ノーベル賞級の普通の研究者になる方法
How to become an ordinary, so
Nobel Prize-laureate class researcher.
授業担当者:池田光穂(Mitsuho
Ikeda) |
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履修対象/Eligibility |
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開講時期/Schedule |
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講義室/Room |
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講義題目/Course Name |
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授業の目的と概要/Course
Objective |
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学習目標/Learning Goals |
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履修条件・受講条件
/Requirement; Prerequisite |
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特記事項/Special Note |
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授業計画/Special
Plan (回)題目/Title:内容/Content |
1. 研究者という人生 2. 自分の性格や才能を知る(一匹オオカミか協調型か、実験か理論か) 3. 仕事と性格、大学を選ぶ、博士号は必須、ポスドク修行、メンター、主張と我慢、特許や知財 4. サイエンティスト・ゲーム 5. 正しい方法で有名になる(論文発表、学会発表、人事面接、グラント申請) 6. 自分の研究の見せ方 7. 事例研究1 8. 事例研究2 9. 事例研究3 10. |
授業形態/Type of Class: |
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授業外における学習
/Independent Study Outside of Class |
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教科書・教材/Textbooks |
・『成功への道』サイエンティストゲーム / カール・J・シンダーマン著 ; 山崎昶訳、学会出版センター、1987 プロローグ 科学における対人関係戦略の重要性 第1部 科学戦略家入門(著述者としての科学者—科学の論文を刊行するまで;演技者としての科学者—学会講演などの場での口頭発表;大群衆を前にしての科 学者—学会への出席;コンサートマスターとしての科学者—学会のセッションの司会;プロデューサー・ディレクターとしての科学者;交渉役としての科学者— 委員会の会合への参加) 第2部 科学の戦略家にとって兼合いの難しい問題(転機にある科学者—昇進、栄転、脱出;権力を握る科学者;惑える科学者—科学における倫理の定義) 第3部 科学の戦略家にとって特別に興味のある問題領域(科学の世界での女性と男性の役割の評価;官僚と官僚システムへの対抗策;外部の権力との付き合い方—マスコミ、法律家、政治家、および一般の市民;企業の世界との関係) ・『若き科学者のための生き残り戦略』サイエンティストゲーム / カール・J・シンダーマン著 ; 山崎昶訳、学会出版センター、1989 第1章 一人前と呼ばれるまでに 第2章 象牙の塔の中での立居振舞い 第3章 キミは指導教授とうまくやっているか? 第4章 賢明なる女性大学院生 第5章 舞台の上の若手の科学者 第6章 舞台裏での若き科学者 第7章 若き科学者の小規模の会合 第8章 人世の節目(カット)を生き残るために 第9章 募集と応募 第10章 科学の仕事場の特性 第11章 科学における知的な取引と妥協 第12章 科学のプロフェッショナルファサード 第13章 信頼されること 第14章 科学者の役割の変化 |
参考文献/Reference |
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成績評価/Grading Policy |
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コメント/Other Remarks |
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キーワード/Keywords |
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受講生へのメッセージ/Messages
to Prospective Students |
《この授業でのロールモデル》下村脩(しもむら・お さむ; 1928-2018)
「京都府福知山市に陸軍軍人の家に生まれる。父の生家は 長崎県雲仙市瑞穂町にあり代々庄屋を勤めた名家。現在は従妹が在住している。満州国、長崎県佐世保 市、大阪府等在住を経て、旧制中学生のとき母の実家・長崎県諫早市に疎開し、勤労動員生活を送る。旧制長崎県立佐世保中学校(佐世保南高校、佐世保北高校 の前身)、大阪府立住吉中学校を経て、16歳の時、諫早市にて原爆に遭遇(爆心から20km先)。終戦後、長崎県立諫早中学校を卒業。 薬学専門部卒業後、武田薬品工業の研究職を志すが、面接担当者に「あなたは会社員に向きません」との忠告を受け断念[7]。下村はこのときの経験を、初め から会社員志望でなかったことに加え、面接時に無愛想な態度をとったからと後述している。就職試験に落ちた下村は長崎大学薬学部の安永峻五教授の下で実験 実習指導員を4年間務めた。安永は下村を研究者として育成し幅広い知識を習得させるため[8]、分子生物学で有名な名古屋大学理学部の江上不二夫教授の下 に1年間内地留学させたいと考えた。1955年(昭和30年)春、安永と下村は、名古屋大学を訪れたが、江上は不在。代わりに応対した有機化学の平田義正 教授は、「私の所にいらっしゃい」と下村に言った。下村は、分子生物学も有機化学も当時は知らなかったので、天の指図だと思い平田教授の有機化学研究室に 行くことを決めた[9][10]。 1955年(昭和30年)から平田の有機化学研究室に研究生として所属[11]。平田から与えられた研究テーマは「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶 化」だった。これは、プリンストン大学のグループが20年以上も前から解決しようとしていた、極めて難しい問題であった[9]。下村は、研究に没頭。10 か月後の1956年(昭和31年)2月に、努力が実を結び「ウミホタルのルシフェリンの結晶化」に成功した[12]。27歳の下村の成し遂げた業績であっ た[13]。その後も実験を続け論文として発表した[14]。 1957年(昭和32年) -「Crystalline Cypridina Luciferin」[15] 1959年(昭和34年)-「海ホタルルシフェリンの構造」[16] 1959年(昭和34年)-「海ホタルルシフェリンの構造(第2~3報)」[17][18] 1960年(昭和35年)-「5-イミダゾロンに関する研究(第1~2報)」[19] この間、1959年(~1963年)には、長崎大学の助手となる[20]。プリンストン大学の フランク・ジョンソン教授は、下村の論文に感銘を受け、プリンストン大学に招聘1959年(昭和34年)、下村は受諾した。平田はハーバード大学留学体験 から博士の学位により報酬が倍増されることを知っていたため、博士課程の学生ではなかった下村に博士号を与えた[21]。1960年(昭和35年)4月 に、「海ホタルルシフェリンの構造(第2~3報)」の論文に対して、名古屋大学から理学博士号が授与された[22]。1960年(昭和35年)8月に、横 浜港から氷川丸にて渡米した[5][23]。 その後も平田のことは恩師と仰ぎ、2000年(平成12年)に平田が死去した後も、論文を書くたびに平田の自宅に送ったり、来日して同門の研究者と墓参り をしていたという[6]。ノーベル化学賞受賞後の取材では、恩師の平田に一番に受賞の喜びを伝えたいと述べた[24]。 博士号取得後、名古屋大学で従事したウミホタルの研究が評価され、1960年(昭和35年)8月からフルブライト奨学生としてプリンストン大学に博士研究 員として留学、フランク・ジョンソン教授に師事し、オワンクラゲを研究する(~1963年8月)[5][25]。1963年(昭和38年)9月に帰国後、 名古屋大学理学部付属水質科学研究施設助教授に就任[26]。しかしアメリカ時代とは異なり思うような研究ができず、またこのとき結婚をして長男が誕生し ていたため生活環境を変えることに迷いがあったが、妻の助言もあり、1965年(昭和40年)にプリンストン大学上席研究員職を得て再び渡米、研究拠点を アメリカに移す。下村はこのときの経験を、安定した収入と職場を捨てリスクを伴う海外移住であったが、若さゆえにできたと後述している。 アメリカでの活動 2008年12月7日、スウェーデン王立科学アカデミーにて 1960年(昭和35年)、フルブライト奨学生として渡米。プリンストン大学でジョンソン教授に師事した後、名古屋大学助教授としての帰日期間を挟んで 1965年(昭和40年)再渡米。その後、1965年(昭和40年)10月から1982年(昭和57年)までプリンストン大学上席研究員、1982年(昭 和57年)から2001年(平成13年)までウッズホール海洋生物学研究所 (MBL) 上席研究員を務める一方、1981年(昭和56年)から2000年(平成12年)まではボストン大学医学部客員教授を兼任した。2001年(平成13年) にはボストン大学名誉教授となる[27]。 研究活動を通じ、ウミホタル・オワンクラゲなど発光生物の発光メカニズムを次々と解明するに至った。なかでもプリンストン大学時代にフライデーハーバー実 験所で行ったオワンクラゲからのイクオリンおよび緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見(1962年)とその後の研究は生物発光の学問の世界にとどまらず、今日の医学生物学の重要な研究ツールとして用いられ、医学臨床分野にも大きな影 響を及ぼしている。主たる研究活動の場が米国であったためノーベル賞受賞まで日本での知名度は低かった。」 | Born in Fukuchiyama, Kyoto in
1928, Shimomura was brought up in Manchukuo (Manchuria, China) and
Osaka, Japan while his father served as an officer in the Imperial
Japanese Army. Later, his family moved to Isahaya, Nagasaki,[3] 25 km
from the epicenter of the August 1945 atomic bombing of the city. He
recalled hearing, as a 16-year-old boy, the bomber plane Bockscar
before the atom bomb exploded.[4] The explosion flash blinded Shimomura
for about thirty seconds, and he was later drenched by the "black rain"
bomb fallout.[5] He overcame great odds in the following 11 years to
earn an education and achieve academic success.[3]
Shimomura's education opportunities were starkly limited in devastated,
post-war Japan. Although he later recalled having no interest in the
subject,[4] he enrolled in the College of Pharmaceutical Sciences of
Nagasaki Medical College (now Nagasaki University School of
Pharmaceutical Sciences).[6] The Medical College campus had been
entirely destroyed by the atomic bomb blast, forcing the pharmacy
school to relocate to a temporary campus near Shimomura's home. This
proximity was the fortuitous reason he embarked upon the studies and
career which would ultimately lead to unanticipated rewards.[4]
Shimomura was awarded a BS degree in pharmacy in 1951, and he stayed on
as a lab assistant through 1955.[4]
Shimomura's mentor at Nagasaki helped him find employment as an
assistant to Professor Yoshimasa Hirata at Nagoya University in
1956.[6] While working for Professor Hirata, he received a MS degree in
organic chemistry in 1958 and, before leaving Japan for an appointment
at Princeton University, a Ph.D. in organic chemistry in 1960 at Nagoya
University.[7][8] At Nagoya, Hirata assigned Shimomura the challenging
task of determining what made the crushed remains of a type of
crustacean (Jp. umi-hotaru, lit. "sea-firefly", Vargula hilgendorfii)
glow when moistened with water. This assignment led Shimomura to the
successful identification of the protein causing the phenomenon, and he
published the preliminary findings in the Bulletin of the Chemical
Society of Japan in a paper titled "Crystalline Cypridina luciferin."
The article caught the attention of Professor Frank Johnson at
Princeton University, and Johnson successfully recruited Shimomura to
work with him in 1960.Shimomura worked in the Department of Biology at
Princeton for Professor Johnson to study the bioluminescent jellyfish
Aequorea victoria, which they collected during many summers at the
Friday Harbor Laboratories of the University of Washington.[9] In 1962,
their work culminated in the discovery of the proteins aequorin and
green fluorescent protein (GFP) in A. victoria;[10] for this work, he
was awarded a third of the Nobel Prize in Chemistry in 2008. |
リンク
文献
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For all undergraduate students!!!, you do not paste but [re]think my message. Remind Wittgenstein's phrase, "I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein
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1997-2099