1 はじめに
現代日本には外見を美しくする商品やサービスが溢れている。その中の一つである美容外科手術は、最も劇的で永続的な変化を外見に与える。一般的には美にと
りつかれた女性たちが受けるという印象がある。しかし実際に日本人クライアントに聞き取り調査をしてみると、「美」より「普通」を強調する声が少なくない
1。また男性を対象とした仮性包茎手術が、美容外科の大きな収入源の一つになっているという指摘もある。美容外科手術には、一般にイメージされているよう
な美と女性以外の面がある。
本稿では、「普通」と外見の変化そのものに焦点を当てながら、日本の美容外科医療の多面性について検討する。クライアントはどういう経験をしてい
るのか、「普通」とは何なのか、美容外科手術で外見を変えることにはどういう意味があるのか考えてみたい。日本固有の特徴を浮かび上がらせるために韓国の
調査結果も加えている2。
2 美容外科の歴史
美容外科手術は19世紀末西欧で生まれた。それまでの生物医療(biomedicine)はケガや病気を対象としていたので、純粋な美容目的の手術には医
学内外から批判が寄せられた3。今日でも美容医療に対する批判はあるが、手術件数は年々増加する傾向にある。日本で一般の人々に美容外科手術がなされるよ
うになったのは、1948(昭和23)年頃からだといわれている4。一般には「美容整形」という名称の方が浸透しているが、1978(昭和53)年専門科
として認められた名称は「美容外科」である。
日本の美容外科医療は組織的な捩れを抱えている。医療観を異にする二つのグループがそれぞれに「日本美容外科学会」を組織しているのである5。一
つは、大学病院等での形成外科トレーニングの後に美容外科医療に携わっている医師たちのグループである。こちらのグループは、美容外科を形成外科の一専門
領域とみなしている。ただし日本の大学病院形成外科は、美容医療に対して距離を置いているために、大学病院で美容外科手術を行っている所は非常に少ない。
ここには、医療は「病人」になされるべきだという伝統的な医療観がある。もう一方は、十仁病院を中心とする医師たちのグループである。彼らは、美容外科を
独立した領域とみなしているため、形成外科医である必要はない6。こちらのグループの中には全国規模でチェーン展開するなど、医療の市場化に積極的な美容
外科もある。私たちが週刊誌や雑誌等で目にする広告は、たいていこちらのグループの美容外科である。医療は、健康を増進するように美容も増進しうるという
医療観に基づいていると考えられる。
どちらの学会に属していようと、美容外科手術は基本的に自由診療下(健康保険対象外)で行われる。したがって美容外科は、医療と市場の両方にまた
がる境界的な印象が大変強い。また大学病院に美容外科がない状況は、美容外科を正統な医療ではないという評価に結びつけている。さらに週刊誌等に掲載され
ている広告が胡散臭さを決定づける。そもそも外見が劇的かつ永続的に変化するということは、非日常的な現象である。クライアントたちは、人々が一種の忌避
感を抱くような医療を選択したことになる。
3 「美」の規準
美容外科手術の美の規準は、西欧的審美観に依拠している。「美」は、歴史的、社会的に構築される価値観であるから、西欧的審美観自体は多様性の一つにすぎ
ない。実際、世界には様々な「美」がある。たとえば口にリップ・プラグを入れて唇を引き伸ばしたり、身体に瘢痕を刻んでいる人々がいる。日本人からみれば
奇異に見えるかもしれないが、それを慣習として行っている人々にとっては、美しい、あるいはあるべき外見である。またかつての日本画に描かれた美人は、う
りざね顔の一重瞼である。
このように「美」は時代や地域によって異なるものなのだが、美容外科における「美」は、文化の多様性の一つにはとどまっていない。標準や正常と
いった概念の中にすり込まれていくことで、普遍的な「美」にすり替わるのである。米国の臨床の場では、一重瞼が「脂肪過多」と呼ばれているという指摘があ
る7。日本の医学書にも「…皮下脂肪組織の過多は同時に腫れぼったい眠たそうな眼の印象を与える…」といった記載がある8。西欧的審美観から遠い形態は、
美しくないというだけでなく、否定的な特徴に結び付けられ、かつ解剖学的にみても過多とみなされているのである。
米国では、メディアや広告等で支配的な白人美のイメージは、米国女性たちが自らの身体を、それに照らして監視し「矯正」するモデルとして機能して
いるという分析がある9。日本でも、白人モデルがコマーシャル・メディア界で活躍している。また、美容外科で望まれる手術(重瞼術、隆鼻術等)も白人の容
姿の特徴に一致している。これだけをみると日本人クライアントは、白人美の規準に標準化しているのではないかと思われるのだが、実態は複雑である。
4 まなざし、ジェンダー、秘密、劣等感
クライアントにはいくつか特徴的な傾向が見出せる。それらは、クライアントの外見にまつわる悩みを増し、クライアントを美容外科へ向かわせる力にもなって
いる。厳しく差別的なまなざしはその一つだ。クライアントたちは不満だと思う部分にスポットライトを当て、他者の外見と比較し、その結果を審査している。
常に劣等性を喚起するような厳しく差別的なまなざしは、注視すればする程厳しさを増していく可能性が高い。それはクライアントの苦しみを増幅させることに
なる。
クライアントは圧倒的に女性が多い。美容外科手術が、男性外科医による女性の身体の創造だといわれる所以である。ただし女性を対象とする豊胸手術
は何の疑いもなく美容の問題とされている一方で、男性を対象とする仮性包茎手術は美容の問題から除外されている点にも注意する必要がある。つまり「美」の
問題かどうかの判断が、男女で異なっているのである。その上で男性外科医と女性クライアントというジェンダー不均衡がある。そしてそのどちらにも、「見る
男」と「見られる女」という構図が内面化されている。女性クライアントたちは、「見る男」のまなざしで、自分と他の女性たちの外見を眺め、比較し、見られ
る価値があるかどうかを評価している。これは、女性同士の中に無意識的な競争を生じさせている。
秘密保持の重視は日本的な特徴でもある。たとえば韓国では、「ウリ(我々、わが)」関係にある人たちには、美容外科手術のことを話している場合が
多い。ウリは、日本人が考える以上に親しい関係で、隠し事などは否定的にとられる傾向がある。ウリ仲間からは、容姿についてかなり率直にコメントされるこ
ともある。また女友達と一緒に美容外科へ行くことも珍しくない。韓国女性は相対的に、美の獲得に積極的で美への欲求をストレートに表現している。一方日本
では、美容外科手術を受けたことはできる限り秘密にされている。面と向って容姿のことを言うこともあまりない。外見にまつわる悩みや欲求を誰にも言えず、
また手術後は人にさとられないようにしなければならないという点では、日本人クライアントの方が苦しむ可能性が高い10。
ほとんどのクライアントは手術動機に劣等感をあげている。中には10年以上、劣等感にさいなまれてきたという人もいる。その辛さは十分理解できる
が、実は劣等感という概念そのものに問題が隠されている。米国では、劣等感という概念が美容外科医療を正当化し、発展の一翼を担ってきたと指摘されている
11。美容外科は、劣等感という概念によって、クライアントを外見に苦しむ「病人」とみなすことができるようになったのである。しかしそこには、クライア
ントに苦悩を生じさせた美の価値付けシステムや人種的不公平などへの問題意識はない。劣等感は社会的問題を個人化する概念でもある。
5 「普通の外見」
劣等感は共通していても、解消後の目標は同じではない。「美しくなりたい」という人だけでなく、「美しくなりたいわけではない、普通になりたいだけ」とい
う人も少なくないのである。本稿では美容外科手術に対する一般的なイメージ――より美しくなる――とは異なる「普通」に注目する。
「普通の外見」について考えてみよう。たとえば大きな乳房の女性もいるが、ほとんど膨らみのない女性もいる。同じ人でも、たいてい右と左では大き
さが違うし、年齢や授乳経験などにより一生を通じて随分変わる。自分を普通だと思っている人の乳房は多様である。つまり「普通の外見」など、実際にはどこ
にも存在していない。
このように「普通」は実体としては幻想なのだが、社会には「普通」とみなされるようなイメージや合意が存在している。これには、「美」と同様に文
化的多様性がある。たとえば、日本では亀頭が露出した男性器を普通とみなしているために仮性包茎手術が行われているが、アマゾン先住民の間では亀頭が露出
していると「乾いた男」といった不名誉なあだ名をつけられたりする。ある社会の「普通」は、必ずしも他の社会の「普通」感覚に一致するわけではない。
「普通」は、社会によって強調される度合いが異なる。たとえば韓国では、「普通」が日常的に強調されることはあまりない。聞き取り調査でも美容外
科手術の動機としてあげられたのは、「自信をつける」、「美しくなる」、「魅力的になる」などで、「普通になる」をあげた人はいなかった。ある韓国人女子
大生は、「普通になるために何も美容外科手術まですることはないでしょう」と述べていた。一方日本は、様々な所で「普通」が強調されている。「普通」は一
般に通じる、並という意味だけでなく、「普通が一番」というように皆と同じであることを肯定的にみる意味でも用いられる。それは、他の人と違うことをしな
いという点で抑圧的である。ただし「皆・他の人」がどういう人かで、「普通」の範囲は異なってくる。だから海外旅行ができる経済力まで普通とみなす人もい
る。日本における「普通」は、漠然としながらも抑圧装置として機能している。
現代日本には、「普通」を具体化するものが存在している。標準体重などの数値はその典型である。また巷に氾濫する美しい人たちの像は、理想と同時
に普通も示している。たとえば大きな乳房が理想であれば、ふくらみのある乳房が女性としては普通だとみなされる。女性たちの現実の乳房は無視され、ある特
定の形態が、「普通」「あるべき姿」として人々の中に埋め込まれていく。そうした内面化は、メディアや学校教育や会話など日常生活の中でなされていく。乳
房のふくらみがない女性は、水着姿やヌードの女性の写真を目にするたびに、ブラジャーで補正するたびに、乳房は女性のシンボルだといった言説を聞くたび
に、「私は普通ではない」といった感情を喚起させられるのである。
それぞれの社会には「普通」とみなされるような合意がある。現代日本は「普通」が相対的に強調される社会である。外見に関していえば、かなり明確に「普通」が提示されている。「普通」は実体としては幻想だが、現代日本人の現実を構成している。
6 「普通になりたい」
「普通になりたい」と訴えた日本人クライアントたちは、自らの外見を「普通でない」として経験してき
たのだと思われる。このように非常に否定的な認識は、その人に繋がる様々なことに影響を与える。たとえば整鼻術を希望した女性は、「この鼻で公の席に出る
のは嫌なので、夫婦で出席しなければならないような所は断っているんです。…せめて人並みになりたくて」と述べていた。同じく整鼻術を希望した男性は、
「もう苛められることはないし、からかわれたりすることもないです。…でも顔のコンプレックスは、こびりついて、しみついてるんです。…いい男になりたい
わけじゃなくて、ふつうの、標準の鼻になりたいだけなんです」と訴えた。また陥没乳頭の手術を希望した女性は、「自分は普通じゃないので、引かなくて良い
ところでも引いてしまう」と語っていた。
長年外見で苦しんでいたクライアントにとって、手術後「普通になった」と実感できることは大きな意味を持っている。前述の陥没乳頭の女性は手術
後、「まるで人生が180度転換したみたい。…手術してから見た夢では、自分の体に乳首がついていたんです。[手術]前は、乳首がついてない夢を見てたの
に…」と興奮した様子で語った。豊胸手術を受けた女性は、「これまでの人生の中で、一番自分というのを感じてます」と述べていた。彼女は、家族の問題が
あって大変だと言いながらも生き生きしていた。また手術前「ふつうの、標準の鼻になりたいだけなんです」と訴えていた男性は、手術後「こびりついて、捨て
たくても捨てられなかったものを捨てることができた。…これで人生のスタート地点に立ったという気がする」と語った。筆者には、彼が本当に手術前とは異な
る地平に立っているようにみえた。
美容外科手術は、一般的にイメージされるような「美」だけでなく、「普通」にも関わっている。だからこそ自らの外見を「普通でない」と認識してい
たクライアントたちが美容外科へ向ったのである。彼らにとって、「普通でない」から「普通」への転換の意味は大きい。ただしそれは、手術直後の言葉だけで
判断することはできない。その後の経過が様々だからである。
7 美容外科手術の両義性
手術前「普通」を強調していたという点では共通しているクライアントであっても、決して一様ではない。手術直後「まるで人生が180度転換したみたい」と
喜んでいた女性は、しばらくすると自分の乳首と雑誌のヌード写真を比較し、乳頭が大きすぎると不満を訴えるようになっていった。また「きちんとした体にな
りたかっただけ」と述べていた女性は、豊胸手術の後、シワ取り術も希望するようになった。彼女は「前にホクロを取った時は冒険だったけど、今はもう
ねぇ。…整形慣れしたというか、これは皮膚科かな、美容外科かなと考えてます」と語っていた。一方、「ふつうの、標準の鼻になりたい」と形態の不満から整
鼻術を受けた男性は、手術後「今考えても本当に自尊心がなかったんだなぁと思う。苛められるのは自分が悪いんだと自分を責め続けていた」と全てを形態のせ
いにしていた手術前の自分を振り返っていた。また乳房再建術を受けた女性は、「胸を大きくして、もっときれいになりたい」と豊胸術も希望していたが、しば
らくすると「豊胸?うーん、今は、やる予定ないんです。…胸に対しても体に対しても、いとおしいと思うようになったんです」と心境を変化させた。
クライアントたちのこのような変化の背後には、美容外科手術の両義性の問題がある。美容外科は、社会的合意を基盤として「普通の外見」を具体的な
形で示し、そのことによって社会的合意を強化している。たとえば現代日本では、女性の乳房はふっくらしているのが普通とされている。美容外科は、小さな胸
に悩むクライアントを「救おう」とした。しかし医学的な治療対象となることで、小さな胸に対する否定性は強化される。ふっくらした乳房は亀頭が露出した男
性器に、小さな胸は仮性包茎に置き換えることができる。二重、三重にジェンダー不均衡な美容外科手術が、女と男に必須とみなされている要件を具現化してい
る。結局美容外科は、クライアントに対して「あなたは、もう普通ですよ」と示しながらも、社会に対しては「あの形態は普通ではない。手術すべきだった」と
公言しているのである。それが潜在的クライアントを増やすことに繋がっているのは言うまでもない。そもそも「普通」は、社会で漠然と共有されている合意で
あって、何か実体があるわけではない。したがって標準値や理想像で「普通」を実体化し、厳しいまなざしで追い求めるならば、まだ普通でないという思いが
募ってきたり、いったんは満足してもまた不満になる可能性が高い。長い間外見を我慢してきた人が、外見は変えられるということを経験する。それによって、
さらなる変化への欲望が刺激される。「普通」になろうと思って美容外科手術を受けることが、「ワンランク上の普通」への欲求を生むのである。それは新たな
劣等感の誕生でもある。
美容外科手術は「普通」を具現化しているだけでなく、それを変える力も内在している。これを二つの「日本美容外科学会」からみれば、一方の大学病
院系のグループは「普通」を医療としての正統性の枠内でとらえ、他方の十仁病院系のグループは市場でも流通するような「美」に近づけようとしていると考え
ることができる。どちらにしても、美容外科手術自体が境界的で非正統的で胡散臭いとみなされていることに変わりはない。つまり、クライアントを「普通」に
しようとする美容外科手術そのものが「普通」ではないのだ。だからこそ日本人クライアントは秘密にする。人に話さないだけでは十分ではない。突然飛び切り
の美人になってしまったら、美容外科手術を受けたことがわかってしまう。白人美への単純な標準化は、「普通でない」状態になるのと同じことだ。そうだとす
れば「美」の手前(=「普通」?)で留めておく方が、リスクはずっと少なくてすむ。このように、日本人クライアントの「普通」の強調には、個人の身体的経
験だけでなく日本固有の社会的要因も関係していると思われる。
美容外科手術は、醜とみなされる形態を美(あるいは普通)に近づける技術である。しかしコマーシャル・メディアに席巻され美容技術が発達している
社会では、「美」や「普通」のイメージ自体がどんどん向上するので、外見美の駆け引きは、結局イタチゴッコでしかない。ただしクライアントの中には、醜を
美(あるいは普通)に転換したという説明では理解しきれないケースもあった。形態を認識する価値観や視点をずらしている人たちは、外見美を駆け引きしてい
るというより、むしろ外見から何かを気づかされている。私たちは外見といえば美醜といった身体表面を連想するが、外見は身体そのもの、存在そのものでもあ
る。美容外科手術による外見の劇的で永続的変化は、存在そのものの劇的で永続的な変化でもあるはずだ。このような観点に立てば、非日常的な外見の変化が、
クライアントのそれまでの日常生活を支えていた価値観や視点を相対化する契機となったと考えることもできる。
8 おわりに
「普通」は実体としては幻想だが、日本においては規範的で抑圧的な概念である。「普通でない」という経験に苦しんでいたクライアントたちは、美容外科手術
によって皆と同じ「普通」になろうとした。手術後「普通」を実感できるかどうかは、ケース・バイ・ケースとしか言いようがない。仮に手術直後は満足できた
としても、その後の経過は様々である。外見の劇的で永続的な変化が契機になってそれまで信じていた価値観を相対化するかもしれないが、外見は変えられるの
だと実感することで、さらなる変化を追い求めるようになる可能性も高い。現在のところは、他の人と違うことを抑制する「普通」が、美容外科手術の流行の歯
止めになっている。ということは、美容外科手術が普通とみなされるようになれば、皆が美容外科手術をするようになって、今とは逆に、「普通」が手術しない
ことに対して抑圧的に機能する状況が考えられる。「普通」のイメージや合意の形成には全ての人々が関わっている。とすれば美容外科手術に関心があるなしに
関わらず、私たちは、「普通」や外見をどのようなものとしてとらえているのか、今一度考えてみる必要があるのではないだろうか。
以上みてきたように、美容外科手術の実践は両義的である。ただそうは言っても読者の中には、この瞬間にも美容外科手術を考えている人がいるかもし
れない。そこで最後に個人的見解として以下のことを述べて本稿を締めくくりたい。とにかく美しくなりたいという人には、美容外科手術を受けることを踏みと
どまることを進めたい。なぜなら、外見美の追求は永遠に満たされない欲望との葛藤に繋がっているからだ。しかし容姿のことで長年悩み続けてどうにも身動き
ができなくなっているのであれば、美容外科手術を受けてみても良いのかもしれない。劇的で永続的な外見の変化が及ぼす影響は、想像以上に大きいかもしれな
いからである。ただしどんな施術であっても、何らかのリスクがあることは忘れないでほしい。
〔謝辞〕
本稿のもとになった研究に協力してくださったインフォーマント、形成外科、美容外科のスタッフの皆様に、この場を借りて御礼申し上げます。また日韓調査に研究助成してくださったトヨタ財団(1997年度・個人研究)にも感謝いたします。
〔註〕
1
ここ5年程の間に関東地区の某大学病院形成外科において、美容目的で来院したクライアント56名(女55、男1)に聞き取り調査を行った。男女数のアンバ
ランスは、もともと女性の方が多かったことと、男性は醜形恐怖症等の診断を受けるケースが多かったためである。クライアント56名の中には相談に来ただけ
の人も含まれている。
2 ソウル市内で2年の間に延べ2ヶ月の調査を行った。主なデータは、某女子大日本語学科における聞き取り調査と、某大学病院形成外科に美容目的で来院したクライアント7名(女6、男1)への聞き取り調査に基づいている。
3 "Biomedicine"は、病気の原因やメカニズムを生物学的知識に基づき理解し、治療する医療。近代医療/医学、現代医療/医学と訳されることもある。
4 古川正重、「美容形成外科の歴史的考察」『日本美容外科学会会報』1(1): 26-27,
1979。
5 両方の学会に加入している医師もいる。
6 医師免許を取得すれば、基本的には何でも診療できる。
7 Kaw,Eugenia, Medicalization of Racial Features, Medical Anthropology
Quarterly 7(1):74-89, 1993.
8 難波雄哉他(編)、『美容形成外科学』南江堂、1987。
9 Bordo, Susan, Unbearable Weight, U of California P, 1993.
10 「ウリ」のように気軽に相談できる環境があれば、クライアントの苦悩は多少なりとも軽減された可能性がある。ただし「ウリ」は、「あなたが手術で綺麗になるなら、私も」というような美の獲得競争に通じる面も持っている。
11 ハイケン、エリザベス『プラスチック・ビューティー』平凡社、1999。