はじめによんでください

ハームリダクション研究2023

A Study on harm reduction in Japan

徐 淑子・池田光穂

★以下の文章は、科学研究費補助金プロジェク ト「」からの引用である。その文書を英語とのバイリンガルで表現するのがこのHPの目的である。それぞれの文章の著作権は、各研究者に帰属します。

ハーム・リダクション(危害低減)は1980年代に創始された薬物使用 者支援アプローチである。このアプローチの、日本を含む東アジア地域での受け入れとローカライゼーションについてドキュメント分析および訪問調査にもとづ き明らかにした。その結果、それぞれの国・地域で、国際機関等によって提案される「標準的」実践だけでなく、薬物問題単体ではない複数の保健医療福祉的課 題を統合するプログラムを画策する傾向が示唆された。日本では、医療内実践の中にハームリダクションを統合する動きが注目された。
Harm reduction is an approach for help drug users to protect their health that dates back in 1980’s Europe. How was the idea of harm reduction introduced and accepted to Japan and other Asian countries? This study investigated the acceptance and localization of this approach in the East Asian region, including Japan, focusing on the process of “translative adaptation” . For this purpose, we conducted field survey in Japan and several Asian and European countries. In each country, integrative programs are likely to be appreciated rather than single issue intervention program. In Japan, there has been notable attention to integrating harm reduction within medical practices.
研究成果の学術的意義や社会的意義
本研究でとりあつかうハームリダクション・アプローチは、日本では、その存在は知られているが医療および公衆衛生実践において、公式的には取り入れられて いない。また、薬物問題の規模の大きな国の対策というイメージもある。本研究では、薬物をめぐる社会的価値、法制度や、薬物問題の傾向が日本と近似するア ジアの国々との比較を行った。研究をとおして情報の環流を行い、ハームリダクションやその他の薬物対策、薬物使用者支援のあり方についての社会的議論、こ とに治療やケアのオプションを拡大することについての基礎資料および視点を提供した。

1.研究開始当初の背景
ハーム・リダクションとは、1980 年代のヨーロッパに始まった、薬物使用(依存)者支援アプローチである。「危害低減」を意味し、個人の健康リスク行動(例えば、麻薬の摂取)を完全排除す ることより先に、目前にある健康被害(例:麻薬注射の回し打ちによるHIV や肝炎ウィルスへの感染)を重視し、それをできうる限り少なくすることを介入目標とする施策のあり方を指す。このアプローチの有効性は、HIV 感染率の低下、薬物関連死の減少、依存症者の年間医療費の減少、薬物依存者の受療行動の増加など数々の指標によって確かめられている。また、採用国の多く で、依存症の問題をもつホームレス者の対策拡充、刑務所での矯正治療の縮小につながる等、社会的影響の範囲も広い。その結果、現在では、2016 年の国連薬物問題特別総会でも支持される薬物対策のグローバル・スタンダードとなった。ところが、日本や韓国のように、その導入に消極的な姿勢を見せる少 数の国があり、中国やヴェトナム、台湾のように、施策導入はされているものの、その後の拡がりに勢いのない国がある。そして、他方、日本では、薬物対策と してのハーム・リダクションは広がっていないが、喫煙対策やアルコール依存症の治療などで、ハーム・リダクションの考え方が取り入れられつつある。このよ うな、取捨選択の違いはどこからくるのか。これらのことがらを背景に、本研究課題の構想を得た。

2.研究の目的
本研究は、ハーム・リダクション・アプローチの、日本を含む、東アジア地域での受け入れとローカライゼーションの状況について、多種多様な情報源の収集と 分析によって、明らかにするものである。東アジアでの状況を検討する際、ハーム・リダクションの早期採用地域である欧州(オランダ等)を参照事例とした。 研究結果を、日本を含む東アジアにおける、依存症ケアや薬物対策へのオプションを増やすための議論の活性化に資することとした。

3.研究の方法
研究は、以下の活動の複合として行った。研究活動は、研究代表者と研究分担者がそれぞれ当分に担当した。①資料・文献の精査による制度論的比較。②文献、 国内外の学術会議・実践者会議への参加、およびオンライン上の情報の収集。③ ②の情報に基づく、対象フィールド地における事例の収集。④実践プログラムおよび実践者の訪問による資料収集とインタビュー。⑤収集した情報にもどづくド キュメント分析。当初の研究期間後半にCOVID-19 の世界的流行が始まり、予定していた現地訪問調査が遂行できなくなり、インターネット上の資料やオンライン会合によるデータ収集方法に変更、活用した。

4.研究成果
1)2018 年度から2022 年度までの間に、文献・資料調査の他、研究代表者・徐および研究分担者・池田がそれぞれ分担して訪問調査を行った。訪問調査は2020 年1 月までの間に、日本国内、韓国、台湾、オランダ、ベルギー、ポーランド、2023 年3 月に後続科研の調査と併せてカンボジアで行った。それぞれの訪問地で行政、医療機関、NGO/CBO、当事者団体(のべ23 ヶ所)を訪問し、情報提供を受けた。2020 年3 月の2 回目の訪韓調査をコロナ流行により中止し、訪問予定者とオンライン会議により情報提供を受けた。

2)研究分担者・池田は、韓国他、台湾など東アジア地域における薬物問 題の歴史的経過についての基礎資料を整理し、ドキュメント・アーカイブを作成してその成果の一部をインターネット上で公開した。

3)研究代表者・徐は、本研究の理論的フレームワークである「翻訳的適 応」について、文化伝播理論、イノベーション伝播理論、グローバライゼーションにおける文化変容の立場から整理した。1990 年代以前の文化変容論はヒト・モノ・情報の世界的移動による文化接触による「均質化」(例えば、ジョージ・リッツァの「マクドナル化」理論とマックス・ ウェーバー的合理化プロセスの進行)を強調している。近年の「グローカル」研究は、その点に不備を見いだし、いわゆる「世界水準」というグローバル文化 と、ローカル文化の双方向的な影響関係に焦点を当てている。「グローバル・スタンダード」による現行の実践への影響を、既存システムへの侵食(「文化伝 播」つまり中心から周辺への広がり)ではなく、「グローカライゼーション(受け入れ側の選好と翻案加工を経た定着)」という一種の適応型と捉えることに注 目するという特徴があった。

4)調査で収集した情報を分析した結果、以下のことが明らかになった。 HIV/AIDS 対策や薬物政策における「ハームリダクション」は、世界保健機関WHO や国連薬物犯罪事務所UNODC、Harm Reduction International などの国際NGO とその下部組織によって公式的に定義づけられ、ガイドライン、ベストプラクティス手引き書、専門家研修等、普及に適したかたちでの、「標準化」された形態 がある。その一方で、およそ30 年の歴史をもつハームリダクションの発想を活かしながら、情報化の加速する状況に即した新たな介入プログラムを考案し(「ハームリダクション2.0」)、 実践する動きがヨーロッパ・北米、オセアニアを中心に活発化していた。訪問調査を行ったオランダ・ベルギー等では、従来の注射使用者介入モデルの他、ナイ トライフモデル、ケムセックスモデル、ダークウェブを通したサイバーアウトリーチ等の新しい形のハームリダクションプログラムが立ち上がっていた。同じ EU 加盟国でも、国によって、薬物政策や薬物使用者支援の方向性は異なり、今回の訪問地ではポーランド(ヘロイン使用の問題はEU 加盟国の中では小さく、大麻および覚醒剤の使用が多い)ではやや厳しめの政策を敷いていた。

5)各国の状況については、以下の事柄があきらかになった。まず、日本 では、HIV 分野の専門家間では、諸外国でハームリダクションの考えにもとづく介入プログラムが一定の効果を挙げていることは、1994 年第10 回国際エイズ会議前後にはすでに知られていた。ハーム・リダクションを日本の薬物施策の状況と併せて検討する動きは、2010 年ごろから専門文献・記録物等が確認され、2016 年以降は、依存症の専門学会等でハームリダクションをテーマとしたシンポジウム、分科会が開催されるようになった。日本におけるハームリダクションについ ての言説は、「現実追認」「本末転倒」といった否定的なものから、「人間として当たり前の権利にかかわるものである」「個人レベルでならハーム・リダク ションに近いことをやっている」といった肯定的なものまで多様であったが、日本の状況に合わせてハーム・リダクションを捉える「独自定義」、「覚せい剤の 薬物療法は確立していないため、ハーム・リダクションはできない」のように、ハームリダクションを代替薬物による維持療法に限定してとらえる考え、「断薬 より大切なものがある」など断薬との対比でハームリダクションを捉える考え方、「ハーム・リダクションは仲間やその他の人との「つながり」をつくる」な ど、ハームリダクションの効果を広く捉える考え方などが見られた。2018 年から5 年間の研究期間中、HIV 分野の実践者・研究者とアルコール・薬物分野の実践者・研究者との間の連携の進展が見られた。また、アディクション医療の専門家が「ハームリダクション心 理療法」を翻訳出版、学会シンポジウム等をとして紹介する動きがあり、公衆衛生施策ではない形でのハームリダクション画策の方向性として注目された。

6)訪問調査を行った韓国、台湾、カンボジアのうち、韓国では、日本と 同様に、禁止主義的な薬物政策が採られており、医療および社会的ケアも断薬を基盤に提供されていた。韓国でのハームリダクション的実践は、HIV 予防の文脈でMSM(男性と性行為をする男性)を主たる対象とするケムセックスモデルによる啓発プログラムが、当事者団体によって実施されていた。広域展 開する規模ではなく、都市部に限定されているが、働きかけの対象(キーポピュレーション)を明確にした効果的な活動として評価されていた。台湾では、戦前 からのアヘン問題を背景に、ハームリダクションの重要性が認識されていたが、HIV 政策そして、LGBT ムーブメントと合流して、東南・東アジア諸国にたいするモデルプログラム的な実践を多く展開していた。カンボジアでは、2006 年よりハームリダクションをHIV 対策として導入している。カンボジアはHIV 流行を効果的に行っている国の一つであるが、ハームリダクションを含む薬物使用者支援は、HIV 対策としての位置付けを得ることによって、安定した資金を獲得しているとのことであった。訪問調査を行った国々の状況から、薬物使用者支援単体でのプログ ラムというより、クライアント中心的にニーズをとらえる複合型のモデルが、多く取り入れられていることが示唆された。
※ケムセックス:ケミカル・プラス・セックス。薬物を利用したセックスで生命と健康にとって危険なものになりやすい。

7)コロナ流行の影響下、研究計画の変更・再調整を行ったが、2018 年度から2022 年度までの間に、研究班(研究代表者1名、研究分担者1名、計2名)は6 点の学術論文(うちオープンアクセス4 件、査読あり論文3 件、招待あり2 件)、学会発表11 件(うち国際学会3 件、招待講演2 件)、関連図書(翻訳書等)2件を、研究成果として発表することができた。ハームリダクションについての書籍執筆に着手したが、刊行まで至らなかったた め、研究代表者・徐の後続科研の成果と統合する形での出版計画とする。2018 年度に、アルコール・薬物医学国際学会にて、日本における薬物使用者支援についてのシンポジウムの企画を研究代表者・徐が行った他、2020 年度の日本エイズ学会大会で、ハームリダクションをテーマにしたシンポジウムを企画した。2021 年度は、日本精神・神経学会におけるハームリダクションをテーマにするシンポジウムにて研究成果を発表した。その他、研究代表者・研究分担者ともに専門商 業誌への寄稿論文の発表、メディアへの取材協力を行った。これらの活動をとおして、当研究課題の目標のひとつ、依存症ケアや薬物対策へのオプションを増や すための社会的議論の活性化に尽力した。

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