むかし懐疑論、いま量子論
Skepticism in Wired brain
pinoza, Excommunicated Samuel
Hirszenberg
(1907).
懐疑論(skepticism)とは、君が知ってい る信念や教理(ドグマ)とは、感性や直感によって身につけてきたものに他ならないから、それを知らない宇宙人がいまここに登場した時に、君がいうことを まったく理解できないだろう、感性や直感を排して、君が経験的に世界について知っていることなど、わずかなものにすぎない、という批判的態度(反省)のこ とである。
"Skepticism (American and Canadian English) or scepticism (British, Irish, and Australian English) is generally a questioning attitude or doubt towards one or more putative instances of knowledge which are asserted to be mere belief or dogma.[1][2] Formally, skepticism is a topic of interest in philosophy, particularly epistemology. More informally, skepticism as an expression of questioning or doubt can be applied to any topic, such as politics, religion, or pseudoscience. It is often applied within restricted domains, such as morality (moral skepticism), theism (skepticism about the existence of God), or the supernatural.[3] Philosophical skepticism comes in various forms. Radical forms of philosophical skepticism deny that knowledge or rational belief is possible and urge us to suspend judgment on many or all controversial matters. More moderate forms of philosophical skepticism claim only that nothing can be known with certainty, or that we can know little or nothing about nonempirical matters, such as whether God exists, whether human beings have free will, or whether there is an afterlife. Skepticism has also inspired a number of contemporary social movements. Religious skepticism advocates for doubt concerning basic religious principles, such as immortality, providence, and revelation.[4] Scientific skepticism advocates for testing beliefs for reliability, by subjecting them to systematic investigation using the scientific method, to discover empirical evidence for them."
「懐疑主義(skepticismアメリカ英語、カ
ナダ英語)または懐疑主義(scepticism
イギリス英語、アイルランド英語、オーストラリア英語)とは、一般に、単なる信念や教義であると主張される知識の1つまたは複数の推定例に対する疑問の態
度や疑念のことである。形式的には、懐疑論は哲学、特に認識論において関心のあるテーマである。より非公式には、疑問や疑念の表現としての懐疑主義は、政
治、宗教、疑似科学など、あらゆるトピックに適用することができる。道徳性(道徳的懐疑主義)、神義論(神の存在に関する懐疑主義)、超自然的なものな
ど、限定された領域で適用されることが多い。哲学的懐疑主義にはさまざまな形態がある。急進的な形の哲学的懐疑主義は、知識や理性的な信念が可能であるこ
とを否定し、論争の的となる事柄の多くまたは全てについて判断を保留するよう促す。より穏健な形の哲学的懐疑論は、確実なことは何もわからないと主張する
だけで、神が存在するかどうか、人間に自由意志があるかどうか、死後の世界があるかどうかなど、経験的でない事柄についてはほとんど何もわからないと主張
する。懐疑主義はまた、現代の社会運動にも影響を与えている。宗教的懐疑主義は、不死、摂理、啓示といった基本的な宗教原理を疑うことを提唱している。科
学的懐疑主義は、科学的手法を使って体系的な調査を行い、経験的証拠を発見することで、信念の信頼性を検証することを提唱している。」
古代ギリシャのピュロン、それを編纂したアイネシデ モス、そして、ピュロン派の主張をまとめたセクストス・エンペイリコスは、西洋思想における懐疑主義の元祖といわれる。それに対して、近代思想のデカルト は、ピュロン的系譜とは別に、アウグスティヌスの自己についての「確実性」についての拡張したコギト・スム(Je pense, donc je suis, Cogito ergo sum)に表せる懐疑論を打ち立てた。すなわち「「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かし えぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができ る、と判断した」デカルト『方法序説』、野田又夫訳『世界の名著22 デカルト〔第3版〕』中央公論社、1967年、p.198.)
経験論批判のデイヴィッド・ヒュームは、因果にもとづく帰納思考に、懐疑論をもって批判したこと[出典]で 著名である:1)「このように、新しい生成にはすべて原因が必要だという考えは知識から引き出されるのではなく、またいかなる学問的推論からも引き出され ないのだから、どうしても観察と経験とから生じるものでなければならない。そこで、当然、次に問題となるのは、いかにして経験はそのような原理を生じさせ るのか、ということである。しかし、私はこの問題を次のような問題にはめ込むほうがもっと都合がよいと思うので、それをこれから研究の主題にしよう。それ は、われわれはなぜ、しかじかの特定の原因は必然的にしかじかの特定の結果を伴わねばならないと断定するのか、また、なぜ、一方から他方へ推理を行うの か、という問題である」ヒューム『人性論』第1編3部3節、大槻春彦訳、世界の名著27、1970:433。2)「このようにして、理性によっては原因と 結果の究極的な結合を見出し得ないだけではなく、さらに経験がそれらの恒常的な相伴を知らせたあとでさえも、なぜわれわれはその経験をすでに観察された個 々の実例以上に拡げるのかという点について、理性によっては納得が得られないのである。したがって、心が一つの対象の観念もしくは印象から、他の対象の観 念もしくは信念へと移るときに、心は理性によって規定されるのではなく、想像においてこれらの対象の観念を連合し、結び合わせるようなある原理によって規 定されるのである」 ibid, p.438)。3)「そういうわけで、こんなに念入りにその仮想の一派の議論を私が示してみせる意図は、私が立てた仮説の真理を、すなわち、原因と結果に 関するすべての推論は習慣にのみ起因すること、また、信念はわれわれの本性の知的部分の働きというよりもむしろ情的部分の働きであること、これらの真理を 読者に気づかせることにほかならない」ibid, p.460)。
●量子論における常識の解体について……
「量子論(量子物理学;Quantum physics) とは、ある物理量が任意の値を取ることができず、特定の離散的な値しかとることができない、すなわち量子化(quantization)を受けるような全 ての現象と効果を扱う学問である。粒子と波動の二重性、物理的過程の不確定性、観測による不可避な擾乱も特徴である。量子論は、マックス・プランクの量子 仮説まで遡る全ての理論、モデル、概念を包括する。量子仮説は1900年に、例えば光や物質構造に対する古典物理学的説明が限界に来ていたために産まれ た」。そして「量子化(りょうしか: quantization)とは、古典力学では連続量として理解されていた物理現象を、量子ひとつひとつの集合体である離散的な物理現象として解釈し直すこと」である。
”In physics, quantization (quantisation) is the process of transition from a classical understanding of physical phenomena to a newer understanding known as quantum mechanics. (It is a procedure for constructing a quantum field theory starting from a classical field theory.)”
「半導体を利用する電子機器の設計など、微細な領域
に関するテクノロジーのほとんどは量子力学を基礎として成り立っている。そのため量子力学の適用範囲の広さと現代生活への影響の大きさは非常に大きなもの
となっている。一例として、パソコンや携帯電話[9]、レーザーの発振器などは量子力学の応用で開発されている[7]。工学において、電子工学や超伝導は量子力学を基礎として展開」する。
●カント哲学を擁護するグレーテ・ヘルマン(Grete Hermann, 1901-1984)に、若きヴェルナー・ハイゼンベルグが反論する
「……しかし我々は、そこにまさに因果律のある種の 破綻が現れるのを見るのですが、ひとつひとつのラジウムB原子の場合には、それが後でも先でもなく、ちょうど、この瞬間崩壊するということ、また、それが その方向以外ではなく、ちょうどこの方向に電子を放出するということについて原因を指摘することができないのです。そして、そのような原因が存在しないこ とも多くの理由から確実です」——ヴェルナー・ハイゼンベルグ「量子力学とカント哲学」『部分と全体』山崎和夫訳、p.191、pp.188-200, みすず書房、1999年
"Grete Hermann
(1901-1984) was a pupil of mathematical physicist Emmy Noether,
follower and co-worker of neo-Kantian philosopher Leonard Nelson, and
an important intellectual figure in post-war German social democracy.
She is best known for her work on the philosophy of modern physics in
the 1930s, some of which emerged from intense discussions with
Heisenberg and Weizsacker in Leipzig. Hermann's aim was to counter the
threat to the Kantian notion of causality coming from quantum
mechanics. She also discussed in depth the question of 'hidden
variables' (including the first critique of von Neumann's alleged
impossibility proof) and provided an extensive analysis of Bohr's
notion of complementarity.
This volume includes translations of Hermann's two most important
essays on this topic: one hitherto unpublished and one translated here
into English for the first time. It also brings together recent
scholarly contributions by historians and philosophers of science,
physicists, and philosophers and educators following in Hermann's
steps. Hermann's work places her in the first rank among philosophers
who wrote about modern physics in the first half of the last century.
Those interested in the many fields to which she contributed will find
here a comprehensive discussion of her philosophy of physics that
places it in the context of her wider work." - https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB24764871.
「グレーテ・ヘルマン(1901-1984)は、数
理物理学者エミー・ノーテルの弟子であり、新カント哲学者レナード・ネルソンの信奉者であり共同研究者であり、戦後ドイツの社会民主主義における重要な知
識人であった。1930年代の現代物理学の哲学に関する研究で最もよく知られており、その一部はライプツィヒでのハイゼンベルクやヴァイツゼッカーとの激
しい議論から生まれた。ヘルマンの目的は、量子力学からもたらされるカント的因果性の概念への脅威に対抗することであった。彼女はまた、「隠れた変数」の
問題(フォン・ノイマンの不可能性の証明に対する最初の批判を含む)について深く議論し、ボーアの相補性の
概念について広範な分析を行った。本書には、このトピックに関するヘルマンの2つの最も重要なエッセイの翻訳が収められている。1つはこれまで未発表のも
ので、もう1つは今回初めて英訳されたものである。また、科学史家や科学哲学者、物理学者、ヘルマンに続く哲学者や教育者による最近の学術的貢献もまとめ
られている。ヘルマンの業績は、前世紀前半に現代物理学について書いた哲学者の中で、彼女を第一級の地位に位置づけている。ヘルマンが貢献した多くの分野
に関心のある人は、彼女の物理学哲学を、より広範な仕事の文脈の中に位置づける包括的な議論をここで見出すことができるだろう。」
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