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女人政治考・考

On "On gynecocracy of the Ryukyu"

Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij

The Definition of gynecocracy is political supremacy of women. "The opposite of androcracy is gynecocracy, sometimes referred to as gynocracy, or rule by women. It is related to but not synonymous with matriarchy."

佐喜眞興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10月26日 - 1925年(大正14年)6月13日)は、沖縄県宜野湾市出身で、民俗学者。「幼少の頃、宜野湾間切の富農の佐喜眞本家の養子となり「1912年、旧制・沖縄県立第一中学 校(現、沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業する」その後(友人の島袋光裕を頼って)上京しした。島袋は「神田三崎町の玉名館に下宿。旅館の女主は青鞜社 同人、女性解放運動に参画した荒木郁子」。1915年(22歳)に第一高等学校独法科を卒業し、東京帝国大学独法科に入学。穂積陳重ほづみ・のぶしげ, 1855-1926)の教えを受ける。

親友に滝川政次郎(たきがわ・まさじろう, 1897-1992)、メンターとして中田薫(なかだ・かおる, 1877-1967)、穂積陳重。穂積陳重は、佐喜真にバハオーフェン(Johann Jakob Bachofen)『母権論』を示唆。しかし、『女人政治考』の原稿に対して陳重は刊行を許さなかったという(比嘉政夫・我部政男編の全集の年譜参照)。

「在学中から柳田國男に目をかけ られた。1921年に帝大を卒業すると、裁判官になり福岡市・東京市・大阪市・岡山 県津山市など各地に赴任。1925年、津山(裁判所勤務時代)にて、肺結核のため31歳で死去。死後、穂積陳重の教えを受けて行った古代母 権制研究が『女人政治考』として出版された。16歳で新城ウタと結婚し一女(貞子、1913-?)をもうけるが28歳の時(1921年9月)に離婚。同 年、大阪婦人新報の記者であった(佐賀出身の)永原マツヨと結婚する。マツヨは学校法人永原学園、佐賀短期大学などの創立者となった」佐喜眞興英

「宜野湾史誌編纂のために、生前のマツヨにあって話 を聞かれた、仲村元惟氏(現普天間第2小学校校長)の話によると「佐喜眞興英が東大卒業後、予備判事として福岡に在勤中に、たまたま同一ホテルで部屋が向 かいであったため、民俗学や英語ドイツ語をマツヨが興英から学ぶ機会を得た」ということです。……マツヨは、民族・民俗学に興味を持っており、興英はすで に1920年(大正9年)に『民族と歴史』に様々な論文を発表していました。  興英は1921年5月から翌年3月まで福岡地方裁判所に勤務しており、マツヨが大阪婦人新報の記者として、何かの取材で福岡に来て知り合ったか、興英に 会うのが目的で訪ねて来たのではないかと私たちは推測しています」末岡暁美「永原マツヨの生い立ち」)

『女人政治考』の執筆には、男女同権、婦人の地位向 上に生涯関心を持ち続けた、永原マツヨとの関係も影響しているはずだ。

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1891 穂積八束「民法出テ、忠孝滅ブ」にて、祖 先教の重要性を説く。

1899 10月ローマで万国東洋学会で穂積陳重英 語で「祖先祭祀と日本法律」とな る内容を講演。——祖先崇拝は祖先への恭順の念から生まれたと主張。

1911 明治天皇皇后へのご進講において穂積八 束、クラーンジェ『古代都市』を引きながら、忠孝ノ大義を説く。

1917 穂積陳重『祖先祭祀と日本法律』穂積厳夫訳、有 斐閣

1919 穂積陳重は大正天皇へのご進講「祭祀と政 治法律の関係」において、祖先崇拝が団結の中心であり、タルドの模倣法則から我々の生活は祖先行為の模倣と論じる。

1926 佐喜真興英『女人政治考:人類原始規範の 研究 』岡書院。柳田國男は序文でバハオーフェン「母権論」に言及。

1940 柳田國男『妹の力

伊波普猷『沖縄女性史』1918

佐喜真興英『女人政治考』1925にか んする、渡邊欣雄先生の論評
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(母系親族・母権制・女治を史実である とする理論)「その典型例は、佐 喜真興英の労作であろう。かれの大著『女人政治考』〔一九二五〕は、沖縄研究のひとつと してよりも、民族学や社会人類学の学説史のなかに位置づけてよい幅ひろい内容をもった書である。かれはその 著のなかで、さまざまな未聞社会の資料と当時の学説から、《女人政治》gynecocracyの存在を主張しただけで なく、かれの定義でいうところの母権制や母系制の存在を主張している。論述の基点たるものは、バッホーフェン やマクレナン(J.F. McLennan)の唱えた女治論によっているが、しかし決してかれらの学説をそのまま導入 することなく、佐喜真なりの定説をそこにうちだしている。しかも女治論一辺倒ではなく一九世紀後期にことに 論議をよんだ、父権=父系制先行説や女治学説批判をも吟味し、それらの異説を踏まえて女治・母権・母系の存 在説あるいは先行説をうちだしている点、傾聴に価する多くの指摘をみる」(渡邊 1985:15)。
女治(Gynaikokratie, Gynecocracy)は、佐喜真の造語
バッホーフェン(=バハオーフェン) やマクレナン(J.F. McLennan)
「佐喜真の唱える女治とは何であり、母 権とは何であり、母系とは何であろうか。女治とは、「女性のmagico- religious の能力に基づく、女性政治」〔一九二五一三〕であり、「従来の女治観 念から権力観念を除くことが茲(ここ) に云う女治の理解に必要である」〔一九二五一三〕と佐喜真はいう。同様に母権とは、「家又は族内における女性 の規範、それに基づく優秀を意味する」〔一九二五一五〕とする。女治・母権の定義はこうしてバッホーフェン のものでもマクレナンのものでもなく、従来の規定をかれは古義のものとしてうけつけない。佐喜真のそれは、 支配権や権力や政治法的権利を意味しないか第一義とはせず、もっぱら呪術- 宗教的な基盤のうえに成立する権 利を意味するのだというのである。さらに母系とは、「親族関係は母の血を流れるとな す制度」〔一九二五:一六〕 であるとする。この定義は現代においてはきわめてあいまいであるといわざるをえないが、今日にいう母系の出 自観念を意味すると解しておこう。佐喜真の主張のなかで、これら三者の概念の関係は、女治概念が狭義の女治 となっており、これに母権の概念があわさって広義の女治となり、さらに母系の概念がその形式的側面となる、 というように構成されている」(渡邊 1985:15-16)。
「バッホーフェンの母権論は、古代諸民 族の神話伝説をその素材とし、乱婚制の必然的帰結により母権や母系が 存在し、さらに乱婚制から夫婦の排他的関係に移行する第二段階において、女治があらわれるという説であった 〔江守五夫1965:16-17〕。乱婚制のもとでは父は認知されておらず、生みの親である母のみが認知 された存在であるので、母は子供たちから高い尊敬をうけ、さらにこのような尊敬、が女性の社会的・政治的権威 につながり女治を成立させるという〔江守五夫一九六五:43−45〕。バッホーフェンの論拠は神話上の大 地と穀物豊僕の神であり、神話の叙述を史実としたことにある。佐喜真の諸定義は、バッホーフェンのそれとい ささか異なるとはいえ、佐喜真の論拠もまた、沖縄の歌謡や史書・説話であり、さらには民俗用語でさえあった。 沖縄の歌謡「おもろ」には、女司祭者の最高位にあった聞得大君を称えるさまざまな節、がみえる。それを素材と して佐喜真は聞得大君の「独自神授」をみた。そして、アンズ〔按司=地方領主〕の語源が元来は女性をしめす ものだとし、史書にはあらわれない往古の沖縄の女治の存在を認めた。さらに史書・伝承資料をもとにしながら、 沖縄に母権制が存在したことを主張しようとする」(渡邊 1985:16)。
「「女治官たるのろの家に於ては、近世 まで完全に母権制が行はれた。姓も固より妻たるのろの姓によって維持さ れ、財産の処分権、子女運命決定権も皆のろが是を有した」(1925:102)。このような主張の事例として、 久高島の例をとりあげる。久高島では、土地処分に関して男子が共有地の私有を集会で決議したものを、女子が さらに会合をもってこのような制度変更を思いとどまらせたという。さらに佐喜真は民俗用語の用法からも母権 制を推察する。宮古・八重山地域では、個人は父方の側、母方の側の双方からの呼称をもっているが、その呼称 において母方のほうが名実ともに親らしい主張をともなうものであったということ、および一夫多妻制がこれら の地域にかつてはありながら、それは妻方居住をともなっていたということ、それらの例からもさらに、母権制 の存在を主張できるとするのである」(渡邊 1985:17)。
「別の段で「のろの夫たるは小使いであ り奴僕であった」とさえ断ずる佐喜真の事例をあげての主張は、先にみ た佐喜真の母権の概念にいささかの齟齬を認めないわけにはいかないが、女性固有の呪術=宗教的能力を基幹と する女性の規範と、それにもとづく女性の地位の優秀は、沖縄の過去および現在に残存する習俗を例証すること で、佐喜真にとっては明白なことであった。ただし現在の学説では、佐喜真のあげた事例をもってしても女治・ 母権の存在証明にはならないことが、後述することであきらかである」(渡邊 1985:17)。
「さらに母系制の存在に関して、それが 近ごろまで沖縄にあったことを、佐喜真はつぎのように例証する。「久 高島や津堅島国頭郡の或る地方に於てはのろの家は女子から女子へ伝った。……中頭郡島尻郡等割合に首里の都 に近く開化した地方に於てはのろ職は姪から姪へと伝った。……(さらに)……のろの新しい相続制度は嫁相続 であった」〔一九二五:127-128〕。佐喜真の考えた母系的相続制度の最古のものは、久高島その他にみら れたような女子(母)から女子(娘)への職掌の継承であった。そしてやがて制度は中頭郡その他の例のように 姪から姪へと伝えるものとなった。さらに後代になって制度は姑から嫁へと伝える嫁相続の形態となった。佐喜 真の女治・母権の存在に関する主張とはちがって、母系の型、いなむしろ職掌の継承法、が多様であることはこれ/ までにも多くの報告があり〔要約されたもの=植松明石一九七一198,226〕、継承の方としてみるな らば、佐喜真の指摘したいずれの型も沖縄各地に現存している。しかし佐喜真の説明する歴史的変遷はもとより、 事例分析においても母系制の存在を証すにはなお不十分であり、矛盾もまぬがれない」(渡邊 1985:17-18)。
「佐喜真の比較民族学的検討は、今日よ りみても労作と評価するに十分なものである。しかし今日これをもって 沖縄に母権=母系制さらには女治の存在を主張しようとする民俗学者・社会人類学者は稀れである。たしかに沖 縄において、女司祭者や亙女あるいは女性が、呪術=宗教的存在として認識されていることは、沖縄に特徴的な 「オナリ神信仰ヘすなわち兄弟や子供に対する姉妹、あるいは父方オバの呪術=宗教的な存在、呪的・霊的な 存在を説いた多くの著作にあきらかである〔伊波普猷 1971:373-384、馬淵東一一九五五a:79-91 、一九六八: 669-698、瀬川清子一九六九: 136-156、植松明石一九七一:187-289、など〕。こうした一連の著作からも、沖縄の女性の呪的・霊的優越は否定できない事実と したがって佐喜真の示唆した女性のmagico-religiousな能力、が、沖縄のひとびとのあいだで認識されているこ とは疑う余地がない。がはたして、このような女性固有の能力が女治・母権・母系の広汎な存在 実であるかというと、きわめて問題が多くなる」(渡邊 1985:18)。
「佐喜真の主張のなかで、まずもって理 にかなわないのは、「のろ」といわれる女司祭者の分析である。佐喜真 は一方で「のろ」の婚姻の事実を認めながら、他方でかの女が処女でなくてはならぬことを認めている。宗教的観 念にともなう処女性がもしもかつての沖縄に広汎で徹底していたとするならば、職掌の母系継承はどのようにな されたであろうか。処女性が徹底していたとするならば、原則的には佐喜真の指摘した女子(母)から女子(娘) への沖縄最古の継承法は存在しなかったにちがいない。職掌の継承を佐喜真の考える「家」にこだわらず、処女 性の存在を条件としてさらに継承の可能性を考えると、女司祭者の職掌は姉妹の娘へとうけつがれる可能性があ る。佐喜真の指摘にしたがえば、この可能性は姪から姪への継承という類型に属するといえるわけであるが、姪 から姪への継承は同時に兄弟の娘への継承の可能性をもふくんでおり、佐喜真の説明では不十分であり、かつま た矛盾をまぬがれない 」(渡邊 1985:18-19)。
「母権制の存在にしてもまた然りであ る。女司祭者の職田や家屋日祝女殿内などの処分権は女司祭者自身が保有 するにしても、はたしてそれはかつての沖縄の女性に広汎な権利であったかどうか。女司祭者のもつこのような 処分権が、一般の女性のもつ家または族内の財産の処分権の普遍的存在を意味したかどうか。久高島の例などは もっぱら女性の宗教的権限の範囲内で行なわれうるものであり、久高島の村落統治の機構に触れないかぎり、女 治・母権の存在をあかしたとはいえない。さらに家田長制といったバッホーフェンその他の学説の基幹部分に依 拠していないので、宗教生活をのぞいた他の社会生活に関しては、佐喜真の母権論はおそらく援用できないであ ろう。《女治》とまでいうには、事例はほど遠いし誤解をうけやすい。佐喜真がよりどころとした歌謡はあくま でも歌謡であり、史実であるとはいえない。今日からみれば佐喜真の事例説明のすべては母権とはいいがたく女 性の霊的優越を示したものにすぎず、かつての沖縄で母系が単一にして広汎であったのではなく、こと職掌の継 承としては母系継承も父系継承もありえたと考えたほうがより妥当であると思われる。現在の事例にみるかぎり 母系よりも父系内のオバ→メイ継承がいちじるしい。女治という概念も、女司祭者の組織機能と解したほうがわ かりやすく誤解もない。さらに女司祭者の組織、がはたしてどれほど古代のものであったかも、まったく推定の域 を出ていない。このような筆者の古代母権制を主張する学者への反駁は、佐喜真その他の先学にあてたものとは かぎらず、後述するように今日の学者にも向けられたものである。/ 佐喜真興英の労作は、超えようとしてなかなか超えがたい当時の優秀な民族学的研究である」

バッハオーフェンの文化進化の4段階説(出典:ウィ キペディア「J・J・バッハオーフェン」)

1. Hetairism, Haeterismus;母権制前の乱婚の段階。プロトアプロディーテーを土着の支配的神と考えた。

2. Das Mutterecht;母権制。農業に基づく、常習的な神秘的カルトと法律の出現と一夫一婦制かつ女性支配の「月の」段階。初期のデメテルを支配的神と考 えた。

3. Dionysian;家長制度が誕生し始めた ため父権化する。オリジナルのディオニュソスを支配的神と考えた。

4. Apollonian;過去の Matriarchal と Dionysian のすべての痕跡が消える。そして、現代の文明があらわれてくる父権的な「太陽の」段階。

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