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オデッセウスと近代

Odysseus in Modernity

池田光穂

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ホメーロスに帰ろう。オデュッセウスの航海 は、自然による支配を離脱しょうとする人間が、さま ざまな経験をつうじて同一的な自己を確立してゆく過程であった。そういう自己の確立は、支配者で ある自然へ自らを「犠牲」にすることをつうじてはじめて獲得される。身を全うするために我が身を 放棄することとしての犠牲は、すでに「合理的交換の魔術的形式」であるとともに、また「神々を支 配するための人間の企て」である。支配されると見せて支配する「詭計」こそが、啓蒙的主体の本質 的特性であった。さまざまな詭計を使って、オデュッセウスは、さまざまな自然神の誘惑を乗り越え てゆく。啓蒙的自己を過ぎ去ったミュートスの状態へ引き戻そうとする誘惑はさまざまである。童蒙 状態へ引き込もうとするセイレーンの歌声は言うまでもない。幸福を授けることによって自律性を奪 うキルケーのニロスの誘い。忘却のうちに意志を放棄させ、「いかなる生産活動にも先立つ段階」、戦 争も労働もない無為飽食のユートピアヘと誘うロート。ハゴイ(=蓮喰い人)。屈従を代償として平安 を購う契約としての結婚への誘惑。あらゆる見せかけの幸福を振り切ってもなお残る最後の宿駅とし ての冥府への誘い。これら危険な誘惑に打ち克っために必要なのは、自然へのミメーシスによって自 然を支配するラチオとしての詭計ばかりではない。外なる自然の誘惑に身を亡ぼさないためには、誘 われる内なる自然への支配、つまり「諦念」が必要である。内なる自然を犠牲にすることによって、 外なる自然への支配を購うこと、それが啓蒙=文明の基本的姿勢であった。諦念に基づく「市民的非 情さ」を身につけつつ、オデュッセウスは内なる自然を支配し、外なる自然に降服すると見せながら、 それを支配することに成功する。
現代批判の哲学 : ルカーチ,ホルクハイマー,アドルノ,フロムの思想像 / 徳永恂著, 東京 : 東京大学出版会 , 1979, pp.188-189.
だがはたしてオデュッセウスは、盲目の自然としてのミュートスに打ち克ち、それを支配すること ができたのだろうか。それは啓蒙の二重性の、たんなる一面にすぎないのではなかったろうか。「皮 肉にも、凱歌を奏したのは、彼に命令される仮借なき自然の方であった」。仮借なき自然の暴力に打 ち克って無事帰郷したオデュッセウスは、たちまち妻ペーネロペイアヘの求婚者たちに、仮借なく暴 力を振るう裁き手、かつ復讐者に変身しはしなかったか。盲目の暴力を受け継いでいるという意味で は、自然の支配者であるはずのオデュッセウスは、じつは自然の相続者にほかならない。啓蒙は神話 に対立するばかりではない。啓蒙と神話との同一性という、恐るべきもう―つの面が姿を現わす。啓 蒙は自然へ逆転する。一般化して言えば、「最高の自然支配に到達した文明が、ふたたび自然への隷 従に転落する」という。ハラドックスのアレゴリーがここにある。

リ ンク

文 献

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