若泉敬の人生と沖縄「核抜」返還について
Kei WAKAIZUMI, 1930-1996
若泉 敬(わかいずみ けい[1]、1930年(昭和5年)3月29日 – 1996年(平成8年)7月27日)は、日本の国際政治学者。沖縄返還交渉において、佐藤栄作の密使として重要な役割を果たした。以下の情報 は、ウィキペディア等から吸い上げたものである。
1930 3月29日福井県今立郡服間村 (現越前市横住)で、父・齊と母・マツエの長男として生まれる。服間尋常小学校卒業後、福井青年師範学 校に進学し、後に妻となる根谷ひなを[2]と出会う。
1949 師範学校本科を卒業し、明治大 学政治経済学部政治学科に進学する
1950 東京大学文科一類を受験し合格 [3]。在学中、矢崎新二、岩崎寛弥、佐々淳行、粕谷一希、福留民夫、池田富士夫などと親交を深め、学 生研究会土曜会のメンバーとして活動し、芦田均などの政治家や大山岩雄などの言論人の知遇を得る。
1952 国連アジア学生会議の日本代表 としてインドとビルマを訪問し、このときの体験をもとに大林健一の筆名で『独立インドの理想と現実』と 題する小冊子にまとめて刊行した。
1954 東京大学法学部政治学科卒業 後、佐伯喜一(Kiichi SAEKI, )の知遇を得て、保安庁保安研修所教官となる。
1955
「ベトナム戦争が始まり米国が繊維製品の関税引き下げを行ったことで、「ワン・ダラー・ブラウス(One dollar
blouse)」に代表される日本製の安価な綿製品の輸入が激増。これに対し米国繊維業界で、日本からの綿製品輸入制限運動が高まりを見せる[7]。
米国政府は国内での機運の高まりに応じ、日本に対して綿製品貿易に関する取り決めを提案」した。
1957
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院修了。1957年に「日米綿製品協定」が締結され、日本は対米綿製品の輸出を5年間自主規制 することとなる。
1960
米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)に留学。客員研究員として滞在中、マイク・マンスフィールド、ディーン・アチ ソン、ウォルター・リップマン、ウォルト・ロストウらと面識を持つ
1961 防衛庁防衛研究所所員
1966 創立に貢献した京都産業大学よ り法学部教授として招聘され、同大学の世界問題研究所所員を兼任
1966年頃から、面識のあった愛知揆一の紹介で時の首相・佐藤栄作に接触するようになる。佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本
の戦後は終わったとは言えない」と演説したように、沖縄返還に並々ならぬ熱意を持って臨んでいた。
1967
自由民主党幹事長・福田赳夫を通して、沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられ、これを期に密使として度
々渡米し、極秘交渉を行うこととなる。若泉と会ったのはアメリカ国家安全保障会議スタッフのモートン・ハルペリンであった。ハルペリンは沖縄返還交渉の方
針を決めた国家安全保障覚書13号の起草者であった。
1969
「核抜き・本土並み」返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年(昭和44年)9月30日、国家安全保障担当大統領補佐 官のヘンリー・キッシンジャーより、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパー が提示された(なお、密使としての活動で、若泉はコードネーム「ヨシダ」、キッシンジャーは「ジョーンズ」を用いた)。同年11月10日 - 11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、11月21 日に発せられた佐藤=ニクソン共同声明で、3年後(1972)の沖縄返還が決定されることとなった。
1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)まで中央教育審議会臨時委員を務めた。
1969年(昭和44年)に行われた日米首脳会談で、ベトナム戦争終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退を公約に掲げ前年の大統領選挙に当
選したリチャード・ニクソン大統領が、ベトナム戦争の近年中の終結を考えて、繊維製品の輸出自主規制と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席で
ある屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し……
1970 1970年(昭和45年)から1980年(昭和55年)まで京都産業大学世界問題研究所所長
その間、アーノルド・J・トインビーの京都訪問・講演の実現に尽力し、京都産業大学の知名度を高めることに貢献した。核時代における日本の 平和外交・安全保障政策のあり方についてビジョンを構築し、『中央公論』などの論壇誌でその主張を提示していた。米国の国際問題評論誌『フォーリン・ポリ シー』の編集顧問も務めた。
1971 沖縄返還協定調印
1972 5月15日沖縄返還.
内閣総理大臣・佐藤栄作はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込み に関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重した。
日本への返還に際し、日本政府は返還協定第7条に基づき「特別支出金」として総額3億2000万ドルをアメリカ政府に支払った。西山太吉は
実際の支出総額が5億ドルをはるかに超えて、密約として処理されたと主張している[4]。/「特別支出金」の内訳には、琉球水道公社や琉球電力公社、琉球
開発金融公社のほか、那覇空港施設や琉球政府庁舎あるいは航空保安施設、航路標識などのアメリカ軍政下で設置された民生用資産の引き継ぎの代金1億
7500万ドルが含まれていた。日本政府は取り決めに従いこの対価を支払った[5]。
1973 3月29日アメリカ軍がベトナムから全面撤退。
1980 東京から故郷・福井に居を移し、中央政界や論壇から距離を置くようになる。
1992 京都産業大学退職時には退職金全額を世界問題研究所に寄付し、同研究所ではこれをもとに「若泉敬記念基金」を設立
1994 『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス[5]』(文藝春秋、1994年)
(同書では)核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。同書によれば、佐藤とニクソンは、ウエス トウイング・オーバルオフィス隣の「書斎」で、二人きりになって署名したという(この覚書は佐藤により持ち去られ、のち2009年(平成21年)に本人宅 で発見された)。
1994年(平成6年)、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の上梓後、6月23日付で沖縄県知事・大田昌秀宛に「歴史に対して負っている私の 重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁します」とする遺書を送り[7]、同日国立戦没者墓苑に喪服姿で参拝したが自殺は思いとどまった。
1996 『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。完成稿を翻訳協力者に渡した1996年(平成8年)7月27日、福井県鯖江市の 自宅にて死亡——病死と自殺の2つの説明がある——(享年67)。
公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった[8][9]。
若泉の自殺の報を聞いた大田昌秀は「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間
としては信頼できます」とコメントしている[9][10]。死後には日本国内で非武装や日本国憲法第9条の自衛隊も違憲という解釈などあった中で、「自主
独立」と「能動的国益」と言われる自らの判断で日本の国益に沿って動くという強烈な意識があった外交官だっため、あらゆる交渉で憲法のため安全保障をアメ
リカに依存する中で日本寄りの成果をあげたという評価もある[11]。
2002 『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版がハワイ大学出版局から公刊。
信夫隆司が2002年(平成14年)までに機密指定が解除された米政府公文書から、密約を裏付ける文書を発見した。キッシンジャーからニク
ソンへのメモで、日米間の密約を示す「共同声明の秘密の覚書」の存在に触れ、覚書が「核問題」に関するものであることを明らかにしている[12]。
日本側での所在は長らく確認されず、日本の政府・外務省は密約の存在を否定していた。
2006 『正論』2006年9月号に、英語版序文の原稿が掲載
2009 12月に佐藤栄作の遺品にこの密約と見られる「合意議事録」が存在し、遺族が保管していたことが判明した[13]。
2010
3月9日、鳩山由紀夫内閣になってから、外務大臣・岡田克也の命令で、核密約があったか否かを調査してきた有識者委員会(座長:東京大学教授・ 北岡伸一)は、正式に(広義の)核密約があった旨の調査結果を報告した。これを受け政府(鳩山内閣)、外務省(岡田外相)はこれまでの、自民党政権および 新生党政権下での、公式にはなかったとされてきた見解を改めた。
日本国政府が認めたのは初めてであるが、関係者の間では密約はあったというのは半ば常識化されていた。たとえば、この有識者委員会の座長を務め た北岡は、その著書『自民党――政権党の38年』(読売新聞社、1995年)の佐藤内閣の沖縄返還をめぐる記述において、若泉の『他策ナカリシヲ信ゼムト 欲ス』を紹介し、若泉によれば「密約があったという」と記述している[14]。
2012
琉球朝日放送(QAB)報道制作局長の具志堅勝也が刊行した著書『星条旗と日の丸の狭間で-証言記録 沖縄返還と核密約』についての書評のなかで大田昌秀はあらためて若泉を「同教授は一見柔和に見えるけど、芯は古武士の風格を備えた人物で、その行為は、他 の追随を許さない誠実な人柄による」と評している[15]。
2013
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文献
その他の情報
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