はじめによんでね

近藤日出造の戦後

Cartoonist, Mr.Hidezo Kondo in post-war days

"We Japanese have just now undergone the most painful of hardships, that of being defeated in war. Our houses were burned down, and many of our fellow countrymen have died. As a result, we have been granted something precious. This time for certain, no matter what happens, we the citizens of Japan with all our might must protect it and defend it against violation.- A woman with 憲法 (Kenpō) [Constitution] written on her clothing holds a baby labeled 基本的人権 (Kihonteki jinken) [basic human rights]. The mother and child resemble medieval Christian representations of the Virgin Mary and Baby Jesus in their dress, facial features, and halos around their heads. This symbolizes the constitution protecting basic human rights for Japanese citizens." ca. 1947, Alfred Hussey Collection -Hidezo Kondo.(近藤日出造).

Mr. Hidezo KONDO (1908-1979) was a famous political cartoonist during and after the WW2.

以下はウィキペディア「近藤日出造」からの抜粋である

1908 2月18日長野県更級郡稲荷山町にうまれる

1917 岡本一平、平福百穂、下川凹天ら、「東京漫画会」(後の日本漫画会)系の漫画家によって、「漫画社」の雑誌『漫画』の創刊。

1921 東京・浅草に住む叔父(母の弟)の紹介で、日本橋三越図書部の店員、半年足らずで脚気をわずらい、帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として奉公に入るがこれもすぐに辞す。

1928 東京美術学校(美校)への入学を目指し上京。資格なく入学できず、宮尾しげをを通じて岡本一平を紹介され、岡本の「一平塾」に入門、同窓だった矢崎茂四にゲオルグ・グロッスの画集を見せられ、強い影響を受ける

1928 東浦漫画製作所で短期間アニメーションの制作に従事

1929 杉浦幸雄が「一平塾」に入門、近藤秀三の名で第4次『東京パック』昭和4年2月号に寄稿して実質的なプロデビュー、直後に、近藤日出造に改名。『月刊マンガ・マン』に移って、漫画執筆のほか編集にたずさわる。

1930 『九州日報』の嘱託となり、初めて政治漫画を描く

1932 近藤、杉浦、横山ら若手漫画家たちは、雑誌連載のチャンスを求め、「新漫画派集団」を結成

1933 読売新聞社の嘱託となって、『読売新聞』の政治漫画を担当

1938 読売新聞社を退社し、以降は同紙にフリーの立場で寄稿

1940 

「若手漫画家グループの「新鋭漫画グループ」および 「三光漫画スタジオ」のメンバーが「新漫画派集団」の事務所をおとずれ、今後の生活の不安を近藤らに訴え、「新日本漫画家協会」を結成。大政翼賛会の文化 部長だった岸田國士が、近藤と横山隆一に副部長の就任要請を出した際には、これをことわる。

(年代不詳)

「大政翼賛会や海軍の印刷物の発注先だった「協栄印 刷」[22]の経営者・菅生定祥(すがおい さだよし)は、翼賛会宣伝部の川本信正から「なんとかならないか[24]」と、『漫画』の経営再建を依頼された。別に、第一徴兵保険(東邦生命の前身)に 勤務しながら『銀座』というファッション雑誌を発行していた、漫画愛好家の山下善吉が、総合漫画雑誌を作る計画を持っていた[22]。この話を持ち込まれ た新漫画派集団の誰かが、雑誌を新日本漫画家協会の機関誌として創刊するなら、用紙の確保や発刊が容易だろうと考え、アイデアを山下に提案したとみられて いる[22]。やがてこれらの異なった計画が組み合わさり、『漫画』に近藤を編集統括者として迎え、新たに新日本漫画家協会の機関誌として発刊していくこ ととなった」

1940 山下善吉編集の『漫画』は10月に刊行を開始

1941 『漫画』経営破綻の状態に。菅生によって合資会社「漫画社」が新たに設立。7月号から表紙に「大政翼賛会宣伝部推薦」の表記が入り、さらに翌月には「新日本漫画家協会機関誌」の表記が消えた。

1941 『漫画』には、「眼で見る時局雑誌」が冠されるようになる。

左:満州国総理(1935-1945)張景恵(大東亜会議1943年11月の前頃か?)/右:ヨーゼフ・ゲッベルス(第11巻第10号1943年10月号)

「『漫画』誌上で近藤は、得意の似顔絵を用いてルー ズベルト、チャーチルなど連合国軍の首脳[9]を徹底的に攻撃する一方、同盟国のドイツのゲッベルスらを賞賛する漫画を描いた。『漫画』には似顔漫画の 他、将校待遇の記者として派遣された漫画家が戦地の様子を描いたルポルタージュ漫画、軍人や高級官僚らとの対談記事[9]などが掲載された。」

1943 近藤は「大東亜漫画研究所」の結成に関わる

【大東亜漫画研究所】「海軍報道部の依頼による、宣 伝工作のための協力機関[22]であったが、漫画界の長老グループによる「日本漫画奉公会」の活動に対する、若手・中堅グループの反抗という側面や、「漫 画社」の設立にともなって再度バラバラになっていた集団、三光、新鋭、「漫画協団」といった各グループの再合同の側面を含んでいた[22]。陸軍報道部側 の団体として「報道漫画研究会」も作られ、ほぼ同一のメンバーが加入」

1944 9月、家族を長野県上田市に疎開させる。自身は東京・芝神谷町の借家で、那須良輔、横井福次郎、和田義三らと共同生活を送る。11月29日の空襲によって協栄印刷が破壊さる。

1945 3月10日未明の東京大空襲で焼け出され、上田に疎開。7月応召され、熊本の臨時編成部隊に配属。8月16日ひそかに部隊から脱走し、上田に戻る。

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1945 「新漫画派集団」の後身として「漫画集団」を結成。12月から、同盟通信社出身者によって創刊された新聞『民報』の嘱託。

1946 

東條英機が檻に閉じ込められているもの『漫画』に掲載する。『漫画』は近藤主宰の漫画雑誌として刷新され、加藤芳郎[28]、西川辰美、横山泰三[29]ら、戦後に活動する漫画家たちの登竜門となった。両手のない昭和天皇を描いた似顔漫画を書き、同紙の発禁処分。

1947 10月に読売に再入社(1976年まで『読売新聞』政治面の政治漫画を描き続けた)

日本幻燈株式会社のスライドより(Alfred Hussey Collection, "Birth of the Costitution of Japan")

木本至「吉田政権が固まると、根が保守だけに毒が薄れていく」と後に近藤を批判。

1951 カストリ雑誌の隆盛にともなう出版不況のあおりを受けて『漫画』休刊。

1964 日本漫画家協会初代理事長に就任。

1965 漫画科(通称「漫画学校」)が創設された専修学校・東京デザインカレッジの理事兼特別講師に就任。

1967 近藤と、当時「三協美術印刷」を経営していた菅生は年末に新生「漫画社」から『漫画』を復刊

1968 復刊版『漫画』廃刊、「漫画社」は2000万の負債を抱える。その後、自ら社主として「漫画アイデアセンター」を新たに設立する。

1968頃? 

東京デザインカレッジの元役員の放漫経営が発覚[40]。3億5000万円にのぼる負債を抱えていることが判明したうえ、残された理事がいつの間にか連帯保証人にされ、近藤を含めて1人あたり3000万円の借金を返す算段に迫られた(同校は1969年末に倒産)

1969-1970 近藤個人による長期連載の仕事が相次いで終了。「笹川良一を通じ、自由民主党とのあいだで、党が近藤らの作った冊子を買い取って負債を補填する計画」

1969 近藤、杉浦、那須、牧野圭一、大下健一の執筆による漫画パンフレット『安保がわかる』が発行された。『安保がわかる』は「買い取り定価を50円程度に設定し、80万部出版し、全国の図書館・学校のほか、財界や宗教団体に行き渡った

1971 政界向けの公害問題パンフレット『猿の鼻毛』

1972 民社党の政策集『心配にっぽん、この道がある』。

この年、「漫画社」を再建、集団メンバーのうち杉浦幸雄と横山隆一が取締役、鈴木義司、富永一朗らが株主となる。牧野圭一と加藤芳郎はのちに株式を手放し、漫画社との関係を絶つ。

1973 外務省広報課パンフレット『これからの日本外交 大平外務大臣に聞く』。次男を亡くす。

1974 電気事業連合会(電事連)のパンフレット『電気は心:原子力発電を考える』から、原子力関連の広報にかかわる。

以降、「漫画社」は電事連の事実上の窓口となり、年間150万円の看板料で「漫画集団」メンバーに、広報のための漫画やカットを請け負わせた

1975 日本クリーニング(漫画社 1975)

1976 公共メーター 受益者の義務(漫画社)

1月読売新聞社近くのレストランで夕食をとっている最中に脳卒中で倒れ、慈恵医大病院に運ばれる、利き手[47]側の右半身麻痺と言語障害の後遺症が残り、5月に日本漫画家協会理事長を辞任。9月に読売を退社。

1978 妻を亡くす。

1979 肺炎のため転院先の東京・江古田の武蔵野療園病院で71歳で死去。死後、横山隆一の次男によって自叙伝の草稿が発見され、『近藤日出造の世界』にその多くが収録される。

1984-2007 読売国際漫画大賞(Yomiuri International Cartoon Contest)には、副賞にあたる「近藤日出造賞」が併設。

1990 千曲市ふる里漫画館開館(近藤日出造の作品・資料約4,000点を所蔵し常設展示)

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リンク

文献

その他の情報


近藤日出造『ユカイナドウブツ』漫画社、20.pp., 1945年11月

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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