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熊本の近代化とキリスト教

Modernization and Christianity in Kumamoto

池田光穂

ハンナ・リデル(1855-1932)
Hannah Riddell
イギリスの宣教師で、1895年熊本に熊本初 のハンセン病病院、回春病院を作っただけでなく、日本のハンセン病の歴史に大きな影響を与えた。後継者はエダ・ハンナ・ライトである(彼女については当該 記事に記載する)。エダによるとイギリスでのRiddellの発音はリデールであるが、文献等ではリデルが多いのでここではリデルを使う。
父が他界したと同時に1889年、破産した。生活を立て直そうと英国聖公会宣教協会(CMS ,Church Missionary Society、1799年創立の英国国教教会の組織) に入り、リバプールのYWCA協会の婦人校長をつとめた。35歳の時、日本に伝道に派遣された。その時女性宣教師5名が派遣され、リデルが最年長であっ た。宣教師グレース・ノットと共に熊本に落ち着き、彼女とは同志的な友情で結ばれた[5][6]。リデルは1891年に熊本市郊外の本妙寺でハンセン病患 者と遭遇し、患者救護の決心をする。その年の12月協会本部にハンセン病の患者を見たと手紙に書いた。
英国聖公会宣教協会は「1799年4月12日にロンドンで福音主義 者のウィリアム・ウィルバーフォースやヘンリー・ソーントンの参加するクラパム派の支持の元に行われた超教派の会合により、当初はアフリカ・東方宣教会 (Society for Missions to Africa and the East) として設立された。ウィルバーフォースは初代総主事就任を求められたが、辞退して副主事となり、トーマス・スコットが書記、ヘンリー・ヴェンが総主事と なった。最初の宣教師はビュルテンブルクの福音ルーテル教会出身でベルリンで訓練を受け1804年に派遣された。1812年にアフリカ・東方教会宣教協会 へと名前を変え、最初のイギリス人宣教師を1815年に派遣した。それからの主な活動はイギリス東インド会社へ派遣されるチャプレンの選任などであった」
ジョン・バチラー英国聖公会宣教協会である。
リロイ・ランシング・ジェーンズ(1838-1909)
Leroy Lansing Janes
リロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes、1838年3月27日 - 1909年3月27日)は、アメリカ陸軍の軍人。退役後は日本で熊本洋学校を設立し、熊本バンドの礎を築いた。L.L.ジェーンズと表記されるのが一般的 である。明治時代日本では善斯(ゼンス)と呼ばれた。また、L.L.ジェインズとも表記される。結婚後の1871年8月、アメリカ・オランダ改革派教会Reformed Church in America)宣教師のグイド・フルベッキの斡旋で来日して、陸軍士官学校とイギリスのラグビー校を目指して熊 本洋学校設立に参加し、全教科を一人で教えることとなった[3]。最初の頃キリスト教については言及しなかったが、三年目に、毎週土曜日に自宅で聖書研究会を始めた[

海 老名弾正(1856-1937)
Ebina Danjo,1856-1937
海老名をはじめとする熊本バンド、会衆派教会は、特に1880年代に流 入してきた自由主義神学(リベラル)の影響下にある[8]。同志社総長就任式(1920年4月16日)の演説で人格主義・デモクラシー・インターナショナ リズム・男女平等主義の四大主義を掲げた[9]。その後海老名は同志社大学の男女共学を実現させ(大学令準拠の私立大学としては日本初)[10]、さらに 吉野作造の人脈を通じて有為の少壮教授を集め、法学部を中心に「同志社アカデミズム」を築き上げた。その一方、同志社内の反海老名派(西村金三郎などの実 業家理事)からは「赤思想とは思わぬが至極フリー」と批判された[11]。日本基督教会の指導者植村正久が明治34年(1901年)9月『福音新報』に、 「福音同盟会と大挙伝道」を発表したことを受けて、福音主義論争が起こり、海老名弾正はユニテリアン、ドイツ自由主義神学を代弁する日本組合基督教会の指 導者として、植村と論争した。海老名は国家主義的であり、日露戦争、日韓併合をキリスト教精神の現れとして支持した。海老名の思想は「日本的キリスト教」 「神道的キリスト教」と呼ばれた。これを海老名の教え子である渡瀬常吉が、朝鮮植民地伝道で実践した。

熊 本洋学校

明治4年 - 城内古城(現熊本県立第一高等学校)に開校.明治7年 - 男女共学化.明治9年 - 閉鎖
※「実学」=経世致用の学(=学問は現実の社会問題を改革するために用いられなければならない)
1871年(明治4年)9月1日に肥後実学党の献策によってアメリカ元 軍人のリロイ・ランシング・ジェーンズが招聘され、官費の学校として開校される。ジェーンズは月給400円が与えられ、妻子と共に来日した。熊本県は洋学 校のために敷地、校舎、寄宿舎、教師館を用意した。授業は英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物を行い、すべて英語で行った。明治7年、 日本で初めて男女共学を行い、横井玉子・徳富初子(蘇峰・蘆花の姉)・横井みや子(小楠の娘)などが入学した。生徒の自主性を重んじる教育方針のもとに多 彩な人材を輩出するが、熊本バンド結成に対する旧守派の反発が一因となって、ジェーンズの任期終了とともに閉鎖となる。熊本洋学校で使用されたと目される 教科書のうち、55冊が熊本県立大学に現存している。近年の成果で、現存書籍の書誌、受入の時期、さらには洋学校閉校後から熊本県立大学に至るまでの所蔵 経緯などが明らかにされた[1]。
徳 富蘇峰(1863-1957)
Tokutomi Sohō, 1863-1957
徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近 世日本国民史』を著したことで知られる。

※「京都第一公会が1876年11月に創立され、京都第二公会が12月に創設されたのに続いた。1886年に第二公会会員の内の同志社関係者が同志社教会 を組織すると、第二公会会員の残りは第一公会に移籍し、1887年6月に第三公会は第一公会と合併して、170名の会員で平安基督公会に なった。1876年12月10日に新島襄から洗礼を受けた、8名に神戸、函館、熊本からの12名を加えた20名によって、東竹屋町のE・T・ドーン宣教師 宅で結成された京都第三公会を前身とする教会である。1877年に第三公会は京都新町三条上る(現在は中京区)に移転した。」
熊本洋学校閉鎖後の1876年(明治9年)8月に上京し、官立の東京英 語学校に入学するも10月末に退学、京都の同志社英学校に転入学した。同年12月に創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け[2]、西京第二公 会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった[1]。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした [1]。遼東半島の還付(三国干渉)に強い衝撃を受けた蘇峰は、翌1896年(明治29年)より海外事情を知るための世界旅行に出かけた。同行したのは国 民新聞社社員の深井英五であった。蘇峰は、渡欧する船のなかで「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民之友』に掲載した[16]。その欧米巡歴 は、ロンドンを皮切りにオランダ、ドイツ、ポーランドを経てロシアに入り、モスクワでは文豪レフ・トルストイを訪ねた[注釈 10]。その後、パリに入ってイギリスに戻り、さらにアメリカ合衆国に渡航している[10]。ロンドンでは、『タイムズ』や『デイリー・ニューズ』などイ ギリスの新聞界と密に接触し、日英連繋の根回しをおこなっている[16]。このころから蘇峰は、平民主義からしだいに強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じ ていった。1935年(昭和10年)に『蘇峰自伝』、1939年(昭和14年)に『昭和国民読本』、1940年(昭和15年)には『満州建国読本』をそれ ぞれ刊行し、この間、1937年(昭和12年)6月に帝国芸術院会員となった。1940年(昭和15年)9月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首 相に提出し、太平洋戦争の始まった1941年(昭和16年)12月には東條英機首相に頼まれ、大東亜戦争開戦の詔書を添削している。1942年(昭和17 年)5月には日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には 内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、やはり会長に選ばれた。前 者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は内閣情報部(?)職 員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会 員として選ばれた。ここでは、皇国史観で有名な東京帝国大学教授・平泉澄や、京都帝国大学の哲学科出身で京都学派の高山岩男高 坂正顕西谷啓治鈴木成高らの発言権が大きかった[51].1943年(昭和18年)4月に蘇峰 は、三宅雪嶺らとともに東條内閣のもとで文化勲章を受章した。この年に蘇峰は80歳となり、三叉神経痛や眼病を患うようになったが、『近世日本国民史』の 執筆は病気をおして継続している[46][注釈 17]。1944年(昭和19年)2月には『必勝国民読本』を刊行した。1945年(昭和20年)7月にポツダム宣言が発せられたが、蘇峰は受諾に反対。 昭和天皇の非常大権の発動を画策したが、実現しなかった。

熊 本バンド

熊本バンド(くまもとバンド)は、1876年(明治9年)1月30日に 熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリス ト教に改宗し、これを日本に広めようと盟約を交わした集団のこと[1]。直後に、熊本洋学校は閉校になり、その後新島襄の同志社英学校に移り、卒業後は同 志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いた。



日 本組合基督教会
日本組合基督教会、(にほんくみあいキリストきょうかい)は、戦前のキ リスト教会の主流派の一つで、1941年に日本基督教団に統合されて消滅した会衆派の団体。アメリカン・ボードの関係教会には、やがて同志社を卒業した熊 本バンド出身の伝道者が加わり、関西、群馬、岡山、愛媛など各地に教会が設立された。アメリカン・ボードと熊本バンドの二つが、日本組合基督教会の源流で ある。1874年4月19日に洗礼を受けた11名によって創立された神戸公会は、当初から会衆制を採った[2]。1878年に、開拓伝道や協力活動のため に日本基督伝道会社を結成した。1880年代に、各教派が伝道組織を固めたために、伝道のために組み合わされた組織の意味として、1886年に日本組合基 督教会を設立した。
神学的にはリベラルな傾向が強かった。1889年に指導者小崎弘道が同 志社で行われたYMCAの夏季学校において、「聖書のインスピレーション」と題する講演で高等批評を擁護し、聖書信仰を否定した。ここから日本のリベラル が始まると言われる。また金森通倫はモーセ五書はユダヤ人の伝説や神話の寄せ集めであると主張した。[5][6][7]
手島郁郎(1910-1973)
Ikurō Teshima
手島 郁郎(てしま いくろう、1910年 - 1973年12月25日)は、無教会主義の流れを汲むキリスト教系宗教団体、キリストの幕屋の創始者。熊本県出身。手島アブラハム郁郎とも。1927年 - 熊本バプテスト教会で洗礼を受ける。1932年内村鑑三の無教会の夏期聖書講座に参加して、1933年より熊本聖書研究会を主宰する。 1931年 - 長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部の前身)を卒業する。 1948年 - 独立して伝道を始めた。「生命の光」を機関紙として、テレビ放送も行う。「神の幕屋」と称する集会を全国に開いた。
手島はイスラエルと深い交友関係を持っており、マルティン・ブーバーという著名なユダヤ人学者のもとを訪ねたこともある[1]。 また、聖地・エルサレムへは何度も訪れている。1973年3月にはイスラエル建国25周年を祝うために、400人の団員を引き連れてヘルツルの丘を訪問した[1]。 第三次中東戦争が勃発した際には「イスラエル救援委員会」を組織し、救援物資を持ってイスラエルへと渡った。また、第四次中東戦争が勃発した際には、手島が先頭に立って日本全国から3000人規模の人員を集め、イスラエルへの支持を唱えて東京都内を行進した[1]。 これらの活動が評価され、1967年9月の第三次中東戦争での手島のイスラエル支援活動と1974年1月に手島が死去した際に、彼の名はユダヤ人基金の「黄金の書」に記された[1]。




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