かならずよんで ね!

マヤ先住民表象のダイナミズム(Ver.2.0)2009年

Tib’aj chwinqel xjal tw’utz tx’otx’, Iximulew, jalin.

池田光穂

マヤ-マム語のタイトルは
Tib’aj chwinqel xjal tw’utz tx’otx’, Iximulew, jalin.
tumel tkab’in
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Mitzub’ixi Quq Chi’j は私がグアテマラ高地で自称している名前です。
Qjay te qb’anel tz’aqsil xjal,  はコミュニケーションデザインセンター(「人々の関係を上手にアレンジする私たちの家」という意味)
Ja te xnaq’tzal Universidad te Osaka(「勉強をする家=大阪大学」という意味)
 大貫恵美子先生の1974年の民族誌 に、Emiko Ohnuki-Tierney, The Ainu of the Northwest Coast of Southern Sakhalin, Waveland Press, 1984[1974](「南樺太北西海岸アイヌ民族誌」)というものがあります。
 歴史的にみて樺太アイヌは北海道アイヌのフロンティアに位置する人たちでしたが、樺太のロシア・日本・ソビエトという植民国家の建設によりその国家帰属 が左右され退去と移住を強いられてきた先住民です。その内容は、1960年代に日本で採集されたサルベージ=救済民族誌ともいえるものです。しかしそのエ ピローグには、1972年10月23日の北大・北方文化研究施設と旭川「風雪の群像」の爆破ならびに考古学者による墓荒らしについて触れ(日本人の支援者 と共に)アイヌが抗議し、アイヌ革命や共和国の確立を主張するものもいると書かれています。しかも、アイヌ・アイデンティティがどのような未来を描くのか により、主張は分かれていると大貫先生は書きます。そして彼らの土地を要求してきた「文明化された」人びととの最初の接触以来、 アイヌと北米先住民の歴史は重なる点が多いと締めくくっています。
 
多くの文化人類学者にとってアイヌ先住民に対する日本政府のこれまでの対応が十分に満足のいかないものであったとしても、日本人への同化政策のもとにつく られた北海道旧土人法の廃止、故・萱野茂さんの参議院員として国会への登院、アイヌ文化振興法(1997-)の施行、そして今年4月からの北海道ウタリ協 会のアイヌ協会への名称変更などを振り返る時に、文化人類学者はこの民族誌を「消失した文化」についての記録だけの意味として読む人はいないのではないで しょうか? 樺太アイヌの現在を考えるためにも、また樺太アイヌの当事者にとってもそして現在の日本人にとっても重要な書物としてありつづけているのでは ないでしょうか。
 ここでの私の関心は、文化人類学者(または民族誌学者)が描く民族誌は、書かれた時点で完結するというものではなく、むしろ、民族誌が書かれてから「そ の中で生き続けていく他者表象」が、その後のさまざまな社会的・歴史的文脈のなかで甦り、描かれた当事者が想像もしなかった運命が待ち受けているというこ とがあるという事実についてです
 この発表ではグアテマラの先住民のひと つ「マヤ」をとりあげ、彼らの先住民表象がもつダイナミズムについて考えます。とくに、植民国家体制が彼/彼女らを統治する過程のなかで産出された言説、 すなわち偉大な歴史マヤの文明はすでに消滅し、キリスト教化、近代化、そしてグローバリゼーションのなかでその本物性を失いつつあるという主張に抵抗して いるマヤ運動がいかなる経緯によって産まれたかを考察します。
 言うまでもなく、1980年代以降における他者表象をめぐる論争はすでに決着したものではありません。先住民表象は、彼/彼らが自分たちがおかれている 社会の脱植民地化を希求し、その文化的主権が焦点化される限りむしろ、その議論の深化はますます要請されることを示唆したいと思います。
さて、それではグアテマラの先住民とはいったいどのような人たちのことを意味するのでしょうか? ざっと次のようなことが指摘されています。
・16世紀のスペイン植民地化以前より居住しきた人びと。
・これまでの植民地統治における複雑な「人種」・民族関係の歴史を担っていること。
・その多くは「マヤ系先住民」が占めるが、非マヤ系としてガリフナやシンカの人たちも先住民とされていること。
・人口における多数派なのだが、政治権力における少数派で、過酷な差別と排除の犠牲者であること。
・そして歴史的に構成された「ラディノ(=混血)・インディオ」関係があるということ
・「人種」と民族に対する差別ゆえの国民統合の不調和の原因とされていること。
・古代マヤ文明に対する評価と、しばしばその文化の所有権が主張されることもあること。
・ユニークな文法構造(「能格 ergative」言語)の指摘と、その語の記述言語学の研究から多様性をもつマヤ言語と歴史言語学的なプロトマヤ語の正確な歴史的比定や、マヤヒエログリフの研究の進展。
・本発表で焦点化する、文化的多元性を求めるマヤ先住民運動の実態。
・マヤ運動がもたらす〈文化〉概念の変貌、それは価値中立物から文化の政治化への道筋などです


 グアテマラにおける国家と先住民の関係について概観してみましょう。
 1821年スペインからの独立と内戦による中米連邦崩壊後の独立(1839年)後、グアテマラではつよい保守的ナショナリズム・イデオロギーが支配しま した。このため現在にいたるまで域内の隣接国家との国境確定などでの領土をめぐる確執が絶えず、それぞれの国民の帰属意識が強く、それはしばしばナショナ ル・キャラクターとして表現されることもしばしばです。
 グアテマラの先住民は人口比では多数派を占めていますが、寡頭支配体制下での政治参加は完全に排除され、人権的には二級市民・サバルタンの時代が長く続 いてきました。実際ホルヘ・ウビコ大統領独裁期(1901-1944)にはグアテマラには「インディオ問題は存在しない」と言われてきました。
 冷戦期には東西のイデオロギー対立の影響による〈マルクス主義〉と〈権威主義的軍事主義〉の対立が顕著となりますが、国家は長く軍隊あるいはその強い影響下のもとで統治されてきました。
 
先住民は強制徴用やプランテーション労働などの無償あるいは安価な労働力にすぎず、内戦期にようやく反体制マルクス主義勢力側からプロレタリアートとし ての位置づけを与えられました。しかしながらプロレタリアートといっても、革命意識に目覚めないルンペンあるいは、インディヘナの解放が社会の解放につな がる、そのためにはまず[発展段階論にもとづく封建制の終焉という意味での]ホセ・カルロス・マリアテギ的な先住民の位置づけでした。
 米州機構内でのインディヘニスモ思想(1940)の影響によりグアテマラ革命期初期(1945)に、パターナリズムにもとづく国民統合を目論む開発計画 の実施機関である国立インディヘニスタ局(IIN)が設置されました。しかし米国からの介入によるクーデタによる革命の終焉により、インディヘナ問題にお ける社会経済的な改良は後退し、国民統合のための学術教育機関(SISG)のもとにインディヘニスタ局が管理運用されるようになりました。
 その意味で、北米を中心とした文化人類学的研究を除いて、グアテマラの先住民に文化的独自性(=本質性)を見いだすものがほとんどありませんでした。他 方で、民族関係研究や開発人類学的観点からは、マヤは文化変容をおこし独自性を失うラディニゼーション(ラディノ化)が進行しているという主張が常識化し ており、先住民の文化的独自性が続いているという発想は希薄でした。
 ここにグアテマラの内戦(1960- 1996)後の先住民の複雑な事情を示す新聞記事があります。それはプレンサ・リブレ紙の2006年1月24日の記事「グアテマラ精鋭部隊員8名コンゴに 死す」です。グアテマラ内戦時に精鋭部隊であるカイビルは、先住民への残虐な行為(atrocity)で著名でしたが、そのメンバーの多くは、先住民によ る志願兵あるいは強制徴用になる兵隊でした。先住民が先住民を殺すという意味で、グアテマラ内戦の加害者側の不幸の代表とされているものです。しかし、和 平締結後は、国軍の治安機能の脱権力化ならびに軍備の削減により、彼らもイメージチェンジに努めてきました。その代表が、平和維持軍への参加です。「グア テマラ精鋭部隊員(kaibiles)コンゴに死す。叛乱者との衝突により、他に5名の負傷者。国連平和維持ミッションによりアフリカに倒れた兵士たち」 というのは、ポスト内戦後の出来事を象徴する興味深い事例です。この事件当時の文民大統領ベルシェは、遺族への弔問や基地内への殉職慰霊碑の建立にいちは やく着手しました。他方、この新聞を見ていた先住民は、新聞をみながら「この兵隊の多くの家族名は先住民だ。グアテマラは今でも先住民を犠牲にしている」 とやりきれなさを吐露していました。
(グアテマラのマヤ系先住民の生存は、つねに国家の政策や内戦に苛まれてきました。それは大きくわけて、1944年から10年間のグアテマラ革命期と1960年末から1996年末の36年におよぶ内戦期、さらに1997年から現在の内戦後の現在にわけられます)。

【 I 】1944-1954 グアテマラ革命(自由民主主義改革期)「グアテマラの春」
【 II 】1961-1996 グアテマラ内戦:とくに1978〜1983年に先住民集落を目的とする国軍のゲリラ掃討作戦の展開で犠牲者数—そのほとんどが先住民—が最大のピークに
400の共同体が破壊、20万人の死者、100万人の難民(CEH 1999)
【 III 】1997-現在:内戦後(ポスト内戦あるいは和平合意後の社会)

このような政治と文化的状況のなかで、グアテマラのマヤ系先住民はいったいどのような形で、自分たちの民族的アイデンティティを持つようになってきたのでしょうか?
 1920-30年代のグアテマラ先住民研究では、マヤの人たちは、ひとつは現在では22の言語グループに分かれると言われますが、それらの言語グループ ないしは類似のグループ分類によって集団が外部から弁別されていました。あるいは、この同時期に、ムニシパリダ(市町村)という近代国家の行政区分による 集団で民族集団を分けられるという主張がありました。後者の場合、同一言語の中でも方言差が著しいグループでは実質的に行政区分が同時に民族衣装などの識 別と実質的に重なり住民のアイデンティティを決めていたという事実に合致しています(Sol Tax )。
 このような時代には、マヤ先住民あるいはマヤ民族という集合的な分類もまた彼ら自身の集合的アイデンティティも希薄でした。
  しかし1980年代初頭の西部高地に対する国軍の掃討作戦で、多数の国内難民あるいは国外難民が出ることになりました。グアテマラ国境に面するメキシコ 領内のチアパスあるいはユカタン低地、そして場合によってはベラクルス州の難民キャンプに保護されたグアテマラ先住民の中は、迫害をうけたゲリラや学校の 教師などを中心とする知識人などが含まれており、その中から「マヤ先住民とはなにか?」という問いかけが生まれてきました。また内戦の後期には、キリスト 教団団体の支援のもとに国内難民抵抗共同体(Comunidad Popular Resistencia, CPR)などが、国軍の及びにくい国境地帯の僻地に作られ、弾圧からのがれて、生きるための農作物の生産やこどもたちへの教育が始まりました。これらの共 同体で生活する人たちの中にも、「なぜ私たちが迫害を受けるのか?」という問いかけがおこなわれ、国内外の支援団体の関係者とのあいだで議論が積み重ねら れ、その声明はそれらの団体を通して、国内外に伝えられることになりました。
 1992年はコロンブスのアメリカ大陸発見にちなんだ五百年紀で、国連などでは、すでにその10年前から先住民宣言の草案に関するワーキンググループが 組織されていました。この年にむけて、新大陸の多くの知識人は1992年が西洋世界にとっての「発見」の五百年紀であると同時に、(混血や先住民を問わ ず)新大陸の人びとにとっての「搾取」の五百年紀であるという認識が生まれつつありました。日本では能天気に角川書店(当時)などがコロンブスの船サン タ・マリア号の艤装をまねた近代船で航海に乗り出している頃、マヤ先住民やその支援者たちは、キチェ県出身の難民であったリゴベルタ・メンチュをノーベル 平和賞候補者にノミネートする国際的活動をおこなっていました。92年にメンチュの受賞は決まり、1993年は国連国際先住民年となりました。

 マヤ先住民としての集合的アイデンティティの覚醒は、マヤが置かれた政治的状況からの内省的なものと、国際的な先住民運動への関わりや支援との相互作用 によるものですが、集合的なマヤの意識を覚醒する別の知的な回路ないしは規模は小さいけれど重要な社会活動がありました。それは1986-87年ごろに本 格化するマヤ言語学プロジェクト集合——IVL(SIL)、PLFM、PRONEBI などからなる——ともよべる動きであった。この運動の興味深い点は、北米の言語学者の協力のもとでマヤ言語の話者たちに記述言語学の知識を授けて自分たち の言語に関する採集、記録、分析を彼ら自身に行わせるというものであった。これらの活動の結果87年には正書法が、和平合意に遡ること7年前の90年には 国家の独立法人であるALMGが設置されることになった。ALMGの設立にともない、当時すでに実質的に機能していなかったIINが廃止された。

【定義】:マヤ民族の内部的な多様性を超えた統一したマヤ先住民性を意識したさまざまな社会活動のこと。
【内容】国家によるマヤ言語学アカデミーや文化教育省官僚から、さまざま国内外の支援を受けたNGO団体、さらにはマヤ系の印刷出版社を含む企業家などが一時的ないしは永続的に行っている、公的あるいは私的な活動ないしはそれらの連合による活動である。
【現状】グアテマラのポスト内戦時代の国是であるにも関わらず未だ実現途上にある、多民族・多文化・多言語社会の実現を国家に対して要求しつづけることにある。その活動の中身は、マヤ言語や文化の尊重・保存・進展を主軸に展開している。
9.住民投票結果 首都へ(Traen resultados)[スライド番号(14)]

サン・マルコス県サン・ミゲル・イシュタウァカンでの米国グラミス・ゴールド社(モンタナ鉱山開発)による鉱山開発「マルリン」(Proyecto Glamis Gold Marlin)を拒絶する、ウェウェテナンゴ県のサンタ・エウラリアでの2006年8月29日の住民投票
10.覚醒の効果[スライド番号(15)]

1996年末の和平合意に、多民族・多文化・多言語のアジェンダが盛り込まれる。
マヤ文化運動を契機に「先住民文化」の代替的な政治運動が発展、国政に先住民が参加するようになる。
未亡人への支援運動を契機に女性の経済的自立支援やジェンダーに配慮した政策やプロジェクトが増えた。
11.マヤ運動に対する批判と反論[スライド番号(16)]

文化を隠れ蓑にする政治運動である←→民族のアイデンティティの源泉である文化と政治は不可分
国家を分断する分離派ナショナリズムである←→一つの国家の中に多元性を求める運動
言語の多様性を認めると国家の統一性が失われる←→言語運動はこれまでの抑圧に対する復権として当然の権利
マヤという統一した民族性は虚構←→言語・文化の点でマヤが統一した概念であることは自明
ほんものの伝統文化は変容消滅している←→文化の自己決定権は当事者にある
12.慣習法を「復古」させる先住民市長=首長[スライド番号(17)]
13.文化を武器とする生存戦略[スライド番号(18)]

ホームとアウェイ[=難民キャンプ・移民労働先]との密接な連絡をとりながら、敵愾心のある隣人(=ラディーノ)や暴力(=政府)と対峙しながら、それらと粘り強く交渉を通してサヴァイバルする戦術が展開した。
ホームの周囲にある異質な権力に巻き込まれながらも不断にそれらの困難と交渉しつづける戦術(→抑圧的な想像力と全面的に対決し権力の転覆と奪取を目指すのではなく、対話的交渉を通してユニークで代替的な共存方法を模索する)。
ある方法が失敗すれば、全く反対のやり方を選択しなければならないという、現場での折衷主義の戦術を大胆に採用すること。
14.表象のダイナミズム[スライド番号(19)]

文化を武器とする生存のための諸戦術の集合、すなわちマヤの人たちの生存戦略の多様化と(完全に否定的とは言えない)植民国家の対応のバランスにより、先住民表象のダイナミズムが生じている。
文化生産の観点から言えば、さまざまな統治権力の配置のもとで、分断されてきた「文化の諸断片」を再解釈し、隣接の文化現象や歴史資料からの「復元」により、再び/新たに全体性のなかに回復するプロジェクトの一過程としてみることができる。
15.マヤ文化を復興することの試練[スライド番号(20)]

自分たちのマヤ文化を抑圧してきたのは、植民国家体制や混血ラディーノだけではない。マヤ人じしんが近代化のなかで伝統文化なるものに否定的な価値を与え て、そこから脱出してきた歴史事実(例:難民の子どもたちの言語使用や文化的要素の喪失)もある。それゆえ、個々の文化運動を起こすことは試練に満ちたも のになる。
またテーマが政治や宗教、あるいは最近ではさまざまな地方利権主義に抵触するものであるものほど「危険」であると見なされてテロリズムの対象になることもある。
16.民俗舞踊の復興[スライド番号(21,22)]

サンマルコス県マヤ=マムの共同体においてすでに途絶えてしまった民俗舞踊の復興
教師集団の文化的アイデンティティの再組織化と、スペイン系NPOによる「文化の家センター」が主導という2つの目的で開始
民俗舞踊は伝統的宗教の祭礼の一環でおこなわれていたので、呪術的要素を含む。しかし、アクションカトリカというカトリック内の刷新近代化運動のなかで、「呪術」は異端取締の対象化されていた(廃絶の理由)。


復興は、呪術的・宗教的要素の脱色化——県の文化教育省主催の文化コンクールへの参加——されて共同体の外で上演された。他方、復興のために使われた舞踊は政府の審査員からは他県の民俗の借用だと揶揄される。
踊りの意義について知悉すること、マリンバの演奏ができること、シャーマン司祭的技能に恵まれること、これらは三位一体の必要能力だが、それらを身につけ全体性を回復し、共同体内で再興するためには、まださまざまな試練が待ち受けている。
17.鹿の踊り(Baile de Venado)の伴奏[スライド番号(23)]
18.文化の全体性への希求[スライド番号(24)]

現在の文化は「伝統的な」マヤ文化が維持していた統一性を失い、断片化され・分業化され・それを担う人民から剥奪されている、あるいは変容しているという認識は共有されている(「失われたマヤ」「サイバースペース・マヤ」という言辞)。
しかし先住民が希求しているのは調和がとれた文化の全体性の「回復」であり、その将来像はサルベージ人類学が言う「消失の語り」として未来に焦点化されているわけではない。
したがってその回復は時間的な復古主義よりも原状復帰に近い感覚であり、その恩恵はマヤ文化を享受しようとするすべての人びと開放されている(例:ダンス 演出について人類学者の批評や審美的評価を求める。日本の平和や先住のことについて自分たちのものと関連づけてつよい関心を抱く)。
19.逆流の中で[スライド番号(25)]

1996年末の和平が先住民権の定着にとって重要だという意識の風化/ ネオリベラル経済の伸展/国内治安の急速な不安定化(観光産業への打撃)
マヤ運動のイデオロギー的持続可能性を実現させているものは何か?/反対勢力の低水準紛争化/ラテンアメリカ水会議にみられる国際[慣習]法的圧力という回路を通した持続的闘争の必要性
内部からの運動に対する抑圧や弾圧など克服すべき課題も多い。この未充足状況が、先住民をして焦燥感をもたらすが、同時に辛抱強く状況を克服する実践の積み重ねへの原動力になっているように思われる。
20.民族誌的状況の逆転[スライド番号(26)]


「民族誌というものを真の人間主義形成に寄与すべき科学のひとつであると考えるとすれば、民族誌学はいわば片務契約的状態におかれていることはたしかに残念なこと……。
われわれの生き方の研究をもって西欧に来ることができるような現地出身の民族誌学者たちを植民地において養成するなどというユートピア……。
彼ら自身の社会においてであれ、隣接する社会においてであれ、研究に身を捧げる現地出身の民族誌学者を養成するという一事はやはり実現可能であり……」
(M・レリス「植民地主義を前にした民族誌学者」1950年)
21.結論[スライド番号(27)]

「「先住民」という概念は周縁化されてきた人びとの代名詞にすぎないというのではなく、政治的言語として復活してきている。「先住民」という概念の流通は、歴史を直線的に語ることを許さない」(太田 2009)
同様に(文明ではなく)文化もまた21世紀の社会を語る際には、政治的言語たりえる。文化を研究する書物もまた政治言語化することも可能であるし、その先行例に欠かない。例えば開発人類学の書物は、文化の著作であると同時に政治的な著作でもある。
民族誌が(帝国主義者の記録であるという、かつての非難と同様)無色透明な客観的記述であるという執着から私たちじしんを解放する。民族誌記述を脱植民地 化の文脈に置きなおすことで、これまでの行状、すなわち文化から政治的含意をこっそり外して(例:当該の文化を本質かそうでないかを峻別する)居心地の悪 い思いをすることがなくなるのではないか? グアテマラ「マヤ先住民」の文化の政治言語化という民族誌的状況から、私たちが学ぶべきことは数多くある。
28.謝辞[スライド番号(28)]

本研究は「先住民の文化顕示における土着性の主張と植民国家の変容」(平成17年度〜平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(B))研究(代表者 太田 好信)および大阪大学グローバルCOE「コンフリクトの人文学国際研究教育拠点」における平成20年度・研究プロジェクト「在日外国人支援の現場における 参与実践」(代表者 池田光穂)の成果発表の一部です。ただし、その文責および発言内容に関する応答責任は発表者にあります。
Chjontey qchqwinqel xjal Maya, xjal sinula, ex xjal mos tib’aj qtx’otx’ .

本文……

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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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