医療人類学入門:問題の所在
医療人類学とは、人間の諸活動における「医療」を文化人類学的な立場から研究調査する学問的実践のことである。しかし、これではあまりにも 抽象的で具体的に何を実践するかが不明瞭だ。また「医療」とは何かをめぐっても一書をなすほどの説明もいるだろう。そして人類学にもさまざまな学派や立場 があることは、本をひもとけば誰でもわかることだ。日本で医療人類学の名は、波平恵美子先生の一連の著作やフォスターとアンダーソンの教科書『医療人類 学』の翻訳のおかげで、人類学者のみならず社会問題に関心のある医療関係者のあいだでは広く知られ、また多くの人に興味を持たれるところとなった。にもか かわらず、医療人類学というものが一般によく理解されているとは言いがたい。もちろんこれは日本だけの状況だけではないらしい。医療人類学の会長を歴任さ れ日本を主要なフィールドとされているカナダの人類学者であるM・ロック先生によると、英米圏でも事情は同じとのことである。
◆1990年代の医療人類学の標準的なテキスト(3冊)
Foster, G.M. and B.G. Anderson. 1978. Medical Anthropology. New York.
フォスターとアンダーソン『医療人類学』中川米造監訳、リブロポート、1987年[この出版社は消滅し、本は絶版です。英語版も入 手困難です。現在改訳版の出版を検討中]。原著は下記です。
McElroy, A. and P.K. Townsend. 1985. Medical Anthropology in Ecological Perspective. New York.
大修館書店から翻訳があります。邦題は『医療人類学』ですが、正しくは『生態学的アプローチにおける医療人類学』で、まさに、生態 学アプローチから医療人類学に入門する人にうってつけの本です。マックロイとタウンゼンドは、生態学中心主義のドグマを繰り返しているのではなく、生態学 から保健の政治経済学にいたる道筋を事例を通してきちんと検証しています。
Helman, C.G. 1994. Culture, Health and Illness. 3rd edition. London
英国の臨床家で医療人類学のヘルマンの名著。北米流の病院中心の臨床人類学というよりも、よりプライマリヘルスケア指向をした認知 的傾向を強く押し出した書です。何度も翻訳の噂が流れてきましたが、未だ邦訳が出ていません。
私は、経験的事実よりも理念を先行させる類の学問の定義に組みするつもりはない。したがって、医療人類学を説明する際に、この学問がどのよ うなジャンルとして把握され研究されてきたのか、という事実に即した解説をおこないたい。
今日、我々が「医療人類学」(medical anthropology)と呼んでいる学問的パラダイムは、1960年代の終わりにアメリカ合衆国のおもに文化人類学者と医学研究者を中心とする人たち によって確立された。この医療人類学という用語をどのように定義し、どのような具体的方法をもって研究していこうかという議論は、1960年代末の発足当 時から今日にいたるまで続いている。明確な目的と方法論に裏づけられた医療人類学者たちの具体的な著作や論文が、社会的な評価を得て、それ以降の研究領域 を方向づけることは決して珍しくない。だがこれらの学問領域の潮流を決定する研究には、つねに「医療」とはなんだろうか?、という問いが陰に陽に投げかけ られているのである。あるいはそのように読まれる必要があるということだ。
私の年来の関心は「医療援助」を文化人類学的に考察することにあるが、その際に意識してきたことは、研究対象にすることは間接的であれ直接 的であれ「医療援助」に関与しているのだという感覚である。文化人類学は、他者という回路を通して自己省察に導く学問的実践である。この短い論文は、医療 人類学の学問的伝統を批判的に回顧する。その際に着目したい出来事とは、1960年代に近代医療が批判を受けたとき、治療儀礼のメタ言語的解釈が動員され て「未開」医療や民族医学の全体性が要求されたあるいは「復権」が叫ばれたという点である。私見によると、過去30年間にわたる医療人類学の発展の原点は ここにある。つまり医療人類学は、一方で学問的にメタ解釈をもって合理的な非西洋医療の理解を要求する一種の機能主義理論であったのであり、他方では実践 的にメタ解釈をもって近代医療を克服するという野心をもった思想運動であったと考えている(武井 1985 参照)。人びとの医療の全体性への要求を満たすために医療人類学という文化人類学の特殊な一ジャンルに脚光が浴びたこと、医療の全体的な解明をめざす医療 人類学はまた同時にそのパラダイムの中で細分化かつ専門化を遂げるという皮肉を実現しつつあること、私はそのような学問の成長にまつわる逆説という現象に 強く興味をもつ。したがって以下で触れられる医療人類学領域の瑣末な分類は、教科書的な事実よりも、ここで紹介された分類が考えるのに適しているという人 類学上の格言に倣っていることを確認しておきたい。
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