(建物)に指定
神山復生病院「復生記念館について」
より
2009 120周年記念式典が行われた。元ハンセン病療養者の在院者数8名
2016 神山復生病院記念館が、当時の姿に復元され、リニューアル・オープン
2018 石山春平『ボンちゃんは82歳、元気だよ!』社会評論社、2018年10月.
静岡県における資料の存在
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その他
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