高度メディア社会の時空間
高度メディア社会における社会倫理を調査研究することは、私にとって人間の多様な可能態について考察することにほかならない。具体的な人 間生活への参加と観察を通して、人間存在がどのように社会的に構成されているのかについて、多大な関心を持ち続けてきた文化人類学の先達たちと同様、私も また人間存在の社会的構築の可能性と限界を見極めたい。そこで立てられる具体的な設問は、メディアに関する我々の常識が社会の中でどのように産み出される かということである。
まず用語の整理からおこなう。
高度メディア社会とは、どのような社会だろうか。私はまず、それを現代日本における日常生活から想像してみたい。マスメディアが発達して いるのは先進開発地域であり、日本を含めた欧米先進諸国の都市の富裕な人々が享受しているメディアの需要環境を、高度メディア社会のプロトタイプとみるこ とが可能だ。現に、マルチメディアに関する文化論・社会論に関する議論は、日本と、より進んだと考えられているアメリカ合衆国での事例が検討されることが 多い。だから我々の身の周りの環境を、さしあたり高度メディア社会としてみてみよう。だが、それはメディア環境が十全に発達していない部分(地域や空間あ るいは人間環境)を視座に入れてはじめてより一層明確になるだろう。だから「低度」メディア社会を想定したり、高度メディア社会にもメディアの度合いが低 度な局所場が存在することを念頭において議論する必要がある。
次に、社会倫理は、社会のさまざまな組織が個人に与える明示的あるいは暗示的な規範や慣習のこと、としてとらえたい。そのようなミニマム な定義にもとづけば、「人間が正しく生きるべき指針を与えるもの」あるいは「人間が根本的に安らぐことのできる場所」(船木1994:4)が倫理であると みなすことも肯けよう。倫理は、したがって、説明することよりも生きることが重要になる人間活動の領域なのである。
では、高度メディア社会の属性とは何であろうか? 我々の生きている日常の生活空間の中で、高度にメディア化されているものと、そうでな いものを弁別する具体的な指標とは何だろうか? つまり何を用いているときに高度メディア化した体験をし、何を用いているときにはそうではないのか? パ ソコン、インターネット、ワープロ、ゲームのような双方向のインタラクティブなメディア;テレビ、ビデオ、ラジオのような受容を主とする一方向メディア; 電話や電子メールのようなインタラクティブな人間の活動を電子的に補助するメディア、などメディアの種類は千差万別である。またメディア提示のされ方にも とづいて、個々のメディアの要素の多寡においても、マルチメディアのように、それらの機能が複合の度合いの程度からも、高度メディア社会の属性を析出する ことができる。これらのことは、ホット/クールというメディアという二項対立に基づいて分析したマクルーハンの手法を思い起こさせるが、いずれにせよ、高 度メディア社会を表象する現象を見いだし、その属性について多角的に考察することは、我々のメディア理解のための探究の基本形となる。
我々の研究には、新しいメディアを多角的に利用するということが、どのような感覚を広げるのかを自ら実験するというスタイルをもりこんで いる。私にとっての研究計画の初年度の最大の経験は、インターネット利用の幅が広がったということである。それは、旧年度までは電子メールの利用をのぞけ ば、インターネットの利用はブラウザーを使ってネットサーフィン、つまり次々と画面から画面へと興味に応じて閲覧を続けることだけしかおこなわなかった。 しかし、今年度からWWWサーバに自分のウェブページを立ち上げ、情報発信を始めた。ウェブページの運営とそれに対する閲覧者の反応は、私がそれまで論文 や講演という形でしか自己の主張を公開する手段がなかった可能性を広げるばかりでなく、WWWサーバーにおける情報発信についての自己とネットワーク社会 との関係について、改めて考えさせられる契機になった。この経験は、それまで持ったことのない異質な体験であると同時に、ある種の倫理的な場所に踏み込ん だような体験であった。また同時に自分自身の身体が分離し、あたかもの分身をもつような経験でもあった。このような事態は、我々の研究対象にした時代や社 会の人々も同じように体験してきたり、これから体験することなのであろう。この種の体験を分析する枠組みを、さまざまな形で仮説的に提示することも我々の 課題になるだろう。
我々が経験のレベルで異質の倫理の時空間に踏み込むことは、人類にとって新しい倫理の時空間に踏み込んだことになるのだろうか。メディア の歴史ならびに人類学的研究が明らかにしてきたことは、あるメディアが優位を占める局面から、別のメディアに置き換わるという移行を通して、旧来のメディ アと旧来の価値観をもつ社会の成員は、それを旧来の認知的枠組みから解釈し、自分たちに納得のいく形に馴化し、その別の新しい局面に自らを適合させようと する傾向がみられることである。馴化のプロセスは、数世代以上におよぶ長期的なものもあれば、同世代内で短期的に終了することもある。
近代は、このようなメディア受容の適応様式に加えて、自分たちが承認した肯定的価値──それはしばしば合理性と有用性の観点によって判断 される──を具現化するものを新規で良きものと位置づけ、それを進んで受容する解釈と実践の体系を造り上げてきたところに大きな特色がある。もちろん、そ れらの取捨選択には恣意的な要素も多く介在し、即時的な対応と事後的な解釈の混成体が、我々の目の前にあるわけだ。新規なものは進歩とともに、概ね肯定的 な価値が与えられてきた。
このような合理性判断にもとづく実践行為は、それ自体で文化的に価値づけられた社会現象であり、先のような馴化のプロセスと見なすること ができる。だが、近代における高度メディア社会の登場は、それまでの人間が経験してきた文化的衝撃の中でも最大級のものであるという主張──それは信仰や 神話に近い──も数多く存在する。「実は予想を裏切って僅かな影響しか与えていない」という対抗神話の言説もまた多く存在するが、このような対抗神話の流 通そのものは逆に社会的影響の大きさを物語っている(西垣 1994)。それぞれの主張の真偽はともかくとして、高度メディア社会の到来は、我々の社会意識のあり方に大いなる再考の機会を与えていることは確かだ。
以上のような問題意識に立って、高度メディア社会が「新しい意識」を形づくっている様態とは何なのか、メディアが社会意識を形成 するとすれば、それはどのような形態をとりうると考えられているのか、我々の社会意識が形成される際に、主要なシンボルや根本となるメタファーが見られる とすれば、それは果たしてどのようなものか、等について、私の研究関心に引きつけて、考えてみます