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皇国史観

Kokoku-shikan, Vision historique du Japon impérial

池田光穂

☆ 皇国史観(こうこくしかん)とは万世一系とする天皇による国家統治を日本の歴史の特色とする考え方。古事記・日本書紀の神話を歴史的事実とする。日中戦争から太平洋戦争期の軍国主義教育の強力な後ろ盾となった。(「日本国語大辞典」)

★「皇国史観( こうこくしかん)とは、大日本帝国憲法の基礎となった、大日本帝国政権が支持した一連の歴史観と学説を指す。神々の時代の真実性、南北朝時代の南朝の正統性などが支持されている」フランス語ウィキペディア"Vision historique du Japon impérial"による)

【皇国史観】こうこくしかん:万世一系とする天皇による国家統治を日本の歴史の特色とする考え方。古事記・日本書紀の神話を歴史的事実とする。日中戦争から太平洋戦争期の軍国主義教育の強力な後ろ盾となった。(「日本国語大辞典」)


皇国史観(こうこくしかん、旧字体:皇國史觀)とは、日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されてきたとする歴史観[1]。

概要
定義
皇国史観の定義については、さまざまな見解がある。

デジタル大辞泉は、「万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開ととらえる歴史観」と紹介している[1]。
日本大百科全書には、「国教化した天皇中心の超国家主義的日本史観」と記述されている[1]。
精選版 日本国語大辞典には、「万世一系とする天皇による国家統治を日本の歴史の特色とする考え方」で「古事記・日本書紀の神話を歴史的事実とする」と記述されて いる。また、日中戦争(支那事変)から第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)期の軍国主義教育の強力な後ろ盾となったとしている[1]。
起源
起源についても、多くの見解が散見される。

日本大百科全書には、「その根源は幕末の尊攘(そんじょう)思想、平田国学、明治の国粋主義などまでさかのぼりうる」とした上で「唯物史観歴史学の発展に 対し危機意識を強めた平泉らは、「万世一系」の「国体」とそれを基軸として展開してきたとみる日本歴史の優越性を強調し、「大東亜共栄圏」思想に歴史的裏 づけを与えようとした」と紹介している[1]。

日本共産党のしんぶん赤旗は、「その概念を、いつの時代にまでさかのぼって定義するかによって成立時期が異なります」とし、「「史観」としていつ確立されたかについてはさまざまな見方があります」とした上で「「体系」的とは言い難い概念」だと主張している[2]
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La Vision historique du Japon impérial (皇国史観, Kōkokushikan?) désigne l'ensemble des conceptions et des théories historiques soutenues par le régime impérial japonais, et servant de base à la Constitution de l'empire du Japon. La véracité de l'âge des dieux, et la légitimité de la Cour du Sud lors de l'époque Nanboku-chō font ainsi partie des thèses soutenues.
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皇国史観(こうこくしかん)とは、大日本帝国憲法の基礎となった、大日本帝国政権が支持した一連の歴史観や学説のことである。(1) 神々の時代の真実性、(2)南北朝時代の南朝の正統性などがその例である。
経過

1880年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。

しかし、1891年には帝国大学教授久米邦武の論文「神道ハ祭天ノ古俗」という論文が不敬罪に当たるとの批判を受け職を追われた。このような変化は、神道内においては伊勢派[註 1] が出雲派[註 2] を放逐したことと軌を一にする。

その後、1920年代には大正デモクラシーの高まりを受け、歴史学にも言論が活溌になり、左翼においてはマルクス主義的な唯物史観に基づく歴史書も出版さ れたが、社会主義に対する危機感と共に統制も強化された。1935年には天皇機関説事件が起きた。1940年には歴史学者津田左右吉の 記紀神話への批判が問題となり、著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。[要出典]そし て、第二次世界大戦が勃発すると、「日本は強い国、世界に一つの神の国(以下省略)」と記載した修身科の国定教科書『ヨイコドモ』が小学校に配布された。

1911年には、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題 とされた。文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述 するようになった。[要出典]

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久米 邦武(くめ くにたけ、1839年8月19日(天保10年7月11日) - 1931年(昭和6年)2月24日)は、日本の歴史学者[1]。幼名を泰次郎、のち丈一郎。易堂と号す。岩倉使節団に同行し、大書『特命全権大使 米欧回覧実記』を書き上げ、1888年(明治21年)に帝国大学(東京帝国大学の旧称、現・東京大学)教授に就任。1892年(明治25年)に久米邦武筆 禍事件で教授職非職となり、依願免官となった[1]。1894年(明治27年)から立教学校(現・立教大学)で教授として教鞭を執り[2][3]、 1899年(明治32年)に同郷の盟友である大隈重信の招きで東京専門学校(現・早稲田大学)講師、ついで教授として1922年(大正11年)に退職する まで古文書研究・国史を教えた[1]。歴史学の基礎を構築し、古文書学の創始者として知られる[3]。
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津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本の歴史学者・思想史家[1]。早稲田大学文学部教授を歴任。記紀を史料批判の観点から研究したことで知られ [注 1]、日本における実証史学の発展に大きく貢献した。1947年帝国学士院会員選出。1949年文化勲章受章。従三位勲一等。

1919年の「古事記及び日本書紀の新研究」、1924年の「神代史の研究」が代表的な研究成果である。記紀神話とそれに続く神武天皇以下の記述には、どの程度の資料的価値があるか史料批判を通して考察した。

津田は記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての 資料的価値は全くないとした。これらの部分は朝廷の官人の政治的目的による造作の所産であり、記紀神話は皇室が国民を支配するという思想を前提に、それを 物語として展開していったもので、神武東征もその一部であるとした。また、第23代天皇顕宗天皇、第24代仁賢天皇らの発見物語も典型的な貴種流離譚で あって実在しないとしている。発見譚に関わった第22代清寧天皇も、第24代仁賢天皇の皇子の第25代武烈天皇も実在しないと主張した。

津田説は、戦後ながらく通説として扱われて来たが、考古学の進歩などにより批判的に取り上げられる場合も多くなった。
皇 国史观是日本以天皇為中心,評斷歷史人物、事件之於天皇是屬於忠誠或是叛逆之觀點而出發的思想。其肇始者為日本南北朝時期,隸屬南朝的北畠親房為了發揚南 朝之正統性所著之《神皇正統記》。江戶時代,水戶學之《大日本史》亦繼承其觀點,設立叛臣、逆臣傳,瘩罰謀逆之人。一如《大日本史·逆臣》傳序「弒逆,人 神所共憤,而天地所不容也。一有弒逆之臣,則人人得而誅之。其得保首領、老死牅下,乃幸而免耳。異邦之史,臣弒其君者,歷世不絕。故歐陽脩創例於《唐 書》,《元史》臣論列於遼、金二史,皆本《春秋》之意,而使生者膽落,死者骨驚,抑又嚴矣。」

明治维新後,其史觀變成主流,但隨著一部分國粹思想主義之國學者如大國隆正之流,而演變成自命為高人一等之天朝的變質局面。此者於二战時期达到顶峰,卻也 因二战敗而被視為禁忌。如今隨口提起則恐有遭人側目之虞。然而,在少部份右翼势力中仍然相当有其影響力,與左派進行意识形态相爭。

上述變質後的“皇国史观”之核心思想是:神化大和民族、日本天皇和日本宗教及文化;不顧日本二戰時军国主义侵略战争的一面,單純宣揚“自存自卫”和“解放亚洲”的“圣战”、“正义之战”之說。大東亞共榮圈亦將侵略战争中的犧牲者看作是效忠天皇、“为国捐躯”的“英灵”。

二战后,“皇国史观”这种军国主义历史观,在美国占领日本初期的民主改革中已被否定。但随着美國與蘇聯进入冷战,美国占领当局认为,日本反军国主义的政治 势力大多属于日本左翼力量;于是,为了压制左翼,美国占领当局改变了对日政策:一方面改变原先废除天皇(美国當時认为天皇是日本军国主义势力的总代表)的 想法,以压制日本的左翼及减少日本右翼势力对美军占领的抵制;另一方面,又解除对日本的二战战犯及高官的清洗令,允许日本发展军备;遭到“整肃”的前战犯 (例如岸信介)重新出现、活跃在日本政界。
皇 国史観とは、歴史上の人物や出来事が天皇に忠実であったか、反抗的であったかを評価する、天皇を中心とした日本人の視点である。 この考え方の元祖は南北朝時代、南朝の北畠親房が南朝の正統性をアピールするために書いた『神皇正統記』である。 江戸時代、水戸学派の大日本史もその視点を受け継ぎ、謀反大臣の設置、謀反大臣伝記、謀反に対する煮え湯の刑罰を行った。 例えば、『大日本史-叛臣伝』の序文には、「謀反は人と神とが共有するものであり、天地が容認するものではない。 大日本史-叛臣列伝』には、「讒言は、天と地とが共有するものであり、天と地とが許容するものではない。 而(しか)して之(これ)を救(たす)けんと欲すれば、之(これ)を長(おさ)め、之(これ)を老(おい)て救(たすけ)んと欲す。 諸外国の歴史を見ても、君主の讒言(ざんげん)は多い。 そこで欧陽集は唐書に先例を作り、袁世凱の大臣論は契丹や晋の史書に列挙され、いずれも春秋年表の意を汲んで、生者を恐れさせ、死者を骨身に怯えさせ、厳 格な弾圧を進めた。

明治維新後はその歴史観が主流となったが、高祖大黒など一部の国粋主義的なイデオローグによって、優れた王朝を気取るという退廃的な状況に陥った。 第二次世界大戦中に最盛期を迎えたが、第二次世界大戦の敗戦によってタブー視もされた。 現在では、何気なく口にすれば汚名を着せられることを恐れている。 しかし、左翼とイデオロギー闘争を繰り広げる少数の右翼の間では、いまだにかなりの影響力を持っている。

上記の堕落した「皇国史観」の核心は、大和民族、日本の天皇、日本の宗教と文化を神格化し、第二次世界大戦中の日本における軍国主義の侵略戦争を無視し、 単に「自存自衛」と「アジア解放」を主張することである。 大東亜共栄圏(GECP)もまた、「自存自衛」と「アジア解放」という「聖戦」と「正義の戦争」を、日本の第二次世界大戦の共通テーマとしている。 大東亜共栄圏もまた、侵略戦争の犠牲者を天皇に忠誠を誓い「国のために死んだ」「英霊」とみなした。

第二次世界大戦後、この軍国主義的な歴史観である「皇国史観」は、アメリカによる日本占領開始時の民主化改革の中で否定された。 しかし、米ソ冷戦が始まると、アメリカ占領当局は、日本国内の反軍国主義的政治勢力のほとんどが左翼勢力に属していると考え、左翼勢力を弾圧するために、 天皇制廃止(当時、アメリカは、天皇は日本国内の軍国主義勢力の総代表であると考えていた)という当初の考えを改め、日本国内の左翼勢力を弾圧し、アメリ カ軍による占領に対する日本国内の右翼勢力の抵抗を減らすために、一方では天皇に対する規制を解除した。 その一方で、第二次世界大戦の戦犯や高級官僚の粛清は解除され、日本は軍備開発を許された。「粛清」された元戦犯たち(例えば岸信介)は再び現れ、日本の 政界で活躍するようになった。
DeepLによる翻訳
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The imperialist view of history is an emperor-centered Japanese perspective that evaluates whether historical figures and events were loyal or rebellious to the emperor. The originator of this view was the "Shosho-tennoki" written by Kitabatake Kobo of the Southern Dynasty during the period of the Northern and Southern Dynasties in order to promote the legitimacy of the Southern Dynasty. During the Edo period, the Mito school of Dai Nihon-shishi also inherited this viewpoint, establishing rebellious ministers, biographies of rebellious ministers, and boiled-down punishments for rebellion. For example, the preface to Dainihon-shi: Biographies of Rebel Ministers states, "Rebellion is shared between man and god, and is not tolerated by heaven and earth. The preface to "Dai Nihon Shishi: Rebel Vassals Biographies" states, "Slander is something shared by heaven and earth, and not something tolerated by heaven and earth. If they wish to save it, then they must lengthen it, and if they wish to save it, then they must age it. In the history of other countries, there have been many false accusations against monarchs. Therefore, the Ouyang shu set a precedent in the Tang books, and Yuan Shikai's theory of ministers was enumerated in the Qidan and Jin history books, all of which, with the intention of the Spring and Autumn Annals, made the living afraid and the dead scared to the bone, and promoted strict suppression.

After the Meiji Restoration, that view of history became the mainstream, but it fell into the decadence of pretending to be a superior dynasty due to some nationalistic ideologues such as Kojo Daikoku. It reached its peak during World War II, but its defeat in World War II also made it a taboo subject. Today, they fear stigmatization if they speak of it casually. However, it still has considerable influence among the few right-wingers who engage in an ideological struggle with the left.

The core of the above corrupted "imperialist view of history" is to deify the Yamato race, the Japanese emperor, and Japanese religion and culture, to ignore the militarist war of aggression in Japan during World War II, and to simply advocate "self-defense" and "Asian liberation. The Greater East Asia Co-prosperity Sphere (GECP) also makes the "holy war" and "just war" of "self-defense" and "Asian liberation" the common theme of Japan's World War II. The Greater East Asia Co-prosperity Sphere also regarded the victims of the war of aggression as "heroic spirits" who swore loyalty to the Emperor and "died for their country.

After World War II, this militaristic view of history, the "Imperialist View of History," was rejected during democratic reforms at the start of the U.S. occupation of Japan. However, when the Cold War between the U.S. and the Soviet Union began, the U.S. occupation authorities believed that most of the anti-militarist political forces in Japan belonged to the left wing forces, and in order to suppress the left wing forces, they changed their original idea of abolishing the Emperor System (at that time, the U.S. believed that the Emperor was the general representative of the militarist forces in Japan) and started the On the one hand, it lifted restrictions on the Emperor in order to suppress left-wing forces within Japan and reduce the resistance of right-wing forces within Japan to the occupation by the U.S. military. On the other hand, the purge of World War II war criminals and high-ranking bureaucrats was lifted and Japan was allowed to develop its military. Former war criminals who had been "purged" (e.g., Nobusuke Kishi) reemerged and became active in Japanese politics.

황국사관(일본어: 皇国史観)은 일본의 역사를, 만세일계의 천황 중심의 국가주의적인 관점에서 보는 역사적 견해를 일컫는다. 일본 제국의 77년간을 상징하는 역사관이다.
난보쿠초·에도 시대
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황국 사관의 원형은 난보쿠초 시대(1333년 ~ 1392년)에 기타바타케 지카후사가 쓴 "신황정통기"에서 확립됐다.
에도 시대에는 국학을 중심으로 "일본은 천황을 기축으로하는 나라"는 주장이 널리 퍼졌다. 막말 페리 원정 이후 막부의 반대로 천황의 정치 세력은 "존황양이"을 주장했다.
제2차 세계 대전 이전
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제2차 세계 대전 문서를 참고하십시오.
일본 제국은 정부에 의해 정통적인 역사관으로, 국정 교과서의 밑에 황국사관을 전 국민에게 보급했다. 이 국정 교과서는 진무 천황의 건국 신화로 작성을 시작하고 천황에 순역 인물을 평가하고 천황의 생사에 따라 변경될 "연호"시대를 구분했다. 초등학교에는 천황의 사진 (어진영. 일:御真影)이 배포되고 어진영에 경례했다.
그리고 말기의 1930년대에는 문부성은 "국체의 본의" "신민의 길"을 실행하여 천황에 충의를 강조했다.
皇国史観とは、日本の 歴史を、万世一系の 天皇中心の国家主義的な観点から見る歴史観を指す。日本帝国の77年間を象徴する歴史観である。
南北朝・江戸時代
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皇国史観の原型は、南北朝時代(1333年~1392年)に北畠親房が書いた「新皇統記」で確立された。
江戸時代には国学を中心に「日本は 天皇を基軸とする国」という主張が広まった。幕末の フェリー遠征以降、幕府の反対で天皇の政治勢力は「尊皇攘夷」を主張した。
第二次世界大戦前
第二次世界大戦後[編集]
第二次世界大戦を参照してください。
大日本帝国は政府によって正統的な歴史観として、国定教科書の下で皇国史観を国民全体に普及させた。この国定教科書は、 神武天皇の 建国神話から作成を開始し、天皇に順逆の人物を評価し、天皇の生死によって変更される「年号」時代を区分した。小学校には天皇の写真(御真影)が配布さ れ、御真影に敬礼するようになった。
そして末期の1930年代には、 文部省は「国体の本義」「臣民の道」を実行し、天皇への忠誠を強調した。
国体の本義』(こくたいのほんぎ)とは、日本の国体に関する正統的な解釈書として1937年(昭和12)に文部省教学局が発行した教科書、冊子[1]。国体明徴運動の中で編纂され、神勅や万世一系が冒頭で強調されている。1945年連合国占領軍により『臣民の道』とともに発禁となった[1]。

編纂の経緯
『国体の本義』 編纂の発端は天皇機関説問題への対応としての「国体明徴・日本精神闡明」であった[2]。1933年の思想対策協議委員幹事会で「国民精神文化研究所研究 部ヲシテ日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムルコト」 とあり、1935年9月には「国体本義」の編纂頒布が予算要求に盛り込まれた[2]。

文部省思想局長伊東延吉と近藤寿治督学官による人選で、吉田熊次・紀平正美・和辻哲郎・井上孚麿・作田荘一・黒板勝美・大塚武松・久松潜一・山田孝雄・飯 島忠夫・藤懸静也・宮地直一・河野省三・宇井伯寿の14人が編纂委員として委嘱された[2]。編纂調査嘱託には国民精神文化研究所から山本勝市・大串兎代 夫・志田延義が指名され、文部省からは思想局調査課長小川義章、督学官の近藤寿治・横山俊平・志水義暲、図書監修官の藤岡継平・藤本万治・佐野保太郎が指 名され、小川義章と志田延義が草案と推敲に当たったと推測されている[2]。

前田一男によれば、『国体の本義』 の草稿を書いたのは久松潜一とその弟子志田延義が中心である[3]。

文部省は 『国体の本義』の普及徹底を図り、30万部を全国教育関係者に配布し、市販版は1943年には190万部に達した[4][2]。

昭和12年7月31日の第71帝国議会で政友会の原惣兵衛は、『国体の本義』にある「君民共治でもなく、三権の分立主義でも法治主義でもなくして、一に天 皇の御親政である」という一節について、「法治主義でもなく」と云うことは、西洋流法治主義でないというのなら、日本流法治主義というのはどこにある、苟 も憲法という所の国家統治の大法典が存在するということになったら、法治国ではありませぬか、と文相安井英二を追及し、文相は検討を凝らしたいと答弁する など、この時点では「聖典」化していなかった[2]。また、閣僚の多くも、『国体の本義』をこの時点までに読んでいなかった[2]。

その後、日中戦争が全面化し、国民精神総動員運動が展開されていくなか、批判は次第にタブーとなり、『国体の本義』は聖典化していった[2]。

内容
「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と国体を定義した上で、共産主義や無政府 主義を否定するのみならず、民主主義や自由主義をも国体にそぐわないものとしている。また共産主義、ファシズム、ナチズムなどが起こった理由として個人主 義の行き詰まりを挙げている。

『国体の本義』の「万世一系」論
(旧字旧仮名版)

第一 大日本國體
一、肇國
 大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家とし て億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美德を發揮する。これ、我が國體の精華とするところである。この國體は、我が國永遠不變の大本であり、國史を貫いて 炳として輝いてゐる。而してそれは、國家の發展と共に彌〻鞏く、天壤と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇國(てうこく)の事實の中に、この大本が如 何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。
— 文部省、國體の本義、9頁
(新字新仮名版)

第一 大日本国体
一、肇国
 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家とし て億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて 炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(ちょうこく)の事実の中に、この大本が 如何に生き輝いているかを知らねばならぬ。
— 文部省、國體の本義、9頁
天皇機関説への批判
「天皇機関説事件」も参照
(旧字旧仮名版)

天皇は統治權の主體であらせられるのであつて、かの統治權の主體は國家であり、天皇はその機關に過ぎないといふ說の如きは、西洋國家學說の無批判的の蹈襲 といふ以外には何らの根據はない。天皇は、外國の所謂元首・君主・主權者・統治權者たるに止まらせられるお方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇國 以來の大義に隨つて、この國をしろしめし給ふのであつて、第三條に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外國に於 て見られるこれと類似の規定は、勿論かゝる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。
— 文部省、國體の本義、132-133頁
(新字新仮名版)

天皇は統治権の主体であらせられるのであって、かの統治権の主体は国家であり、天皇はその機関に過ぎないという説の如きは、西洋国家学説の無批判的の踏襲 という以外には何らの根拠はない。天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられるお方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇国 以来の大義に随って、この国をしろしめし給うのであって、第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外国に於 て見られるこれと類似の規定は、勿論かかる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によって確保せんとするものに過ぎない。
— 文部省、國體の本義、132-133頁
(旧字旧仮名版)

 明治以來の我が國の傾向を見るに、或は傳統精神を棄てて全く西洋思想に沒入したものがあり、或は歷史的な信念を維持しながら、而も西洋の學術理論に關し て十分な批判を加へず、そのまゝこれを蹈襲して二元的な思想に陷り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般の ものとは相當な思想的懸隔を來してゐる。かくて、かゝる情態から種々の困難な問題が發生した。曾て流行した共產主義運動、或は最近に於ける天皇機關說の問 題の如きが、徃々にして一部の學者・知識階級の問題であつた如きは、よくこの間の消息を物語つてゐる。
— 文部省、國體の本義、149-150頁
(新字新仮名版)

 明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関し て十分な批判を加えず、そのままこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般の ものとは相当な思想的懸隔を来している。かくて、かかる状態から種々の困難な問題が発生した。嘗て流行した共産主義運動、或は最近に於ける天皇機関説の問 題の如きが、往々にして一部の学者・知識階級の問題であった如きは、よくこの間の消息を物語っている。
— 文部省、國體の本義、149-150頁
書誌情報

ウィキソースに国体の本義の原文があります。
文部省 編『國體の本義』文部省、1937年3月30日。NDLJP:1156186。
文部省 編『國體の本義』文部省、1937年3月30日。NDLJP:1219377。
文部省 編『國體の本義』内閣印刷局、1937年5月31日。NDLJP:1880826。
文部省 編『國體の本義』大阪府立泉尾高等女学校白百合会、1938年3月30日。NDLJP:1111807。

国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい、旧字体:國體明󠄁徵聲明󠄁)とは、1935年(昭和10年)の天皇機関説事件の中で、美濃部達吉の天皇機関説を排撃することで政治的主導権を握ろうとした軍部・右翼諸団体が時の岡田内閣に迫って出させた日本の政府声明 。

天皇機関説が天皇を統治機構の一機関としているのに対し、国体明徴声明では天皇が統治権の主体であることを明示し、大日本帝国が天皇の統治する国家であるとした宣言である。

国体明徴運動の経緯
国体明徴運動
そもそも大正期半ばから昭和初期にかけて天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、昭和天皇が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られ ている[要出典]。しかし、軍部の台頭とともに起こった国体明徴運動の中で、天皇機関説は国体に反する学説として排撃を受け始めた。

第1次国体明徴声明
1935年(昭和10年)2月19日、貴族院本会議の演説において菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。

この演説を引き金に軍部・右翼による機関説排撃が始まり、美濃部が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易に解説する釈明演説(2月25日貴族院本会議)を行うも、美濃部の著書は発禁となった(『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』)。

さらに軍部・右翼は国体明徴運動を政治利用、各地の在郷軍人会を中心とする機関説排撃運動が全国的に展開されたため、岡田内閣はその対応策として1935 年(昭和10年)8月3日「国体明徴に関する政府声明」を発し、天皇機関説は国体の本義に反するとした(第1次国体明徴声明)。

第2次国体明徴声明
これを受けて軍部・右翼は運動の中止を指示、猛威を振るった運動は終息するかに見えた。

美濃部も1935年(昭和10年)9月18日、貴族院議員を辞するに至るが、辞職に際して出された美濃部の声明が軍部・右翼の猛反発を招き、紛議が再燃。 軍部・右翼は国体明徴の徹底を首相の岡田啓介に迫り、1935年(昭和10年)10月15日、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」を発した(第2次国 体明徴声明)。

第2次声明では、「機関説は国体の本義に反する」とするに留まっていた第1次声明よりさらに進んで、「機関説は芟除さんじよせざるべからず」とされた。芟除とは「取り除く、摘み取る」という意味である。

以上のような一連の天皇機関説排斥運動に関して注意すべき点は、これが学術論争といった類のものではなく、政争の道具にされた点である。

つまり軍部による政治的主導権奪取の手段として利用されたのである。2度にわたる政府声明を以って事態は一応の沈静化を見たが、これにより大日本帝国憲法下における立憲主義の統治理念は公然と否定されることとなった。

国体明徴声明全文
恭しく惟みるに、我が國體は天孫降󠄁臨の際下し賜へる御神󠄀敕に依り昭示せらるゝ所󠄁にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚の隆󠄁は天地と 俱に窮なし。されば憲󠄁法發布の御上諭󠄀に『國家統治ノ大權ハ朕󠄂カ之ヲ祖󠄁宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所󠄁ナリ』と宣ひ、憲󠄁法第一條には 『大日本帝󠄁國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』と明󠄁示し給ふ。卽ち大日本帝󠄁國統治の大權は儼として天皇に存すること明󠄁かなり。若し夫れ統治權 が天皇に存せずして天皇は之を行使󠄁する爲の機關なりと爲すが如きは、是れ全󠄁く萬邦󠄁無比なる我が國體の本義を愆るものなり。近󠄁時憲󠄁法學 說を繞り國體の本義に關聯して兎角󠄀の論議を見るに至れるは寔に遺󠄁憾に堪へず。政府は愈〻國體の明󠄁徵に力を效し、其の精󠄀華を發揚せんことを 期󠄁す。乃ち茲に意󠄁の在る所󠄁を述󠄁べて廣く各方面の協力を希望󠄁す。
— 「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日 (第1次国体明徴声明)
曩に政府は國體の本義に關し所󠄁信を披瀝し、以て國民の嚮ふ所󠄁を明󠄁にし、愈〻その精󠄀華を發揚せんことを期󠄁したり。抑〻我國に於󠄁ける 統治權の主體が天皇にましますことは我國體の本義にして、帝󠄁國臣民の絕對不動の信念なり。帝󠄁國憲󠄁法の上諭󠄀竝條章の精󠄀神󠄀、亦此處に 存するものと拜察す。然るに漫りに外國の事例・學說を援󠄁いて我國體に擬し、統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、天皇は國家の機關なりと なすが如き、所󠄁謂天皇機關說は、神󠄀聖󠄁なる我が國體に悖り、其の本義を愆るの甚しきものにして嚴に之を芟除せざるべからず。政敎其他百般の事項 總て萬邦󠄁無比なる我國體の本義を基とし、其眞髓を顯揚するを要󠄁す。政府は右の信念に基き、此處に重ねて意󠄁のあるところを闡明󠄁し、以て國體 觀念を愈〻明󠄁徵ならしめ、其實績を收むる爲全󠄁幅の力を效さんことを期󠄁す。
— 「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日 (第2次国体明徴声明)
参考文献
国体明徴ニ関スル再声明ヲ通牒ス(国立公文書館 公文類聚・第五十九編・昭和十年・第二巻・政綱二・地方自治二(台湾・統計調査)・雑載) アジア歴史資料センター レファレンスコード:A01200686500
国体明徴問題に関する件 (陸軍省昭和11年密大日記第2冊) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C01004163700
第3185号 10・7・25 国体明徴問題に関する件(海軍省公文備考 昭和10年 P 会議 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034588200 p1~p10
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日本における国体論争
日本において国体論争と呼ばれるものには以下のようなものがあった。

★江戸時代
幕末に吉田松陰と山県太華の間で展開された国体の性質を巡る論争。
★第二次世界大戦前
大日本帝国憲法起草の過程で政府内部で展開された、伊藤博文と金子堅太郎の憲法施行により国体が変革するかをめぐる論争。
教育勅語を巡り井上哲次郎とキリスト教徒の間で展開されたキリスト教が国体に反するかをめぐる論争。
1911年になされた天皇家の系統について南朝と北朝のどちらが正統であるかをめぐる論争(南北朝正閏論)。
大正デモクラシーで展開された国体と政体の相違をめぐる論争。
1930年代に展開された天皇機関説が国体に反するかを巡る論争(天皇機関説排撃事件、国体明徴運動)。
★戦後
日本国憲法の制定に伴い、国体が変革したか否かを巡る論争(尾高・宮沢論争佐々木・和辻論争)。
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井上 哲次郎(1856-1944)
1927年、『我が国体と国民道徳』[8]で、「三種の神器のうち剣と鏡は失われており、残っているのは模造である」とした部分が、頭山満ら他の国家主義者から不敬だと批判され、発禁処分となって公職を辞職。

尾高・宮沢論争.

尾高・宮沢論争(おだか・みやざわろんそう)は1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけて、東京大学教授で法哲学者である尾高朝雄 と、同じく東京大学教授で憲法学者の宮沢俊義の間で行われた論争。日本国憲法の制定に伴って生じた国体論争の一つであるが、本論争は日本国憲法下における主権の所在に関する論争であると位置づけられる

大日本帝国憲法では天皇が日本の統治権者であったのに対し、日本国憲法は象徴天皇制と国民主権を採用している。この変革につき、尾高は、与えられた具体的 な条件の下でできるだけ多くの人々の福祉をできるだけ公平に実現しなければならないという筋道、すなわちノモス(社会制度上の道徳)に従った政治をしなけ ればならず、主権が国政のあり方を決定するものであれば、主権はノモスに存在しなければならないとして、天皇主権であっても国民主権であってもノモスの主 権は変わらないとして、象徴天皇制と国民主権の調和を図った。

これに対し宮沢は、国政のあり方を最終的に決める力を主権として捉えるのであれば、それを最終的に決める力を持つ具体的人間は誰なのかという問題(君主に 主権があるのか、国民に主権があるのかという問題)、仮にノモス主権が承認されたとしてもノモスの具体的な内容を決めるのは誰なのかという問題が残り、ノモス主権説は主権の所在に関する回答になっていないと主張した

尾高・宮沢論争も含め、日本国憲法制定時における国体論争は、そもそも国体という概念をどのような意味で用いるかにつき論者によって異なり、いわば定義の 問題と評価することも可能である。また、尾高・宮沢両者の考え方の対立は、主権という概念の捉え方の対立、旧憲法から現憲法への移行の連続性を重視するか 変化を重視するかについての対立であり、単に見方が違うだけという評価も可能である。もっとも、主権の所在という観点からすれば、尾高説によればどのよう な政変があっても主権の所在は不変ということになり、政治の根本原理の変化を包み隠すものであるとして、宮沢説が通説化した。実際、尾高自身、論争の口火を切った「国民主権と天皇制」において、純粋の法理論からいえば日本国憲法の制定により国体が変革されたことはほとんど不可避の結論であるとしている。

なお、宮沢説によっても、そもそも主権を制約する原理があるのではないかという問題は残る(尾高説は、この問題に対する回答とも評価できる。)が、この問題は現在では少なくとも主権の所在に関する問題とは捉えられていない。

佐々木・和辻論争.

佐々木・和辻論争(ささき・わつじろんそう)は戦後間もなく時期に、憲法学者の佐々木惣一と哲学者の和辻哲郎の間でなされた論争であり、日本国憲法制定に伴い国体が変革したか否かをめぐる国体論争の一つである。

佐々木は、大日本帝国憲法においては、主権者は統治権の総攬者である天皇であったが、戦後の日本国憲法制定により、主権者は統治権の総攬者である天皇から 国民となり、これによって、日本は君主国体から民主国体に変わったと主張した。佐々木の主張する国体とは、憲法上の主権の所在によって区別されるもので、国体概念は政治様式によるとされる。

これに対し和辻は、誰が統治権の総攬者なのかは国体ではなく政体の問題であり、一般社会の考えでは、天皇は国民の象徴であり、国民の憧れであるという事実は変化していないので、日本国憲法制定後も、国体に根本的な変化はないと主張した。和辻の主張する国体とは、日本の歴史を一貫する特性であり、天皇が国民の象徴であることとされる。

なお、大日本帝国憲法から日本国憲法制定には主権の変動を伴っており、憲法改正による主権の所在の変更ができるのか否かなど学説上争いがあり、憲法改正無限界説や憲法改正限界説、八月革命説なども相まみえ、議論を呼んだ。

関連文献
和辻哲郎『新編 国民統合の象徴』中央公論新社〈中公クラシックス〉、2019年
苅部直解説、初版は勁草書房(1948年)、佐々木・和辻の論争文も収録 



『神 皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書。神代 から後村上天皇の即位までが、天皇の代毎に記される。史的著述の間に、哲学・倫理・宗教思想と並んで著者の政治観が織り込まれている。

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