東亜同文書院大学小史
History of the Tung Wen College
「東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく;东亚同文书院、The Tung Wen College)は、東亜同文会[東亞同文會](現在の「霞山会」)が設置した中華民国上海市に本部を置いていた日本の私立大学である。 1939年に設置され、1945年に廃止された。大学の略称は東亜同文書院」ウィキ日語)
以下の年表は、ウィキペディアによる。
1889 荒尾精、漢口楽善堂の活動を終え、清国より帰国し「復命書」を提出(→日清貿易研究所)
1890 荒尾精、9月上海に日清貿易研究所を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手。日清貿易研究所(1890-1893)は彼の死後設立された東亜同文書院の前身
1892 日清貿易研究所編『清国通商綜覧』(第1編、第2編)
1893 荒尾精の日清貿易研究所は6月卒業式挙行。資金難のため日清貿易研究所閉鎖。
1898 それぞれ別組織であった東亜会と同文会及び「興亜 会 (亜細亜協会)」を始めとする既存のアジア主義諸団体が合体して「東亜同文会」 が東京・赤坂溜池に設立
1899 日本の東亜同文会によって中国(清朝)南京城北に南京同文書院が設立。初代(および3代)院長の根津一(Hajime NEZU, 1860-1927)
1901 南京同文書院の閉鎖に伴い上海へ移設され て、東亜同文書院大学の前身となる高等教育機関東亜同文書院が設置された(「上海同文書院」の通称)
1901 5月に上海南市高昌廟桂墅里の校舎で開学式を行う。南京同文書院からの学生と日本からの学生をあわせて第1期生
1902 民間有志の拠金や日本政府の補助金を得て、中国からの留学生を対象とする東京同文書院が東京府東京市神田区に設置される。
1903 8月第3期生より秋季入学となる
1905 卒業生に学士称号
1907 外務省より3カ年3万円の補助金を受給して、第1回支那調査旅行(大旅行)を実施
1908 1月 犬養毅来校。10月明治天皇より御下賜金。11月鍋島直大、清浦奎吾来校。
1909 8月、第9期生が東京で入学式を行い、宮城拝観が許可される。
1910 10月、創立10周年祝賀式を行う。
1913 7月、第二革命による武装蜂起などの戦禍により、高昌廟桂墅里の校舎と寄宿舎が焼失、長崎県に大村仮校舎で学校再開。10月に上 海閘北赫司克而路に仮校舎を設置、一部授業の再開。
1914 9月農工科設置。
1917 4月上海徐家匯虹橋路校舎が竣工。
東亜同文書院虹橋路校舎正門
1918
3月に学生数の増加と校舎増設を決定。中国人学生の日本留学並びに日本人学生の上海就学といった方針を転換、語学よりも学科を重きに据 え、上海に中華学生部を設置して中国人学生の就学方針を固める。10月に書院内に職員研究部を設置。政治科募集停止。
10月教職員が中国に関する諸問題を研究するために「支那研究部(東亜研究部)」が設置された。1942年東亜研究部に改称。
1919 8月に中華学生部の校舎を竣工、校舎増築。
1920 4月農工科募集停止。9月に中華学生部(商務科)を開設、修学年限を4年として、2年目から商務科の授業を一本化する。
++++++++ここまでは私塾時代++++++++++
1921 大正10年に 政治科廃止。専門学校に昇格
1922 農工科廃止。東京同文書院閉校。
1923 3月根津一院長退任
1924 ラビンドラナート・タゴール来校。
1926 10月近衛文麿来校。
1927 12月胡適特別講義。
1928 11月日中学生同居許可。12月殷汝耕講演。
1929 6月日犬養毅、頭山満講演。
1930 9月中華学生部学生募集停止。11月学生ストライキ。12月第1次学生検挙事件(反戦ビラ配布事件)。
1931 4月魯迅特別講義。
1932
2月第1次上海事変のため長崎へ疎開。4月上海復帰。
物産館は1932年に中国の民俗資料を収集、展示し一般に公開するために虹橋路校舎内に設置されたもので、収蔵資料は8千点に及んだ。
中華学生部校舎を使用した。1937年焼失。
1933 3月第2次学生検挙事件。4月芳沢謙吉外務大臣講演。11月上海日本人倶楽部で「大旅行」学生撮影映画会。
1934 中華学生部廃止。
1935 11月校内に靖亜神社建立。
「靖亜神社は1934年に近衛篤麿、荒尾精、根津一を主神とし、中国での活動の中で斃れた日清貿易研究所や南京同文書院を含
めた関係者、同窓を合祀して虹橋路校舎内に建立された。
1937年虹橋路校舎焼失後は、海格路校舎内に奉遷され、戦後は1949年埼玉県の東光書院内に再建された」
1937 9月から学生志願通訳従軍始まる。 10月長崎仮校舎を設置。11月虹橋路校舎が不審火により焼失。
1938
4月上海復帰、徐家匯海格路(ハイコーロ)臨時校 舎設置。海格路臨時校舎図書館は、長崎仮校舎時に復興図書委員会を設置して復興資金を募り、満鉄図書館などの図書寄贈も受けて65,000冊を蔵した
11月、財団法人東亜同文会の会長(近衛文麿)が外務大臣の有田八郎宛に大学設立趣意書を申請。
ウィキペディア日本語「1938年(昭和13年)に日本で発売された「支那大地図」。この地図によれば、中華民国と満州国だけでなく、
モンゴル人民共和国を「外蒙古」としてその範疇に加え、後にソ連へ併合されたトゥヴァ人民共和国をも入れている。また、いわゆる漢民族の居住地でない東ト
ルキスタン(ウイグル)とチベット(「西蔵」)も入っており、広範囲の地域名でもあった」平凡社 1938 - 下中彌三郎編「東洋歴史大辞典」平凡社
1938年の付録地図。1986年復刻)
1939 2月近衛文隆学生主事就任。12月に大学昇格(東亜同文書院大学認可)
1940 1月に大学予科設置。
1941 4月に学部開設(修業年限3年)
1942 支那研究部が東亜研究部に改称
1943 4月大学附属専門部設置。12月学徒出陣。本間喜一突然の辞任。
1944 本間喜一最後の学長として赴任。
1945 5月呉羽分校を設置。9月海格路臨時校舎を中国に接収される(最後の学長は本間喜一)。学生の内地引き揚げと他大学への転入がはじまる。11月呉羽分校閉 鎖により廃止された。
1946 3月東亜同文会解散。4月上海に残留していた学生・教職員が帰国。5月に本間は関係者を集め新大学の設立を決議する。
6月には新大学設立事務所を豊橋に設置した。新大学(愛知人文大学)の学長には、当初本間が有望視されていたが、本間自身が「多くの青 年学徒を戦地に送った」責任があるとして、固辞。東亜同文会の理事を務めていた枢密顧問官の林毅陸前慶應義塾総長に白羽の矢を立てた。就任の交渉には本間 自身が出向き、「学生の将来に対する責任」を訴えて説得。この言葉で林の心は動かされ、承諾の返事が引き出されたという
11月15日 大学令による愛知大学の設立が認可。この時の文部大臣は一高・東大の同級生であった田中耕太郎(1890
-1974)であった。なお、新大学設立に際しGHQから「東亜同文書院大学そのままの大学は認可しない」との条件が付けられ、本間は「新大学(愛知大
学)は東亜同文書院大学とは無関係」との声明を出さざるをえなかった。教職員も新たに書院大学の関係者を採用することができなくなり、外地にあり同じく閉
鎖を余儀なくされた京城帝国大学、台北帝国大学の関係者を集めることにより人員不足を克服
+
●東亜同文書院の建学の理念
「初代(および3代)院長の根津一(Hajime NEZU, 1860-1927)は東亜同文書院の創立にあたって「興学要旨」と「立教綱領」を定めた。興学要旨に「中外の實學を講じ、中日の英才を教え、一つは以っ て中国富強の本を立て、一つは以って中日揖協の根を固む。期するところは中国を保全し、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるにあり」とし、立教綱領 に「徳教を経となし、聖賢経伝により之を施す。智育を緯とし、中国学生には日本の言語、文章と泰西百科実用の学を、日本学生には、中英の言語文章、及び中 外の制度律令、商工務の要をさずく。期するところは各自通達強立、国家有用の士、当世必需の才を為すに有り」としたことは、陽明学的な実用主義的立場が重 視されていたことを示す。東亜同文書院では儒教の経学を道徳教育の基礎にすえるとともに、簿記などの実用的な学問を重視」ウィキ日語)
●東亜会とは?
「東亜会(とうあかい)は、日清戦争直後に
結成され、短期間存続し、東亜同文会の前身のひとつとなったアジア主義の団体。1897年に、「東方問題、殊に支那問題を研究し、時局を匡救することを目
的とする」と謳って東京で結成されたこの会には、主要な会員として、陸羯南、三宅雪嶺、志賀重昂、福本日南、犬養毅、江藤新作、平岡浩太郎、井上雅二、池
辺吉太郎(三山)、宮崎寅蔵(滔天)、内田良平、平山周らが参加していた。
1897年、福本誠(日南)の渡欧送別会に集まった陸羯南、三宅雪嶺、池辺吉太郎らの間から会の結成が提起されたのを受け、井上雅二、香川悦次(怪庵)を
幹事に準備が進められ、1898年に入ると平岡浩太郎の仲介で江藤新作らが会に合流した。東亜会には、当初から東京帝国大学や早稲田大学の学生たちも参加
していた[4]。
1898年の戊戌の変法の後、東亜会の会員たちは康有為や梁啓超の日本への亡命に関わった。その直後、東亜会は、清国の情勢を踏まえて「対清諸会の分立を
不可となし」、同文会との合併によって成立した東亜同文会を成立さ
せ、さらに東邦協会も東亜同文会に合流して、亡命清国要人の支援にあたるようになった。」ウィキ日語)
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