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村田正太の研究

Study on Dr. Masataka MURATA, 1884-1974

池田光穂

以下の情報はほとんどウィキペディア「村田 正太」による:

村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 1974年12月20日)は、日本の医師、医学研究者。梅毒血清反応「村田法」の創始者。ハンセン病研究者。エスペランティスト。1926年から1933 年まで大阪府外島保養院院長を務めたが、外島事件で辞任した。患者を一人の人間として対等に「キミ」と呼び、遇したのは当時としてはたいへん珍しい。その 後職に就かず、神奈川県二宮町で個人的研究生活に入る」。

法律を勉強していた時に知った女性がらいに罹患し、生涯らいに尽そうと決意した。光田健輔を紹介され、同氏の指示をうけ、医学の道に進む。東京伝染病研究所では、梅毒血清反応を研究。村田反応を創設した。大阪府外島保養院院長席が空席をなり、村田が起用された。大正15年(1926年)着任」

「几帳面で一本気なところがあり、一度言い出したら 後に引かないところがある。このことは、外島事件でもよくあらわれている。土佐弁でいうと、いごっそう,ともいわれ、頑固で気骨の在る男等を意味する。ド イツ語がよくできるのに、東京大学の卒業論文を日本語にして落第されかかったり、生涯、博士号をとらなかったことが語られている。[3] 1941年のら い学会で議長をつとめ、小笠原登をつるし上げるのに荷担した。 光田健輔は療養所の患者を、一つの家族のようにして統率しようとしたが(大家族主義)、村 田は患者の人格を尊び患者の自治によって統率しようとした(自治主義)」

《外島事件》

同 院は全く闇黒時代で、患者は博打を打ち、風紀は乱れていた。彼は食費13銭を一挙に22銭に上げ、院内の自治を認めたので、今まで虐げられていた患者は院 長を慈父と呼んだ。しかし、患者内に急進派と保守派の対立が激化してきた。昭和7年(1932年)、職員に共産党員が入り活動を始めた。院長の、患者の自 治を尊重する姿勢もアカと誤解されて、1933年8月院長が不在時に所轄の警察署の手入れが始まり、「外島事件」の始まりとなる。院内の平和のために、急 進派患者20名を、言い含め、私金10円をもたせ、放出する。それが府警はじめメディアに烈しい批判を浴びる。村田自身も特別高等警察の厳しい取り調べを 受けた。東京大学出身の大阪大学教授らが彼を弁護したが、同年10月、村田は同院を去る。その後、神奈川県二宮町の自宅(借家)で研究を続けた[出典:桜井方策「村田正太先生を追悼す」 レプラ 44,1, 1975.]。」

1884 10月5日 高知県香美郡野市町(現香南市)に生まれる

1900 9月 中央大学入学

1903 同校卒業、東京外国語学校ドイツ語学科入学

1906 同校卒業

1910 第一高等学校入学

1912 東京帝国大学医学部入学 

1917 同大学卒業

1918 東京帝国大学伝染病研究所助手

1919 学術調査のため中国と満州に出張

1921  内務省衛生局勤務。梅毒に関する研究を委託される

1922 村田反応(梅毒血清沈降反応)医事新聞1106号(1922年11月)

1923 村田反応(梅毒血清沈降反応)医事新聞1128号(1923年)

1926 大阪府外島保養院院長事務取扱

1927 同所長兼院長

1928 光田健輔らと共に日本らい学会を創設(→「光田健輔と志賀潔」)

1929 第2回らい学会を大阪にて開催(世話人)

長与又郎・野辺地慶三:国際連盟梅毒診断法会会議 実験医学雑誌 13(1) 67-80, 1929. 1928,5,21-64において、コペンハーゲンの国立血清研究所にて長与・野辺地出席、村田反応を施行、その価値が世界的に比較された。

1930 第3回らい学会を大阪にて開催(世話人):らいの血清学的研究(大阪外島らい療養所)1930年6月発行『レプラ』第1巻第2号

1931(昭和6)

「昭和6年春頃より面白からぬ思想が外島の楽園に 入ってきた。之にかぶれた者は一つのグループ作り、病気の軽い有望な青年達を誘惑して自分たちの仲間に引き入れマルクスやエンゲルスの思想を吹き込み、そ して反宗教の叫びをあげた。未だ宗教の味も知らない有為の青年を巧妙な手段で引き込み猛烈に運動した。そのために有為の青年たちは多数宗教団体を脱して、 無神論者、唯物論者となって、宗教を攻撃する者も現れて来た。その中で最も多数の脱会者を出したのはキリスト教であった。(略)昭和5,6年のことであっ たと思う。大阪医大で日本らい学会が開催された時に、村田院長先生が「君たちの方で社会にたいする願いがあるなら、書き出してみよ。僕が提出して説明して やるから」と理解ある親切なことを言ってくださった。(中略)協議の結果、7件の請願問題が出た。先 生はそれを検討して、1件にして「社会にたいする私たちのお願い」を学会に提出してくださったことがある。村田先生は理想的な療養所を建てようと、建築技 師を採用し、患者側にも希望を出すようにとの、早速設計委員会を作り毎月5,6回会合して方眼紙、30余枚の設計図を送った。先生留守中に院長先生辞職の 噂がでた。新聞にも出た。院長先生の辞職は入院者にとって心臓を刺されるような思いであった。この時(ca.Oct., 1933)、院長先生は全患者を礼拝堂に集めて辞職の件を簡単に話され、この問題は解決したから、一同安心するようにと話された」——安部礼治「外島保養院小史」『楓』1953年1月号から8月号まで。『近代庶民生活誌 20 病気・衛生』p.472,三一書房,1995年。

1932 第5回らい学会を大阪にて開催(世話人)

1932 叙正六位。

1933 

8月院長が不在時に所轄の警察署の手入れが始まり、「外島事件」の始まりとなる。院内の平和のために、急進派患者20名を、言い含め、私金10円をもたせ、放出する。それが府警はじめメディアに烈しい批判を浴びる。村田自身も特別高等警察の厳しい取り調べを受けた

10月大阪府外島保養院院長を免ぜられる

1938 村田反応の梅毒診断学に於ける地位とその操作法, 臨床医学 26(6) 762-771, 1938.

1966 日本らい学会名誉会員に推薦される

1974 12月20日 逝去

1978 11月16日高知県野市町(現香南市)にて「救らいの父 村田正太先生顕彰碑」の除幕式が行われ、記念行事があった。

「東京大学、群馬大学名誉教授長谷川秀治が長文の碑 文を作り、(実際に出席したのは代理の遠藤正義)、高知県知事・中内力(出席は阿部厚生労働副部長)が揮毫を行った。国立療養所邑久光明園園長・原田禹雄 は祝辞を述べた。その中で、ある患者が涙を浮かべて「村田先生の薫陶を受けたものが邑久光明園に30名、全国に40名ほどいることを奥さまや皆さまに伝え て欲しい」と書いている」

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