鬼太郎と目玉親父と疾患への差別について
Ghost hero "KITARO" and his "ex-leper" brave father, "MEDAMA-OYAJI," in Mr. Shigeru Mizuki's "HAKABA NO KITARO," 1954
子供たちの人気者ヒーロー『ゲゲゲの鬼太郎』(水木しげる作)の父親は「目玉おやじ」 として有名である。この主人公は、戦前「1933年から1935年頃にかけて、民話の『子育て幽霊』を脚色した『ハカバキタロー(墓場奇太郎)』(原作: 伊藤正美、作画:辰巳恵洋)という紙芝居が存在し、『黄金バット』をも凌ぐほどの人気」であったものを「1954年、紙芝居の貸元である阪神画劇社と紙芝 居作者として契約していた水木は、同社社長・鈴木勝丸に前述のハカバキタローを題材にした作品を描くよう勧められた[2]。作者承諾の上で、水木はオリジ ナルの紙芝居物語「墓場の鬼太郎」として、『蛇人』『空手鬼太郎』『ガロア』『幽霊の手』の4作を仕立てた。これが鬼太郎シリーズの原点」(出典:ゲゲゲの鬼太郎)だという。
鬼太郎の親父はかつての「幽霊族」の末裔であるが、売血により「不治の病である「溶ける病」」に罹患するが、これはもともと「ハンセン病」 を意味する「らい病」であった。「癩」「らい」「らい病」は、もともと医学用語ならびに法律用語であったが、その慣用法により、厳しい社会的差別の感情を 起こさせてきたために、今日では使用されなくなった——法令などで禁止されている用語ではない。他方、疾病史あるいは疾病文化史を取り扱う際には、歴史用 語としてこれを扱う。
聖書の「重い皮膚病」(現在は「規定の病」——後述)のように、ハンセン病の言い換えはさまざまなところにあり、その「厳しい社会的差別の感情」を惹起したこの用語について、つねに留保が必要であることは言うまでもない。
さて、目玉おやじについては、つぎような来歴がある。
「かつて地上を支配していた種族である幽霊族の生き
残りであり、鬼太郎誕生以前は、不治の病である「溶ける病」を患い、ミイラ男のような風貌をしていた(罹病前の風貌が原作において描写された事はなく、ア
ニメ第6作14話にて初めて描写された…)。身籠った妻とひっそり暮らしていたが、生活の手段として売った血液が、輸血した患者を幽霊化する混乱の元と
なってしまう。調査に訪れた血液銀行の銀行員・水木に、身の上を打ち明け調査の引き伸ばしを願い出たが、妻ともども病死。鬼太郎を案じて、自らの遺体の左
の眼球に魂を宿らせて生き返り、眼球に小さな身体と手足が生えた現在の姿に変わったため、「目玉おやじ」と呼ばれるようになる」目玉おやじ)
■「らい病」から「重い皮膚病」そして「規定の病」に(2018年12月4日)
「カトリックとプロテスタントが共同し、三十一年ぶ
りに新訳された聖書が刊行された。時代にふさわしい表現を目指し、ハンセン病への差別につながりかねない訳語を見直すなどした。/日本聖書協会(東京・銀
座)が翻訳・発行した「聖書 聖書協会共同訳」で、同協会が(2018年12月)3日、発表した。/カトリックとプロテスタントの計十八教派・団体が協力
し、ヘブライ語とギリシャ語の原典をゼロから翻訳。日本の歌人や詩人らも手助けした。/訳語の変更では、これまで「重い皮膚病」とされてきたヘブライ語の
「ツァラアト」が、「規定の病」と改められた。以前は「らい病」と訳されており、「ハンセン病への偏見を助長する」として「重い皮膚病」に改められてい
た。/「規定」の訳語は、旧約聖書レビ記に規定されていることから使われた。レビ記には、ツァラアトの病態が「患部の毛が白く変わり、皮膚の下まで及んで
いる」と記されている。/聖書協会の渡部信総主事は「聖書の内容を壊さずに翻訳するこれ以上の言葉はないという結論だった」と説明。注で「病理学的にはい
かなる病気であったか明瞭ではない」と明記した。/カトリック向けの旧約聖書続編付きが6,588円、続編なしのプロテスタント向けが5,724円。初刷
りの発行部数はそれぞれ1万部、2万部。(小佐野慧太)/<キリスト教の聖書> 神の天地創造以降の出来事を記すヘブライ語の旧約、イエス・キリストの誕
生後を記すギリシャ語の新約からなる。日本語訳は、新日本聖書刊行会のプロテスタント向けなどがある。一般財団法人日本聖書協会は、1887年に明治元
訳、1955年に口語訳を出し、1987年にはプロテスタント、カトリックが共同して「聖書・新共同訳」を刊行した」東京新聞:2018年12月4日)
■「重い皮膚病」も事実誤認という解説
「これは公衆衛生上仕方がないことだったとは決して
言えないことです。なぜなら、明治時代に最初の法律ができるときにはすでにらい病というのは、結核なんかよりずっと感染力に低い病気であるということが分
かっていたからです。さらに1941年には、画期的な治療薬も現れ、らい病というのは自宅で簡単に治療することができる病気となりました。ところが、法律
が廃止されるどころか、1953年に新たに「らい予防法」ができ、それがついこの前と言っても良い1996年に廃止されるまで続いたのです」出典:http://www2.plala.or.jp/Arakawa/christ_srm27.htm 2019年8月30日)
■水木しげると宮崎駿:時代の差異について
目玉おやじのもとも、父親は全身包帯のいわゆるミイ ラ男の風体である。これに「差別病名」というものが関連づけられて、人々の病気への恐怖心と忌避感情を煽ったものになっていた。中世の絵巻物『一遍上人絵 伝』の中にも、ハンセン病者を取り扱ったものがあり、類似のものである。ただし、後者のほうが、中世のものにも関わらずむしろ、リアリズムで表現されてい る。
近年のものでのハンセン病の表現は『もののけ姫』の ものであろう。宮崎駿監督のこのアニメーションは、ハンセン病のことはなにも明示していない。そちらのほうが、さらに不思議な感じがする。子供が「あの包 帯だらけのおじさんたちはだれなの?」と聞いたら、大人はどう答えるのか、興味深々である。他方、宮崎は、多磨全生園の元療養者と交流をもっている。その 経緯について宮崎の発話の記録がある。しかし、和解の時代の宮崎には、そのような危惧は不要であったことがこの文章からよくわかる。
「『一遍上人絵伝』を見て興味を持っていまし
た、”たたら者”っていう、朝鮮半島を経由して入ってきた、製鉄をする人々です。中国地方の山の中で、砂鉄と炭を求めて、山から山へ移って行く集団です
が、その人達が作った鉄が色んな人間を経て、里に降りてくる。農具になり、あるいは武器になり、ということだったらしいんです。
/で、たちまち行きづまりました。そうすると、ノートを持ってウロウロ歩き回るしかないわけです。そのうちに、家から15分のところにある「全生園」の前
に来たんです。『一遍上人絵伝』の中にあったハンセン病の人達のことを考えると、そこで私が踵を返して帰ることは出来ないのではないかと思って、初めて中
に足を踏み入れました。
/なぜそれまで入らなかったのかというと、それは大変な、惨憺たる運命に生きている人達に出会った時に、自分がどういう顔をしていいか分からないという、
恐れが大きかったからなんです。/冬の日でしたけど、全生園の裏の方から入っていきましたら、すごい桜の並木が見えました。桜の見事な巨木が実に生々しく
て、衝撃を受けてその日はそのまま帰ってしまいました。
/それから何度か訪ねて行くうちに、資料館にも入ったんです。当時はまだ古い資料館(旧「高松宮記念ハンセン病資料館」)でした。療養所で使われていた、
お金に代わる、ブリキで作った通貨など、色々な生活雑器が大量に保存されていました。大変な衝撃を受けました。……実際、『もののけ姫』にはハンセン病の
人も出しました。それは”無難な線”ではなくて、当時”業病”と言われたハンセン病を患いながら、それでもちゃんと生きようとした人達のことを、はっきり
描かなければいけないと思ったんです。しかし、本当のことをいいますと、これを患者のみなさんが見た時に、どういう風に受け取るかということが、ものすご
く恐ろしかったんです。平沢さんや佐川さんに見てもらうのがとても怖かったんです。でも、とても喜んでもらったんで、本当に僕は救われた思いがしました。」Blogos, 2016年02月01日, https://blogos.com/article/158136/ )
宮崎は、その後、「「山吹舎」(昭和3年に入所者によって建てられた独身男性のための寮。昭和52年まで使用されていた)」の保存運動に関わることになる。s
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