北條 民雄
Tamio Hojo, 1914-1937
本名、七條晃司(ひちじょう・てるじ)。以下の情報はウィキペディア「北条民雄」ほかによる。
1914 9月22日 日本統治時代の朝鮮の首都京城生まれ。父親は軍人。生後母親と死別、南市下大野町で育てられる。
1932 (秋?)結婚
1933 結婚の4ヶ月後にハンセン病の罹患がわかり、離婚。元妻は入水自殺未遂。翌年死亡。
1934 東京府北多摩郡東村山村の全生園に入院。創作を開始。川端康成(1899-1972)に書簡を送って原稿の閲読を乞い、以降は川端に師事する。
川端は最初の返事に「無論消毒されて病院を出ることはよく承知していたしておりますゆえ、その点はご遠慮なくお送り下さい」と記述。
1935 脱稿した「間木老人」を川端に送り、激励を受ける。川端は、同年1月から「夕景色の色」を『文藝春秋』1月号より連載開始。
12月北条が川端に「最初の一夜」(のちの「いのちの初夜」)の原稿に同封した手紙。「なんだか大変低調なものになった了ったような気がしてなりません。同時に、ひどく冗長なものになったような気もして、これで良いのかと自分を責めています。でも結局は自分では暗がりを探るようなもので未踏しが丸切りつきません」
1936 2月に『文學界』に「いのちの初夜」が掲載。それにより第2回文學界賞を受賞。その他に「癩家族」、「癩院受胎」、「望郷歌」などの作品を著した
「いのちの初夜」は元々、「最初の一夜」のタイトルだったが、川端康成の提案により改題。12月に創元社より他の作品と共に、創元社(後の東京創元社)より刊行。
1936年10月28日付の川端康成から川端秀子(旧姓、松林,1907-2002)夫人への手紙
「癩さんの原稿手紙は、手を触れぬこと、厳重消毒のこと。触れたら、手は消毒のこと。大丈夫なんだろうが、念には念を入れた方よい」と記載。それまでの書簡では、「北條」名を使い。「癩さん」と呼ぶのはこれ一度きり。
1937 12月5日腸結核のため死去。23歳。川端康成『雪国』創元社より刊行。
2012 頃。阿南市が遺族に本名公開を督促を開始。
2014 6月。没後77年後に本名、七條晃司(ひちじょう・てるじ)が明らかになる。
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