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小関和(おぜき・ちか)年譜

Chika Ozaki, 1858-1932, the first Japanese founder of modern nurse practioners

池田光穂

小関チカ(のちに改名して小関和、読みは同じ)は、日本の派出看護事業の先駆者である。キリスト教の洗礼を受けて改宗したほか、日本の廃娼運動、禁酒運動、女性参政権獲得運動などにも参画した。

1858 安政五 下野国黒羽藩の家老、小関弾右衛門増虎(おぜき・だんうえもん・ますとら)の次女チカとして生まれる(4月11日旧暦)。

1868 慶応四 黒羽藩主小関増裕の死去(狩猟の弓矢の誤射による)でチカの父弾右衛門増虎は在野に下り(職を失い)上京する。

1869 明治二 版籍奉還

1870 アメリカ改革派教会の宣教師メアリー・E・キダー(1834-1910)が、ヘボン施療所で、女子を対象に英語の授業を開始(フェリス女学院)

1871 明治四 廃藩置県

1876 チカ、黒羽の元家老渡邊家に嫁ぐ、夫・福之進、その後二子をもうける(長男・六郎、長女・シン)。

1874 明治七 ミセス・ツルー(Maria T. True)来日。同年、ジェムズ・C ・ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815-1911)ら聖書飜訳委員会を結成。

1876 明治九 ツルー、長老派に加入

1880 父・弾右衛門増虎死去(享年50歳)。離婚(チカを和(ちか)と改称)。通訳を目指して、植村正度・牧師の英語塾「正美英学塾」に学ぶ。また洗礼をうける。正久(1858-1925)の弟の植村正度は『警官必携英和会話篇(1886)』の共著者の一人。

1883 フェリス女学園のバラ婦人が療養経験をも とに、看護学校の設立を決意。宣教師ヘボンはそれを認めず、彼女はミセス・ツールに働きかける。ミセス・ツルー(Maria T. True)はフィラデルフィアの女性篤志家から援助を受けて6名の看護婦(当時は看病婦)の養成を決意。このことは、ヘボンの長老派からのツルーの離脱を 意味したらしい。

1883.04.18 日本プロテスタント宣教師全体会議「女性の教育」分科会で看護婦養成の必要性の決議(亀山1990:308)。

n.d. 矢嶋楫子(やじま・かじこ:1833-1925)の知遇をえる。

1884 明治17 ヘボン、看護婦学校設立は時期尚早の意見提出――フィラデルフィア女性伝道協会、ヘボンの意見書に反発。

1885 明治12 東京慈恵医院(前・有志共立東京病院、院長:高木兼寛)が日本最初の看護婦養成を開始。

1887 明治20 櫻井女学校(女子学院の前身)が創設され、同時に入学(同期は5名)。看護教育を学び(櫻井女学校の創設者でもある)ミセス・ツルーなどの指導をうける。――6名は小関の他に:鈴木雅(旧姓:加藤)、広瀬うめ、桜川りい、小池民(たみ)、池田子尾(ねお)である(亀山 1990:119)。

1887 明治20 同年創設された、医科大学第一医院看病法講習科に学ぶ――講習会(亀山 1990:311)。同科はナイチンゲール看護学校(Nightingale Training School for nurses at St Thomas' Hospital, 1860年創設)の卒業生アグネス・ベッチェが担当、講義は英語。フェリス女学校出身の鈴木雅(子?)が通訳した。同科の看病婦22名と櫻井女学校6名の28名が第一期の学生。医学の講師として瀬尾原始と間島永徳が担当。

1888 明治22 卒後、初代、外科看病婦取締に就任。臨床看護および看護教育に就く。また、求めに応じて在宅看護を始める。

1880年代末 内科教授ベルツ、外科教授佐藤三吉(1857-1943):ベルツの当直日記に小関和の名が登場。

1889 6月12日の内科当直日記:(ベルツ?が)小関女を叱責・詰問すの文言あり。外科婦長の小関の内科への意見についての不満。

1889 佐藤三吉に看護改革の建議書を提出(→『婦人矯風会雑誌』第2号明治23年9月20日)

1890 明治23 医科大学辞職、高田女学校(櫻井女学校の姉妹校)の舎監として赴任。

1891 明治24 高田知命堂病院婦長、看護教育を再開。院長は、医科大学時代の瀬尾原始。高田では日本矯風会の廃娼運動に取り組み、木下尚江(きのした・なおえ、男性:1869-1937)との交流(後に木下が投獄されて小関に恋愛感情をもち結婚を申し入れるが、友人相馬愛蔵などの助言をもとに、小関の弟子の我賀操と後に木下は結婚することになる)。同年、鈴木雅の派遣看護婦会。

1892 明治25 ヘボン夫妻帰国

1896 明治29 ミセス・ツルーの看病のため上京(彼女は同年4月18日死亡)。鈴木雅がはじめた看護派出事業(→派遣看護婦会、1891-)と看護教育「東京看護婦講習所」に携わる。群馬で集団赤痢等、全国に伝染病が蔓延。

1898 明治30 看護婦学校開校(1年半課程)同学校は1906年閉鎖

1899 明治32 「婦人新報」に連載(→『派出看護婦心得』)。大日本看護婦人矯風会結成。

1900 明治33 派出看護婦の数が増え、トラブルも増加。内務省衛生局に日参し、衛生課長後藤新平との交渉の末、東京府看護婦規則の制定を実現する。

1902 明治35 『派出看護婦心得』 

1904 明治37 小関看護婦会の創設。訪問、在宅看護の事業をはじめる。隅田川水上生活者の健康管理にも関与する。

1906 明治39 看護学校閉鎖

1907 明治40 脳溢血後、那須温泉で療養

1908 明治41 『実地看護法』――1972(昭和47)年医学書院より復刻

1932 昭和7 5月22日死去(享年74歳)

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