独我論、あるいは毒蛾論の迷宮
Can a moth have a toxic idea ? or Solipsism
独 我論(Solipsism、ソリプシズム)とは自分の心だけが確実に存在するものだとする哲学的立場のこと。独我論によると、自分の心以外から去来するあ らゆる(心の)外部の考えも不確実であるとみなす。この考え方を敷衍すると、独我論者にとって、自分の心だけが頼りになり、他者の心と心の中のものは信頼 性がおけないものになる。独我論を極端にすすめると自分だけの存在と認識を認める大変狭量で尊大な思想となるが、実際にその通りである。ただし、このよう な強い独我論者は実際には存在できない(独我論者になる前に母親ないしは乳母からの栄養に依存した過去やそこから自分の身体が形成されたことを否定し、未 来に対しても他者に愛しまれケアされることを完全に否定することになるからだ)。
他方、(元祖はバークリーながら)近代のもっとも著名な独我論テーゼ、つまりデカルト(1596-1650)の「我思う故に我有り(cogito ergo sum)」は、独我論的懐疑ともいわれるが、思考過程における真偽の二元論からプログラムをたてるゆえに、近代の理性的概念の粋ともいわれ、人類にとって有用な思考法のひとつである。
独我論の元祖は、デカルトの死後35年もたって生まれたアイルランドの哲学者ジョージ・バークリー George Berkeley, 1685-1753、といわれる。彼は、(自己の)存在とは知覚することだ(Esse est percipi)という命題を提起したが、このような思考の条件を極小化することで、議論を単純にするという点で、明晰さを担保することができる。ただし 「世界は観念であり、たとえば私が目の前の机を叩いてその硬さを認識したとしても、「机の固さ」としてではなく、「知覚として」認識しているわけであり、 「机自体」を認識していることにはならない」バークリーの項)という奴が隣人いたら、単なる(懐疑論に凝 り固まった)変人か、妙に尊大な奴だなと思われるだけである。だが、ここで重要なことは、私の心(マインド、精神)の重要性であり、(我々は今なら生きて いる時間の相にのみと条件をつけそうだが)心の不滅性や実体の確証を主張するクリアな思考であることがわかる。
他我(自分以外の同じ自我)を否定する。(→「感覚与件(センス・データ)」)
George Berkeley, 1685-1753
マックス・シュティルナー Max Stirner, 1806-1856
実践的に個的自我に唯一絶対の価値がある。
ここからが他我を認める議論である が、それが独我論の系譜 に連なるのか(=他我を認めるためには、独我論を論破しておかねばならないから)、独我論を批判する系列にあるのか(=参照文献の記載は(1)バーク リー、(2)シュティルナー、(3)以下の連中、という記載方式になっているので、記述のスタイルからは独我論の変種と思われるような書き方である)、我 が尊敬する加藤先生の解説はよくわからない。まったく独我論的記述ではある。
エドムンド・フッサール Edmund Husserl, 1859-1938
他我を認めるために、身体・行為・言語を媒介にして自我との類推から他我を構成する。(類比説という らしい)
だが彼はなぜ他我を認める必要があると考えたの か?
フッサール『デカルト的省察』には、この方法の出発点は、独我論的自我学(英訳: solipsistical egology)とよべる立場で、この主観化の方法の徹底を表現している。[「独我論的に制限された自我論」岩波文庫版、p.277]
ジャン=ポール・サルトル Jean-Paul Sartre, 1905-80
「他我が存在することは、自負や恥じらいの感情でわかるだろう!」(わかるはずだ——直証説)
※分かりやすい——分からないではない——が、かなり強引な主張。だが、日常を生きるには、これで十 分だという気もする。
※
モーリス・メルロ=ポンティMaurice Merleau-Ponty ,1908-61
特定の自己ではない「ひと」を根本におく(共同主観説)。
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